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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第二十六( 9 )

列伝第二十六 目次

陳修 滕毅 趙好徳 翟善 李仁 呉琳 楊思義 滕徳懋 范敏 費震 張琬

周禎〔一〕 劉惟謙 周湞 端復初 李質 黎光 劉敏 楊靖 凌漢 厳徳珉


単安仁 朱守仁 薛祥 秦逵 趙翥 趙俊 唐鈬 沈溍 開済


 論賛、『周官』を手本とする六部の制度は、帝王を輔弼して国家を統治する為の手段であったが、多くの職掌を手中に収め、重要な地位に昇ったものである。明朝が勃興すると、官位を設けて職務を分掌せしめ、秩序立てて法令を施行した。また人材登用には三つの経路があり、幅広く賢人を求めた。例えば陳修・滕毅が規範とした銓法、楊思義・范敏が整備した賦役、周禎が制定めた律令、単安仁が監督した造営、沈溍・開済らが計画した方策などは、何れも精緻かつ周到に策定され、細大を問わず漏らす事が無かったのである。その規模に思いを致せば、明朝一代の政治の基盤を固めたものと言えよう。


【校勘記】
〔一〕周禎、元は「楨」であり、『明史稿』伝二十一、周禎伝・『太祖実録』巻三十二、洪武元年十一月癸丑条・『国朝献徴録』巻四十四、周禎伝に基づいて改めた。以下同様。


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by su_shan | 2017-03-15 12:18 | 『明史』列伝第二十六

楊靖 凌漢 厳徳珉

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 楊靖、字を仲寧、山陽県の人。洪武十八年の進士で、吏科庶吉士〔一〕に選抜された。翌年に戸部侍郎に抜擢された。当時、諸官庁に配属される者は、進士及び太学生から構成されていたが、時には例外もあった。洪武帝(朱元璋)は『御製大誥』を編纂すると、通政使蔡瑄・左通政茹瑺・工部侍郎秦逵及び楊靖を挙げ、揚言した。「彼らもまた進士・太学生である。よく職責を果たし、朕の意志を広められよう。」その称賛振りは、この様なものであった。
 (洪武)二十二年には戸部尚書に昇進した。翌年五月に詔が発せられ、在京の官僚は三年で異動する事が定められた。こうして刑部尚書趙勉と楊靖は官職を交替した。洪武帝は諭して言った。「愚民共はまるで飲み食いをするかの様に法律を犯しおる。新たな法律を設けて防げば、それを犯す者は益々増えてゆく。寛容を広めて仁徳を行き渡らせれば、或いは感化出来るやも知れぬ。たった今より、十悪の罪を犯した者及び人を殺めた者は死刑とし、他の罪を犯した者は全て北辺へ粟を運ばせよ。」また次の様にも言った。「在京の獄囚は、卿らが覆奏し、朕自ら判決を下しておるが、尚も誤断の恐れが有る。ましてや在外の各官が処理した案件など、どうして適切であると言えようか。卿らが審判し、その後に官を派遣して判決せねばならぬ。」上意に従って楊靖が検証すると、多くの案件で冤罪が確認された。洪武帝は喜んで報告を受け入れた。以前、ある武官を取り調べた時、門番がその身体を検査すると、大きな珠玉を発見し、属僚たちが驚いた事が有った。楊靖は落ち着き払って、「これは偽物である。この様な巨大な珠玉などあろう筈が無かろう。」と言い放ち、砕いてしまった。その出来事が耳に入ると、洪武帝は感心して言ったものである。「この楊靖の処置には、四つの美点が有る。一つ目は、珠玉を朕に献じて歓心を買おうとしなかった事。二つ目は、珠玉を譲り渡すよう強要しなかった事。三つめは、門番を称賛せず、小人の僥倖を阻止した事。四つ目は、千金の価値はあろう珠玉が突然目の前に現れても、ほぼ動揺せず、人に勝る知恵と、臨機応変の才能を持っておる事だ。」
 (洪武)二十六年には太子賓客を兼任し、両方の俸禄を支給された。後に、ある事案によって罷免された。竜州の趙宗寿討伐に際して、楊靖に詔して安南から粟を運び討伐軍に供給するよう説得させる事にした。楊靖は庶民の格好で出立した。安南の宰相である黎一元は、陸運では道中が険しく実現困難として、詔を承諾しようとしなかった。楊靖は繰り返し説得を行い、水運による実施を認めさせた。黎一元は粟二万を運んで沲海江に到着し、そこから浮橋を設置して竜州に到達した。洪武帝は非常に喜び、楊靖は左都御史を拝命した。楊靖は忠実で知略に優れ、多忙な業務を上手く処理し、審理は的確でありながら、過酷なまでに法律を執行する事は無かった。その厚遇振りは最も顕著で、同輩で並ぶ者は居なかった。(洪武)三十年七月、楊靖は同郷人が申し出た冤罪の訴えを意図的に粉飾した為に、御史の弾劾を受けた。洪武帝は激怒し、楊靖は死を賜った。当時三十八歳であった。

 同時期の人物で、凌漢は字を斗南と言い、原武県の人である。秀才として挙げられ、『烏鵲論』という作品を提出した。官職を授かり、御史を歴任した。陝西を巡察し、管内の何点かの問題を報告した。洪武帝は喜び、凌漢の子を呼び出して衣裳と宝鈔を賜った。凌漢の取り調べは公平であった。京師に帰還すると、凌漢に肖ろうとする者が酒を持参し、金を渡そうとした。凌漢は言った。「酒は飲めるが、金は受け取れぬ。」洪武帝はそれを聞いて喜び、右都御史に抜擢した。当時、左都御史は詹徽であったが、議論が嚙み合わず、凌漢は毎回詹徽に譲歩したものの、詹徽は心に含んでいた。刑部侍郎に左遷され、礼部侍郎に異動した。後に詹徽によって弾劾され、左僉都御史に降格された。洪武帝はその凋落振りを憐れみ、帰郷を命じた。凌漢は詹徽の健在を理由に後難を恐れ、敢えて帰郷しなかった。一年余りして詹徽が誅殺されると、再び右僉都御史に抜擢され、次いで引退し帰郷した。凌漢は不用意な発言が多く、在任中は何度も失敗を演じた。しかしながら、その廉直を洪武帝に評価されていた為に、最後に保身を達成する事が出来たのであった。
 また呉県出身の厳徳珉という人物は、御史より左僉都御史に抜擢されたものの、病気を理由に帰郷を申し出た。洪武帝は激怒し、その顔に刺青を入れ、南丹州へ追放したが、特赦によって処分は解除された。質素な衣服に身を包み、徒歩で暮らし、自ら庶人となって、宣徳年間まで生存したのであった。以前、ある事件で御史に逮捕された事が有った。厳徳珉は堂下に跪き、自分は嘗て御史台に勤めていて、法律には詳しいと弁明した。御史が何の官職にあったかと質問すると、答えた。「洪武年間の御史台長官、早い話が厳徳珉である。」御史は驚愕し、拝揖して厳徳珉を起こした。翌日、御史が往訪すると、厳徳珉は袋を担いで歩き回っていた。教わりたい事が有ると言って飲み交わしていると、その顔の刺青や、頭に載せた古ぼけた冠が目に入ったので、質問した。「御老体は一体何の罪を犯されたのでありますか。」厳徳珉は昔の出来事を語り聞かせ、次の様に言った。「先の時代は国法が非常に厳しく、朝廷に仕える者は長官たる地位を保てなかったもの。この冠は易々と載せるものでは無いぞ。」そして北を向いて拱手し、「天子様の聖恩にございます、天子様の聖恩にございます。」と呟いたと言われている。


【校勘記】
〔一〕吏科庶吉士、『明史稿』伝二十一、楊靖伝・『国朝献徴録』巻四十四、楊公靖伝は何れも「庶吉士に選ばれ、吏科として試用された」とあり、より明確である。


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by su_shan | 2017-03-15 12:13 | 『明史』列伝第二十六

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 周禎、字を文典、江寧県の人。元朝末期に湖南地方へ移り住んだ。太祖(朱元璋)が武昌路を平定すると、登用されて江西行中書省僉事となり、大理寺卿を歴任した。太祖は唐・宋時代の完成した律令には断獄の条が有ったが、元朝は事有る毎に条格を作成するだけで、胥吏の不正は容易であったと考えた。周禎と李善長・劉基・陶安・滕毅らに詔して律令の制定を命じ、周禎は大理寺少卿の劉惟謙・大理寺丞の周湞と共に作業に当たった。律令が完成すると、太祖は称賛した。
 洪武元年に刑部が設置されると、周禎は刑部尚書となり、次いで治書侍御史へ異動した。翌年に出向して広東行中書省参知政事となった。当時、行中書省の省庁は開設されたばかりで、正規の官僚の多くが欠員状態にあり、地方官の業績にも善事悪事が乏しかった。香山県丞の沖敬は善政を敷いたが、疲労から在任中に没し、周禎は文章を記して彼を祀った。これを聞いた者は感動した。その当時の郡邑で評判の有った官、雷州同知の余騏孫・恵州知府の万迪・乳源知県の張安仁・清流知県の李鈬・掲陽県丞の許徳・廉州知府の脱因(トイン)・帰善知県の木寅については、周禎が全員の業績を列挙して報告したものである。木寅は土司で、脱因は蒙古人であった。こうして、麾下の官吏は益々精励した。(洪武)三年九月に召還されて御史中丞となった。次いで病気により引退した。洪武帝(朱元璋)の即位当初は、元朝による放漫経営への反省から、法令を厳格に運用したので、執行する者は恐々としていた。律令が完成すると、官吏は初めて遵守する事を覚えたのであった。律令は後に何度も改正されたが、それらは全て周禎の手による物を発端としているのである。

 劉惟謙は何処の出身か判明していない。呉元年に才学として挙げられた。洪武初年に刑部尚書まで歴任した。(洪武)六年に新律の詳定を命じられると、無駄な部分や古い部分を削除し、適切に調整した。洪武帝は自ら裁定を加えた上で頒布した。後にある事案によって罷免された。
 周湞は字を伯寧と言い、鄱陽県の人である。江西十才子の一人であり、官職は刑部尚書に達した。
 洪武朝一代を通して、刑部尚書となった者は四十数人、中でも楊靖は最も著名であるが、端復初・李質・黎光・劉敏もまた名声を得ている。
 端復初は字を以善と言い、溧水州の人である。子貢(端木賜)の末裔で、姓を一字省略し、端氏を名乗った。元朝末期に胥吏となった。常遇春が金華府を鎮守していた際に帷幕に招かれた。間も無くして辞去した。太祖はその名声を聞き、召し出して徽州府経歴とした。民衆に自ら所有する田地を申告させ、図籍を編纂し、数々の悪弊を一掃した。しばらくして磨勘司令に異動した。当時は官庁が新設されたばかりで、行政文書が山積みされていたが、端復初は精査して何一つ残さなかった。洪武帝はそれを称賛した。その性格は峻厳で、他人は私的な交際を避けた。属僚の多くが汚職により失脚する中、端復初だけは潔白の為に難を逃れたものである。洪武四年に刑部尚書を拝命し、公正に法律を執行した。杭州府での糧秣横領事件が発覚すると、百人以上が逮捕された。詔を発して端復初に調査させ、真偽を立証し、知府以下の容疑者は全て罪に服した。翌年に出向して湖広行中書省参知政事になると、新たに帰順した民衆には一年間の賦税を免除させた。果たして流民は集まり、その行政手腕は評判になった。ある事案によって召還され、没した。子の端孝文は翰林院待詔となり、端孝思は翰林院侍書となった。前後して両名とも朝鮮に遣使され、何れも清節著しい人柄であった事から、朝鮮の人々は双清館を建設したと言われている。
 李質は字を文彬と言い、徳慶路の人である。才幹と知略に優れていた。元朝末期には何真の麾下に属し、募兵して徳慶路の民乱を鎮圧したので、近隣地域の多くがその保障を頼った。嶺南地方の名士、茶陵州の劉三吾・江右の伯顔子中・羊城の孫蕡(※1)・建安県の張智らは、みな彼に礼節を尽くしたものである。洪武元年に何真に従って降伏し、中書省断事を授かった。翌年に大都督府断事に異動し、強力に法律を執行した。(洪武)五年に刑部侍郎に抜擢され、刑部尚書に昇進すると、公平寛大に判決を下した。山東地方の飢饉復興の為に派遣されると、洪武帝は手ずから詩文を贈った。次いで出向して浙江行中書省参知政事となった。在任期間三年の間に、その業績は著しく知れ渡った。洪武帝は李質の年齢に配慮して召還した。以前、便殿に呼び出され、行政に関する事を尋ねられた。李質は包み隠さず直言した。靖江王(朱守謙)の右相を拝命した。靖江王が罪を得て廃絶されると、その責任から李質は処刑されたのであった。
 黎光は東莞県の人である。郷薦として御史を拝命し、蘇州府を巡察した際には、水害復興を要請し、生活を取り戻した者は非常に多かった。鳳陽府を巡察した際には、封事を提出し、悪習の悉くを取り払ったものである。洪武帝はこれを称賛した。洪武九年に刑部侍郎に抜擢され、法律の執行は公正無私であったが、御史大夫陳寧の恨みを買い、ある事案によって死に追いやられた。
 劉敏は粛寧県の人である。孝廉に挙げられ、中書省の胥吏となった。その生活振りは、夕方に竜江で蘆葦を買い求め、朝方には荷車に載せて帰宅し、妻に筵を織らせ、それを売って母親を世話し、その後に入朝して職務に当たったものである。清廉潔白な人柄で、ある者が陶器瓦を贈っても受け取らなかった程である。楚相府録事に就任すると、中書省は官没処分を受けた家の女性を文臣の家に給付していた為に、周囲の者は給付を要請して母親を世話させるよう勧めた。劉敏は固辞して言った。「母親の世話は息子や嫁の務めで、他人にさせるものでは無い。」中書省の官僚が失脚し、胥吏の多くが粛清されるに及んでも、劉敏だけは無関係であった。洪武帝はこれを評価し、工部侍郎に抜擢し、刑部侍郎へ異動させた。出向して徽州府同知となると、善政を敷いたが、在任中に没したのであった。

【注釈】
(※1)羊城の孫蕡、羊城は広州の別称。『曝書亭集』巻六十三、伝二、孫蕡伝には「孫蕡、字を仲衍、広州順徳の人」とある。


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by su_shan | 2017-03-12 15:11 | 『明史』列伝第二十六

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 楊思義は本籍が判明していない。太祖(朱元璋)が呉王を称すると、起居注を授かった。当初、銭穀に関する権限は中書省に属していた。呉元年に初めて司農卿が設けられると、楊思義が就任した。翌年に六部が設けられると、戸部尚書に異動した。甚大な戦禍の後であり、人々の多くが生業を失っていた。楊思義は民間で桑や麻を栽培させ、四年後からその税を徴収し、桑を植えない者は絹を、麻を植えない者は布を納めさせるという、『周官』の里布法の様な提案を行った。詔が発せられ、認可された。洪武帝(朱元璋)は洪水や旱魃が思いがけず発生すると、事態が切迫してからでは手の施しようが無いと考え、楊思義に命じて各地に予備倉を用意させ、洪水や旱魃の害を予防させた。楊思義にとって国家の大計とは、農耕と養蚕によって備蓄を積み上げる事が急務であった。凡そ事業を興した部分は、それが上意によるものであっても、計画は精緻を極め、当時ではその能力を高く評価されたものである。陝西行中書省参知政事に異動し、在任中に没した。

 洪武朝一代を通して見ると、戸部尚書となった者は四十人余りを数えたが、何れも在任期間が短く、著しく功績を挙げた者は少ない。ただ茹太素・楊靖・滕徳懋・范敏・費震らは、程度の差はあれど名声を得ている。茹太素・楊靖については自伝がある。
 滕徳懋は字を思勉と言い、呉県の人である。中書省掾から外官を歴任した。洪武三年に召還されて兵部尚書を拝命し、次いで戸部尚書に異動した。その為人は弁才が有り、器量は広く、奏疏に長じ、一時は招来や詔諭文の多くがその手によったものである。ある事案によって罷免され、没した。
 范敏は閿郷県の人である。洪武八年に秀才に挙げられ、戸部郎中に抜擢された。(洪武)十三年に戸部尚書として試用された。老齢の儒者である王本らを推薦し、何れも四輔官を拝命した。洪武帝は徭役が均等では無い事から、黄冊の編集を命じた。范敏は百十戸を一里とし、人数の多い戸の十人を里長とし、里内の事務を統括する役目を一年間担当させ、十年で一周させ、残りの百戸は十甲とするよう提案し、この制度は後々まで踏襲されて廃止されなかった。職務に耐えず、翌年に罷免された。
 費震は鄱陽県の人である。洪武初年に賢良として登用され、吉永知州となり、寛容な統治によって民心を集め、漢中知州に抜擢された。その年は凶作で盗賊が発生したので、官倉を開放して粟十数万斛を民衆に貸与し、秋には収穫を官倉へ回収させた。盗賊はこれを聞くと、皆が帰順した。居宅に住まわせて保伍を構成させる事で数千家を得た。報告を受けた洪武帝はこれを喜んだ。後にある事案によって逮捕されたものの、善政の功績によって特赦され、宝鈔提挙となった。(洪武)十一年、洪武帝は吏部に指示した。「資格とは手順の為だけに設けられたものである。才能ある人物は順序に関係無く登用せよ。」こうして九十五人が抜擢され、費震は戸部侍郎を拝命し、次いで戸部尚書に昇進した。勅命を奉じて丞相・御史大夫以下の食禄の制度を規定した。湖広承宣布政使に出向し、老齢を理由に引退した。
 洪武初年には、張琬という人物が居り、鄱陽県の人である。貢士試高等として登用され、給事中を授かり、戸部主事へ異動した。ある日、洪武帝は各地の財政・戸数人口について尋ねた。張琬は余す所無く即答した。洪武帝は喜び、取り立てて戸部左侍郎に抜擢した。謹身殿が罹災した時には、行政の問題点を指摘した。飢餓が発生した年には、百万石余りの租税を免除するよう提案した。何れの件についても聞き入れられた。張琬の敏才は計画性に富んでいたが、二十七歳にして在任中に没した。当時の人々はその死を惜しんだものである。


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by su_shan | 2017-03-08 20:59 | 『明史』列伝第二十六

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 陳修、字を伯昂、上饒県の人。太祖(朱元璋)の浙東地方平定に従軍し、理官を授かると、律令を援引し、寛厚な判断に努め、元朝末期の悪政の悉くを改善した。兵部郎中に抜擢された後、済南知府に異動した。当時は戦乱の後であって、民戸は散り散りになり、更に多くの衛所がその間で練兵や屯田を実施していたものであるが、陳修は適切に統治したので、軍民共に安堵し、流民は生業に復帰した。洪武帝(朱元璋)はこれを喜んだ。洪武四年に吏部尚書を拝命した。
 六部の設置は洪武元年に始まる。鎮江府出身の滕毅が吏部を主導し、中書省や御史台の銓除考課に関連する諸法の裁定を輔佐して、ほぼ整備を終えていた。その後、陳修と侍郎李仁は従来の法典を詳細に考察し、時宜を踏まえ、地域の衝僻を勘案し、官吏の繁簡を設けた。凡そ諸官庁の任免及び考課、監査に関する規定は、全て入念に計画したもので、銓法は整然としていた。間も無くして、在任中に没した。その後、吏部の新制度は何度も生み出された。入観する官に自らの業績を列挙させる事、内外の官の封贈や廕叙の規則制定は、浮山県出身の李信によって始められた。天下朝正官が各々の事蹟を纏め土地や人民を記した資料を進呈する事、及び吏員の登用規定は、崑山州出身の余熂によって始められた。『唐六典』に倣い、五軍都督府・六部・都察院以下の官庁に設けられた職務は、『諸司職掌』として編集され、胥吏や任期や経歴に関する規則を定めて司・衛・府・県の首領官とし、監生で文章の巧みな人物を選抜して州県の官及び学正・教諭を兼任させる事は、泰興県出身の翟善によって始められた。三年に一度の入朝や考覈等の次第は、沂水県出身の杜沢によって始められた。これらが洪武朝時代の銓政制度の大略である。
 六部は当初は中書省に属していて、その権限は低く、多くの場合は丞相の意思を仰いでいた。滕毅・陳修及び詹同・呉琳・趙好徳らは、吏部に在っては賢明と称される一方で、大きな功績を打ち立てた事は無かった。(洪武)十三年に中書省が廃止され、六部の権限が第一とされると、銓衡は最も重要となった。洪武帝による運用の厳格さを振り返って見ると、余熂は宋訥を排斥した事で誅殺され、翟善は降格され、杜沢は尚書を拝命したものの、数ヶ月もせずに罷免されたものである。ただ李信だけは侍郎を歴任し、尚書を拝命し、二年程して在任中に没したと言われている。

 滕毅、字を仲弘。太祖が呉(張士誠)を討伐した際に、儒士として謁見し、徐達の帷幕に留められた。次いで起居注に除せられ、楊訓文と共に古の非道の君主である桀・紂・秦始皇・隋煬帝の事蹟を収集して進呈すると、太祖は言った。「我は動乱の原因を観察する事で、戒めとしたいのだ。」呉元年に湖広提刑按察使に出向した。次いで召還され、吏部に抜擢された一ヶ月後、江西行中書省参知政事に異動し、没した。
 趙好徳は字を秉彝と言い、汝陽県の人であった。安慶知府より入朝して戸部侍郎となった。戸部尚書に昇進し、吏部尚書へ異動した。洪武帝はその人事評価が公正である事を喜び、四輔官と共に召し出して内殿に入れ、同座して統治の方針を語り合い、画史に命じてその肖像を禁中に描かせたものである。最後は陝西行中書省参知政事として経歴を終えた。子の趙毅は永楽年間に工部侍郎となった。
 翟善は字を敬夫と言い、貢挙の身分から吏部文選司主事まで歴任した。(洪武)二十六年、吏部尚書詹徽・侍郎傅友文が誅殺されると、翟善は吏部の職務代行を命じられ、改めて吏部尚書に昇進した。経書の学問に明るく、上奏は上意に沿うものであった。洪武帝は言った。「翟善は若いが、心構えは広々として、余人の及ぶ所では無い。」洪武帝は郷里に邸宅を造営しようとしたが、翟善は辞退した。またその実家を戍籍から免除しようともしたが、翟善は言った。「戍卒は増やさねばなりません。臣とて例外ではございません。」洪武帝は益々その賢明を喜んだ。(洪武)二十八年にある事案によって宣化知県に降格され、経歴を終えた。
 李仁は唐県の人である。初めは陳友諒に仕え、呉王(朱元璋)の軍が武昌に勝利すると帰順した。常遇春の推薦を得て、陶安の後任として黄州知府となった。侍郎を歴任し、尚書に昇進した。ある事案によって青州知府へ左遷されたものの、善政を敷いて戸部侍郎に抜擢され、後に引退した。
 呉琳は黄岡県の人である。太祖が武昌を陥落させると、詹同の推薦を得て、召し出されて国子監助教となったが、経書の学問は詹同を上回っていた。呉元年に浙江提刑按察司僉事に除され、再び入朝して起居注となり、幣帛を駆使して各地の書籍を収集するよう命じられた。洪武六年、兵部尚書から吏部尚書へ異動し、詹同と共に交替で部内の事務を処理した。翌年に帰郷を申し出た。その後、洪武帝は使者を送って様子を窺わせた。使者はこっそりと家に近付くと、一人の農夫が小さな腰掛に座り、稲苗を抜いて田に植えている所に出くわしたが、その姿は非常に端正で慎ましやかであった。使者は進み出て言った。「こちらに呉尚書殿はいらっしゃるか。」農夫は手を合わせて答えた。「私が呉琳でございます。」使者はその様子を報告した。洪武帝は深く感じ入ったのであった。


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by su_shan | 2017-03-07 18:05 | 『明史』列伝第二十六

単安仁 朱守仁

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 単安仁、字を徳夫、濠州の人。若くして府吏となった。元朝末期に江淮地方で民衆叛乱が発生すると、単安仁は義兵を集めて郷里を守り、枢密院判官の地位を授かった。鎮南王孛羅普化(ボロトブカ)に従い揚州路を鎮守した。当時、群雄が四方に決起し、単安仁は悲嘆して言ったものである。「あの連中は放っておいても一掃されよう。王者の勃興は、自ずと別物なのだ。」鎮南王が長槍軍によって追い払われると、単安仁は所属する先を失ったが、太祖(朱元璋)が集慶路を平定した事を耳にすると、「これぞ本物の王者よ。」と言い放ち、一軍を率いて帰順したのであった。太祖は喜び、その軍を率いたまま鎮江府の鎮守を命じた。単安仁は軍伍を整え、敵は敢えて侵攻しなかった。常州府鎮守に移ると、単安仁の子が叛いて張士誠に降伏したものの、太祖は単安仁の忠誠を熟知していたので、疑う事は無かった。しばらくして、浙江提刑按察司副使に異動した。強引に将帥が民衆から徴発を行う事を「寨糧」と呼んでいたが、単安仁は法律によって規制した。按察使に昇進し、中書省左司郎中に取り立てられ、李善長の裁断を補佐した。瑞州守御千戸に派遣された後、入朝して将作監卿となった。
 洪武元年に工部尚書に抜擢されたものの、依然として将作監の業務を領導していた。単安仁は精密かつ敏捷で知略に優れ、諸々の造営事業は、規模の大小を問わず、非常に上手く上意を反映したものであった。翌年に兵部尚書へ異動し、老齢を理由に帰郷を申し出た。田地三千畝、牛七十頭を賜り、年間に尚書の俸給の半額を支給された。(洪武)六年に山東行中書省参知政事に起用されたものの、辞退を懇願し、認められた。自宅に在りながら、儀真県の南壩から朴樹湾に至る地点を浚渫して官民の舟運を助ける事、運河を通して江都府の港湾の水深を下げて泥の堆積を防ぐ事、瓜州の官倉を揚子橋の西側に移設し、長江の風潮被害を避ける事を提案した。洪武帝はその意見に賛同した。再び兵部尚書を授けられ、辞職した。当初、尚書の品級は正三品であった。(洪武)十三年に中書省が廃止されると、初めて正二品に昇格されたのであるが、単安仁の辞職はそれ以前の出来事であった。洪武帝は単安仁の勲功に配慮し、(洪武)二十年に特例として資善大夫を授けた。同年十二月に没した。八十五歳であった。

 徐州の朱守仁は、字を元夫と言い、元朝末期に郷里保全の功績によって枢密院同知の地位を手に入れ、舒城県を鎮守した。明軍が廬州路を陥落させると、城を挙げて帰順し、工部侍郎に累進した。洪武四年には尚書に昇進し、勅命を奉じて山東地方の官吏を監察し、上意に応えた。次いで北平行中書省参知政事に異動した。ところが食糧の供給を維持出来ず、蒼梧知県に左遷された。当初、朱守仁が袁州知州であった頃、上手く戦禍を治めたので、特に民衆の評判を得たものであった。そこで容州・高唐州の知州を兼任させた所、善政を敷いたのであった。(洪武)十年に四川承宣布政使に昇進しても、その統治は簡潔ながら厳かであった。老齢を理由に辞職した。ある事案に連座した為に労役を課されたものの、特別に釈放された。(洪武)十五年に雲南が平定され、威楚路・開南州等の宣撫司が楚雄府に改編されると、朱守仁は知府を命じられた。流民を招集し、徭役を均等にし、学校を建て、領内は安定した。(洪武)二十八年に提言の為に入朝しようとすると、現地の人々は涙を流して見送ったものである。太僕寺卿を拝命すると、最初に馬を飼育する為の草場を江北地方の滁州各所に設置するよう提案した。太僕寺は十四監九十八群の草場を所管し、多くの馬を繁殖した。馬政の発展は朱守仁の代に始まったのである。しばらくして辞職した。永楽初年に入朝したものの、病気を発症して没したのであった。


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by su_shan | 2017-03-06 12:03 | 『明史』列伝第二十六

唐鈬 沈溍

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 唐鈬、字を振之、虹県の人。太祖(朱元璋)の挙兵当初から側近に仕えた。濠州を守り、江州路平定に従軍し、西安県丞を授かり、召還されて中書省管勾となった。洪武元年、湯和が延平路に勝利すると、唐鈬を知府とし、新たに帰順した人々を慰撫したので、民衆は安堵した。三年が過ぎ、入朝して殿中侍御史となり、再び出向して紹興知府となった。(洪武)六年十二月に召還されて刑部尚書を拝命した。翌年に太常卿に異動した。母親の喪に際し、特別に半俸を支給された。
 (洪武)十四年、服喪を終えると、復帰して兵部尚書となった。翌年、初めて諫院が設置されると、諫議大夫となった。嘗て洪武帝(朱元璋)は侍臣と歴代王朝の興亡について語り合った事があった。「朕の子孫が成王や康王たらんとし、周公旦や召公奭の様な輔弼の臣が居れば、天に祈って命を永らえようが。」唐鈬は進み出て言った。「元より教育は良好でございますので、左右の者から輔導の臣をお選びなさいましたら、宗廟と社稷の祝福は万年に及びましょう。」また洪武帝は唐鈬に言った。「人には公私の別がある。故にその言葉には正邪が介在する。正言は規則や戒めを言い、邪言は誹謗や迎合を言うのだ。」唐鈬は言った。「誹謗の徒は忠誠を装って近付き、迎合の徒は親愛を装って近付きますが、目を眩まされる事さえ無ければ、讒侫の輩は勝手に遠のくものでございます。」間も無く、監察御史に左遷された。優秀で能力のある在京の官僚を選抜して各地の郡県を巡らせ、賢才を発掘し、官吏として登用し、経験豊富な年長者で声望のある人物を抜擢して、承宣布政使司や提刑按察使司の職務に命ずるよう提案した。洪武帝はこれを採用した。その後、再び右副都御史に抜擢され、刑・兵二部の尚書を歴任した。(洪武)二十二年、詹事院が設置されると、吏部に命じて言った。「太子を輔導する者には、必ずや端正かつ穏健な人物を選抜せねばならぬ。三代(夏・殷・周)の保傅の役目にあった者は、その礼節は非常に尊厳のあったものである。兵部尚書唐鈬よ、汝は謹厚有徳の人格者であり、故に詹事を命ずるが、従来通り尚書の俸給を受領せよ。」唐鈬が選ばれたのは、以前に教育の意義を進言した為であった。同年中に辞職した。
 (洪武)二十六年に太子の賓客として起用され、太子少保に昇進した。(洪武)二十八年、竜州土官の趙宗寿は鄭国公常茂の死に関して不実を上奏し、召喚を命じられたものの出頭しなかった為、洪武帝は激怒し、楊文に大軍を統率して討伐を命じる一方、唐鈬に説得を命じた。唐鈬が到着すると、実際は常茂が病死していた事が判明し、趙宗寿もまた罪を認めて来朝した。そこで楊文に詔して奉議諸州の諸蛮族討伐の為に軍を転進させ、唐鈬に軍事を参議させた。翌月、蛮族討伐が完了した。唐鈬は情勢を考慮し、奉議衛及び向武州・河池州・懐集県・武仙県・賀県等の地域に守御千戸所を設け、官軍を置いて鎮守させるよう提案した。全て認可された。
 唐鈬の人格が優れている点は、注意深い性格で、妄りに金品の授受をしなかった事である。洪武帝は古くからの付き合いで唐鈬と接し、次の様に言った。「唐鈬は友人から臣下となって今や三十数年が過ぎたが、他人との交際に関して、変節する事は無く、また一度の不正も聞いた事が無い。」また、次の様にも言った。「都御史詹徽は悪事を憎んで強硬に断を下し、胥吏の勝手を許さず、誹謗の声は朝廷に満ち溢れておる。唐鈬は落ち着いた人柄であるから、柔弱に物は言うが手は出さぬ。古来の気風が失われてしまったと言うのは、その通りであろうな。」後に詹徽は突然罪を得て誅殺されてしまったが、唐鈬の厚遇振りは変わる事が無かった。(洪武)三十年七月に京師で没した。六十九歳であった。贈賻は非常に手厚く、官署に命じてその亡骸を護衛して故郷へ帰し埋葬させたのであった。

 沈溍、字を尚賢、銭塘県の人。唐鈬と共に兵部に在籍し、明敏と称された。洪武帝は勲臣の子弟の多くが法律を蔑ろにしていた為に、『御製大誥』二十二編を選定し、各地に告諭して武臣は全て音読するよう命じ、気を引き締めさせた。次いで、諭戒八条を用いて将兵に頒布した。当時、沈溍は兵部侍郎として試用されながら部内を取り仕切っていたが、訓戒に関する一切の処置は、全て上意を得た後に実行した。次いで兵部尚書へ昇進した。広西都指揮使司が譙楼を建設し、青州衛が兵器を製造したが、何れも民間の資財を勝手に徴発して行われたものであった。沈溍は都指揮使司や衛所が行う営作は、必ず都督府が準えて上奏し、官庁が材料を支給し、勝手に民衆を使役させない事、違反者は取り調べて処分する事、更に武臣の民事関与を禁止する事を提案した。当時、軍事活動は沈静化していたが、武臣は横暴に振る舞い、しばしば法治に違えた。ここに至って統制されたのは、沈溍の力によるものであった。以前、洪武帝は国家の統治を安定させる為の秘訣は、賢才を進めて不才を退ける事だと説明した。そこで沈溍は言った。「君子は常に少なく、小人は常に多いものでございますから、吹き渡る風に晒して磨き上げるのみでございます。そうすれば賢者は頭角を現し、不仁の輩は遠ざかりましょう。」洪武帝はその発言に賛同した。(洪武)二十三年に沈溍と工部尚書秦逵が入れ替わりの異動となり、誥文を賜わって表彰を受けた。次いで旧職に戻されたが、後の事案によって罷免された。
 明朝初期、衛所世籍と兵卒勾補の規則は、全て沈溍が制定したものである。しかしながら、形式が細かく、帳簿は繁雑であり、胥吏は容易く悪事を働き、結果として明朝一代を通して特に民間にとって害悪と化した一方で、軍衛もまた日毎に摩耗していった事は、『明史』兵志に詳しい。潮州の生員陳質は、父親が戍籍に登録されていた。父親が死没すると、陳質は勾補されたので、帰郷して卒業する事を願い出た。洪武帝は陳質の戍籍を削除するよう命じた。沈溍は軍伍に欠員が生じるとして反対した。洪武帝は言った。「国家にとって、一兵卒は得易いが、一文士は得難いものである。」こうして陳質は戍籍から解放された。無論、これが特別な恩恵であった事は言うまでも無い。


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by su_shan | 2017-02-27 15:10 | 『明史』列伝第二十六

開済

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 開済、字を来学、洛陽県の人。元朝末期に察罕帖木児(チャガンテムル)の掌書記となった。洪武初年、明経として採用された。河南府訓導を授かり、入朝して国子監助教となった。病気により辞職して帰郷した。(洪武)十五年七月、御史大夫安然が開済の才幹を推薦した為に、召し出して刑部尚書として試用し、翌年に正式に任命した。
 開済は詳細に調査を行う事を自らに課し、各地の諸官庁に帳簿を備え付け、毎日の事務を書き記し、成否を評価し、また各部署は往復文書を照らし合わせ、規定を作り、功罪を定めるよう提案した。また軍民で些細な罪を犯した者については、即座に判決して処置すべきである、とも言った。数ヶ月で滞留した書類は一掃された。洪武帝(朱元璋)は大いにその才能を認めた。たまたま都御史趙仁が、以前「賢良方正」「孝弟力田」などの科目で採用された文士が郡県に列席しているが、その多くが役職を与えられず、去留を考査すべきであると発言した。開済が提出した意見は、「経明行修」を一科目とし、「工習文詞」を一科目とし、「通暁書義」を一科目とし、「人品俊秀」を一科目とし、「練達治理」を一科目とし、「言有条理」を一科目とし、六科目全てを備える人物を上とし、三科目以上であれば中とし、三科目未満であれば下とするものであった。この意見が採用された。
 開済は聡明で弁才があり、およそ国家の経制・田賦・獄訟・工役・河渠に関する事柄は、余人にはとても裁定出来るものでは無かったが、開済は一人で計画し、道理や筋道を備えていたので、代々遵守すべきものとなった。故に洪武帝からの信任は非常に厚く、何度も顧問として控え、他部の事に関与した。これによって人は毛嫌いし、悪評が立ち昇った。一方で開済も懸念し、法に則ってよく人を中傷した。嘗て、法律の不備改善を命じられた事があった。開済の指摘は精緻を極めた。洪武帝は言った。「細やかな網を張って民衆を縛れば良いと思っておるのか?」また「寅戌の書」と言う文書を用意して、属僚の入退を管理した。洪武帝は叱責した。「昔の人でも卯の刻から酉の刻とするのが常識であったのに、今になって朝は寅の刻から夜は戌の刻まで仕事をさせては、一体いつ父母を労わり、妻子と顔を合わせよと言うのか!」また属僚を戒める為の立て札を作り、文華殿に掲示するよう提案した。洪武帝は言った。「属僚を戒める言葉で以て、朝廷を牛耳りたいのであろう。それが人臣の礼であるものか。」開済は恥じて謝罪した。
 後に、開済の指示で郎中仇衍がある死刑囚を逃がしたが、獄官に摘発されてしまった。開済は侍郎王希哲・主事王叔徴と共に獄官を捕らえて殺害した。同年十二月、御史陶垕仲らがその事件を告発した。更に発言を続けた。「開済は上奏を行う時、奏文を懐中に留め、或いは隠して言わず、陛下の顔色を窺っており、職務に際してはどっちつかずの態度で、その狡猾さは想像を超えております。甥の娘を奴婢として扱っております。また妹は早くに寡婦となっておりますが、姑を追い出して家財を奪っております。」洪武帝は激怒して開済を獄に下し、王希哲・仇衍らと共に棄市に処したのであった。


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by su_shan | 2017-02-24 00:59 | 『明史』列伝第二十六

薛祥 秦逵 趙翥 趙俊

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 薛祥、字を彦祥、無為県の人。兪通海に従って帰順し、長江を渡って水寨管軍鎮撫となり、何度も従軍して功績を挙げた。洪武元年には河南への輸送を行った。夜半になって蔡河に到達すると、突然賊に襲撃された。薛祥は動揺せず、上手く説得して賊を退散させた。洪武帝(朱元璋)はその報告を受けて喜んだ。今次の出征については補給が困難であった為に、京畿都漕運使〔一〕を授かると、淮安府に分署を置いた。河川を浚渫して堤防を築き、揚州から済州までの数百里は、徭役を均等に分担させたので、民衆は不満を口にしなかった。功労者があれば上奏して報告し、官位を授かるよう取り計らった。元朝の首都が陥落すると、官民が南方へ移住する事になり、その道中で淮安府を通ったが、薛祥は多大な救援を実施した。山陽県・海州の民衆が叛乱を起こすと、駙馬都尉の黄琛が鎮圧に当たったものの、非常に多くの誤認逮捕が発生した。薛祥が取り調べを担当し、罪の無い者は全て釈放して帰らせた。淮安を統治して八年、民衆は口々に善政だと言い合った。薛祥が任期を終えて京師へ戻る事になると、民衆は香を焚いて再度の赴任を願い、また肖像を建てて祀ったのであった。
 (洪武)八年に工部尚書を授かった。当時は鳳陽府の宮殿を造営している最中である。洪武帝が殿中に腰を下ろすと、宮殿の屋根の上に武器を手に戦っている人の様な物があった。太師李善長が工匠たちは厭鎮法(呪法)を建築に取り入れていると上奏した為に、洪武帝は全員を処刑しようとした。薛祥は分別して交替させて工人たちを不在にし、また鉄匠や石匠には全く関与させていなかったので、難を逃れた者は千人を数えた。謹身殿の造営に際して、役人が中匠を上匠として列挙した事があった。洪武帝はその欺瞞に激怒し、棄市に処すよう命じた。薛祥は横から口を挟んで言った。「確かに報告は事実ではございませんでした。ですがそれで人を殺すという事は、畏れ多くも法に背くものと考えます。」すると腐刑を実施するという命令が発せられた。薛祥は今度は落ち着いて言った。「腐刑では人として不能になってしまいます。杖刑程度で済ませるのが最善でございましょう。」洪武帝はその案を認めた。翌年に各地の行中書省を改組して承宣布政使司とした。中でも北平は要衝であり、特別に薛祥に委ねられ、三年で最良の統治と称えられた。ところが胡惟庸に恨まれ、土木事業で民衆を疲弊させたという罪で、嘉興知府に左遷された。胡惟庸が粛清されると、召還されて再び工部尚書となった。洪武帝は言った。「讒言を吐いた臣下の者が汝を不当に処遇したのに、何故そう言わなかったのだ。」薛祥は答えた。「そういった事情は臣の知る所ではございませんでした。」翌年にある事案に連座して杖殺されると、各地の民衆がこれを憐れんだものである。子は四人居たが、瓊州に追放されると、最終的に瓊山県に籍を置いたのであった。
 孫の薛遠は正統七年の進士で、景泰年間には戸部郎中に昇進した。天順元年に戸部右侍郎に抜擢され、工部に異動した。詔を奉じて開封府付近で決壊した黄河を塞いだ。帰還すると、再び戸部に異動した。成化初年、両広地方の軍糧を監督し、官位は南京兵部尚書までの上ったが、汪直に反抗して罷免された。


 薛祥の後任として工部尚書を拝命した者の中で有名な人物に秦逵らが居る。
 秦逵、字を文用、宣城県の人。洪武十八年の進士。都察院の官を歴任した。檄を奉じて罪人を処理した際には、寛容さと厳格さを使い分けた。洪武帝はその才能を評価し、工部侍郎に抜擢した。当時は土木事業が多く、部内で尚書が不在になると、大部分の事務は秦逵が代行したものである。初め、各地の工匠を登録し、その技術を調べた上で、三年を期限として班を作り、順番に京師へ向かわせ、三ヶ月で交代させる事が議論され、これを「輪班匠」と呼んだが、未だに実施されていなかった。そこで秦逵は距離の遠近を考慮して班を構成し、登録を行い、勘合符を割り当て、期日が来れば工部に向かわせ、その実家の徭役は免除すると指示するよう提案した。洪武帝は秦逵の忠勤に配慮して、役人に詔してその邸宅を修繕させた。(洪武)二十二年には尚書に昇進した。翌年に兵部へ異動した。すぐにまた工部へ異動した。洪武帝は学校を国家の人材育成の場と位置付けていたが、学生の衣服は胥吏と変わらない有様だったので、その刷新を考え、秦逵に制定を命じて提出させた。三度の修正を経て、始めて採用された。監生の身分にある者は藍色の上着を一着ずつ賜わり、各地に先駆けた。明代の学生の衣冠は、秦逵が作り上げたのである。
 趙翥は永寧県の人である。志操堅固で、学業と仏門の修行で評判があった。訓導から賢良に挙げられ、賛善大夫に抜擢され、工部尚書を拝命した。各地で一年間に製造する兵器の数を策定するよう上奏し、藩王府の宮城制度の議定にも携わった。
 趙俊は出身地が判明していない。工部侍郎より尚書に昇進した。洪武帝は国子監に収蔵されている書板が経年の使用で劣化していた為に、何人もの儒者に補修を命じ、工部は職人を監督して修繕した。趙俊は詔を奉じて管理を担当し、古籍は保全された。洪武十二年、趙翥が一時的に刑部へ異動し、次いで辞職して引退し、趙俊は(洪武)十七年に罷免された。秦逵は(洪武)二十五年九月にある事案に連座した為に自ら命を絶った。

【校勘記】
〔一〕漕運使、元は「転運使」であった。『明史稿』伝二十一、薛祥伝・『明書』巻百一、薛祥伝は何れも「漕運使」としている。『太祖実録』巻三十一、洪武元年十月己丑条には「京畿都漕運司を置き」、「龔普・薛祥を漕運使とした」とある。これらに基づき改めた。


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by su_shan | 2017-02-19 18:12 | 『明史』列伝第二十六