元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第一( 6 )

列伝第一 目次

・后妃序



・后妃一

太祖孝慈高皇后
 孫貴妃
 李淑妃
 郭寧妃

恵帝馬皇后

成祖仁孝徐皇后
 王貴妃
 権賢妃

仁宗誠孝張皇后

宣宗恭譲胡皇后
 孝恭孫皇后
 呉賢妃
 郭嬪

英宗孝荘銭皇后
 孝粛周太后

景帝汪廃后
 粛孝杭皇后

憲宗呉廃后
 孝貞王皇后
 孝穆紀太后
 孝恵邵太后
 万貴妃


・后妃二

孝宗孝康張皇后

武宗孝静夏皇后

世宗孝潔陳皇后
 張廃后
 孝烈方皇后
 孝恪杜太后

穆宗孝懿李皇后
 孝安陳皇后
 孝定李太后

神宗孝端王皇后
 劉昭妃
 孝靖王太后
 鄭貴妃

光宗孝元郭皇后
 孝和王太后
 孝純劉太后
 李康妃
 李荘妃
 趙選侍

熹宗懿安張皇后
 張裕妃
 
荘烈帝愍周皇后
 田貴妃
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by su_shan | 2008-09-18 01:20 | 『明史』列伝第一

后妃序

『明史』巻百十三、列伝第一

后妃序


 明の太祖は前代の女禍を鑑み、綱紀を立てるに際して、まず内教(※1)を厳と為した。
洪武元年、儒臣に命じて女誡を編修させたところ、翰林学士朱升を諭して言うには、
「天下を治める者は、良き家庭を第一としなければならない。
 良き家庭とは、夫婦の謹みから始まるものである。
 后妃は天下の模範であるが、だからと言って政事に参与してよいものではない。
 それらに仕える女官に至っては、謹んで職務に精励していればよく、
 もし過ぎたる恩寵を与えるようなことがあれば、
 驕慢を生んで分を誤り、上下の秩序を乱しかねない。
 歴代の宮闈(※2)では、まつりごとが内側から行われたことで、
 禍となることが多かった。
 明主はよく察して未然に防いだが、多くはその惑わす所と為った。
 卿ら、女誡および賢妃の故事を編纂して法と為すは、
 後世の子孫に至るまで堅守させねばならない。」
そこで朱升らは編纂のうえ、献上した。

 洪武五年六月、礼部の臣に命じて宮官女職の制を議論させた。
礼部の臣が言うには、
「周の時代、後宮には内官(※3)を設けて内治を補佐させました。
 漢は内官十四等を置き、その数は数百人に及びました。
 唐は六局二十四司を置き、官は百九十人、
 また良家の婦女から選ばれた女史が五十数人ございました。」
洪武帝はその規模が大きすぎるとして、重ねて裁定を加えるよう命じた。
ここにおいて制度が折衷され、六局一司が成立した。
六局の名称は、尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功と言い、一司は宮正と言った。
品秩はすべて正六品であった。
一局ごとに四司を有していたため、合計で二十四司があった。
尚宮は六局を統轄する役割が与えられた。
訓戒や罰則は宮正が掌握した。
官は七十五人、女史は十八人であり、唐代に比較すると百四十数人が削減され、
ただ宮中にて職務に励み、規則に従うだけであった。
妃たちの位は賢・淑・荘・敬・恵・順・康・寧を号した。
その寝室は粛然として深遠とも言うべき様子であった。

 また工部に命じて紅牌を作り、后妃を誡める言葉を刻み、宮中に掛けた。
牌は鉄製で、字は金を用いて飾られた。
また法典を著し、后妃以下嬪御女史に至るまで、衣食の費用、
金銀・貨幣・絹、物品の類はすべて尚宮を通して調達すること、
その文書は内使監が監査した上で覆奏し、
最後に然るべき部署に移送することが定められた。
もし尚宮が上奏せずに独断で決裁したり、
内使監が覆奏しなかった場合は、その部署の責任者が死罪となった。
また私文書を外部に持ち出した場合も、同様の罪が課せられた。
宮嬪以下で発病した者がいても、医師は入宮することができず、
病状を記した文書をもとに薬を処方した。
なんという念の入り様であろうか。
このため、明代を通して宮中は厳粛に保たれていた。
論者は言う、明の家法の優れたること、漢・唐を遥かに凌駕する、と。

 ここに孝慈(※4)より愍后(※5)に至るまでの伝を記す。
その一族・出身、次いで世代を考察するものである。
残された記録の多少により、各伝の内容に統一性を欠くが、
およそ正号を有する者は篇として並列させる。
妃嬪であっても特筆すべき者は付記しておく。


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※1 内教 : 内訓、または女訓。女子に対する教えのこと。
※2 宮闈 : 宮中の奥。
※3 内官 : 中官、または宦官。去勢した男子のこと。
※4 孝慈 : 孝慈高皇后。洪武帝の正妻。
※5 愍后 : 愍周皇后。崇禎帝の正妻。
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by su_shan | 2008-08-17 15:50 | 『明史』列伝第一

孫貴妃

『明史』巻百十三、列伝第一

孫貴妃


 成穆貴妃孫氏、陳州の人。
元朝末期の兵乱に巻き込まれ父母と死別し、次兄の孫蕃を頼って揚州へ移り住んだ。
青軍(※1)が揚州を占拠すると、元帥馬世熊(※2)に見出され、養女となった。
十八歳のとき、太祖のもとへ納められた。
太祖が洪武帝として即位するに及んで、孫氏は貴妃に封じられ、諸妃の上位に列せられた。
洪武七年(1374)九月、三十二歳の若さで病没した。
子は無かったが、太祖は周王朱☆(※3)に三年間の服喪を命じ、
東宮(※4)、諸王には一年間の服喪を命じた。
庶子であっても三年間は母の喪に服し、諸子が一年間義母の喪に服す慣例は、
孫貴妃のときに始まった。
兄の孫瑛は三百石の田祖を下賜され、毎年供養に供された。
孫貴妃は褚岡に埋葬されたが、太祖の死後は孝陵に附葬された。
孫貴妃の死に際して、太祖は儒臣に勅して『孝慈録』を作らせたという。


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※1 青軍 : 元朝の義勇兵団。紅巾の賊徒に対抗するために青軍と称すことが多かった。
※2 馬世熊 : 『皇明開国功臣録』巻二十四によると、濠梁の出身。
          至正十七年(1357)に太祖に帰順したとある。
※3 朱☆ : 朱シュク(木ヘンに粛)。太祖の第五子。生母は不詳。
※4 東宮 : 皇太子朱標のこと。
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by su_shan | 2008-08-16 20:04 | 『明史』列伝第一

李淑妃

『明史』巻百十三、列伝第一

李淑妃


淑妃李氏、寿州の人。
父の李傑は洪武年間の初め、広武衛指揮として北征に参加し、陣没した。
洪武十七年(1384)九月、孝慈皇后の喪が解かれたため、淑妃に封じられ、
仮に六宮の事務を掌握した。
それから幾ばくもなく病没。


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by su_shan | 2008-08-16 17:44 | 『明史』列伝第一

恵帝馬皇后

『明史』巻百十三、列伝第一

恵帝馬皇后


 恵帝皇后馬氏、光禄少卿馬全の娘。
洪武二十八年(1395)、皇太孫妃を授けられた。
建文元年(1399)二月、皇后となった。
同四年六月、応天府(※1)陥落の際、火中にて崩じた。


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※1 応天府 : 南京。靖難戦役において、燕王(永楽帝)により陥落する。
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by su_shan | 2008-08-07 19:41 | 『明史』列伝第一

郭寧妃

『明史』巻百十三、列伝第一

郭寧妃


 寧妃郭氏、濠州の郭山甫の娘。
山甫は人相を見るのに長けていた。
太祖がその家の近くを通ったとき、山甫は大いに驚いたという。
「あなたの相のなんと貴いことか!」
山甫は子の興・英に言った。
「お前たちはいずれ侯(※1)に封じられるであろう。」
彼らはそのまま渡江に従い、娘は太祖に仕えた。
彼女は後に寧妃に封じられた。
李淑妃が亡くなると、寧妃が六宮を掌握した。
山甫は営国公を贈られ、興・英も戦功を以って侯に封じられた。
彼らにはそれぞれ伝がある。


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※1 侯 : 明代の三等爵制における侯爵位を指す。国公に次いで二番目。
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by su_shan | 2008-08-07 19:36 | 『明史』列伝第一