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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第二十( 7 )

列伝第二十 目次

朱亮祖 周徳興 王弼 藍玉 曹震 張翼 張温 陳桓 朱寿 曹興


謝成 李新

 論賛、天下を治めるに無法を以て臨むべきでは無いが、創成の時期に於いて法は疎かであり、太平の世に於いて法が整えられる事は、元より時勢の必然である。論者は何時も鳥が居なくなれば弓が片付けられる有様を嘆息し、名君に発露した猜疑だと言うが、殊に政治の本質に迫る論説では無い。そもそも天下が平定された以上、その権勢は盤石と化し、万里の彼方へ号令し、統治を安定させる為に奔走するものであるのに、猜疑を理由にこれを取り除き、余力を残さないという事があろうか。また甲冑の士の凶悪頑強を以て、その鋭鋒に乗じ、戦場に於いて僅かばかりの功績を挙げた者は、身に富貴を纏い、志に満ち気に溢れはするが、中枢に近付ければ驕り高ぶって危機を招き、遠ざければ怨恨を抱いて法を犯す。主君たる者は法を廃し曲げてまで彼らを全うさせる事は出来ず、止むを得ず処置するのであって、決して私利の為に彼らを排除する訳では無い。朱亮祖以下の幾人かは保身の明哲さに欠け、又は節制謹慎の道を違えた為に、首を並べて晒し者にされたが、それは自らが招いた結末なのである。


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by su_shan | 2017-03-20 15:31 | 『明史』列伝第二十

李新

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 李新、濠州の人。長江渡河に従い、何度も戦功を挙げた。竜湾に戦い、管軍副千戸を授かった。江陵県を奪取し、竜驤衛正千戸に昇進した。平江路に勝利すると、神武衛指揮僉事に異動し、茶陵衛の守備に派遣され、数度の異動を経て官位は中軍都督府都督僉事に達した。(洪武)十五年、孝陵の造営を担当した事で、崇山侯に封じられ、食禄千五百石とされた。(洪武)二十二年、鶏鳴山の帝王廟の建て替えを命じられた。李新は予め精緻な計画を用意したので、将作担当の官吏は計画通りに工程を進めるだけであった。翌年には郷里へ帰され、金帛や田宅を賜った。
 当時、勲功の臣には度を越して身勝手に振る舞う者が現れ、洪武帝(朱元璋)はそれを苦々しく思い、党案に連座する者が続出した。李新が最初に申し立てた事には、公爵・侯爵の家人及び儀従戸はそれぞれ定数を設け、それを超えた者については官署に処置を委ねるべきである、というものであった。洪武帝はその案を認め、鳳陽府から人員を徴発して新たな戸籍下で民とし、礼部に命じて『稽制録』を編纂させ、公侯の奢侈や狼藉を厳禁した。こうして武定侯郭英は佃戸を返上して納税し、信国公湯和は儀従戸を返上し、曹国公李景隆は荘田を返上したが、これらは全て李新の建言が切っ掛けとなったものである。(洪武)二十六年、官署を監督して溧水州に於いて胭脂河を開削し、西は長江と接続し、東は両浙地方に連絡させる事で、漕運を活性化させようとした。運河が開通すると、民衆の利便性は飛躍的に向上した。(洪武)二十八年、ある事案によって誅殺された。


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by su_shan | 2017-03-19 22:46 | 『明史』列伝第二十

謝成

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 謝成、濠州の人。従軍して滁州・和州に勝利した。長江を渡り、集慶路を平定し、総管を授かった。寧国路・婺州路に勝利し、管軍千戸に昇進した。鄱陽湖に戦い、武昌路を平定し、蘇州府・湖州路を陥落させ、指揮僉事に昇進した。大軍に従って中原を制圧し、元朝の首都に勝利し、慶陽府を攻撃し、定西州を突き、都督僉事となり、晋王(朱棡)府相となった。沐英の朶甘(ダカン)遠征に従軍し、乞失迦(チシジャ)を降伏させ、洮州十八氏族を平定した。洪武十二年、永平侯に封じられ、食禄二千石とされ、指揮使の世襲を許された。(洪武)二十年、張温と共に納哈出(ナガチュ)の残党を追討した後、召還された。(洪武)二十七年、ある事案によって処刑され、その田宅は没収された。


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by su_shan | 2017-03-19 22:45 | 『明史』列伝第二十

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 藍玉、定遠県の人。開平王常遇春の義弟である。当初は常遇春の帷幕に従い、敵に臨んでは勇敢に戦い、向かう所全てに勝利を収めた。常遇春は何度も太祖(朱元璋)に報告し、管軍鎮撫より功績を重ねて大都督府僉事に到達した。洪武四年に傅友徳の蜀(明昇)討伐に従軍し、綿州に勝利した。(洪武)五年には徐達の北征に従い、先行して雁門関を越え、乱山の戦いで元軍を破り、再び土剌河(トゥール河)の戦いで撃破した。(洪武)七年には兵を率いて興和路を突破し、国公帖里密赤(テリクムスチ)ら五十九人を捕らえた。(洪武)十一年には西平侯沐英と共に西番(チベット)を討伐し、その酋長三副使を捕らえ、捕殺千人を数えた。翌年に軍を帰還させると、永昌侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)十四年、征南左副将軍〔一〕として潁川侯傅友徳の雲南遠征に従軍し、曲靖路の戦いで元朝の平章政事達里麻(タリマ)を捕らえ、梁王(把匝剌瓦爾密、バツァラワルミ)は逃げ延びた先で死んだ。滇地方は完全に平定され、藍玉の功績は多大であった。五百石を加増された。藍玉の娘は蜀王(朱椿)妃として冊立された。
 (洪武)二十年、征虜左副将軍として大将軍馮勝の納哈出(ナガチュ)討伐に従軍し、通州に差し掛かった。元軍が慶州に駐屯しているという情報を入手し、藍玉は大雪に乗じて軽騎兵を率いて襲撃、これを撃破し、平章政事果来(ゴライ)を殺害し、子の不蘭渓(ブランシ)を捕らえて帰投した。大軍を結集して金山へ進撃すると、納哈出は使者を派遣して大将軍の陣営に降伏を申し入れたので、藍玉が出向いて降伏を受諾する事になった。納哈出が数百騎を引き連れて到着すると、藍玉は非常に喜び、酒席を設けた。納哈出が藍玉の杯に酒を注ぐと、藍玉は着物を脱いで納哈出に被せ、言った。「これを着て飲め。」納哈出が渋っていると、藍玉も酒を飲まず、しばらく言い争いになった。納哈出は地面に酒をぶちまけると、部下を向いてぶつぶつと呟き、その場から退去しようとした。同席していた鄭国公常茂が寸前で納哈出を斬り付け、都督耿忠が一同を連れて馮勝の面前に赴いた。納哈出の所部は大混乱に陥ったので、馮勝は降将観童(ガントン)を送って投降するよう説得させた。帰還の途上で亦迷河に到達すると、残党を完全に降伏させた。たまたま馮勝が罪を得て、大将軍の印綬を剥奪されると、藍玉は総兵官を代行するよう命じられ、後に軍中では藍玉を大将軍と仰ぐようになり、薊州に軍を移した。
 当時は順帝(妥懽貼睦爾、トゴンテムル)の孫にあたる脱古思帖木児(トグステムル)が元朝の後継者となって、北辺を擾乱していた。(洪武)二十一年三月、藍玉に命じて十五万の軍を率いてこれを討伐させた。大寧を出撃し、慶州に到達すると、諜報により脱古思帖木児が捕魚児海(ブユル湖)に滞在している事が判明したので、間道伝いに百眼井まで進軍した。湖から四十里を捜索しても敵を発見出来なかったので、藍玉は引き返そうと考えた。定遠侯王弼は言った。「我々は十数万の兵を率いて漠北へ侵入したのです。何一つ得る事無く軍を帰せば、一体何と報告なさるのですか。」藍玉は言った。「その通りである。」そこで兵卒に命じて地面に穴を掘って炊事させ、夜陰に乗じて湖の南方へ進出した。敵の陣営は湖の北東八十里余りの地点に在り、藍玉は王弼に先鋒を命じて陣営を急襲させた。敵は我が軍の水や飼葉が乏しく、奥地まで進撃出来ないと考えていた為に、防備を固めていなかった。また強風によって砂埃が舞い上がり、周囲の視界を奪っていた。王弼軍が接近しても、敵軍は察知しなかった。突如として王弼軍が前面に出現すると、敵軍は驚愕し、迎え撃ったものの敗北した。太尉蛮子(マンジ)らが殺害され、その軍は降伏した。脱古思帖木児と太子の天保奴(ティポヌ)は数十騎を連れて遁走した。藍玉は精鋭の騎兵を送って追撃したものの、捕捉に失敗した。次男の地保奴(ティボヌ)や妃・公主以下百人余りを捕らえた。更に追撃して呉王朶児只(ドルジ)・代王達里麻(タリマ)及び平章政事以下の官吏三千人・男女七万七千人余りを捕らえ、宝璽・勅符・金牌・金銀印などの物品、馬・駱駝・牛・羊十五万頭余りを鹵獲し、数え切れない程の武器甲冑を焼き払った。京師に勝利を報告すると、洪武帝(朱元璋)は非常に喜び、詔勅を賜って慰労し、藍玉の功績を衛青・李靖に準えて称賛した。更に藍玉は哈剌章(カラジャン)の陣営を破り、人畜六万を獲得した。軍が帰還すると、涼国公に進封された。
 翌年には四川各地の城郭修復事業の監督を命じられた。(洪武)二十三年、施南・忠建二宣撫司の蛮族が叛乱を起こしたので、藍玉に討伐を命じた。更に都匀安撫司の散毛諸洞を平定し、五百石を加増され、詔によって帰郷を許された。(洪武)二十四年、藍玉は蘭州衛・荘浪衛など七衛の兵を統率して、逃亡中の盗賊祁者孫の追討を命じられ、遂には西番の罕東地方まで攻略した。土酋哈昝〔二〕(ガザン)は遁走した。たまたま建昌衛指揮使の月魯帖木児(オルクテムル)が叛乱すると、詔によって軍を転進させて討伐に向かった。到着すると既に都指揮使瞿能らがその軍を撃破しており、月魯帖木児は柏興州へ敗走していた。藍玉は百戸毛海を送って月魯帖木児父子を誘き出して捕縛し、京師へ送致して誅殺し、その軍を完全に降伏させ、屯衛の増設を要請し、認可された。また民衆の戸籍を調査して徴兵し、朶甘(ダカン)・百夷を討伐するよう提案した。詔は認可せず、遂に軍を帰還させた。
 藍玉は長身の赤ら顔で、勇気と知略に優れ、大将としての才幹が有った。中山王(徐達)・開平王(常遇春)が故人となって以降、何度も大軍を統べ、多くの戦功を挙げた。太祖は藍玉を厚遇した。ところが次第に驕慢になり、多くの奴隷や義子を養い、権勢を利用して横暴に振る舞うようになった。以前、東昌府の民田を占拠し、御史の尋問を受けた事が有った。藍玉は激怒して御史を追い払った。北征からの帰還途上、夜になって喜峰関に差し掛かった。関吏は刻限を理由に開門を拒絶すると、藍玉は兵を放ち、関門を破壊して通過した。その報告を受け、洪武帝は不快になった。また脱古思帖木児の妃を暴行し、妃は恥じて自ら命を絶ったという噂が流れると、洪武帝は藍玉を叱責した。当初、洪武帝は藍玉を梁国公に封じようとしたが、過失を考慮して涼国公に変更し、その咎を世券に刻み付けた。その後も藍玉は態度を改めず、宴席の度に傲慢な言辞を吐き、軍中に在っては勝手に将校を任免し、思いのままに振る舞ったので、洪武帝は何度も譴責を加えた。西征から帰還すると、太子太傅を命じられた。藍玉は宋国公(馮勝)・潁国公(傅友徳)両公の下位に甘んじるのが面白く無く、言い放った。「我では太師に足らんと言うのか!」この上奏は数回に及んだが認められず、藍玉は更に不満を募らせた。
 (洪武)二十六年二月、錦衣衛指揮使蔣瓛が藍玉の謀叛を告発し、獄吏に下して取り調べを行った。その調書によると、「藍玉は景川侯曹震・鶴慶侯張翼・舳艫侯朱寿・東莞伯何栄及び吏部尚書詹徽・戸部侍郎傅友文らと共に変事を画策し、洪武帝が耤田儀式に出向いた隙に乗じて決行しようとした。」というものであった。結審すると、一族は誅殺された。侯爵以下で一党に連座して粛清された者は数え切れない程であった。洪武帝は自らの手で詔を記して各地に布告し、被告の供述を列挙した『逆臣録』を刊行した。同年九月、更に詔を発して言った。「藍賊めは叛乱を画策したが、その計画は露見し、一万五千人が族誅処分を受けた。今後、胡党及び藍党は赦免して不問に付す。」胡とは、丞相胡惟庸の事である。こうして、開国の宿将たちは相次いで世を去った。凡そ『逆臣録』に名を連ねられた者は、公爵一名・侯爵十三名・伯爵二名であった。葉昇はそれ以前に罪を得て誅殺されており、胡玉ら下位の者については別に参照されたい。曹震・張翼・張温・陳桓・朱寿・曹興の六侯については、左方に伝記を付しておく。

 曹震は濠州の人である。太祖の挙兵に従い、官位は指揮使に達した。洪武十二年、西番遠征の戦功によって景川侯に封じられ、食禄二千石とされた。藍玉に従って雲南へ遠征し、別路から臨安諸路を奪取し、威楚県に到達し、元朝の平章政事閻乃馬歹(ヤンナイマダイ)らを降伏させた。雲南が平定されると、容美・散毛諸洞の蛮族及び西番の朶甘・思曩日諸族の討伐を提案した。詔は認可しなかった。また貴州・四川二都指揮使司が交易によって入手した外地の馬を、陝西・河南地方の将兵に支給するよう提案した。また次の様にも発言した。「四川から建昌に至る交通は、道中に大渡河を挟みますが、往来する者の多くが熱病に倒れております。地元の老爺に尋ねた所、眉州の娥眉山〔三〕から建昌へ向かうならば、嘗ての古道が有って、平坦で瘴気も無いとの事ですので、既に軍民に命じて補修させております。従いまして、瀘州より建昌へ至るまでの駅馬を娥眉新駅へ移置するよう提案致します。」この案は採用された。(洪武)二十一年、靖寧侯葉昇と共に叛乱を起こした東川軍民府の蛮族を討伐し、五千人余りの捕虜を獲得した。次いで四川地方の軍務の監督を命じられ、藍玉と共に南征に従事した将兵を考査した。
 たまたま永寧宣慰司が言うには、所管地域に存在する百九十ヶ所の湿地の内、八十ヶ所余りで道路が塞がり交通に不便との事であった。そこで曹震に詔を発してこれを浚渫させた。曹震は瀘州を巡察すると、永寧を通る支流が有ったので、川岸を掘削して幅と水深を広げ、漕運を可能にした。また陸路が開通すると、駅舎や郵亭を建設し、橋や桟を架け、茂州より一路は松潘へ、一路は貴州へ向かい、保寧府へ到達した。これより以前、行人の許穆が次の様に発言していた。「松州一帯は礫の多い痩せた土地で、屯田には不向きであり、守兵三千人の食糧供給が追い付かない為、彼らを茂州の守備へ移し、近く屯田を行わせる事を提案致します。」洪武帝は松州が西番への牽制である事から、移動を認めなかった。その後、輸送路が開通したので、松潘は重鎮となり、洪武帝はその功績を評価した。翌年、曹震は四つの上奏を行った。一つは、雲南の大寧境界で井塩を生産し、商人を募集して粟を運ばせ、辺境の食料事情の足しにする事。一つは、商人に雲南の建昌へ粟を運ばせる代わりに、重慶府・綦江県で馬を売買する権利を付与する事。一つは、馬湖府の租税滞納を免除する事。一つは、施州衛の食糧供給は湖広地方からの輸送に頼っているが、長江を遡上する為に険阻で時間も掛かる為、重慶府の粟を用いて順流で輸送する事、であった。何れも認可された。
 曹震は蜀に長年在任し、実施した計画は極めて用意周到な物であった。蜀の人々はこれに感謝した。藍玉が粛清されると、曹震及び朱寿と共に指揮使荘成らを抱き込んで謀叛を企図したものとされた。逆党に認定されると、曹震が筆頭として扱われ、子の曹炳と共に誅殺されたのであった。

 張翼は臨淮県の人である。父の張聚は前翼元帥として江南・淮東地方平定に従軍し、功績を重ねて大同衛指揮同知となり、引退した。張翼は父の軍中に従い、勇敢にして善戦し、副千戸として父の職位を継承した。陝西遠征に従軍し、叛徒を捕らえた。都指揮僉事に抜擢され、都督府僉事に昇進した。藍玉に従って雲南へ遠征し、普定路・曲靖路に勝利し、鶴慶路・麗江路を奪取し、七百房の山寨を掃討し、剣川県を攻撃し、石門を撃破した。(洪武)十七年、論功行賞によって鶴慶侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。
 
 張温は何処の出身か判明していない。太祖の長江渡河に従い、千戸を授かり、功績を重ねて天策衛指揮僉事に達した。大軍に従って中原を平定し、陝西地方に勝利し、蘭州を陥落させた後に鎮守した。元朝の将帥拡廓帖木児(ココテムル)は諜報によって大将軍(徐達)が南方へ帰還した事を知ると、甘粛より歩騎両軍を率いて突如襲来した。諸将は防御を固めて味方の来援を待つよう提案した。張温は言った。「敵は遠方より到来しておるから、未だに我が軍の実際の兵数を知らない。薄暮に乗じて奇襲し、その先鋒を挫くのだ。連中が撤退しなければ、それから防御を固めても遅くはあるまい。」こうして兵を整えて出撃すると、元軍はやや後退した。すぐに城は何重にも包囲されたので、張温は兵を収めて堅守すると、敵軍は攻撃しても陥落させる事が出来ず、漸く退却して行った。太祖はその奇功を称賛し、張温を大都督府僉事に抜擢した。次いで、また陝西行都督府僉事の兼任を命じた。
 蘭州(※1)が包囲された時、元軍は夜陰に乗じて城壁に梯子を掛け、よじ登った。千戸郭佑は泥酔して気付かず、城壁を巡回していた他の者がこれを撃退した。包囲が解かれると、張温は郭佑を斬殺しようとして、天策衛知事の朱有聞と口論になった。「正に賊軍が城を破ろうとしている時、将軍が郭佑殿をお斬りになって周囲に示しを付けるならば、それは軍法に適ったものでございましょう。しかし、既に賊軍が退いた以上、追撃してこれを殺戮すべきでありますのに、それを果たせないばかりか、勝手に部下を殺害したという汚名まで着せられてしまいますぞ。」張温は謝罪して言った。「君の意見で無ければ聞かなかった所だ。」こうして郭佑を杖刑処分として死罪を免じたのである。洪武帝は報告を受けると、双方を称え、更に朱有聞に対しては綺帛を賜ったのであった。
 その翌年、参将として傅友徳の蜀討伐に従軍し、多くの功績を挙げた。(洪武)十一年、副将として王弼らを糾合し、西羌を討伐した。翌年の論功行賞で会寧侯に封じられ、食禄二千石とされた。また翌年に河南地方の軍務の監督を命じられた。(洪武)十四年には傅友徳の雲南遠征に従軍した。(洪武)二十年の秋には軍を率いて納哈出の残党を討伐し、北伐に従軍し、全てに功績を挙げた。後に、過度に贅沢な居室や食器を用いているとの理由で罪を得、遂に藍玉党に連座して処刑された。

 陳桓は濠州の人である。従軍して滁州・和州に勝利した。長江渡河に従い、集慶路の勝利に際しては先陣を切った。寧国路・金華府の攻略に従軍し、竜江・彭蠡(鄱陽湖)に戦い、淮東・浙西地方を手中に収め、中原を平定した。功績を重ねて都督僉事を授かった。洪武四年には蜀討伐に従軍した。(洪武)十四年に雲南遠征に従軍し、胡海・郭英と共に兵五万を率いて永寧から烏撒へ向かった。その道中は険しく、赤河より軍を進め、烏撒の諸蛮族と激戦を繰り広げ、これを敗走させた。また芒部の土酋を破り、元朝の右丞実卜(シブ)を敗走させ、遂に烏撒に拠点を置き、東川の烏蒙諸蛮族を降伏させ、進軍して大理に勝利し、汝寧・靖寧諸州を攻略した。(洪武)十七年、普定侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十年、靖寧侯葉昇と共に東川に遠征し、大量の捕虜を獲得した。雲南諸軍の総括を命じられた。また九渓の洞蛮を平定し、堡塁を建設し、屯田を実施した。帰還すると、藍玉党に連座して処刑された。
 
 朱寿は何処の出身か判明していない。万戸として長江渡河に従い、江東地方の郡邑を陥落させ、総管に昇進した。常州路・婺州路を攻略し、武昌路に勝利し、蘇州府・湖州路を平定し、南北に転戦を繰り返し、功績を重ねて横海衛指揮使となり、都督僉事に昇進した。張赫と共に漕運を監督し、功績を挙げた。洪武二十年に舳艫侯に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられた。藍玉党に連座して処刑された。

 曹興は別名を曹興才と言い、何処の出身か判明していない。武昌路平定に従軍し、指揮僉事を授かった。平江路を奪取すると、指揮使に昇進した。蘇九疇が立て籠もる炭山寨に勝利した。都督僉事に昇進し、太原衛指揮使を兼任した。山西行中書省参知政事に昇進すると、太原衛を監督し、晋王(朱棡)相となった。洪武十一年、沐英の洮州羌族討伐に従軍し、朶甘の酋長を降伏させ、三副使らを捕らえた。軍が帰還すると、懐遠侯に封じられ、指揮使の世襲を許された。山西地方の軍務を監督し、北征に従軍して功績を挙げた。数年後、藍玉党に連座して処刑された。
 同時期に藍玉党に連座した者の中で、都督の地位に在った者は、黄輅・湯泉・馬俊・王誠・聶緯・王銘・許亮・謝熊・汪信・蕭用・楊春・張政・祝哲・陶文・茆鼎ら十余人を数え、その多くが藍玉の麾下で副将を務めたものである。こうして、僅かな例外を除いて、勇気と力量に優れた武臣はほぼ一掃されたのであった。

【注釈】
(※1)本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。

【校勘記】
〔一〕征南左副将軍、左の字は元は「右」であった。本書巻百二十九、傅友徳伝には「左副将軍藍玉、右副将軍沐英を率い」とあり、本書巻二、太祖紀・『太祖実録』巻百三十九、洪武十四年九月壬午条は何れも「左副将軍」としており、これらに基づき改めた。
〔二〕哈昝、元は「哈咎」であり、本書巻百五十五、宋晟伝・巻三百三十、安定衛伝・『国榷』巻九、七百二十九頁に基づき改めた。
〔三〕眉州の娥眉山、二つの「眉」の字は、元は「嵋」であり、本書巻四十三、地理志に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-03-19 14:06 | 『明史』列伝第二十

王弼

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 王弼、その先祖は定遠県の人であったが、後に臨淮県に移り住んだ。王弼は双刀の扱いに長じており、双刀王と号していた。当初は郷里を結束し、三台山に篭って柵を築き、自らを守った。翌年、所部を率いて帰順した。太祖(朱元璋)はその才能を知り、宿衛に留め置いた。湖州路の戦いで張士誠を破り、池州路の石埭県を奪取し、婺源州を攻略し、守将鉄木児不花(テムルブカ)を斬殺してその城を突破し、甲冑三千領を鹵獲した。元帥に抜擢された。蘭渓州・金華県・諸曁州を陥落させ、池州路を救援し、太平府を奪還し、竜興路・吉安路を陥落させた。鄱陽湖の大戦では、涇江口で陳友諒を迎え撃った。武昌路平定に従軍し、帰還すると廬州路に勝利し、安豊路を突破し、襄陽路・安陸府を破った。淮東地方を奪取し、旧館の戦いに勝利し、張士誠の部将の朱暹を降伏させ、遂に湖州路を奪取した。驍騎右衛親軍指揮使に異動した。
 進撃して平江路を包囲すると、王弼は盤門に布陣した。張士誠は自ら精鋭を率いて包囲の突破を図り、西門から出撃して接戦を挑み、常遇春軍を後退させようとした。常遇春は兵を北濠に分けてその背後を遮断し、これとは別に兵を送って交戦した。張士誠軍は死に物狂いで奮闘したので、常遇春は王弼の肘を打って言った。「軍中では汝を猛将と称えておるが、我の為にやってくれぬか。」王弼は答えた。「良いでしょう。」すると王弼は馬を走らせて双刀を振るい、敵はやや後退した。常遇春は軍を率いて隙に乗じたので、呉(張士誠)軍は大敗を喫し、沙盆潭に追い詰められて溺死した兵馬は非常に多かった。張士誠の馬も脚を踏み外して落水し、僅かながらも救う事は出来なかったので、肩輿に乗って入城し、それ以降は二度と出撃しようとはしなかった。呉地方が平定されると、王弼は非常に手厚い褒賞を賜った。
 大軍の中原制圧に従い、山東地方を陥落させ、黄河の南北を攻略し、遂に元朝の首都を奪取した。山西地方に勝利し、拡廓帖木児(ココテムル)を敗走させた。河中府より黄河を渡り、陝西地方に勝利し、察罕脳児(チャガンノール)に進撃し、軍を帰還させた。洪武三年に大都督府僉事を授かり、指揮使の世襲を許された。(洪武)十一年に西平侯沐英の西番(チベット)遠征を補佐し、朶甘(ダカン)諸酋及び洮州十八氏族を降伏させ、非常に多くの敵兵を捕殺した。論功行賞により、定遠侯に封じられ、食禄二千石とされた。(洪武)十四年に傅友徳の雲南遠征に従軍し、大理に到達すると、土酋段世が竜尾関に立て籠もっていた。王弼は兵を洱水より上関へ向かわせ、沐英の兵と共にこれを挟撃し、その城を突破し、段世を捕らえ、鶴慶路・麗江路の諸郡は相次いで平定された。五百石を加増され、世券を与えられた。
 (洪武)二十年、副将軍として馮勝の北伐に従軍し、納哈出(ナガチュ)を降伏させた。翌年、再び副将軍として藍玉の塞外遠征に従軍した。奥地まで進撃するも敵を発見出来なかったので、藍玉は撤兵を考えた。王弼は反対し、藍玉はそれに従った。更に進撃して捕魚児海(ブユル湖)に到達すると、王弼は先鋒となって、敵の陣営を直撃し、元朝の後継者である脱古思帖木児(トグステムル)を敗走させ、その輜重の悉くを鹵獲したが、その経緯は藍玉伝に詳しい。(洪武)二十三年に詔を奉じて帰郷した。(洪武)二十五年には馮勝・傅友徳に従い、山西・河南地方で練兵を実施した。翌年、同時に召還され、前後して死を賜った。爵位は剥奪された。王弼には六人の子が有り、娘は楚王(朱楨)妃となっている。


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by su_shan | 2017-03-16 23:20 | 『明史』列伝第二十

周徳興

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 周徳興、濠州の人。太祖(朱元璋)と同郷で、幼少時より面識が有った。滁州・和州平定に従軍した。長江を渡河すると、数戦して何れも功績を挙げ、左翼大元帥に遷った。金華府・安慶路・高郵府奪取に従軍し、安豊路を救援し、廬州路を制圧し、指揮使に昇進した。贛州路・安福州・永新州討伐に従軍し、吉安路を突破し、改めて湖広行中書省左丞に昇進した。楊璟と共に広西地方を征討し、永州路を攻撃した。元朝の平章政事阿思蘭(アスラン)及び周文貴が全州路より来援した。周徳興はこれを打ち破り、朱院判を斬殺し、追撃して全州路に到達し、遂に勝利を収めた。道州路・寧州・藍山県は全て陥落した。進撃して武岡州に勝利し、兵を分けて要害を抑え、靖江からの応援を遮断した。広西地方の平定に際して、多くの功績を挙げたのであった。
 洪武三年、江夏侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。同年、慈利土酋の覃垕が芧岡諸寨と結託して叛乱し、長沙洞の苗族も同調して蠢動を始めた。太祖は周徳興に征南将軍〔一〕を命じ、軍を率いてこれを討伐させた。翌年に蜀(明昇)を討ち、湯和を補佐して征西左将軍となり、保寧府に勝利した。これに先んじて、既に傅友徳が階州・文州に勝利していたが、湯和の率いる水軍は進撃していなかった。保寧府を陥落させるに及んで、両軍は初めて合流を果たしたのである。蜀地方が平定されると、論功行賞に際して、洪武帝(朱元璋)は湯和の功績が周徳興に帰するものと考え、周徳興を称賛する一方で湯和を叱責した。更に蛮族討伐を重ね、覃垕戦役では、楊璟は勝利出来ず、趙庸は道中で引き返し、その功績で周徳興に比肩する者は居なかった。また鄧愈を補佐して征南左将軍となり、趙庸・左君弼を率いて南寧府に進出し、婪鳳・安田諸州の蛮族を平定し、泗城州に勝利すると、またしてもその功績は諸将を上回った。周徳興の獲得した褒賞は大将の二倍に達し、中立府代行を命じられ、行大都督府事となった。周徳興の功績は膨大であり、更に洪武帝の旧知という事もあり、度を越して豪華な邸宅を造営したものである。役人がその罪状を並べ立てたが、詔を発して特赦したのであった。
 (洪武)十三年に福建地方の軍務の監督を命じられ、次いで召還された。翌年、五渓の蛮族が叛乱すると、周徳興は老齢でありながら、強引に出征を申し出た。洪武帝は感心して周徳興を派遣し、自ら書状を記して伝えた。「趙充国は西羌を制圧せんと企図し、馬援は交阯を討伐せんと申し出たものである。朕は常にその故事を素晴らしく思う。今の人間には難しい事だからだ。卿の忠勤は一度も衰えておらず、どうして先賢に引けを取る事が有ろうか。乱を鎮め民を安んじる機会は、今ここに有るのだ。」五渓に到達すると、全ての蛮族が逃げ散って行った。たまたま四川地方の水尽源・通塔平諸洞の蛮族が叛乱すると、周徳興に命じてこれを討伐させた。(洪武)十八年、楚王(朱楨)が思州府の五開蛮を討伐した際には、再び周徳興を副将軍としたのであった。
 周徳興は楚地方に長く在留し、運用していた楚地方出身の兵卒は、周辺の蛮族を震え上がらせたものである。武昌衛などの十五衛を制定し、一年で四万四千八百人の兵卒を練兵した。荊州府〔二〕の嶽山壩を切り崩して田地に引水し、一年に税収を四千三百石増加させた。楚地方の人々はこれに感謝した。帰郷すると、黄金二百両、白金二千両、文綺百匹を下賜された。しばらくの間は何も無く、洪武帝は周徳興に言った。「福建での戦功は未だに完結しておらぬ。卿は老いたりと言えども、今一度朕の為に腰を上げてはくれぬか。」周徳興は閩(福建)に到着すると、戸籍を調査した上で集めて練兵を行い、民兵十万人余り〔三〕を確保した。要害の地を視察し、十六ヶ所に築城し、四十五ヶ所に巡検司を設置した事で、初めて海防措置が備わったのである。三年後に帰還すると、再び鳳陽留守司の統括を命じられ、併せて属衛の兵卒を訓練した。勲功の臣の内、生存している者は周徳興が最年長であり、毎年入朝し、財物の下賜が途絶えた事は無かった。(洪武)二十五年八月、子の周驥が宮中で狼藉を働いた為に、周徳興は連座して誅殺されたのであった。

【校勘記】
〔一〕征南将軍、南の字は元は「蛮」であり、本書巻一、太祖本紀・巻三百十、湖広土司伝・『太祖実録』巻五十七、洪武三年十月癸亥条に基づき改めた。
〔二〕荊州府、荊州の字は元は「荊山」であり、本書巻八十八、河渠志・『明史稿』伝十五、周徳興伝・『太祖実録』巻百六十、洪武十七年三月丁未条に基づき改めた。
〔三〕民兵十万人余り、本書巻九十一、兵志は「兵一万五千人」とある。


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by su_shan | 2017-03-16 11:46 | 『明史』列伝第二十

朱亮祖

『明史』巻一百三十二、列伝第二十

 朱亮祖、六安県の人。元朝より義兵元帥の地位を授けられた。太祖(朱元璋)は寧国路に勝利した時に朱亮祖を捕らえたが、その勇敢さを惜しみ、金幣を与え、旧来の官位のまま登用した。数ヶ月後、朱亮祖は叛いて元朝側に出奔し、何度も交戦した上に、捕虜六千人余りを得て、宣城県を拠点としたのであった。太祖は正に建康を攻略しようとしていた最中であり、追討の余裕は無かった。後に徐達らを派遣してこれを包囲させた。朱亮祖は包囲を破らんと突撃し、常遇春が負傷して帰還し、諸将の中に敢えて前進しようとする者は居なかった。太祖は自ら出向いて督戦し、朱亮祖を捕らえ、縛り上げて引見し、質問した。「汝はどうしたいのか。」朱亮祖は答えた。「生あらば力を尽くそうぞ。そうで無ければ死するのみ。」太祖は感心して朱亮祖を解放した。功績を重ねて枢密院判官を授かった。南昌路・九江府攻略に従軍し、鄱陽湖に戦い、武昌路を陥落させ、広信衛指揮使に昇進した。李文忠が新城県の戦いで李伯昇を破ると、朱亮祖は勝勢に乗じてその陣営数十ヶ所を焼き払い、同僉元帥ら六百人余り・兵卒三千人・馬八百頭を捕らえ、鹵獲した輜重や甲冑は数え切れない程であり、李伯昇は僅か数騎だけで遁走して行った。太祖はその戦功を評価し、手厚く宝物を与えた。胡深が陳友定討伐の為に軍の合流を要請すると、朱亮祖は鉛山州を経由して浦城県に進出して奪取し、崇安県・建陽県に勝利し、最大の戦功を挙げた。合流後は桐廬県を攻撃し、余杭県を包囲し、浙江行中書省参知政事に異動し、李文忠を補佐して杭州府を鎮守した。数万人の水陸両軍を率いて方国瑛を討伐し、天台県を陥落させ、台州路へ進攻した。方国瑛は敗走し、追撃して黄巌州に到達すると、その守将哈児魯(ガルルク)を降伏させ、仙居県付近の諸県を次々と陥落させた。兵を温州路へ進めた。方明善が抵抗したので、これを撃破し、その城に勝利した。瑞安州を陥落させ、再び盤嶼の戦いで方明善を破り、追撃して楚門に到達した。方国瑛及び方明善は軍門に出頭して降伏したのであった。
 洪武元年に征南将軍廖永忠を補佐して海路より広東を奪取した。何真が降伏すると、その支配地域の全てを平定した。進攻して広西を奪取し、梧州に勝利した。元朝の尚書普賢帖木児(普賢テムル)を戦死させ、鬱林州・潯州路・貴州諸郡を平定した。平章政事楊璟と軍を合流させて靖江を攻撃して勝利し、廖永忠と共に南寧路・象州に勝利した。こうして広西地方は平定された。軍が帰還すると、太子(朱標)が百官を引き連れて竜湾に出迎えた。(洪武)三年に永嘉侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)四年に蜀(明昇)を討伐した。洪武帝(朱元璋)は諸将にしばらく戦功が無いとして、朱亮祖に征虜右副将軍を命じた。増援軍は蜀に到着したが、明昇は既に降伏していた。未だに帰順しない州県を巡って降伏させた。軍が帰還すると、勝手に将校を殺害した咎により表彰されなかった。(洪武)八年に傅友徳と共に北平府を鎮守した。帰還すると、李善長と共に屯田を監督し、海路を巡察した。(洪武)十二年に広東に出向いて鎮守した。
 朱亮祖は勇敢で戦上手ではあったが学問を知らず、何度も法を犯したので、番禺知県の道同が告発する事になった。朱亮祖は道同を誣告し、道同は処刑されたが、事の次第は道同伝に詳しい。洪武帝は後に事態を悟り、翌年九月に朱亮祖を召還し、子の府軍衛指揮使朱暹と共に鞭打って死に至らしめた。洪武帝自ら墓誌を作り、侯爵の待遇を以て埋葬した。(洪武)二十三年、朱亮祖が胡惟庸の一党として追認されると、次男の朱昱もまた誅殺されたのであった。


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by su_shan | 2017-03-16 01:08 | 『明史』列伝第二十