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by すーさん

カテゴリ:『国初群雄事略』巻十( 1 )

汝寧李思斉

底本は〔清〕銭謙益撰『国初群雄事略』中華書局点校本、1982年を使用。
本稿は番外編になります。

  李思斉、姓は李氏、字は世賢、汝寧羅山県の人。銀青光禄大夫・太尉・中書省平章政事に累官し、知枢密院事を兼ね、許国公に封じられた。洪武二年に来降し、資善大夫・江西行省左丞を授かった。(洪武)三年、栄禄大夫・中書省平章政事に叙せられた。(洪武)七年九月四日に没した時、五十二歳であった。
 至正十二年壬辰、察罕帖木児と信陽羅山の人李思斉は共に義兵を起こし、羅山を襲撃して破り、察罕帖木児は汝寧府達魯花赤を授かり、李思斉は汝寧府知府を授かった。
   まさに元朝末期、汝・潁に兵が起ち、公式に義旅を招集したので、幾つかの郡県を平定し、官位は中順大夫・汝寧府知府となった。(宋濂撰『平章李公権厝志』)
   羅山県の典吏李思斉と察罕は羅山県に勝利して奪還した。(『庚申外史』)
 至正十七年丁酉二月、察罕帖木児と李思斉は兵を率いて虢の地より陝西を救援し、察罕帖木児を陝西行省左丞とし、思斉を四川行省右丞とした。
 至成十八年戊戌正月、察罕帖木児・李思斉は鳳翔に於いて兵を会し、詔によって察罕帖木児は陝西に駐屯し、李思斉は鳳翔に駐屯した。
 四月、察罕帖木児・李思斉は宣慰張良弼らと会して鞏昌に於いて李喜喜を討ち、李喜喜は敗れて蜀に入った。察罕帖木児は清湫に留まり、李思斉は斜坡に留まり、張良弼は秦州〔一〕に留まり、郭択善は崇信に留まり、拝帖木児らは通清に留まり、定住は臨洮に留まり、それぞれ路・府・州・県官に叙せられ、軍需を徴発した。李思斉・張良弼は共謀して拝帖木児を襲撃して殺害し、その兵を分割して吸収した。
 五月、李思斉は同僉枢密院事郭択善を殺害した。
 至正二十一年辛丑正月、李思斉は兵を進めて伏羌県等の地を平定した。
 五月癸丑、四川の明玉珍が嘉定等の路を陥落させると、李思斉は兵を送ってこれを撃退した。
    按ずるに、『実録』は明玉珍が嘉定を陥落させたのは十八年とし、一方で『元史』は二十一年五月と記しており、詳しい事は分からない。
 李思斉は李武・崔徳の投降を受諾した。
 九月、四川の賊兵が東川の郡県を陥落させると、李思斉は兵を整えてこれを撃退した。
 十一月、察罕帖木児・李思斉は兵を送って鹿台を囲み、張良弼を攻めたが、詔してこれを和解させ、それぞれの任地に戻らせたので、兵は撤退した。
 至正二十二年壬寅正月、詔して李思斉に四川を討たせ、張良弼に襄漢を討たせた。
   時に両軍は折り合いが悪く、それ故にこの命令となったのである。(『元史』順帝紀)
 二月、知枢密院事禿堅帖木児は詔を奉じて李思斉に四川を討つよう諭した。
   時に李思斉は退いて鳳翔を保ち、使者が到着すると、兵を益門鎮に進め、使者が帰ると、また鳳翔に帰った。(『元史』順帝紀)
 三月、李思斉は兵を送って張良弼を攻め、武功に到達したが、張良弼は兵を伏せてこれを大いに破った。
 六月戊子、田豊・王士誠が察罕帖木児を刺殺した。
 至正二十三年癸卯四月、孛羅帖木児・李思斉は互いに兵を交えた。
 六月、孛羅帖木児は詔を奉じて襄漢を討ち、拡廓帖木児の部将歹驢らは藍田・七盤に兵を留め、思斉は興平を攻囲し、遂に盩厔を占拠し、その後背を襲撃したので、孛羅帖木児は竹貞らを送って陝西に入らせ、その省治を占拠した。拡廓帖木児は部将貊高を送って思斉と兵を合わせてこれを攻め、竹貞は投降した。
 至正二十五年乙巳正月癸亥、詔して李思斉を許国公とした。
 三月、皇太子は拡廓帖木児の軍中に下令し、孛羅帖木児が京師を襲撃して占拠した事から、拡廓帖木児及び陝西平章政事李思斉はそれぞれ軍馬を統制して、奮起して大義を回復するよう命じた。
 六月、皇太子は李思斉に銀青栄禄大夫・邠国公・中書平章政事・皇太子詹事を加え、四川行枢密院事を兼ねた。
   進んで関陝を保ち、歴官して銀青光禄大夫・太尉・中書平章政事に至り、知枢密院事を兼ねた。境界を保全して民衆を安んじ、元朝の社稷を守り、その功績は大きかった。(『権厝志』)
 至正二十六年丙午二月、拡廓帖木児は河南に戻り、各地の軍馬を徴発したが、陝西の張良弼は命を拒み、李思斉・脱列伯・孔興らの兵は全て良弼と合流した。
   初め、李思斉と察罕帖木児は共に義師を起こし、立場は同等であった。ここに及んで、拡廓帖木児がその兵を統率すると、李思斉は心中穏やかではなく、張良弼が率先して命を拒むと、孔興・脱列伯らもまた功績を恃んで自立し、別個の一軍となるよう要請し、統制を認めなかった。そこで拡廓帖木児は関保・虎林赤〔二〕を送り、兵を用いて西の鹿台に張良弼を攻めたので、思斉もまた良弼と合流し、立て続けに抗争して止む事が無かった。(『元史』察罕帖木児伝)
 七月甲申、李思斉を太尉とした。
 拡廓帖木児は関保・虎林赤を送って兵を合わせて黄河を渡り、竹貞・商暠と会し、さらに李思斉と約して張良弼を攻めようとした。張良弼は子弟を人質として李思斉の下へ送って来援を求め、良弼は堅守したので、関保らは苦戦を強いられ、李思斉は詔を求めてこれと和解した。
 九月、李思斉の兵は塩井を下し、四川の賊徒余継隆を捕らえ、これを誅殺した。
 礼部侍郎満尚賓・吏部侍郎掩篤剌哈は鳳翔より京師に帰還した。
   これに先んじて、尚賓らは詔を持参し李思斉を諭して川蜀道路を開通させようとしたが、李思斉はまさに抗争の最中であり、詔を奉じなかった為、鳳翔に留まる事一年、ここに至って初めて帰還したのである。(『元史』順帝紀)
 至正二十七年丁未正月、李思斉・張良弼・脱列伯は自ら含元殿跡に会して、李思斉を推して盟主とし、共に拡廓帖木児に対抗した。
 五月、李思斉は張良弼の部将郭謙らを送って黄連寨を守ったが、関保・虎林赤らは兵を引き連れてその寨を抜いたので、郭謙は逃走した。たまたま貊高らが叛乱したので、関保・虎林赤は夜陰に乗じて逃れ、李思斉は速やかに撤兵して西進した。
 六月、李思斉は長安を占拠し、商暠と共に抗戦すると、侯伯顔達世は兵を進めて思斉を攻め、秦州守将蕭公達は李思斉に降伏した。李思斉は関保らの兵が退いた事を知ると、蔡琳らを送ってその陣営を破り、侯伯顔達世は潰走した。
 七月、李思斉は許国佐・薛穆飛〔三〕を送って張良弼・脱列伯の兵と会して華陰に駐屯した。
   時に朝廷は禿魯に命じて陝西行省左丞相としたので、李思斉は面白く無く、その部将鄭応祥らを送って陝西を守り、自らは鳳翔へ帰還した。(『元史』順帝紀)
 八月、詔して皇太子自ら天下の軍馬を総括するよう命じ、拡廓帖木児には潼関以東、江淮の粛清を、李思斉には鳳翔以西、川蜀の攻略を、禿魯と張良弼・孔興・脱列伯らは襄樊を奪取するよう命じた。
 十月丙辰、大明太祖高皇帝は遣使して書を用いて元将李思斉・張思道を諭した。
   その書に曰く、「先頃、元君の失政により、天下は瓦解し、群雄で覇を唱えようとする者は非常に多い。それなのに居場所をその地と定めず、移り歩き騒乱を巻き起こして民衆を傷つけること、今で十七年となる。功業の成就など、殆ど耳にした事が無い。先程、我が将軍傅友徳が徐州を守っており、軍が中灤に至ると、王保保の部将を捕らえたので、初めて二公が秦中を割拠している事を知り、一方で王氏もまた既にこれを守り、その要害を三分している。この数年間、民は一所に帰属する事が無く、他人任せに傍観して智者は無きに等しい。そこで我がこれを考えるに、智恵が足りない訳では無いので、ぐずぐずして煮え切らないのが原因であろう。元君の古い威勢を騙り、早々に意を決しなければ、民に塗炭の苦しみを味わわせるだけである。取るに足らず見聞に乏しくとも、高明なる者や才能の士と共にすれば、海内の形勢を訪ね論じ、天運の去就する時機を、一つ二つは窺い知るであろう。ましてや人はよく言う、天道の扶助ある者は徳を有し、地の利に拠る者は要害を有すると。今、百二の山河の地は、二公が割拠し、互いに上下を譲らず、必ずや互いに掎角を作らんと欲し、その中に富貴を分かつ。恐らく暫くは保つ事が出来ようが、最後まで保つ事は出来まい。今、我は二公の怒りを恐れず、双方に直言を告げるので、二公は正に福徳と威力が民を慰撫するに足らんと望む者が誰であるかを推し量り、ただ一人を尊主と仰ぎ、関中を平定し、民心を一つとし、精兵を擁し、要害を守り、太行山の東、大河の南北を虎視し、主君を至尊に上せば、公卿将相はそれぞれの地位に安んじられ、家はその生業に励み、人はその一生を全うしよう、これもまた結構な事ではないか!もしそれぞれが一隅に拠れば、殺戮を相尊び、一時は胸がすいても、必ずや思い掛けない災禍があろう。不慮を免れても、地位と名誉は共に失われよう、これに比べれば節を屈して分を弁え、朋友を尊び徳ある者を主君とし、自らを公卿将相とし、永らく功名富貴を保つ者は、その賢明さは取るに足らないが、どうしてその思慮は遠大ならざるものと言えようか。もし我が用兵を以て強者を競う事を告げれば、二公をして互いに力を比べさせ、雌雄を決する、これでは秦の民に休息の日など無く、結局は賢人君子で天運を知る者のする事では無い。今、互いに尊び、互いに譲る事を二公に告げたのは、兵を休め民を養わんと欲する為で、そうすれば二公の福は浅からざるものとなろう。二公は正にこれを慮り、これを推し量るべし、その威勢と徳の尊ぶべき者が誰であるかを。もしそうしないのであれば、鷸蚌の様に相争い、漁夫がその利を得よう、そこで後悔しても、最早及ばぬぞ。」(『太祖実録』)
 十二月、陝西行省左丞相禿魯に詔して張良弼・脱列伯・孔興各部の軍馬を総統させ、李思斉を副総統とし、関中を統御し、軍民を按撫させようとした。脱列伯・孔興らは潼関を出て、適切に山路を取り、黄河を渡り、軍勢を併せて東進し、共に勤王させようとした。李思斉らはみな命を奉じなかった。
 詔して分けて潼関以西は李思斉に属し、以東は拡廓帖木児に属し、それぞれ撤兵して鎮に帰還させた。ここに於いて関保は後退して潞州に駐屯し、商暠は留まって潼関に駐屯した。
 洪武元年戊申二月、元朝は詔して拡廓帖木児の爵邑を剥奪し、禿魯・李思斉らに命じてこれを討伐させた。
 大明の兵が河南に至ると、李思斉・張良弼らは撤兵して西方へ帰還し、李思斉は渭南〔四〕に次ぎ、張良弼は櫟陽に次いだ。
   時に李思斉・張良弼・孔興・脱列伯と拡廓は対峙する日が長く続き、既に大明の兵が河南に至ると、李思斉・張良弼はみな遣使して拡廓に詣で、出師が本心に非ざる事を告げ、撤兵しながら大々的に掠奪して西方へ帰還した。(『元史』察罕帖木児伝)
 三月、大明の兵が河南を取った。李思斉・張良弼は兵を会して潼関に駐屯したが、良弼の陣営を焼き払い、思斉は軍を葫蘆灘に移し、所部の張徳欽・穆薛飛を送って潼関を守らせた。
 大明の兵が潼関に入ると、李思斉の陣営を攻めたので、李思斉は輜重を棄てて鳳翔へ奔った。
 四月甲子、大明の将軍馮宗異は潼関に進攻し、李思斉・張思道は関を棄てて夜陰に乗じて遁走した。
   初め、李思斉と張思道は王師が河南を取った事を聞くと、潼関に兵を駐留させて抗戦しようとした。既に、張思道の陣営を焼き払い、李思斉は軍を移し退いて葫蘆灘を守り、部将張徳欽・穆薛飛を送って関を守らせた。王師が到達すると、李思斉は輜重を棄てて鳳翔へ逃れ、張思道は鄜城に奔った。丙寅、馮宗異は遂に潼関に入り、兵を引き連れて西進し華州を取った。(『太祖実録』)
   大軍が潼関を攻めると、張・李・脱・孔の四軍はみな潰れて西走した。(『庚申外史』)
   李思斉・張思道はそれぞれ大軍を擁して武功・東川を挟んで布陣し、李思斉は東に、張思道は西に在りて、我が軍を防いだ。(『鴻猷??録』)
 五月、李克彜は河南城を棄て、陝西に奔り、李思斉を推して総兵とし、岐山に駐兵した。
   この月、李思斉の部将忽林赤・脱脱・張意は盩厔に拠り、商暠〔五〕は武功に拠り、李克彜は岐山に拠り、任従政は隴州に拠った。(『元史』順帝紀)
 七月、李思斉は李克彜・商暠・張意・脱烈伯を鳳翔に会した。
   元朝の太尉李思斉は鳳翔を守り、山外二十四州の地を総括した。主上は参政孫希孟・都府経歴王均美らが侍衛指揮毛驤・張煥と盟を交わして兄弟となり、鶏の生き血を酒に注いで誓いを立てた事を察した。主上はこれを疑い、孫希孟・王均美を鞭打ち、勅を携えさせて李思斉の下へ送って諭したが、李思斉は聞き入れず、陝西の菜市に於いて捕縛し、これを切り刻んだ。(兪本『紀事録』)
 閏七月丁巳、元朝は李思斉に詔して七盤・金・商に南進し、汴・洛の回復を企図し、拡廓帖木児らと共に四道より兵を進ませようとした。李思斉の兵が出る以前に、拡廓帖木児は後退して太原を守った。
 丙寅、元帝は北へ奔った。
 八月庚午、大明の兵が元都に入った。
 洪武二年己酉三月庚子、大将軍徐達の軍は鹿台を出て、遂に奉元路に入った。
 癸卯、副将軍常遇春・馮宗異は陝西を発し鳳翔に進攻した。丙午、李思斉は臨洮へ奔った。
   元朝の太尉李思斉は関陝・秦隴の兵を総じ、西は吐蕃に至り〔六〕、南は磯頭関に至り、東は商雒に至り、北は環慶に至り、みな思斉を主君と仰ぎ、精兵は十余万を下らなかった。大軍の到来を聞くと、陝西の鳳翔を棄てたので、陝西の父老は達を迎えて降った。(兪本『紀事録』)
   初め李思斉が鳳翔に拠ると、副将許国英・穆薛飛らが関中を守り、張思道・孔興・脱烈伯・金牌張・竜済民・李景春らは鹿台に駐留し、奉元の守りとなった。大兵が入関するに及んで、張思道らは三日先んじて野魚口より逃れ去った。軍が鳳翔に至ると、李思斉は恐れ、所部十余万を率いて西方の臨洮へ奔った。常遇春が鳳翔に入ると、その部将薛平章らを捕らえた。(『太祖実録』)
 四月丁丑、右副将軍馮宗異の軍が臨洮に至ると、李思斉は降った。
   時に大軍が李思斉を追って鳳翔に至り、遇春の軍が至ると、既に李思斉は逃れて固関に至り、道を挟む万を超える本数の木を見ると、人を送って木を切り倒して道を塞ぎ、追撃を防いだ。常遇春は歩兵には崖を登って嶺を越えさせ〔七〕、騎兵には木を断ってこれを焼き払わせた。四月、鞏昌に至ると、土官汪霊真保が降った。十二月、達は馮勝を送って思斉を追って臨洮に至った。土官平章趙脱児は思斉を伴って投降し、達は金吾衛指揮潘尋にこれを守らせ、騎兵に李思斉・霊真保・脱児の三人を護送させて京に赴かせた。(兪本『紀事録』)
   大将軍は鳳翔に在って軍の進路を討議したところ、諸将はみな張思道の才幹は李思斉に及ばない事から、慶陽は臨洮よりも容易く、まず幽州より慶陽を取り、その後に隴西より臨洮を攻めようとした。達は言った。「そうではない。張思道の城は堅牢で兵は勇敢であり、容易く抜く事は出来ず、臨洮の地は、西は番夷に通じ、北は河漢にに面し、我が軍がこれを取れば、その人夫は戦闘に備えるに十分であり、その産物は軍儲に供するに十分である。今、大軍を以てこれを圧迫すれば、李思斉は西方の胡に走る事はせず、手を束ねて降伏するであろう。既に臨洮に勝利すれば、傍郡は勝手に下るであろう。」遂に軍を移して隴西に向かい、鞏昌を下し、右副将軍馮宗異が率いる天策・羽林・驍騎・雄武・金吾・豹韜等の衛の将兵を送って臨洮を制圧し、李思斉は降った。初め、李思斉が鳳翔に在った頃、主上は書を用いてこれを諭して言った。「先日、遣使して通問したものの、今に至っても未だに戻らない。送った使者が大した人物では無く、足下に逆らった為にこれを留めたのか。それとも元朝の使節がちょうど到着したところであったので、足下は隠す事が出来ずにこれを殺害したのか。もしそうであれば、それもまた時勢の常であり、大丈夫は小事に拘らないものであるから、どうして些細な嫌疑など意に介しようか。そもそも防備を整え兵を増し、溝を深く掘り塁を高く積み上げるのは、必ずや我が軍に対して徹底的に抗戦しようとするからあるが、何を欲しての事か理解できない。以前、足下が秦中に在った頃、人は兵の多さと地の険しさに基づいてこれに従ったが、張思道は専ら詐術と暴力を尊び、孔興らは自らを保守するだけで、拡廓帖木児は兵を用いてその間に出没したが、いずれも強敵では無かった。当時、足下は秦を経略して自ら王となる事が出来ず、既にその機は失われた。今や中原の全ては我が手に有り、足下にとって互いに掎角となる者は、全て崩れ去って鼠の如く地に伏したので、足下は孤軍を以て対峙する事になり、徒に物心両面を傷つけるだけで、結局は何の益も無く、徳厚き者がどうしてこうなるであろうか〔八〕。朕は足下が鳳翔を守らなければ、必ずや深く沙漠に入り、後の巻き返しを図るものと考える。足下が初めてその地に入れば、或いは胡は面従するであろう。しかし、我らの族類では無いのであるから、その心は必ずや異なるであろう。その地に拠れば物品は不足し、その地を失えば自ら命を落とすに不足は無い。兵威を用いて常に強盛なれば、尚もそう言えるであろうが、もし中原から互いに従えた衆が、荒涼とした胡地にあって、或いは生活に慣れず、その心は量り難く、一度でも肘腋に変事を生じれば、孤立して身寄りも無く、一家を保つ事は出来ないであろう。更に足下は元々汝南の英傑であるのに、祖宗の墳墓の所在に、深く思慮を巡らせれば、これに考えが及ばない筈があるまい。誠に信に基づいて互いに許せば、夷を去って華に戻る事が出来、正に漢朝が竇融の礼に相報いて待遇した如くになるであろう。そうでなければ、朕の知る所では無いのである。」李思斉は書を目にすると、降伏の意志を持った。養子の趙琦とその麾下の者がこれを欺き、共に西進して吐蕃に入ると、李思斉はこれを信じ、遂に共に臨洮へ奔った。趙琦らは密かに宝貨婦女を山谷の間に隠匿しようと考えたので、李思斉は遂に困窮した。ここに至って、臨洮を挙げて降り、趙琦らもまた相次いで来帰した。趙琦は狄道の人で、一名を脱脱帖木児と言い、時に趙脱児と呼ばれ、代々元朝の土官であったと言う。(『太祖実録』)
   魏国公は兵を統べて中原を定め、公は軍を臨洮に駐屯させ、遂に士馬数万を率いて来帰した。(『権厝志』)
 五月乙卯、大将軍徐達は指揮曹崇を送って李思斉を護送し京に赴かせた。
   徐達が臨洮に至ると、鹵獲した臨洮の銀印一つ、白金五千両、黄金百両を陝西行省へ送った。(『太祖実録』)
 十月、方国珍を広西行省左丞とし、李思斉を江西行省左丞としたが、共に官衙に行かず、京師に於いて禄を食んだ。
 洪武三年庚戌、李思斉は大将軍徐達に従って定西に王保保を破り、帰還して興元を取り、中書平章政事に昇った。
   大将軍(徐達)に従って定西に征き、漢中を復した。(『権厝志』)
   この年の冬、論功が行われ、文綺及び帛各二十四疋を賜った。十二月辛巳、中書平章に昇り、子孫は世襲指揮僉事とされた。李思斉らはみな挙兵して帰付した臣であり、主上はこれを優待しようと考え、禄を食んでも政務に関与しないよう命じた。(『太祖実録』)
 洪武七年甲寅八月、李思斉の子の李世昌を金吾衛指揮同知とした。
   誥に言う、「古来の天下に君たる者は、功があれば賞し徳があれば官位を与えたものである。聖人の心という物は、月日の様に明るく、歴代を通して継承され、永遠に模範とされるものである。汝李世昌は、年は未だ冠に満たないにも関わらず、兵衛の職を授かったのは何故か。汝の父は時に大乱に遭い、よく衆を率いて関内を保ち、こうして民を安んじ地を闢いたからである。胡人が逃れ去るに及んで、群雄にも無知なる者があって、漢人であるのに父母の邦を棄て、邱隴を遺し、胡人の復仇に従ったが、我が中国にまで及ぶ事は無かった。ただ汝の父は竇融の故事に倣い、二万騎及び歩兵の衆を率いて、朕の成功を助け、今に至っても関内の民は時にこれを思うのである。汝は正にこれの将帥として謀略を習い、成人を待って侮りに備えなければならない。特に汝にその官位を授けるので、永らく世襲とする為に、汝は務めよ。」と。(高皇帝『御製文集』)
 九月戊辰、中書平章政事李思斉が没した。
   六年前、公はまた大将軍に従って大同に征き、代県に至って病を得て帰還した。周到に労い、医官を送って絶えず治療した。更にその邸宅に行幸してこれを見舞い、次いで新たに一画の邸宅を賜い、その子李世昌を懐遠将軍の官として、同知金吾右衛指揮使司事とし、甥の鄭玉を武略将軍・羽林衛鎮撫として、その心中を慰労した。公が重病に罹患して時間が経ったが、遂に快復する事は無かった。没した日、側室で臨汝の陳氏三十三歳もまた自ら縊死した。報告を受けると、主上はいずれも自ら文を御製し、使者を送ってこれを祭り、更に陳氏に淑人の地位を贈り、貞烈と諡し、当月二十日、公と共に京城上元県の向村に合葬し、後日を待って帰葬の礼を執り行ったのである。(『権厝志』)
   甲寅の年、主上は李思斉を送って沙漠の河南王王保保の下に行かせて諭した。到着するとこれを遇するに礼節を以てし、留まること数日で、送り返し、騎士に命じて境界上まで送らせたところ、騎士は李思斉に辞して言った。「総兵には考えが御座いまして、願わくは物品を留めて気持ちを残したいのです。」李思斉は言った。「我は正式に派遣されて遠方より来たもので、留めて贈るような物は持ち合わせていない。」騎士は言った。「願わくは一臂を。」李思斉は免れないと知り、一臂を断ってこれに与え、京師に帰還して死んだ。主上はその幼子を指揮使とし、その家族を厚遇した〔九〕。(兪本『紀事録』)
   按ずるに、李思斉の死は、兪本の記すところが正確であろう。『権厝志』に言う、「大同遠征に従い病を得て帰還した。」と。また言う、「重病に罹患して時間が経ったが、遂に快復する事は無かった。」と。真実を避けて言っているが、その微かな言葉にもまた考慮の余地があろう。
 洪武八年乙卯正月辛未、官を送って鶏籠山廟に功臣を祭り、故淮安侯華雲竜・平章李思斉ら百八人を増祀した。
   主上は『祭李思斉文』を御製し、それに言うには、「嘗て卿は中原の民でありながら、時に世の乱れに遭い、独りよく義に依りて仁を施し、身を捧げて腕を振るい、義旅を率いて関中を保ち、元朝の臣として年月を重ねたものである。どうしてか元朝の綱紀が振るわず、社稷陵が替わっても、尚も卿はよく臣下の忠節を固守し、我が行人を斬った事は、忠臣の義として、言い尽くすべきものである。しかし巨大な家が傾きつつあるのに、一本の木で支えられるものでは無い。幾ばくも無く、胡君は逃れ去り、中原の地は我が漢人の手に復し、遂に朕は生民の主となったのである。正にこの時、漢人は邱壠を棄てて胡人に従い、我が中国に仇讐を為した。今に至っては、その身は草野を潤し、骨は沙漠に打ち棄てられた。ただ卿は退いて臨洮を守りながら、内心は父母の邦を思い、族類への忠義を忘れなかったので、ここを以て境界を全うして民を保ち、我が成功を助ける事、今で七年になる。それなのにどうして久しく病を患い快復しなければ、長く生きようか。ああ、兵権を一代に握り、また善き最期を迎えるは、また人の難しき所である。卿はよくこのようにしたものである、どうして美しからざるものか。朕は卿の死を耳にするや、痛悼に堪えず、今、官吏を送り牲畜を以て祭祀を執り行うので、卿はこれを受け取り給え。」と。(高皇帝『御製文集』)

【校勘記】
〔一〕秦州、原本は訛って「秦」を「泰」としていたが、『元史』巻四十五、順帝八に基づいて改めた。
〔二〕虎林赤、原本は訛って「赤」を「亦」としていたが、『元史』巻百四十一、察罕帖木児伝に基づいて改めた。
〔三〕薛穆飛、『元史』巻四十七、順帝十・『太祖洪武実録』巻三十一はいずれも「穆薛飛」としている。
〔四〕渭南、原本は訛って「南」を「陽」としていたが、『元史』巻四十七、順帝十、至正二十八年二月条に記載する所には、「この月……李思斉は渭南に次ぎ、張良弼は櫟陽に次いだ。」とある事から、改めた。
〔五〕商暠、原本は訛って「商」を「高」としていたが、『元史』巻四十七、順帝十に基づいて改めた。
〔六〕西は吐蕃に至り、原本は訛って「西」を「至」としていたが、適園本に基づいて改めた。
〔七〕遇春は歩兵には崖を登って嶺を越えさせ、原本は訛って「崖を登って」を「屋を扳いて」としていたが、適園本に基づいて改めた。
〔八〕徳厚き者がどうしてこうなるであろうか、原本は訛って「豈」を「曽」としていたが、『太祖洪武実録』巻四十に基づいて改めた。
〔九〕その家族を厚遇した、原本は訛って「厚」を「原」としていたが、適園本に基づいて改めた。
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by su_shan | 2016-11-14 12:47 | 『国初群雄事略』巻十