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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十五( 3 )

列伝第十五 目次

李善長 汪広洋

 論賛、明朝初期には中書省を設け、左右の丞相を置き、政務の中枢を管領し、勳功の臣を充ててその任を領有させたのである。しかしながら、徐達や李文忠は何度も征討の命を受け、中書省の政務を専念して監督する事は無かった。そもそも従容として丞輔の任を務めた者は、李善長と汪広洋と胡惟庸の三人だけである。胡惟庸の粛清後、丞相の地位は廃止されて二度と設けられる事は無かった。故に明朝一代を通して、李善長と汪広洋だけが丞相と称するに値するのである。ただ惜しむらくは、李善長は平民の出身でありながら、よく草昧の世の当初に主君を択び、力を合わせて身を捧げ、一大事業を賛助し、遂に封爵の栄誉を得て、その地位は公爵の上位に列せられ、或いは富貴の極致を謳歌したものの、晩年には自ら滅び去ってしまった。汪広洋はよく謹んで保身に努めたものの、悪人を告発して災禍を回避する事まではできなかった。両名共に重い処分を下しながらも、丞相を任じた頃の初志を背負い、慚愧の念から諸々の左右の官職を置いたのではなかろうか。
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by su_shan | 2016-12-25 15:39 | 『明史』列伝第十五

汪広洋

『明史』巻一百二十七、列伝第十五

 
 汪広洋、字を朝宗、高郵府の人。太平路に移り住んだ。太祖(朱元璋)が長江を渡ると、招聘して元帥府令史とし、江南行中書省提控とした。正軍都諫司を設置すると、諫官に抜擢され、江南行中書省都事に遷り、中書省右司郎中に進んだ。次いで驍騎衛の事務を監督し、常遇春の軍務に参与した。贛州路を陥落させると、当地を鎮守し、江西行中書省参知政事を拝命した。
 洪武元年、山東地方を平定すると、汪広洋の清廉かつ明敏で慎重な様を評価して、山東行中書省の監督を命じ、新たに帰順した者を労わって受け入れたので、民衆は非常に安堵した。本年中に召還されて入朝し、中書省参知政事となった。翌年に陝西行中書省参知政事に出向した。(洪武)三年、李善長が病気になると、中書省の長官職が空席となった為、汪広洋を召還して左丞〔一〕とした。この当時、右丞〔一〕の楊憲が決裁を専断していた。汪広洋はこれに反抗した為に、楊憲に恨まれ、御史を唆して汪広洋が不徳にも母親を扶養していないと弾劾させた。洪武帝は叱責し、免官して郷里に帰らせた。楊憲は再び上奏し、海南に追放した。楊憲が粛清されると、召還された。その年の冬、忠勤伯に封じられ、食禄三百六十石とされた。その誥命は、繁雑な政務を的確に処理し、しばしば賢明な献策を行ったので、彼を張子房・諸葛孔明に準えて称賛したものである。李善長が病気によって引退すると、遂に汪広洋を右丞相とし、参知政事胡惟庸を左丞とした。汪広洋は何も建白しなかったので、しばらくして広東行中書省参知政事に左遷されたものの、洪武帝は内心で汪広洋に期待していたので、再び召還されて左御史大夫となった。(洪武)十年に再び右丞相を拝命した。汪広洋は酷く酒に耽り、胡惟庸と同調し、自らの地位を守る事にしか興味を示さなかった。洪武帝は何度か訓戒した。
 (洪武)十二年十二月、中丞涂節は劉基が胡惟庸によって毒殺された事、汪広洋がその事情を知っていた事を告発した。洪武帝が詰問すると、返答して言った。「その様な事はございません。」洪武帝は激怒し、汪広洋に僚友を庇い主君を欺いた罪を着せ、広南〔二〕に追放する事にした。船が太平府に差し掛かった頃、洪武帝は更に江西行中書省在任中に事実を偽って朱文正を庇っていた事、中書省在任中に楊憲の悪事を告発しなかった事についても追及し、勅を下して彼を誅殺した。
 汪広洋は若い頃、余闕に師事していたので、経書と史書に通じ、篆書体と隷書体に長け、歌詩に巧みであった。性格は柔和で慎み深いものであったが、悪人と同等の地位にあってはそれを排除する事が叶わず、その為に災禍が降りかかったのである。

【校勘記】
〔一〕左丞(汪広洋)・右丞(楊憲)、左丞の左は元は「右」、右丞の右は元は「左」であった。本書巻百九、宰輔年表によると、当時楊憲は右丞であり、汪広洋は左丞であった。『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬申条は、「汪広洋を召還して左丞とした。当時楊憲は山西行中書省参知政事の地位にあって、先に召還されて入朝し、右丞となっていた。汪広洋が着任すると、楊憲はその地位が自らを脅かす事を恐れ、事ある毎に多くの裁決を専断して譲らなかった。」とあるので、これに基づいて改めた。
〔二〕広南、本書巻百九、宰輔年表・『明史稿』伝十七、汪広洋伝・『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬辰条は何れも「海南」としている。


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by su_shan | 2016-12-24 16:20 | 『明史』列伝第十五

李善長

『明史』巻一百二十七、列伝第十五

 李善長、字を百室、定遠県の人。幼少時より経書を講読して智略に優れ、法家の言論を学び、策の多くを的中させた。太祖(朱元璋)が滁陽を攻略した際、李善長は歓迎して拝謁した。里中で評判であった事は知られていたので、李善長を礼遇し、帷幕に留めて掌書記とした。以前、太祖は従容として尋ねた事があった。「各地の戦乱は、一体何時になったら終息するであろうか。」答えて言った。「秦末の戦乱に際して、漢の高祖は布衣の身分より立ち上がりましたが、度量を広く持って些事には拘らず、よく人の才能を見抜いて任用し、殺人を好まず、五年にして帝業を成就致しました。今や元朝の綱紀は乱れ、天下は土や瓦の様にばらばらに砕け散っております。公は濠州の生まれですから、沛県からそう遠くはございません。山川に満ちた王気を、正に公は身に纏われたのでございます。その所為に倣えば、十分に天下を平定し得るでしょう。」太祖はその言を是とした。滁州攻略に従い、参謀となり、機務に与り、糧秣を管理したので、特に厚い信頼を受けた。太祖の名声は日増しに高まり、諸将で帰順した者は、李善長がその才能を見出し、太祖に進言した。また太祖の意図を行き渡らせ、皆を安堵させた。何らかの理由で対立する者が居れば、事細かく調停して上手く収めたものである。郭子興が流言を信じ、太祖に疑惑を抱くと、しばらくしてその兵権を剥奪した。また李善長を取り上げて自らの補佐役にしようとしたが、李善長は固辞して出向かなかった。太祖は深く頼る様になった。太祖が和陽に駐屯すると、自ら雞籠山寨を攻撃しようとし、僅かに兵を留めて李善長を補佐し留守を守らせた。元朝の将帥が諜報で察知して来襲すると、伏兵を置いてこれを打ち破ったので、太祖は有能と認めた。
 太祖が巣湖水師を迎え入れると、李善長は積極的に長江渡河を提案した。すぐさま采石を突破し、太平路へ向かうと、李善長は兵卒を収める為の禁令を記した立札を任された。城が陥落すると、この札を大通りに掲げたので、周囲は粛然として敢えて違反する者は居なかった。太祖が太平興国翼大元帥になると、帥府都事に任命された。集慶路攻略に従軍した。鎮江路を奪取しようとした時、太祖は諸将が進んで指示に従おうとしない事を危惧したので、殊更に苛立って諸々の法令を設けようとしたが、李善長が弁護して和解させた事があった。鎮江路は陥落したが、民衆は戦闘に気付かない程であった。太祖が江南行中書省平章政事になると、参議に任命された。当時、宋思顔・李夢庚・郭景祥らは何れも省庁の官僚となったが、軍機の処置や賞罰の規則に関しては、その多くが李善長の決裁に依った。枢密院を大都督府に改組すると、領府司馬の兼任を命じられ、江南行中書省参知政事に昇進した。
 太祖が呉王になると、右相国を拝命した。李善長は故事に明るく、裁決は水が流れる様に速やかであり、また文体は優雅であった。文士を招き入れる事があれば、文書の作成を命じられたものである。これに前後して自ら征討を行う際には、常に留守を命じられ、軍官はよく服従し、民衆は安堵し、軍糧の運搬が滞る事は無かった。以前、両淮地域から産出される塩の専売を提案し、茶法を制定した事があったが、何れも元朝の制度を斟酌しながらも、その欠点を除くものであった。また銭法を制定し、鍛冶場を開設し、魚税を定めたが、何れも国政に利するものであって、民衆が困窮する事は無かった。呉元年九月に呉(張士誠)平定の論功行賞が実施されると、李善長は宣国公に封じられた。官制が改められ、左方が尊重されると、左相国となった。太祖は長江渡河以降、法典を非常に重視したが、ある時、李善長に言った。「法には連座に関する三ヶ条があるが、廃止しないのは問題であろうか。」李善長は大逆の場合以外を廃止する様に提案したので、最終的に中丞劉基らと共に律令を裁定する事を命じ、内外に公示したのであった。
 太祖が帝位に即位すると、皇帝の先祖の追認並びに后妃や太子諸王の冊立に関しては、全て李善長を大礼使に充てた。東宮の属官を設けると、李善長に太子少師を兼任させ、銀青栄禄大夫・上柱国を授け、録軍国重事とした上で、その他の官職は旧来通りとした。続いて、礼部の官僚を伴って郊社宗廟の礼法を制定した。洪武帝が汴梁路に行幸すると、李善長は留守を命じられ、一切の事務に関する権限を委ねられた。次いで六部の官制の制定を上奏し、官民双方の服喪並びに東宮朝賀の儀礼に関する規定を討議した。勅命を奉じて『元史』を監修し、『祖訓録』・『大明集礼』等の書籍を編纂した。天下の山川や天地の神、爵号の制定、諸王の封建、功臣の封爵は、物事の大小に関わらず、全て李善長と諸々の儒臣らに討議させて実施したものである。
 洪武三年に大規模な功臣封爵を行った。洪武帝は言った。「李善長には馬に跨って汗を流した苦労は無いが、朕に長らく仕え、軍糧を供給する事、その功績は非常に大きく、必ずや大国に封じなければなるまい。」そこで開国輔運推誠守正文臣・特進光禄大夫・左柱国・太師・中書左丞相を授け、韓国公に封じ、食禄四千石とし、子孫への世襲を許した。世券を与えられ、二度の死罪免除を認められ、子は一度の死罪免除を認められた。当時、公爵に封じられた者は、徐達・常遇春の子の常茂・李文忠・馮勝・鄧愈及び李善長の六名であった。更に李善長の序列は第一位とされ、誥命では蕭何に準えて大いに称賛されたのであった。
 李善長の表向きは柔和であったが、内面は酷薄であった。参議の李飲水・楊希聖が、僅かに李善長の職権を侵害しただけで、その罪状を取り調べて上奏し失脚させた事があった。中丞の劉基と法について論争し、罵った事もあった。劉基は不安を感じ、引退を申し出た。太祖の任命した張昶・楊憲・汪広洋・胡惟庸がみな罪を得ると、旧来の様に李善長を頼った。富貴を極め、徐々に驕慢になると、洪武帝は初めて李善長を疎んじる様になった。(洪武)四年に病気を理由に引退すると、臨濠の土地数頃を下賜し、守塚百五十戸を置き、佃戸千五百家を給し、儀仗士二十家を与えた。翌年、病気が快復すると、臨濠の宮殿造営の監督を命じられた。江南の富豪十四万人を移住させて濠州を開拓し、李善長にこれを経理させたので、濠州に数年の間留まる事になった。(洪武)七年に李善長の弟である李存義を抜擢して太僕丞とし、李存義の子である李伸・李佑は何れも群牧所の官僚となった。(洪武)九年に臨安公主が子の李祺に降嫁すると、駙馬都尉を拝命した。当初制定された婚礼では、公主は非常に厳しく婦道を修めるものとされていた。恩典の盛大な様子は、当時の人々は豪勢と捉えたものである。李祺が公主を娶って一ヶ月が経った頃、御史大夫汪広洋・陳寧が上訴した。「李善長めは恩寵を盾に身勝手に振る舞い、陛下が御病気を召されて十日間も朝務から離れておられた際に、顔を見せにも参りませんでした。駙馬都尉李祺は六日も入朝しませんでしたので、殿前に召し出しました所、罪を認めようとしませんでした。大不敬の罪に相当致します。」処罰として食禄千八百石を削減された。次いで曹国公李文忠と共に中書省・大都督府・御史台を総括し、軍国大事の討議に参与し、圜丘の造営を監督した。
 丞相胡惟庸は当初は寧国知県であったが、李善長の推薦によって、太常少卿に抜擢され、後に丞相となったので、互いに親しい往来があった。更に李善長の弟李存義の子李佑は、胡惟庸の従妹の婿であった。(洪武)十三年、胡惟庸が謀叛の罪で誅殺されると、連座して処刑された者は非常に多かったが、李善長は元のままであった。御史台は中丞職が空席となったので、李善長に御史台を監督させた所、何度か建白があった。(洪武)十八年、実は李存義父子が胡惟庸の一党であったとの密告が行われたが、詔によって死罪は免れ、崇明州へ追放処分とされた。李善長は謝意を示さなかったので、洪武帝は内心に含んだ。五年後、李善長は七十七歳となり、耄碌して判断が覚束なくなった。以前、邸宅を造営しようと考え、信国公湯和に依頼して衛所軍三百人を借用したが、湯和は密かに報告していた。四月、京師の民で罪を得て辺境に移住させられる者があって、李善長は懇意にしていた丁斌らについて何度か免罪を請願した。洪武帝は激怒して丁斌を取り調べた所、丁斌は元々胡惟庸の家に仕えており、以前に李存義らの所に出入りして胡惟庸の状況を伝えていた事が判明した。李存義父子の逮捕を命じて問い質すと、李善長に関する部分があった。「胡惟庸の謀叛の際、密かに私、李存義に李善長を説得させたのでございます。李善長は驚いて叱り付けました。『お前は何という事を言うのか!お前が取り調べを受ければ、九族が皆殺しにされるのであるぞ。』すぐさま、李善長の友人であった楊文裕に説得させました。『事が成就した暁には、淮西の地を以て王に封じましょうぞ。』李善長は驚愕するも賛同しませんでしたが、内心で動かされるものがあったのです。胡惟庸は自ら李善長の説得に向かいましたが、やはり賛同しませんでした。しばらくして、胡惟庸は再び私、李存義を送って説得させました所、李善長は悲嘆して言いいました。『儂は年を取り過ぎた。儂が死ねば、お前たちがやればよかろう。』」また、ある者が李善長を告発した。「藍玉将軍が塞外に出征され、捕魚児海(ブユル湖)に到達した時、胡惟庸が沙漠の地に派遣していた封績という使者を捕らえましたが、李善長が匿って報告致しませんでした。」こうして御史が立て続けに李善長の弾劾を行った。更に李善長の家奴であった盧仲謙らもまた、李善長と胡惟庸が金品を授受し、密かに内通していた事を告発した。その罪状に言う、李善長は開国の元勲かつ外戚であるにも関わらず、叛逆を察知していながら検挙せず、逡巡しつつ二心を抱いて成り行きを窺い、大逆不道の罪を犯したのである、と。たまたま天文に変化が現れたので、それを占うと大臣の交替を意味していた。最終的に妻・娘・弟・姪ら家族七十数人と共に誅殺された。更に吉安侯陸仲亨・延安侯唐勝宗・平涼侯費聚・南雄侯趙庸・滎陽侯鄭遇春・宜春侯黄彬・河南侯陸聚らは、全員が同時に胡惟庸の一党に連座して処刑され、故人の営陽侯楊璟・済寧侯顧時ら数名もまた追認されて連座したのであった。洪武帝は自らの手でその罪状を詔に並べ、判決文に書き加え、『昭示姦党三録』を作成して、天下に布告した。李善長の子李祺は、公主と共に江浦県に追放され、しばらくして没した。李祺の子の李芳・李茂は、公主の子という恩典によって連座を免れた。李芳は留守中衛指揮使となり、李茂は旗手衛鎮撫となったが、世襲の特権は剥奪された。
 李善長の死の翌年、虞部郎中の王国用が言上した。「李善長と陛下は志を同じくされ、万死を顧みず天下を統一し、第一の勳臣となって、生きながらにして公爵に封じられ、死しては王爵に封じられ、男子は公主を娶り、親戚は官職を拝命し、位人臣を極めたと申し上げても過言ではございません。仮に自ら謀叛を企てようとしていたのであればいざ知らず、茲許、胡惟庸に加担しようとしていたと言うのは、全くの誤りでございます。人情として子に愛情を注ぐもの、それが兄弟の子であっても同じ事でございますが、万全の富貴を享受している者は、絶対に万が一の富貴を待ち望んだりは致しません。李善長と胡惟庸は、子息の親類というだけでございましたが、陛下に於かれましては子女の親類でございました。李善長が胡惟庸に加担して事を成そうとした所で、勳臣の第一人者であるに過ぎず、ただ太師・国公・封王であるに過ぎず、ただ公主を迎え妃を納めたに過ぎず、どうして今日に及ぼす事がございましょうか。しかも、李善長が幸運に頼って天下を手に入れる事ができないと知らない筈がございましょうか。元朝の末期、天下を取らんと望む者は大勢居りましたが、自身を粉骨しない者などは居らず、一族根絶やしの憂き目に遭い、首領としての地位を保つ事ができた者は果たして何人居りましょうか。申し上げるまでも無く李善長は自らそれを目にしておりますのに、どうして晩年にもなって同じ轍を踏もうとするでございましょうか。それでも行おうとする者には、必ずや深い怨恨や事情の急激な変化があるものでございますが、もはやどうする事もできず、父子の間でできる限り災禍から逃れる術を探ったのでございましょう。更に李善長の子の李祺は陛下を骨肉の親としておりましたから、僅かながらも叛意などあろう筈が無く、何の不満があって突然の暴挙に出たと仰るのでございましょうか。もし天象が変事を告げていたと言うのであれば、大臣には災禍が降り注ぐものでございますが、これを害する事で天象に応じるのは、最もしてはならぬ事でございます。恐れながらも臣が思いますに、これが天下に知れ渡りましたら、李善長の様な功労者でさえこの様な末路を遂げたのだと言われ、四方から瓦解が始まる事でございましょう。今や李善長は故人となり、何を申し上げた所で意味無き事ではございますが、請い願わくは陛下が将来の戒めとなさる事だけでございます。」太祖は書状に目を通すと、これ以上罪を及ぼそうとはしなかったのであった。
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by su_shan | 2016-12-21 23:37 | 『明史』列伝第十五