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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十六( 5 )

列伝第十六 目次

劉基 子璉 璟 宋濂 葉琛 章溢 子存道

 論賛、太祖(朱元璋)が集慶路を陥落させると、智勇に優れた人材を手許に集めさせ、名士賢人を招聘させたので、一時は才幹や仁徳をひた隠しにしていた者たちが、忽ちに馳せ参じたものである。中でも四先生と呼ばれる人物は、最も傑出していた。劉基と宋濂は学術に造詣が深く、その文章は古風かつ優雅であり、共に当代の模範とされた。更に劉基は帷幕にあっては策略を巡らせ、宋濂は従容として指針を示し、開国の初期に於いて、はっきりと王道の在り方を述べ、忠実かつ恭敬であったので、まさしく佐命の臣と言えよう。章溢の地方に於ける尽力や、葉琛の自身を顧みず使命に励む姿勢は、大義をよく弁え、大業を成就させたので、決して弓旌の徳に背かぬものである。なお、劉基は儒者として学術を用い、太平の世の創出を助けたのであるが、口さがない者の多くは讖緯の術を用いてしばしば自在に振る舞ったと伝えている。その風説は最近になってから生まれたものであって、劉基をよく知る者の言葉では無いので、ここでは収録していない。


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by su_shan | 2017-02-18 12:00 | 『明史』列伝第十六

宋濂

『明史』巻一百二十八、列伝第十六

 宋濂、字を景濂、その先祖は金華県潜渓の人であり、宋濂の代になって浦江県に移り住んだ。幼少時より才知と記憶に優れ、聞人夢吉に就学し、『五経』に精通し、また呉莱の下に出向いて師事した。後に柳貫・黄溍の門下に遊ぶと、彼らは宋濂を自分達では及びもつかないと特に謙遜したものである。元朝の至正年間に翰林編修を授かったが、親の高齢を理由に固辞して出仕せず、竜門山に住んで書物を著した。
 十数年後、太祖(朱元璋)が婺州路を攻略すると、宋濂を召し出して謁見した。婺州路は寧越府と改称され、知府の王顕宗に郡学の開校を命じ、宋濂と葉儀を五経師として赴任させた。翌年三月、李善長の推薦により、劉基・章溢・葉琛と共に応天府に呼び寄せられ、江南儒学提挙に除せられ、太子への経学の講義を命じられ、次いで起居注に改められた。宋濂は劉基の一歳年上で、何れも南東の地から立身し、名声を集めた。劉基は大胆不敵かつ変わり者であったが、宋濂は儒者を自任していた。劉基は軍中にあって謀議に与かり、宋濂もまた文学の才能によって知遇を得、常に左右に侍従して諮問に備えたのである。嘗て『春秋左氏伝』を講義した時、宋濂は進言した。「『春秋』とは孔子が善行を褒め称え、悪行を批判する書物でございますが、それを忠実に履行する事、即ち賞罰を厳格に適用なされば、天下を定められましょう。」太祖は端門に赴き、『黄石公三略』を講釈した。宋濂は言った。「『尚書』の二典三謨(尭典・舜典・大禹謨・皐陶謨・益稷)は、帝王に於かれては大経大法でございますので、よく留意してこれを解明なさいませ。」次いで、賞賜の議論に関して言った。「天下を得るには人心を根本に据えるものでございます。人心が定まらなければ、例え膨大な金帛で埋め尽くした所で何の役にも立ちませぬ。」太祖は全ての発言に賛同した。乙巳年三月に帰省を申し出た。太祖は太子(朱標)と共に労って恩賞を与えた。宋濂は書付を差し出して謝意を示し、更に太子に対しては親兄弟を謹んで敬い、徳に努めて学芸を修めるよう上書したのであった。太祖は書状を一読すると非常に喜び、太子を召し出して書状の真意を語ると、札を賜って返答し、更に太子に書状を書かせて返礼した。その後、宋濂の父が没した。服喪が終わると召還された。
 洪武二年に『元史』編纂の詔が発布されると、総裁官就任の命を受けた。同年八月に史書が完成し、翰林院学士に除せられた〔一〕。翌年二月、儒士の欧陽佑らが旧元朝の元統年間以降の事蹟を携えて帰朝すると、宋濂らに続修を命じ、六ヶ月後に再び完成させたので、金帛を賜った。この月、参朝に落ち度があったので、翰林院編修に降格された。(洪武)四年に国子監司業に移ったが、孔子を祀る儀式に関する提言が遅れた罪で、安遠知県に降格され、また召還されて礼部主事となった。翌年に賛善大夫に移った。当時、洪武帝(朱元璋)は文治による統治を目指し、各地から儒士の張唯らを筆頭に数十人を掻き集めていたが、若く優秀な人物を選抜し、その全てを翰林院編修に抜擢すると、禁中の文華堂に入れて学習させ、宋濂にその指導を命じた。宋濂は太子に仕えた十数年もの間、その言動は終始一貫して、遠回しに礼法を説いて正道に導いたが、政治に関する事や前王朝の興亡の事蹟については、必ず拱手して言った。「そうするべきです、そうするべきではありません。」皇太子は常に身を引き締め、喜んで師事し、必ず師父と呼んだものである。
 洪武帝が功臣を封爵した際には、宋濂を呼んで五等封爵について討議した。大本堂に泊まり込み、明け方まで議論を重ねた結果、漢朝や唐朝の故事を踏まえ、その特徴を抜き出して奏上した。何度か甘露が降ると、洪武帝はその吉凶を尋ねた。宋濂は答えた。「受命は天に於いてせず、その人に於いてす、休符は祥に於いてせず、その仁に於いてすというものです。『春秋』が怪異を記して吉祥を記さないのはその為でございます。」洪武帝の甥にあたる朱文正が罪を得ると、宋濂は言った。「元より朱文正殿は死罪が相当ではございますが、陛下に於かれましては親しい間柄でいらっしゃいますので、どこか遠方の地に安置するのが良いでしょう。」太祖の車駕が方丘壇を祀る儀式に出向いた時、心中に不安を感じると、宋濂は従容として言った。「心を健全に保つには寡欲に徹するのが一番でございます。意識してそうなさいましたら、心は清らかにして体は安らぐものでございます。」洪武帝はこの出来事を長い間褒め称えたのであった。以前、太祖は帝王の学は何の書物を基本とするのが良いかと質問した事があった。宋濂は『大学衍義』を挙げた。するとこれを大書して宮殿の両廡に掲示するよう命じた。すぐに西廡に臨御すると、諸大臣全員を従え、洪武帝は『大学衍義』で司馬遷が黄帝・老子の事例に言及している点を示し、宋濂に講釈を命じた。宋濂は講釈を終えると言った。「前漢の武帝は怪しげで出鱈目な学術に溺れる一方、文帝と景帝は恭倹の気質をお持ちではありましたが、既に民力は衰えてしまっていた為に、後に刑罰を厳格にして引き締めたのでございます。人君が礼節を以て心の修養に努めれば、邪説の入り込む隙間は無く、学校を以て民を治めれば、騒乱は起こらないものでございます。ですから、まず刑罰ありきでは無いのです。」三代(夏・殷・周)の沿革と国土の広狭について質問すると、即座に回答し、また言った。「三代の世は仁義を以て天下を治めたので、長年に渡って君臨したのでございます。」また質問した。「三代以前の事を知りたければ、何の書物を読めば良いか。」答えて言った。「上古の世について書き載せた図籍は未だ現れず、人の口によって伝わるのみでございます。人君とは共に政治と教育の責務を負うもの、率先して行動なさいましたら、民衆は自然と感化されましょう。」以前、鷹を題材にして七歩の内に詩を詠むよう指示を受け、即座に完成させた事があったが、「古より禽荒を戒めり」という一節が入っていた。洪武帝は笑って言った。「卿は上手い事を言うではないか。」宋濂の事ある毎に忠実な姿勢は、全てこの様なものであった。
 (洪武)六年七月に侍講学士・知制誥・同修国史の職に移り、賛善大夫を兼任した。詹同・楽韶鳳と共に日暦の整備を命じられ、また呉伯宗らと共に宝訓の編修を命じられた。九月に散官の位階を制定すると、宋濂に中順大夫の地位を与え、政務を担当させようとした。宋濂は辞退して言った。「臣は他に取り柄がございません。下手をして罪を犯すのを待つ様なものでございます。」洪武帝は更に宋濂を重宝した。(洪武)八年九月、太子と秦王・晋王・楚王・靖江王の四王を従えて中都にて武芸の講釈を行った。洪武帝は輿地図の『濠梁古蹟』一巻を入手すると、太子に遣使して送り届け、その他の問題については宋濂に相談させ、細部まで助言させた。太子は宋濂に質問すると、宋濂は明朗に回答して随時進言したので、非常に有益であった。
 宋濂の性格は誠実かつ慎み深く、長らく朝廷に仕えながら、他人の過失を暴露した事は無かった。自らの居室には「温樹(※1)」と書き付けていた。ある客人が禁中で交わされた話について尋ねると、それを指差したものである。嘗て客人と酒を飲んでいた時、洪武帝は密かに人を送り込んでその様子を観察させた。翌日、宋濂に対して酒を飲んでいたか、誰と相席していたか、何を食べていたかを尋ねた。宋濂は全て正直に答えた。洪武帝は笑って言った。「大当たりだ。卿は朕に嘘をついてはおらぬ。」時々、宋濂は召し出されて群臣の良し悪しを尋ねられた事があった。宋濂は美点だけを挙げて言った。「美点ある者は臣と交友がございますので、臣はその人物を熟知しておりますが、そうでない者については知る所ではございません。」それについて主事の茹太素が一万字を超える上書を行った。洪武帝は激怒して廷臣を詰問した。ある者がその書状について苦言を呈した。「なんと不敬な。この様な誹謗が許される道理はございませんぞ。」宋濂に尋ねると、答えて言った。「彼はただ陛下に忠実たらんとしただけでございます。陛下に於かれましては言路をお開きになり、厳罰を加える事をお避け下さいますよう。」洪武帝はその書状を一読すると、採用するに値すると考えた。そこで全ての廷臣を召し出して叱責し、宋濂の字を呼んで言った。「景濂が居なければ、提言した者を誤って処罰する所であったぞ。」更に洪武帝は宋濂を称賛して言った。「朕が聞くに、聖人が最も素晴らしく、その次を賢人、その次を君子と言う。宋景濂は朕に仕える事十九年にして、未だ嘗て一言も偽らず、一人として短所を責めず、終始一貫しておるのだから、君子どころではない。賢人と言っても良いくらいだ。」洪武帝は宋濂を宮廷外で呼び出す度に、必ず座を設けて茶を勧め、朝には必ず食事を共にし、往来して諮問し、夜になるまで解放しなかった。宋濂は酒が苦手であったが、洪武帝が強要して三度も飲ませ、歩けなくなった事があった。洪武帝はその様子を見て大笑いした。手ずから『楚辞』一章を書き上げると、文臣に命じて『酔学士詩』を詠ませたのであった。また以前、湯に甘露を混ぜ、手酌して宋濂に飲ませて言った。「これには病を癒やし寿命を延ばす効果があると言う。卿と共にそうありたいものだ。」また太子に詔して宋濂に名馬を与え、『白馬歌』一章を書き上げると、侍臣に命じて倣わせた。宋濂の厚遇振りはこの様なものであった。(洪武)九年に学士承旨知制誥に昇進し、従来通り賛善大夫を兼任した。その翌年に辞職し、『御製文集』と綺物を賜わり、宋濂に年齢を尋ねた所、答えて言った。「六十八歳でございます。」洪武帝は言った。「この綺をあと三十二年取って置いて、百歳の記念に服でも作ると良かろう。」宋濂は平伏して感謝した。翌年、来朝した。(洪武)十三年、一番目の孫の宋慎が胡惟庸の徒党に連座すると、洪武帝は宋濂の死罪を考えた。皇后と太子が助命に奔走した為に、茂州に追放処分となった。
 宋濂の容貌は非常に立派で、見事な髭を生やしており、視力が優れていて、一粒の黍の表面に何文字も書く事が出来た。幼少より老齢に至るまで、一日として書物を手放さず、精通していない学問は無かった。文章を作れば深みのある言葉がどこまでも続き、古来の名作を生み出した人物と並んで称賛された。朝廷にあっては、郊社・宗廟・山川・百神の規則、朝会・宴享・律暦・衣冠の制度、四裔・貢賦・賞労の儀式、旁及・元勲・巨卿・碑記・刻石の言辞は、全て宋濂に委ねられ、何度も開国の文臣の筆頭として推薦された。士大夫で門額を欲しがった者は、相次いで宋濂を訪ねたものである。外国の朝貢使節でさえもその名声を聞き及んでいて、しばしば宋先生はお元気でいらっしゃいますかと尋ねたものである。高麗・安南・日本の人間は倍の金を出してでも文集を買い漁ったという。各地の学者たちはみな「太史公」と呼んで、姓氏を使わなかった。老齢に至るまで侍従しながらも、その功績や爵位は劉基には劣るが、明朝一代の礼楽の制作に関しては、宋濂の手によって裁定された物が多かったのである。
 その翌年、夔州府で没した時、七十二歳であった。知事葉以従が蓮花山の麓に埋葬した。蜀献王(朱椿)は宋濂の名声を慕って、墓を華陽城の東側に移した。弘治九年、四川巡撫馬俊が上奏を行った。「宋濂殿は本物の儒者として開国に尽力なされ、その作品は手本とすべきで、その功績は天子を輔弼しては多く、教導しては顕著でありました。ところが長らく遠方の地に追いやられ、土に埋もれて沈んでしまわれましたので、救済されては如何でしょうか。」礼部に討議させた所、その官位を元に戻し、一年を通して墓所を祀る事になった。正徳年間に文憲と諡された。
 次男の宋璲は最も名を知られ、字を仲珩〔二〕と言って、詩文に巧みで、書法を最も得意としていた。洪武九年、宋濂の縁故によって、召し出されて中書舎人となった。甥の宋慎もまた儀礼序班となった。洪武帝はしばしば宋璲と宋慎を試し、併せて教戒した。笑いながら宋濂に言った事がある。「卿は朕の為に太子や諸王を教えてくれている。朕もまた卿の子孫を教えておるぞ。」宋濂の歩行が困難になると、洪武帝は宋璲と宋慎に命じて手助けをさせた。親子三代に及んで宮中に仕えたので、民衆はその栄誉を褒め称えた。宋慎が罪を得ると、宋璲もまた連座して、共に処刑され、その家属は全て茂州に追放された。建文帝(朱允炆)が即位すると、宋濂が興宗(朱標)の師であった事を配慮して、宋璲の子の宋懌を召し出して翰林院に在籍させた。永楽十年、宋濂の孫が鄭公智の縁故として姦党に連座したものの、詔によって特赦された。

【注釈】
(※1)温樹、『漢書』巻八十一、孔光伝には「ある者が温室殿の中には何が植えてあるのかと尋ねても、孔光は笑って答えなかった。」とあり、孔光は些細な事であっても宮中に関する話は外に漏らさなかったという故事に因んだものと思われる。尚、温室殿は漢代長安に於ける皇帝の居所、未央宮の一画にあった。


【校勘記】
〔一〕同年八月に史書が完成し、翰林院学士に除せられた、宋濂が翰林院学士となったのは『太祖実録』巻四十二では洪武二年六月戊子とされている一方、『元史』が完成したのは洪武二年八月癸酉とされており、本伝の記載は不正確である。
〔二〕仲珩、元は「伯珩」であった。宋璲は宋濂の次男(仲子)である事を考えると、字が伯珩では
おかしい。『明史稿』伝十八、宋濂伝に基づいて改めた。


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by su_shan | 2017-02-17 18:10 | 『明史』列伝第十六

章溢 子存道

『明史』巻一百二十八、列伝第十六

 章溢、字を三益、竜泉県の人。生まれた時の泣き声は鐘の様であったと言う。弱冠にして、胡深と共に王毅に師事した。王毅は、字を叔剛と言い、許謙の門人であり、郷里で教鞭を執り、経義を講釈し、聴講した者の多くが感銘を受けたものである。章溢は彼に従って遊歴し、共に聖賢の学を志し、生まれついての兄弟の様であった。嘗て金華県に遊歴した時、元朝の憲使禿堅不花(トゥジェンブカ)に礼遇され、彼が秦中へ転出する際には同行を求められた。虎林に差し掛かった頃、気が変わり、謝礼して立ち去った。帰郷後八日にして父親が没し、埋葬をしない内に、庵から火が立ち昇った。章溢は額を打ち付け、天を仰ぎ叫んだが、火は棺を安置していた場所にまで及び、焼き尽くしてしまった。
 蘄州路・黄州路の賊徒が竜泉県に侵入すると、章溢の甥の章存仁が捕らえられた為、章溢は身を挺して賊に告げた。「我が兄者が儲けたるは一子のみ。私が身代わりとなろう。」賊は章溢の名声を耳にしていたので、恭順させようと考え、柱に縛り付けたが、章溢は屈しなかった。夜半になり見張りを欺いて逃げ帰ると、里民を集めて義兵を組織し、賊を撃ち破った。俄かに官軍が到来し、乱を扇動した者全てを処刑しようとした。章溢は慌てて石抹宜孫に弁明した。「貧民は寒さに震え、腹を空かせております。それを成敗なさるとは何という事でございますか。」石抹宜孫はその通りであると思い、指示して兵を収め、章溢を帷幕に留めた。慶元県と浦城県の盗賊鎮圧に従軍した。竜泉県主簿を授かったが、受け取る事無く帰郷した。石抹宜孫は台州路を鎮守していたが、賊軍に包囲されてしまった。章溢は郷兵を率いて救援に駆け付け、賊を退けた。後に賊が竜泉県を陥落させると、監県宝忽丁が逃亡した為、章溢は師匠の王毅と共に壮丁を率いて賊を撃退した。宝忽丁は戻って来ると、内心恥じていたので、王毅を殺害して叛逆した。この時章溢は石抹宜孫の幕府にあったが、報告を受けると急いで戻り、胡深を伴って元凶を捕らえて殺戮し、兵を引き連れて松陽県・麗水県の諸賊を鎮圧した。長槍軍が婺州路に侵攻したが、章溢の兵が迫っている事を聞き付けると、散開して退いた。功績が評価されて浙東都元帥府僉事を授かる事になった。章溢は、「私が率いる者は全て郷里の子弟でございまして、彼らが臓腑を地に撒き散らしながらも、私だけが功名を貪るというのは忍びないものです。」と言って、辞退して受け取らなかった。義兵は子の章存道に委ねて、匡山に隠棲してしまった。
 明軍が処州路に勝利すると、これを避けて閩(福建)へ入った。太祖(朱元璋)は彼を招聘し、劉基・葉琛・宋濂と共に応天府へ赴いた。太祖は劉基らを労って言った。「我は天下の為に四先生に膝を折りますぞ。今や天下は紛糾しておりますが、何時になれば平定されますかな。」章溢が答えた。「天道に常道はございません。ただ徳のみこれを助け、殺人を嗜まざる者だけがこれを一とするのでございます。」太祖はその言葉を称え、営田司僉事を授けた。江東・両淮の田地を見て回り、地籍を分かち、税糧を定めたので、民衆の利便性は非常に高まった。病気を理由にしばらくの帰郷を申し出ると、太祖は章溢の母を思う気持ちを知り、手厚く恩賞を賜って帰省させる一方で、子の章存道を京師に留めた。浙東に提刑按察使が設置されると、章溢に僉事を命じた。胡深が温州路に出兵し、章溢に処州府鎮守を命じた所、糧秣の供給が遅滞する事は無く、民衆は苦労をしなかった。山賊が襲来したが、これを敗走させた。湖広道提刑按察僉事に遷った。時に荊州・襄樊の平定当初は、土地の多くが荒廃しており、兵を分かち屯田を実施し、更に北方を牽制させる事を提案した。この案は採用された。たまたま浙東道提刑按察使〔一〕の宋子顔・孔克仁らが職務に関連して逮捕されると、章溢に追及が及んだ。太祖は太史令劉基を送って諭した。「元より章溢殿は法令を遵守する事を御存知です。疑う余地はございません。」
 たまたま胡深が閩に侵攻して敗死すると、処州府が動揺したので、章溢に浙東道提刑按察副使を命じて当地の鎮守に向かわせた。章溢は処罰を許された経緯から、昇進には応じず、副使就任を辞退し、依然として僉事のままであった。到着すると、詔旨を発布し、叛乱の首謀者を誅殺し、全ての残党を鎮圧した。嘗ての義兵を召集して要害の地に割り当てた。賊が慶元県・竜泉県に押し寄せると、章溢は木柵を並べて陣営を構築したので、賊は敢えて侵入しなかった。浦城県の兵卒の食糧が欠乏すると、李文忠は処州府の糧秣を運搬して供給しようと考えた。章溢は船も車も通行に窮し、更に軍中での横領も多かった事から、官を介して等しく供給する様に要請し、漸く食糧は充足した。温州路の茗洋が賊となって暴れ回ると、章溢は子の章存道に命じてこれを捕らえ、斬殺した。朱亮祖が温州路を奪取すると、軍中に掠奪された子女が非常に多く、章溢はその全員を照合して家に帰らせた。呉(張士誠)が平定されると、章存道に詔して処州府を鎮守させ、章溢を召し出して入朝させた。太祖は群臣を諭して言った。「章溢は儒臣でありながら、地方に於いて父子共に尽力し、全ての盗賊を平定したのである。その功績は諸将に後れを取るものでは無い。」また章溢に対しては閩遠征に起用する諸将を尋ねた。章溢は答えた。「湯和殿は海路より、胡美殿は江西より攻めれば、必ずや勝てましょう。しかし、閩中に最も威信を轟かせておられる方は李文忠殿でございます。もし李文忠殿に浦城県より建寧路を奪取するようお命じなさいましたら、万全の策となりましょう。」太祖は章溢の方策に沿って李文忠に詔を授け、出兵させた。元々処州府の税糧は一万三千石であったが、軍事行動が頻繁に行われる様になるとそれは十倍に達した。章溢は丞相に事態を報告し、以前の状態に戻す為に上奏した。浙東地方では海船を建造する為に、処州府から大木を徴発していた。章溢は言った。「処州・婺州に於ける交通につきましては、山岳は険峻にして、木材は幾らでもございますが、一体どの経路より搬出なさると仰るのでございますか。」行中書省に建白して撤回させたのであった。
 洪武元年には劉基と共に御史中丞兼賛善大夫を拝命した。当時、廷臣が洪武帝の顔色を窺おうとして、多くの者が水面下で苛烈な闘争を繰り広げていたが、章溢だけは堂々としていた。ある者が理由を尋ねると、章溢は答えた。「御史台は百司の模範であって、他者に廉恥の別を教示せねばならぬのに、どうして打ち合いに頼って事を為そうとするものか。」洪武帝が自ら社稷壇を祀った時、たまたま激しい風雨に襲われたので、戻って来て外朝に腰を落ち着けると、儀礼に無い事象に怒り、天変が発生したものと考えた。章溢は丁寧に罪が無い事を説明したので、怒りを収めたという出来事があった。李文忠の閩遠征に際しては、章存道が郷兵一万五千人を率いて従軍した。閩が平定されると、章存道に詔して部隊を率いて海路より北征させようとした。章溢は反対して言った。「郷兵は全て農民でございます。兵事が収まれば生業に復帰する事を許すものでございますのに、今また徴集なさるとは、信義に悖る行いでございます。」洪武帝は喜ばなかった。改めて上奏した。「既に閩遠征に参加した兵は、郷里に帰らせましょう。以前叛逆した民衆を軍籍に編入した上で北進させれば、一挙に恩義と威信を高めるでしょう。」洪武帝は喜んで言った。「誰が儒者を迂闊と言ったのか。先生の御一行で無ければ、上手く処置できる者など居らぬよ。」章溢は処州府に赴いたが、母の逝去に遭った。守制に服する事を申し出たが、認められなかった。既に郷兵の召集は完了していたので、章存道に永嘉県より海路を進んで北上するよう命じ、再び上書して終制に服する事を申し出た所、詔によって認められた。章溢は過度の悲哀に暮れ、埋葬に際しては自ら土石を運んだが、病を発症して病没した。五十六歳〔二〕であった。洪武帝は悲痛の余り、自ら弔文を記し、一族に祀らせたのであった。

 章存道、章溢の長男である。章溢が太祖の招聘に応じると、章存道は義兵を率いて総管孫炎の指揮下に入った。孫炎は上流の守備を命じ、しばしば陳友定の兵を退けた。後に処州翼元帥副使を授かり、浦城県に駐屯した。総制胡深が戦死すると、その軍を代行して統率する事を命じられ、遊撃の役割を与えられた。章溢は処州城にあって当地を鎮守した。章溢は父子で指揮を執る事は軍律上の問題があるとして、章存道を役職から罷免するよう上奏したが、認められなかった。兵を転進させて閩に遠征した際には、処州府を鎮守していた章存道に詔して、再び郷兵を率いて、李文忠に従って閩に侵攻させた。帰還すると、海路より京師へ赴いた。洪武帝は彼を称え、馮勝に従って北征を命じた。功績により処州衛指揮副使を授かった。洪武三年には徐達の西征に従い、興元路を留守し、蜀(明昇)の部将呉友仁を破り、再び平陽県を鎮守し、平陽左衛指揮同知に転出した。(洪武)五年、湯和に従って出塞し陽和へ遠征したが、断頭山に於いて敵軍と遭遇し、奮闘するも戦死した。

【校勘記】
〔一〕浙東道提刑按察使、宋思顔の官職名について、本書巻百三十五、本伝は「河南道按察僉事」であり、『明書』巻百十六、章溢伝は「河南按察使」であり、孔克仁と並んで「浙東按察使」となっているのが間違いであれば、伝文に錯誤があるのだろう。
〔二〕五十六歳、元は「六十五歳」であり、『太祖実録』巻四十一、洪武二年五月辛酉条・『国榷』巻三、頁三百九十一・『国朝献徴録』巻五十四、御史中丞章公溢神道碑銘に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-01-24 00:34 | 『明史』列伝第十六

劉基 子璉 璟

『明史』巻一百二十八、列伝第十六


 劉基、字を伯温、青田県の人。曾祖父の劉濠は、宋朝に仕官して翰林掌書となった。宋朝の滅亡に際して、同郷の林融が義兵を募った。事が失敗すると、元朝は使者を送って一党を記録させた為に、多くの者が連座する事になった。使者がその道中に劉濠の家に宿泊すると、劉濠は使者を泥酔させておいて庵を燃やしたので、記録は全て失われてしまった。使者は致し方無く、記録を再製したものの、連座した者はみな罪を逃れる事ができたのであった。劉基は幼少より極めて優秀であったので、師匠の鄭復初は父親の劉爚に言ったものである。「貴方の祖父君は徳が厚く、この子は必ずや貴方の家門を大きくするでしょう。」元朝の至順年間、進士に上がり、高安丞に除せられると、廉直との声望を集めた。行中書省が彼を抜擢したが、辞去した。改めて江浙儒学副提挙となった。ある御史の免官を提起した所、御史台の官僚に阻止された為に、再び辞表を提出して帰郷した。劉基は広く経書と史書に通じ、目を通した事の無い書物は無く、占験の術を最も得意としていた。西蜀の趙天沢が江左の人物を論じた際に、筆頭として劉基を称え、諸葛孔明の同朋であると評したものである。
 方国珍が海上に挙兵すると、郡県を掠奪し、所管部署では制御できなかった。行中書省は再び劉基を抜擢して元帥府都事とした。劉基は慶元路に幾つもの城を築いて賊を追い詰める事を提案した為に、方国珍は意志を阻喪した。左丞帖里帖木児(チェリクテムル)が方国珍を招聘しようとすると、劉基は方氏兄弟が叛乱の首魁であった事から、彼らを誅殺しなければ後に続く者を懲らしめる事ができないと発言した。方国珍は恐れを抱き、劉基に大量の賄賂を贈った。劉基は受け取らなかった。そこで方国珍は海路から大都へ人を送り、権力者に贈賄した。こうして詔によって方国珍を慰撫し、官位を授ける事にした一方で、劉基に対しては威圧や福徳を欲しいままにした事を叱責し、紹興路に拘禁した為に、方氏は横柄な振る舞いを取り戻した。間も無くして山賊が蜂起すると、行中書省は再び劉基を抜擢して捕縛を命じ、行枢密院判石抹宜孫と共に処州路を守らせた。経略使李国鳳がその功績を上表すると、以前の様に方氏を抑制する方針で、総管府判を授けたものの、兵事には参与させなかった。結局、劉基は辞職して青田県に帰り、『郁離子』を著した。この書物の名は『明史』芸文志に記載されている。当時、方氏を避ける者は競う様にして劉基を頼り、劉基は少しずつ部署に就けたので、賊は敢えて攻め寄せる事は無かったのであった。
 太祖(朱元璋)が金華を陥落させ、括蒼県を平定すると、劉基や宋濂らの名声を聞き付け、幣物を贈って招聘した。劉基が応じないでいると、総制孫炎が再び書状を送って熱心に迎えた為に、劉基は初めて出頭した。到着すると、国政に関する十八個の方策を披露した。太祖は非常に喜び、礼賢館を建設して劉基らを逗留させ、礼節の限りを尽くした。当初、太祖は韓林児が宋朝の後裔を称していた事から、何年も彼を奉じていた。年初、中書省に御座を設けて行礼の儀式を執り行った時、劉基ただ一人が拝礼せず、次の様に言い放った。「ただの牧童を奉じるとは、何という事でございますか!」そして太祖に振り向き、天命の所在を説いた。太祖は征討の方策を尋ねると、劉基は答えて言った。「張士誠は保身しか考えておらず、考慮するにも及びません。陳友諒は主上の脇の下を脅かし、偽りの称号を用いて、地勢は上流に拠り、その心に我らを忘れる日など無く、先にこちらを謀るのでございます。陳氏が滅びれば、張氏の勢力は孤立し、一挙に平定できるでしょう。その後に北進して中原に向かえば、王業は成就致しましょう。」太祖は非常に喜んで言った。「先生は最上の方策をお持ちである。賛辞を惜しまぬぞ。」たまたま陳友諒が太平府を陥落させ、更に東進を企図するなど、その勢力の伸長は著しく、諸将には降伏を主張する者や、脱出して鍾山に立て籠もろうと主張する者がいたが、劉基は目を見張って一言も発しなかった。太祖に召し出されて参上すると、劉基は興奮して言った。「降伏や逃亡する者は斬り捨てるのです。」太祖は言った。「先生の策はどうですかな。」劉基は言った。「賊は油断しております。その深入を待ち、伏兵を置いて迎え撃てば、容易く討ち取る事ができましょう。天の道理として後に起つ者が勝つものでございます。威勢を張って敵を制し、王業を成就するは、今がその好機にございますぞ。」太祖はその策を採用し、陳友諒の侵入を誘引した結果、大いにこれを打ち破ったので、敵に勝利した功績で劉基を表彰したが、劉基は辞退した。陳友諒の兵が再び安慶路を陥落させると、太祖は自らこれを撃退しようと考え、劉基に諮った。劉基は積極的に賛同したので、遂に出兵して安慶路を攻撃する事になった。朝方から夕方まで費やしても攻め落とせないでいると、劉基は直ちに江州路に向かい、陳友諒の本拠を突くよう進言したので、全軍が西進した。これには陳友諒も思いがけず、妻子を伴って武昌路に遁走したので、江州路は降伏した。竜興路守将の胡美は子を送って内通の意志を伝えたものの、自らの手勢を解散させる事の無いよう懇願した。太祖は難色を示した。劉基は後ろから胡牀を足で小突いた。太祖は思い直し、申し出を認めた。胡美が投降すると、江西の諸郡は全て降伏した。
 劉基の母が亡くなり、兵事に遠慮して報告していなかったものの、ここになって帰郷して葬儀を行いたいと申し出た。たまたま苗軍が叛くと、金華府・処州府の守将であった胡大海・耿再成らを殺害したので、浙東一帯は震撼した。劉基が衢州府に到着すると、守将夏毅の為に属邑を安定させ、また平章政事邵栄らと共に処州府を恢復せんと企図し、叛乱は遂に鎮静した。方国珍は以前から劉基を畏怖していたので、書状を送って弔問した。劉基は返答し、太祖の威徳を喧伝したので、方国珍は遂に入貢した。太祖はしばしば家まで書状を送って軍国の機務について諮問し、劉基はその悉くを適切に回答した。次いで京師に赴くと、太祖は自ら安豊路を救援しようとしていた。劉基は言った。「漢(陳友諒)や呉(張士誠)が隙を窺っているのです、動いてはなりません。」太祖は聞き入れなかった。陳友諒はこの情報を手に入れると、間隙に乗じて洪都府を包囲した。太祖は言った。「貴君の言葉を聞き入れなかったのは、とてつもない失策であるな。」遂に自ら洪都府を救援すると、鄱陽湖に於いて陳友諒と大いに戦い、一日に数十回も交戦を繰り返した。太祖は胡牀に腰かけて督戦し、劉基が側に控えていると、俄かに大声を上げて立ち上がり、太祖に旗艦の変更を進言した。太祖が慌ただしく別の小船に乗り移ると、座る間も無く、砲弾が元の旗艦を粉砕した。陳友諒は高楼からその様子を目にして、大喜びした。ところが太祖が旗艦を変更して前進すると、漢軍は色を失って動揺した。この時、鄱陽湖での対峙は、三日経っても決着が付かなかったので、劉基は軍を湖口に移してこれを抑え、金星と木星が重なり合う日に勝利を決するよう進言し、陳友諒は敗死した。その後、太祖は張士誠を打倒し、中原に北伐し、遂に帝業を成就したが、凡そ劉基の方策を採り入れたものである。
 呉元年に劉基は太史令となり、『戊申大統暦』を上程した。熒惑(火星)が心宿に迫るという天象が発生したので、罪己詔の発布を求めた。激しい旱魃が訪れると、滞っている裁判の決裁を求めた。そこで劉基に再審を命じると、雨が降り始めた。こうして法律を作り制度を定める事を求め、無分別な処刑を止めさせた。太祖が咎人を求めたので、劉基がその理由を尋ねると、太祖は夢の中の出来事を話した。劉基は言った。「それは領土を手に入れ、人民を手に入れるという意味でございます。」三日後、海寧州が降伏した。太祖は喜び、全ての咎人を劉基に任せて釈放させた。次いで御史中丞兼太史令を拝命した。
 太祖が皇帝に即位すると、劉基は軍衛法の立法を上奏した。当初、処州府の税糧を決定した時、宋朝の制度を参考として一畝毎に五合と定めたものの、青田県にだけは課税の禁止を命じた。「伯温に代々故郷の美談とさせるのだ。」洪武帝が汴梁路に行幸すると、劉基は左丞相の李善長と共に留守を担当した。劉基は宋朝も元朝も寛容な統治で天下を失ったのであるから、これからは綱紀を粛正すべきであると発言した。忌憚無く御史に弾劾を行わせた為、宿直の宦官であっても過失があれば、全て皇太子に報告して法に基づいて処分したので、人々はその厳しさに慄いた。中書省都事の李彬が奢侈の為に罪を得ると、、李善長は昔からの馴染みであった事を理由に、その処分を緩めるよう求めた。劉基は許さず、馬を走らせて上奏した。上奏は認可された。雨乞いを行い、即座に斬刑に処した。これによって李善長と齟齬が生じたのであった。洪武帝が戻ると、劉基が壇壝の下で人を侮辱した事は不敬の罪に該当すると訴える者があった。劉基を恨む者たちもまた代わる代わる誹謗した。たまたま旱魃に際して意見を求めた所、劉基が上奏した。「死亡した兵卒については、その妻は例外無く別営に移しておりますが、凡そ数万人が閉塞し鬱屈しております。工匠の死後、腐敗した死体が散乱しておりますし、呉(張士誠)の将吏で降伏した者は全て軍戸に編入し、改善に役立てましょう。」洪武帝はその意見を採用したものの、十日経っても雨は降らず、機嫌を損ねた。たまたま劉基の妻が亡くなったので、帰郷を申し出た。この時、洪武帝は中都の造営を目指しており、また拡廓帖木児(ココテムル)討伐にも注力していた。劉基は出発直前に上奏して言った。「鳳陽府は陛下のお生まれになった場所ではございますが、都を置くべき土地柄ではございません。また王保保を甘く見てはなりません。」既に定西州の戦いで敗北し、拡廓帖木児は沙漠へ逃げ込んだものの、辺境を擾乱する様になっていた。その年の冬、洪武帝は自ら起草した詔で劉基の勲功を称賛し、京師に召し出し、特に手厚く宝物を下賜し、劉基の祖父と父に永嘉郡公を追贈した。劉基に爵位を与えようとしたが、劉基は固辞して受け取らなかった。
 当初、太祖はある事案に際して丞相李善長を咎めたが、劉基は言った。「李善長殿は古くからの功労者であり、諸将を上手く纏める事ができるのです。」太祖は言った。「こやつは何度も君を排除しようとしたではないか、それでも君は庇うのか。君を丞相にしたいものだ。」劉基は平伏して言った。「柱を取り替えるのであれば、大木でなければなりません。もし小枝を束ねて柱にすれば、忽ちにしてひっくり返ってしまいます。これはその様な事かと。」李善長が罷免されると、洪武帝は楊憲を後任の丞相にと考えていた。楊憲は元々劉基と仲が良かったが、劉基は強硬に反対して言った。「楊憲には丞相としての才はあっても、丞相としての器はございません。そもそも宰相とは、水の様に心を構え、信義と道理を用いて均衡を保ち、自身は誰にも与しない者でございますが、楊憲はそうではありません。」洪武帝が汪広洋について尋ねると、劉基は答えた。「彼は狭量で楊憲に遠く及びません。」また胡惟庸について尋ねると、劉基は答えた。「車駕に例えると、その長柄を折るのではないかと心配致します。」洪武帝は言った。「我が丞相とするには、本当に先生以上に適任の者は居らぬ。」劉基は言った。「臣めの病気はいよいよ酷く、またとても激務には耐えられませんので、折角ではございますが主上の御恩をお返し致します。ですが天下に才能ある人物が居ないとお嘆きになる事はございません。明君は心の底からそれをお求めなされば良く、目の前の諸人に適当な者が居ないだけなのでございます。」後に楊憲・汪広洋・胡惟庸は何れも失脚した。(洪武)三年に弘文館学士を授かった。十一月に大規模な功臣封爵が行われ、劉基は開国翊運守正文臣・資善大夫・上護軍を授かり、誠意伯に封じられ、食禄二百四十石とされた。翌年に帰郷を許された。
 嘗て洪武帝は自ら書状を記して天象を尋ねた事があった。劉基は全ての項目について回答した後、原稿を焼き捨ててしまった。その大略としては、霜雪の降りた後には、必ずや陽春が訪れるもの。今や国威は既に発揚しておりますので、少しばかり寛大に統治なさるが良いでしょう、というものであった。劉基が天下統一を補佐した様子は、物事を推し量ること正に神の如し、であった。性格は剛直で悪事を嫌った為に、数々の対立を招来した。それによって山中に隠遁したものの、酒を飲み弈棋をして遊ぶだけで、自身の功績を吹聴する事は無かった。邑令が会見を求めたが果たせなかったので、庶民の恰好をして劉基を訪ねた。劉基は丁度足を洗っていた所だったので、甥に指示して茅軒に迎え入れ、黍を炊いて邑令を歓待させた。邑令は言った。「私は青田県の知県にございます。」劉基は驚いて立ち上がり、自身は一介の民人であると言い張り、謝罪して引き下がったので、結局二度と会見は行われなかった。その隠棲振りはこの様なものであったが、胡惟庸による追及を受ける事になった。
 当初、劉基の提言では、瓯江と括蒼に挟まれた談洋と言う地域があり、南側は閩(福建)と境界を接していたが、塩の密売人の温床となっており、方氏一族の叛乱に際して、巡検司を設置して当地を守らせるよう要請した事があった。不届き者は勝手が出来なかった。たまたま〔一〕茗洋という者が軍を脱走し、官吏が匿って通報しなかった。劉基は長男の劉璉に指示して事件を上奏させたものの、中書省には報告しなかった。胡惟庸は左丞として中書省を掌握していたが、以前の怨恨を根に持っていたので、官吏に命じて劉基を告発させた。談洋の地には王の気が満ちているので、劉基は墓を作ろうと画策したが、民衆が協力せず、巡検司の設置を要請して民衆を追い払った、というものである。洪武帝は劉基を処罰しなかったものの、告発の勢いが強く、遂に劉基の食禄を剥奪したのであった。劉基は恐れ、入朝して謝罪し、その後も京師に逗留し、敢えて帰郷しようとはしなかった。間も無くして、胡惟庸が丞相に就任すると、劉基は非常に心配して言った。「私の予言が当たらなければ、みな幸せなのであるが。」憂憤して病気を患ってしまった。(洪武)八年三月、洪武帝は自ら文章を記して劉基に与え、使節を送って帰郷させた。実家に到着した頃、病気はいよいよ重く、『天文書』を子の劉璉に託して言った。「すぐにこれを上程する様に。後世の者に習わせてはならぬ。」また次男の劉璟に言った。「そもそも政治とは、寛容さと苛烈さが循環している様なもの。当面の務めは、徳を修めて刑罰を減らし、天に祈りを捧げて命を永らえること。諸々の形勝要害の地は、京師と連絡を密にして援護せねばならぬ。私は遺書を記したく思うが、胡惟庸が居ては無駄であろう。胡惟庸が失脚すれば、主上は必ずや私を思い、お尋ねになられるであろうから、その時は今の言葉を密奏としなさい。」一ヶ月して病没した。六十五歳であった。劉基が京師で病気に罹った時、胡惟庸が医師を寄越した為、持参した薬を飲んだ所、腹中に拳大の石が出来てしまった。その後、御史中丞の涂節が胡惟庸を筆頭とする叛逆計画を暴き、更に劉基に毒を飲ませて死に至らしめた事についても言及したのであった。
 劉基は頬髭が縮れ曲がった背の高い容貌で、慷慨として節義を弁え、天下の安危を語り、信義を隠さなかった。洪武帝はその誠実さを察して、心膂の様に職務を任せた。劉基を召し出す度に、人を遮って密かに語らい、時を過ごしたものである。劉基もまた世間的には不遇であると言ったが、知識を出し惜しみしなかった。急難に遭遇しても、勇気を奮発して計画を策定し、他人には悟らせなかった。時間の空いている時には王道について述べたものである。洪武帝はいつも丁寧に話を聞き、必ず老先生と呼んで名を言わず、「我が子房(張良)なり。」と称賛した。また「運命は孔子の言葉を以て我を導くものである。」とも言った。帷幕で交わされた会話は秘匿されて詳しくは分からないが、流布された風聞とは奇妙なもので、その多くは陰陽風角の類であり、決して真実では無い。劉基の書き上げた文章は、美しくも独特であり、宋濂と並んで当代の代表とされている。著作の『覆瓿集』や『犁眉公集』が世に伝わっている。子は劉璉と劉璟があった。


 劉璉、字を孟藻、文才があった。洪武十年に考功監丞を授かり、監察御史の職務を代行し、江西行中書省参知政事として出向した。太祖は常に劉璉を大任に充てようとしていたが、胡惟庸の一派によって脅迫され、井戸に転落して死亡した。劉璉の子は劉廌であり、字を士端と言い、洪武二十四年三月に誠意伯を継承し、食禄五百石とされた。当初、劉基は爵位を一代限りに止められていたが、ここに至って洪武帝は劉基の勲功に思いを致し、また劉基父子がどちらも胡惟庸に苦しめられた事を憐れみ、その食禄の加増を命じ、世襲の特権を与えたのであった。翌年に罪を得て食禄を削減され帰郷した。洪武末年、罪を得て甘粛の防衛に充てられたが、次いで釈放され帰還した。建文帝(朱允炆)及び成祖(朱棣)は何れも劉廌を登用したいと考えたが、親を祀って墓を守りたいと固辞した。永楽年間に没し、子の劉法の代で世襲は止められた。景泰三年に劉基の後裔の調査が命じられ、劉法の曽孫である劉禄に世襲五経博士が授けられた。弘治十三年に給事中呉士偉の提言により、劉禄の孫である劉瑜に処州衛指揮使を命じた。
 正徳八年〔二〕に劉基に太師が加贈され、文成と諡された。嘉靖十年、刑部郎中李瑜の提言により、中山王徐達と同様に進めて高廟に配列し、世爵に封じる事が発議された。廷臣に下して討議させた所、見解が一致した。「高帝(朱元璋)陛下は賢人の心を掌握なされ、佐命の功臣、帷幕に奇謀を巡らせ、中原に大計を練り、往々にして劉基殿の手によるものでございまして、故に軍中にあっては子房と称えられ、封爵に際しては諸葛武侯(諸葛亮)を手本としたのでございます。劉基殿が亡くなられた後、孫の劉廌殿が跡を継がれるに際して、太祖陛下は再三に及んで召し出して諭され、鉄券に朱字で記し、世襲の食禄を約束なさいました。劉廌殿が襲爵されて間も無く、一転してお立場を失われ、末代までの世券と装束を奪われた結果、流言に尾ひれが付いて回りました。ある者は後嗣が貧困に喘ぎ、苦痛に耐えられないと語り、またある者は長陵(成祖)陛下に襲爵を認められたと語り、遂に混乱に陥ったのでございます。一度は恥辱に塗れ、伝聞の多くが誤謬を含んでおりますが、書庫に残された文書には、はっきりと功績が記載されております。昔、武王(姫発)の功業によって、天下は心服したものでございますが、成季(趙衰)の後継が現れなかった事は、君子の嘆く所となりました。劉基殿を進めて太廟に配列し、その九世孫である劉瑜殿に伯爵位を継がせ、世襲の特権を付与致しましょう。」制定して言った。「その様にせよ。」劉瑜が没すると、孫の劉世延が跡を継いだ。嘉靖末年、南京振武営で叛乱が発生した時、劉世延は右軍都督府を掌握していた為に、これを鎮定した。何度か封事を上書したものの、見返りは無く、憤慨して自分勝手に振る舞った。万暦三十四年、罪を得て死刑に処された。嫡孫の劉莱臣は幼く、庶兄の劉藎臣が一時的に襲爵した。劉藎臣が没すると、劉莱臣が襲爵する事になっていたが、劉藎臣の子の劉孔昭に継承された。崇禎年間、南京右府提督操江兼巡江防の職務に出向し、福王(朱由崧)が挙兵すると、馬士英や阮大鋮らと共に政権へ参画したが、結局は海上へ逃れ、その最期を知る者は居ない。


 劉璟、字を仲璟、劉基の次男であり、弱冠にして幾つもの経書に通じていた。太祖は劉基を思い、毎年劉璟を召し出して章溢の子の章允載・葉琛の子の葉永道・胡深の子の胡伯機と共に便殿に招き入れ、家人の様に語り合ったものである。洪武二十三年に父劉基の襲爵を命じられた。劉璟は長兄の子の劉廌が存命であると言った。洪武帝は非常に喜び、劉廌に襲爵を命じ、劉璟を閤門使として、更に諭して言った。「宋朝の制度を鑑みるに、閤門使とは儀礼司である。朕は汝を常に左右に置き、意思を伝達する役目にしたく思う。礼儀に関与するだけでは無いぞ。」洪武帝が朝廷に臨むと、侍班が整列し、百官が奏上を行ったが、手落ちのある者に対しては、随時糾正を行った。都御史袁泰に車牛の件で落ち度があった際に、洪武帝はこれを許したが、袁泰は謝罪をしなかった。劉璟はこれを糾正し、罪に服した。洪武帝はこの事で劉璟を諭した。「凡そこの様な事例の場合は、即座に糾正し、朕が罰しなかったとしても、朝廷の綱紀を知らしめる事が肝要である。」後に、法司と共に獄囚の冤罪や判決遅延の調査を命じられた。谷王(朱橞)が封地に赴くと、抜擢されて左長史となった。
 劉璟の論説は優れて剛直であり、兵談を好んだ。当初、温州府の賊徒葉丁香が叛き、これを延安侯唐勝宗が討伐した時には、劉璟の方策に頼った。賊を撃破して帰還すると、劉璟の才略を称賛したものである。洪武帝は喜んで言った。「劉璟は正に伯温の子である。」以前、成祖と弈棋に興じた際、成祖が言った。「卿よ、少しくらいは手加減をしてくれぬか。」劉璟は厳つい表情で言い返した。「譲るべき所は譲り、譲るべからざる所は譲らぬものでございます。」成祖は黙り込んでしまった。靖難の変が勃発すると、劉璟は谷王に従って京師に帰還し、十六の方策を提出したものの、採用されなかった。李景隆の参軍を命じられた。李景隆が敗北すると、劉璟は夜半に盧溝河を渡り、氷の裂け目に馬が転落しながらも、雪の中を三十里も行軍した。子の劉貊が大同府より危難に駆け付け、良郷県で合流し、共に帰還した。『見聞録』を上程したものの、省みられる事は無かったので、遂に郷里へ帰ってしまった。成祖が即位すると、劉璟を召し出したが、病気と称して出仕しなかった。逮捕されて京師に連行されると、猶も成祖を殿下と呼んだ。更に続けた。「殿下は百代の後であっても、『簒』の一字から逃れる事は叶いませぬぞ!」獄に下され、自ら縊死した。法官が上旨を請い、その一族を縁座させようとした。成祖は劉基の縁故である事に配慮して、許可しなかった。宣徳二年になって、劉貊は刑部照磨を授かったのであった。

【校勘記】
〔一〕たまたま(会)、会の字は元は「合」であったが、『明史稿』伝十八、劉基伝に基づき改めた。
〔二〕八年、八の字は元は「九」であったが、本書巻百五、功臣表及び『武宗実録』巻百七、正徳八年十二月辛亥の条に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-01-22 13:41 | 『明史』列伝第十六

葉琛

『明史』巻一百二十八、列伝第十六

 葉琛、字を景淵、麗水県の人。博学にして文才があった。元朝末期、石抹宜孫に従って処州路を守り、数々の方策を講じ、山賊を捕縛し、行中書省元帥を授かった。朱元璋軍が処州路を陥落させると、葉琛は建寧路へ避難した。後に推薦されて応天府を訪れると、営田司僉事を授かった。次いで洪都知府に遷り、鄧愈を補佐して鎮守した。祝宗・康泰が叛くと、鄧愈は逃げ延び、葉琛は捕らえられたが、屈せずに大声で罵り、殺害された。南陽郡侯に追封され、耿再成の祠堂に塑像が置かれ、後に功臣廟に祀られた。


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by su_shan | 2017-01-14 23:27 | 『明史』列伝第十六