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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第二十三( 13 )

列伝第二十三 目次

陳遇 秦従竜 葉兌 范常 潘庭堅 宋思顔 夏煜

郭景祥 李夢庚 王濂 毛騏 楊元杲 阮弘道 汪河 孔克仁

 論賛、太祖(朱元璋)は庶人より身を起こし、天下を経略した。長江を渡って以来、規模は奥深く拡がり、名声は風の速さで広まった。天授とは言うが、そもそも左右の輔弼の臣に多くの憂国の士の助力があったからであろうか。陳遇は劉基に劣らぬ礼遇を受けながら、利益には一切関知しなかった。葉兌は天下の大計の策定に於いて、詳細に方策を述べ、また忠節を捧げることに抗って隠遁した様に、その高潔さは等しく余人の容易に及ぶ所では無かった。孔克仁については言う程のことは無いが、太祖の遠大な計略をその時々に応じて備えたので、本編に序列されたのである。
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by su_shan | 2016-08-23 23:19 | 『明史』列伝第二十三

孔克仁

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 孔克仁、句陽県の人。江南行中書省都事より郎中に昇進した。嘗て宋濂と共に太祖(朱元璋)に侍り、しばしば太祖と天下の形勢や歴代王朝の興亡について語り合った。陳友諒が滅亡すると、太祖は中原を攻略しようと志し、孔克仁に対して言った。「元朝の命運は既に傾き、豪傑は互いに争いを続けているので、その間隙に乗じるべきである。我は両淮・江南諸郡の民衆を監督し、時に耕種し、訓練を加え、兵農の源泉を兼ねた上で、進んでは取り、退いては守ろうと思う。そして両淮の間に食糧を運び込み、糧秣を備蓄して時機を待つのだ。軍糧が充足すれば、いよいよ中原攻略に取り掛かるべきだと思うが、卿はどう考えるか?」孔克仁は答えた。「糧秣を積み上げて兵卒を訓練し、間隙を観察して時機を待つ、これは遠大な計画にございます。」正にこの当時、江左の軍勢は日増しに強くなり、太祖は自らを漢朝の高祖(劉邦)に準え、孔克仁に対して言ったことがある。「秦朝の政治は暴虐であったから、漢朝の高祖は庶人より起ち、寛大に群雄を御して、遂に天下の主となったのである。今、群雄が蜂起したは良いが、みな法令を修めて軍政を明らかにすることを知らぬから、大成する者が居らんのだ。」孔克仁はしばらく感嘆していた。また次の様に言ったこともある。「天下の兵を用いる者には、河北に孛羅帖木児(ボロトテムル)があり、河南に拡廓帖木児(ココテムル)があり、関中に李思斉・張良弼がある。しかし兵を有していても紀律が無いのが河北であり、やや紀律を有していても軍勢が振るわないのが河南であり、道路が通じず、食糧の運搬が続かないのが関中だ。江南は我と張士誠だけである。張士誠は頻繁に謀略を用い、間諜を重んじ、配下には規律が無い。我は数十万人の衆を以て、軍政を修め、将帥を任じ、時機を見て動く、そもそも勢いだけで平定するには不足があるのだ。」孔克仁は平伏して言った。「主上はこの上なく優れた武徳をお持ちでございますから、必ずや天下を統一なさるでしょう。」
 嘗て『漢書』を講読していた時、宋濂と孔克仁が傍らに控えていた。太祖は言った。「漢朝の政治の良くない点は何であるか?」孔克仁は答えた。「王道と覇道を混同させたことでございましょう。」太祖は言った。「誰がその責を負うているか?」孔克仁は言った。「責は高祖にございます。」太祖は言った。「高祖の創業は、秦朝の学問排除に遭い、民衆は憔悴して立ち直ろうとしている所であったから、礼楽などを講じている場合では無かったのだ。孝文王(嬴柱)は名君たらんとし、礼を制定して楽を作り、三代(夏・殷・周)の制度を復古させようとしたが、あれこれ逡巡する暇さえ無く、結局はこの様に漢朝の帝業に至ったのだ。帝王の道とは、貴きものは時勢に逆らわないものである。三代の王は時機を得てよく事を成し、漢朝の文帝は時機を得ても成すことが出来なかったが、後周朝の世宗(柴栄)は時機が無くとも事を成した者である。」また嘗て孔克仁に対して質問したことがある。「漢朝の高祖は徒歩の身分より起って万乗の主となったが、どの様な方法を用いたのだ?」孔克仁は答えた。「人を知ってよく任用したのでございます。」太祖は言った。「項羽は南面して王位に就きながらも、仁義を与えること無く、自ら驕り昂ぶり傲慢に振る舞った。高祖はそうであることを知っていたので、柔和と謙遜を以て意見を聞き入れ、心を広く持ち情け深く助け、遂にこれに勝利したのである。今や豪傑は一人だけでは無く、我は江左の地を守り、賢材を任用して民衆を慰撫し、情勢の変化を観察しているが、もし共に武力を競うだけでは、早々に平定することは難しいのだ。」
 徐達らが淮東・淮西を陥落させるに及んで、また孔克仁に対して言ったことがある。「壬辰の年の兵乱で、民衆は塗炭の苦しみを味わった。中原の諸将では、孛羅帖木児は兵を擁して宮殿に侵入し、倫理を乱して規律を犯し、敵対者を葬り去った。拡廓帖木児は皇太子を擁立して戦端を開き、私怨を優先し、本来の敵を滅ぼそうとする意志を持たなかった。李思斉などはただ平凡なだけで、ひっそりと一地方に割拠し、民衆はその害を受けている。張士誠は表面上は元朝の名を立ててはいるが、実際は二心を抱えている。明玉珍父子は蜀の地に割拠して帝号を僭称したが、喜々として好き勝手に振る舞うだけで遠謀を持ち合わせていない。連中の所為を見た所、みな大成することは出来ないであろう。予は天の与え給うた機会に謀り、人として最善を尽くし、平定の機会を得ることが出来た。今、軍は西に襄・樊の地に進出し、東に淮・泗の地を越え、首尾は相応しく、これを撃てば必ず勝利し、大事は成就し、天下は難無く平定出来るであろう。一たび平定されてしまえば、生き永らえることは難しく、その労苦に思いを致さんばかりである。」孔克仁は帷幕に侍っていた期間が最も長く、故に太祖の謀略に関与する機会も多かった。洪武二年四月に孔克仁らに命じて諸子に経書を講義させ、功臣の子弟もまた入学を命じた。江州知府に出向した後、入朝して参議となったが、ある事案に連座して処刑された。
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by su_shan | 2016-08-23 23:17 | 『明史』列伝第二十三

楊元杲 阮弘道 汪河

(本伝は原書に基づき楊元杲と阮弘道と汪河の伝を分割せずにお届けしております)

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 楊元杲・阮弘道は、いずれも滁州の人であり、代々儒者の家柄であった。長江渡河に従い、共に江南行中書省左右司員外郎となり、陶安らと共に適宜交代で文章を起草した。楊元杲は郎中として金華府に於ける兵站管理の任務に抜擢され、また楊元杲は同年に郎中として大都督朱文正に従って南昌府を鎮守し、その全てに功績を挙げた。二人は何れも太祖(朱元璋)の最も初期からの臣下であり、また一人前の儒者として文学を嗜み、政治に熟練して深く通じ、しかも楊元杲の知慮は最も周密であった。嘗て洪武帝(朱元璋)は次の様に言ったことがある。「長江渡河に従った文臣で、帳簿と文章を掌り、勤労すること十数年、楊元杲・阮弘道・李夢庚・侯元善・樊景昭に勝る者は居ない。」後に、楊元杲は応天府尹を、阮弘道は福建・江西行中書省参知政事まで歴任し、何れも在職中に没した。
 楊元杲の子は楊賁と言い、博学で記憶力に優れ、詩文に巧みであるとの評判を得、推薦によって大名知県を授かり、周王府紀善に至った。
 侯元善は全椒県の人で、参知政事まで歴任しているが、樊景昭については記録が残っていない。

 また汪河という人物は、舒城県の人で、嘗て余闕に師事し、文章が巧みであるとの評判を得た。長江渡河に従い、江南行中書省掾となり、しばしば適切な提言を行った。太祖はその才能を評価し、大都督府都事に昇進させた。察罕帖木児(チャガンテムル)への使者を拝命し、上意を伝え論じ合った。後に命を奉じて銭楨を伴い河南へ赴き、拡廓帖木児(ココテムル)からの使節に対して報いたが、拘留されてしまった。太祖は七回も拡廓帖木児に書状を送ったが、遂に返答は無かった。洪武元年、大軍が河南府路・洛陽県を陥落させると、拡廓帖木児は定西州へ敗走し、汪河は漸く帰還することが出来たが、拘留されてから凡そ六年が経過していた。洪武帝はこれを喜び、吏部侍郎に昇進させ、西方攻略の方策を立案させた。(洪武)二年に御史台侍御史に改められた。(洪武)九年に晋王府左相を拝命した際には、洪武帝自ら御便殿にてこれを諭して派遣した。数年にして、在職中に没した。
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by su_shan | 2016-08-22 17:45 | 『明史』列伝第二十三

毛騏

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 毛騏、字を国祥、王濂の同郷。太祖(朱元璋)が濠州より兵を引き連れて定遠県に向かった折、毛騏は県令を伴って投降した。太祖は喜び、留めて飲食を共にし、兵事を立案させれば、常に適切な策を提示した。滁州を奪取し、総管府経歴に抜擢され、倉廩を管理し、併せて朝夕の暦を掌り、将兵で離脱しようとする者を押し止めた。長江渡河に従い、江南行中書省郎中に抜擢された。この時、太祖の左右に控えていたのは、李善長と毛騏だけであり、機密文書に関しては、全て両名の協力によるものであった。次いで参議官を授かった。婺州路に遠征した際に、江南行中書省の政務の代行を命じられたのは、最も信頼の置ける臣下だったからである。急病で没すると、太祖は自ら文章を作ってこれを嘆き、その葬儀に臨御した。
 子の毛驤は、管軍千戸となり、功績を重ねて親軍衛指揮僉事になった。中原平定に従軍し、指揮使に昇進した(※1)。滕州の段士雄が叛くと、毛驤はこれを討伐した。浙東に倭寇を捕らえ、その多くを捕殺し、都督僉事に抜擢され、信任を得て、臨時に錦衣衛の事務を掌り、詔獄を監督した。後に胡惟庸の徒党に連座して処刑された。

【注釈】
(※1)指揮使に昇進した、『太祖実録』巻七十、洪武四年十二月丙申条に「羽林左衛指揮同知毛驤・羽林右衛指揮同知陳方亮を共に本衛指揮使とする。」とあることから、羽林左衛指揮使である。前文の親軍衛指揮僉事については不明。
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by su_shan | 2016-08-22 12:41 | 『明史』列伝第二十三

王濂

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 王濂、字を習古、定遠県の人。李善長の妻の兄である。僅かに学問を嗜み、親に孝行していた。当初、汝州・潁州の盗賊に従い、太祖(朱元璋)が集慶路に勝利すると、長江を渡って帰順した。李善長の言により、謁見の機会を得たことで、執法官に除せられ、公正に案件を処理した。中書省員外郎に遷り、出向して浙江按察僉事となり、その活躍は世間に広く知られた。ある時、昼間に真っ暗になって強風が吹き荒れたことがあった。王濂は詔に応えて民衆の困苦を報告し、外征を緩めるよう請願した。太祖はこれを聞き入れた。洪武三年に没した。洪武帝(朱元璋)は李善長に対して言った。「王濂には王佐の才があると言うのに、死んでしまうとは、朕は片腕を失ったのだ。」後に李善長はある事案によって罪を得たが、洪武帝は悲嘆して言ったものである。「王濂が生きておれば、絶対にこうはなるまいに。」
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by su_shan | 2016-08-21 23:18 | 『明史』列伝第二十三

郭景祥 李夢庚

(本伝は原書に基づき郭景祥と李夢庚の伝を分割せずにお届けしております)

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 郭景祥、濠州の人。鳳陽県の李夢庚と共に長江渡河に従い、文書管理を掌り、謀議を補佐し、それぞれ江南行中書省左右司郎中に任じられた。両名共に浙東分中書省に派遣され、次いで再び共に大都督府参軍となった。郭景祥の為人は実直で、幅広く経書と史籍に通じ、事ある毎に口を挟んだので、太祖(朱元璋)はこれを信任した。嘗て次の様に言ったことがある。「郭景祥は文官ではあるが、折衝禦侮(※1)の才能があるので、我に忠節を尽くすのであれば、大任を任せられようぞ。」これより以前、滁州・太平路・溧陽州に勝利した際に、城郭が不完全であったので、郭景祥に命じてこれを修繕させた。間も無く和州の守臣が言うには、州城は長らく廃城になっているとのことであったので、郭景祥に命じて調査を行わせた結果、跡地に築城することになり、三ヶ月にして工事は完了した。太祖は能力を認め、和州総制を授けた。郭景祥は更に城郭や櫓を整備し、屯田を広げ、兵卒を訓練し、威光や人望は粛然としていた。こうして和州は重鎮となり、璽書によって功績を賞賛された。最後は浙江行中書省参知政事となった。
 謝再興が諸全州を鎮守していた折、その部将が呉(張士誠)の地との境目で密貿易を働いていた。太祖は激怒してその部将を処刑し、謝再興を召還して叱責し、李夢庚を諸全州に派遣して軍事を統括させた。謝再興が鎮に戻ると、自分の上位に李夢庚が置かれたことに腹を立て、遂に叛き、李夢庚を捕らえて呉に投降したことにより、李夢庚は死んだ。その当時、行中書省の官僚には、また毛騏・王濂といった人物が居た。

【注釈】
(※1)折衝禦侮、折衝とは攻撃してくる敵の武器を挫くこと、禦侮とはこちらを侮ることを防ぐこと。すなわち敵の攻撃を防いで、相手を恐れされること。
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by su_shan | 2016-08-21 23:18 | 『明史』列伝第二十三

宋思顔

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 宋思顔、何処の人かは不明。太祖(朱元璋)が太平路に勝利すると、宋思顔を幕府に置いた。集慶路を平定するに及んで、江南行中書省を設置すると、太祖は省事を統括し、李善長及び宋思顔を参議とした。同時に省内に官職を設け李夢庚・郭景祥・侯元善・楊元杲・陶安・阮弘道・孔克仁・王愷・欒鳳・夏煜ら数十人を任用したが、宋思顔はただ独り李善長と並んで参議を授かったので、その責任は他の官僚に比べても重いものであった。大都督府が設置されると、宋思顔に参軍事を兼任させた。
 嘗て太祖は自ら東閣で政務に当たっていた所、猛暑のせいで、衣服が汗だくになったことがあった。左右の者が替えの衣服を進めたが、それは一度に何度も洗濯を繰り返した物であった。宋思顔は言った。「主公は自ら倹約に努めておられますが、本当に子孫に対して模範を示したいとお考えでしたら、出来れば最後まで同じ様にして頂きたいものでございます。」太祖はその直言を喜び、これに幣を賜った。またある日、進言したことがあった。「句容県の虎害につきましては、既に捕獲したことで収束しておりますが、早く処分してしまいましょう、今飼育した所で民間に何の益がございますか?」太祖は喜んで、虎を殺すよう命じた。その何かに付けても忠実であることは、この様なものであった。後に出向して河南道按察僉事となったが、ある事案に連座して処刑された。
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by su_shan | 2016-08-21 16:00 | 『明史』列伝第二十三

夏煜

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 夏煜、字を允中、江寧県の人。俊才として名を馳せ、詩文に巧みで、召し出されて江南行中書省博士となった。婺州路が平定されると、浙東分中書省に派遣され、二度も方国珍への使者となり、いずれも上意を伝えた。太祖(朱元璋)が陳友諒を討伐した時は、儒臣ではただ劉基と夏煜だけが側に控えた。鄱陽湖の戦いに勝利すると、太祖が起草を命じた賦詩は、夏煜が第一人者であった。洪武元年に浙東諸府の統括を命じられ、高見賢・楊憲・凌説と共に四人で秘密裏に視察して暴いて回ったが、後にみな成果不十分として処刑された。
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by su_shan | 2016-08-21 16:00 | 『明史』列伝第二十三

潘庭堅

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 潘庭堅、字を叔聞、当塗県の人。元朝末期に富陽県教諭となったが、官を辞して去った。太祖(朱元璋)が太平府に宿営していた時、陶安の推薦によって、潘庭堅を呼び寄せて太平興国翼元帥府教授とし、慎み深く倹約に努めたので、太祖に賞賛された。集慶路を陥落させると、江南行中書省博士に抜擢された。婺州路を陥落させると、金華府と改称し、潘庭堅を同知府事とした。当時、近隣の諸郡は次第に平定されつつあり、儒臣を選抜してこれを統治させていたが、同じ頃に陶安・汪広洋を江西に用い、潘庭堅と王愷には浙東を守らせていた。太祖は呉王になると、翰林院を設置し、陶安を召還して学士とする一方で、潘庭堅は既に高齢であった為に、遂に帰郷を許された。洪武四年に再び召し出され、会試を主査した。
 子の潘黼は、字を章甫と言い、詩文に優れた評判があり、官職は江西按察使に至った。律令の改定に携わり、留めて議律官とされた。律令が完成し、没した。潘黼は父と同様に慎み深く、また文芸の優雅さはそれ以上であった。父子いずれも郷校の内から頭角を現し、当代に栄達したのである。
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by su_shan | 2016-08-21 13:09 | 『明史』列伝第二十三

范常

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 范常、字を子権、滁州の人。太祖(朱元璋)が滁州に宿営していた時、杖をつきながら軍門に訪れた。太祖は早くからその評判を知っていたので、共に語り合って意気投合し、幕下に留め置き、疑義があれば質問したが、范常はその全てに回答してみせた。諸将は和州に勝利したが、兵の紀律が乱れていた。范常は太祖に言った。「一城を得ても、人の臓物を地にぶちまけていては、どうして大事を成せましょうぞ?」そこで太祖は諸将を叱責し、軍中に誘拐されていた婦女を探し出し、家に帰したので、民衆は非常に喜んだのである。太祖の四方には他勢力が割拠していたので、兵事に明け暮れて平穏な日など無く、范常に命じて文章を書かせ、上帝に祈祷を捧げた。その辞は次の通りである。「今、天下は紛糾し、人民は塗炭の苦しみを味わい、人心は定まらず、あらゆる物品が失われております。もし元朝の治世が終わらないのであれば、群雄は早々にその罪に服すべきであり、私もまた群雄の中に居りますので、私から願い出ることでしょう。もし既に元朝の徳に倦んでおられるのでしたら、天命を有する者はこれを返上すべきであり、民衆を長い困窮に陥らせてはなりません。存亡の岐路は、三ヶ月以内に現れるでしょう。」太祖は自身の意志を表現した文章を喜び、文書の管理を命じ、元帥府都事を授けた。太平路を奪取すると、知府を命じ、これを諭して言った。「太平府は我が股肱の郡ではあるが、その民衆は戦乱によってしばしば困窮させられているので、適切に処置を行わなければならない。」范常は簡明な統治を心掛け、学術を振興し民衆を恵んだ。官倉に数千石の穀物が備蓄されていたので、種苗が乏しい者に支給するよう要請し、秋には収穫を官倉に回収したので、官民ともに充足した。在任三年の間、民衆には親の様に慕われ、召還されて侍儀となった。
 洪武元年に翰林院直学士兼太常寺卿に抜擢された。洪武帝(朱元璋)は必死になって礼文を稽古した。群臣が議堂に集まり、意見が纏まらないことがあると、范常は上手く意見を摺り合わせ、上意に沿う様にした。次いで病を得たので帰郷を許された。一年余りにして、直筆の詔書で宮殿に召し出され、元の官職に就いた。洪武帝は宴席の間、儒臣に命じて座を並べ賦詩を作らせて遊んだ。范常は常に最初に出来上がり、語句も多かった。洪武帝は笑いながら言った。「老范の詩は質朴であるな、まるでその為人の様ではないか。」起居注に遷った。范常は足を患っており、何度も休暇を取ることがあったので、安車を賜った。次いで帰郷を願い出たので、洪武帝は賦詩四章でこれを送り、太平府に邸宅を賜った。子の范祖は、雲南布政使司左参知政事まで歴任し、清廉潔白との評判があった。
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by su_shan | 2016-08-20 20:00 | 『明史』列伝第二十三