元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第二十四( 3 )

楽韶鳳

『明史』巻一百三十六、列伝第二十四

 楽韶鳳、字を舜儀、全椒県の人。博学で文章に巧みであった。和陽にて太祖(朱元璋)に謁見し、長江渡河に従い、軍務に参与した。洪武三年に起居注を授かり、何度か異動した。(洪武)六年に兵部尚書を拝命し、中書省・御史台・都督府と共に兵卒を教練する為の規則を制定した。侍講学士に改められると、承旨の任にあった詹同と共に先人を釈奠する楽章を正し、『大明日暦』を編集した。(洪武)七年、洪武帝(朱元璋)は祭祀から戻ると、楽舞の先導を応用して、楽韶鳳に命じて歌詞を選定させた。そこで楽韶鳳は『神降祥』『神貺恵』『酣酒』『色荒』『禽荒』といった諸曲を進呈し、凡そ三十九章を『回鑾楽歌』と呼んで、皆が戒めとした。礼部が『楽舞図』を制定して提出すると、太常寺に命じてこれを習得させた。
 翌年、洪武帝は旧韻が江東地方から離れると、その多くが正しい発音を失っているとして、楽韶鳳と廷臣に命じて中原雅音を参考に修正させた。書物が完成すると、『洪武正韻』と名付けられた。また陵寝朔望の祭祀及び登壇脱舃といった諸儀礼の検討を命じられると、故実を詳細に考察したので、何れも採用された。次いで病気を理由に罷免され、しばらくして国子監祭酒に起用された。詔を奉じて皇太子と諸王に書簡を往来させる考拠は精詳であり、しばしば褒賞の栄誉を賜わった。(洪武)十三年に引退して帰郷し、天寿を全うした。弟の楽暉・楽礼・楽毅は何れも名の知れた人物である。


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by su_shan | 2017-06-16 15:30 | 『明史』列伝第二十四

朱升

『明史』巻一百三十六、列伝第二十四

 朱升、字を允升、休寧県の人。元朝末期に郷薦に挙げられ、池州路学正となり、厳格な講義を行った。蘄州路・黄州路で叛乱が発生すると、辞職して石門県に隠遁した。何度も兵乱を避けて逃げ回ったものの、一日として勉学を怠った事は無かった。太祖(朱元璋)が徽州路を陥落させると、鄧愈の推薦によって召し出され、国政について諮問を受けた。答えて言った。「高く城壁を築き、多くの糧秣を積み上げ、鷹揚として王を名乗るのでございます。」太祖はこれを喜んだ。呉元年に侍講学士を授かり、知制誥同修国史となった。老齢を理由として、特別に参内を免除された。洪武元年に翰林学士に昇進し、宗廟・時享・斎戒に関する礼法を制定した。次いで儒官らと共に『女誡』の編修を命じられると、古来の賢后・賢妃の模範とすべき事例を採用して纏め上げたのであった。大規模な功臣封爵が行われた際には、制詞の多くは朱升が撰定したものであった為に、典雅にして正確であるとの評判を得たものである。翌年、帰郷を請願し、七十二歳で没した。
 朱升は幼少時より勉学に励み、老齢に至っても飽きる事は無かった。特に経書の学に精通し、幾つかの経書に付した注釈は、的確に文意を汲み取ったものであった。学者たちは楓林先生と呼んだものである。子の朱同は礼部侍郎まで昇進したものの、ある事案に連座して死亡した。


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by su_shan | 2017-01-16 22:02 | 『明史』列伝第二十四

列伝第二十四 目次

陶安 銭用壬 詹同 朱升 崔亮 牛諒 答禄与権 張籌 朱夢炎

劉仲質 陶凱 曾魯 任昂 李原名 楽韶鳳

 論賛、明朝初期の礼制に関する議論については、宋濂は出仕していなかった事から、その制度の多くは陶安が裁定を行ったものである。大祀礼には専ら陶安の意見を採り上げ、その他は諸説を取り纏め、その長所を取り入れた。祫禘には詹同の意見を採り上げ、時享には朱升の意見を採り上げ、釈奠・耕耤には銭用壬の意見を採り上げ、五祀には崔亮の意見を採り上げ、朝会には劉基の意見を採り上げ、祝祭には魏観の意見を採り上げ、軍礼には陶凱の意見を採り上げたのである。みな経義に基づいてよく援用し、古代を斟酌して当代に準え、郁然と一代の内に休明の治を作り上げたのである。折衷しながら決定したとは言っても、細心の注意を払って判断したものであり、諸臣の功績が少ないなどとという事があろう筈が無いのである。
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by su_shan | 2016-08-23 23:53 | 『明史』列伝第二十四