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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第二十二( 11 )

列伝第二十二 目次

何文輝 徐司馬 葉旺 馬雲 繆大亨 武徳 蔡遷 陳文 王銘


甯正 袁義 金興旺 費子賢 花茂 丁玉 郭雲 王溥


 論賛、何文輝・徐司馬は左右を補佐した重臣であり、葉旺・馬雲は辺防に著しい功績を残し、繆大亨はその端直を思念され、郭雲は治績によって偏愛を賜わった。他に、蔡遷・王銘・甯正・金興旺といった人物は、ある者はよく戦い、ある者はよく守り、ある者はよく慰撫したので、全員が当代の良将なのである。蓋し、明朝の勃興期に於いて、人材は次々と現れたが、鉄券・丹符を与えられた者以外で、称賛すべき人物はこの様なものである。詩人による『兔罝』の詠唱を聞くが如く、どうして多くを譲る事があろうか。


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by su_shan | 2017-06-12 22:32 | 『明史』列伝第二十二

郭雲 王溥

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 郭雲は南陽府の人である。身長は八尺余りで、魁偉な容貌であった。元朝末期に義兵を集めて裕州泉白寨〔一〕を守り、昇進を重ねて湖広行中書省平章政事となった。元主が北帰すると、河南の郡県は全て降伏したものの、郭雲だけは堅守していた。大将軍徐達が指揮使曹諒を派遣してこれを包囲すると、郭雲は出戦し、捕縛された。大将軍徐達は郭雲を叱咤して跪かせた。郭雲は立ち上がり、好き勝手に喚き散らして刑死を求めた。白刃で脅迫されても動揺しなかった。大将軍徐達はこれを勇ましく思い、拘束して京師へ押送した。太祖(朱元璋)はその容貌を奇として、郭雲を釈放した。当時、洪武帝(朱元璋)は『漢書』に目を通しており、文字は知っているかと尋ねると、郭雲は答えた。「知っております。」そこで郭雲に書物を授けた。郭雲はその書物を読み上げてよく学習した。洪武帝は非常に喜び、手厚く恩賞を与え、登用して溧水知県を命ずると、その行政手腕は評判を得た。洪武帝は郭雲を益々賢材であると考え、特別に南陽衛指揮僉事に抜擢し、郷里に戻して嘗ての部隊を召集させ、当地の鎮守に充当した。郭雲はその数年後に没した。
 長男の郭洪は十三歳であった。洪武帝は制を下して言った。「郭雲は田間より立身し、義旗を唱えて郷曲を保ち、皇朝の軍が北伐すると、人神はみな嚮応したが、ただ郭雲だけはしばしば交戦して屈せず、勢いは窮して援護は絶たれても、遂に志を曲げる事は無かった。朕はその節を称え、試しにこれを役所に就けたところ、民衆はその施政を喜び、故郷を鎮守させれば、軍民は安心して生業に励んだ。汗馬の勲は無いとは言うものの、倒戈の功、治績は顕著であって、その忠義は凛然としておる。子、郭洪は開国の功臣に列するべし、宣武将軍・飛熊衛親軍指揮使司指揮僉事を授け、世襲を許す。」同時期に降将として世職を与えられた者に王溥がある。

 王溥は安仁県の人である。陳友諒に仕えて平章政事となり、建昌路を鎮守した。太祖が将帥に命じてこれを攻撃させても、勝利出来なかった。朱亮祖が饒州路の安仁港を攻撃したものの、またもや劣勢を強いられた。陳友諒の部将である李明道の信州府侵攻に際して、王溥の弟である王漢二が軍中にあり、共に胡大海に捕縛され、行中書省の李文忠に帰順したので、李文忠は二人に命じて王溥を招聘した。この年、太祖は江州路を突破すると、陳友諒は武昌路へ敗走したので、王溥は遣使して降伏し、従来のまま建昌府の鎮守を命じられた。翌年、太祖が竜興路に到達すると、王溥はその軍を率いて謁見し、何度も慰労された。扈従して建康(応天府)に帰還すると、聚宝門の外に邸宅を賜わり、その街は「宰相街」と呼ばれ、特別に偏愛を受けた。次いで撫州路及び江西地方の帰属していない郡県を攻略する為に派遣された。従軍して武昌路に勝利すると、中書右丞に昇進した。洪武元年には詹事府副詹事兼任を命じられた。大将軍(徐達)に従って北征し、何度も戦功を挙げた。文幣を賜わり、河南行中書省平章政事に抜擢されたものの、業務は担当せず、李伯昇・潘元明同様に歳禄のみ支給された。
 当初、王溥の仕官以前の事、母の葉氏を連れて貴渓県に避難した際、兵乱に遭遇して母と逸れ、その後十八年間というもの、夢の中で母に所在を問い続けていた。その後、従容として洪武帝に事情を伝え、帰省して墳墓を捜索したいと願い出た。洪武帝はこれを許可すると、礼部の官に命じて祭物を用意させた。王溥は兵卒を率いて貴渓県へ向かったものの、手掛かりは得られず、昼夜を問わず号泣した。居民の呉海という人物が、夫人は賊が迫ると井戸に身を投げて死んだと言った。王溥は井戸を探り当てると、鼠が井戸から飛び出して、王溥の懐に飛び込み、また井戸の中へ帰って行った。井戸を汲んで捜索すると、果たして母の死体が発見され、王溥は哀哭して止まなかった。そうして棺に納めると、その地に埋葬したのであった。王溥が没すると、子孫は世襲指揮同知となった。

【校勘記】
〔一〕泉白寨、元は「白泉寨」であった。『太祖実録』巻九十、洪武七年六月是月条は「泉白寨」としている。『明一統志』巻三十に拠れば、南陽府には泉白山があり、裕州の北四十里に位置する。この箇所の白泉二字の入れ違いは今訂正する。


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by su_shan | 2017-06-12 22:08 | 『明史』列伝第二十二

丁玉

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 丁玉、当初の名は丁国珍と言い、河中府の人である。韓林児に仕えて御史となり、衆人に卓越する名声があった。呂珍が安豊路を破ると、丁玉は帰順した。彭蠡(鄱陽湖)遠征に従い、九江知府となった。大軍が建康(応天府)に帰還すると、彭沢県の山民が蜂起したので、丁玉は郷兵を集めてこれを討伐した。太祖(朱元璋)はその武略を称え、指揮使兼任を命じ名を玉に改めさせた。傅友徳に従って衡州路に勝利し、指揮同知として当地を鎮守し、また永州路に調遣された。丁玉には文武の才能があり、新付者を慰撫するなど、その威光は非常に著しいものであった。
 洪武元年に都指揮使に昇進すると、次いで行中書省参知政事を兼任し、広西を鎮守した。(洪武)十年、召還されて右御史大夫となった。四川威茂土酋董貼里(董テリク)が叛くと、丁玉は平羌将軍としてこれを討伐した。威州に到達すると、董貼里は降伏した。命を受けて威州千戸所を設置した。(洪武)十二年には松州を平定し、丁玉は指揮使高顕らを派遣して当地に築城し、軍衛の設立を要請した。洪武帝(朱元璋)は松州一帯に山が多く田が少ない事から、耕種して軍に供給する事は出来ず、当地を鎮守するのは得策ではないと言った。丁玉は松州が西羌の要地であり、軍衛を廃止すべきでは無いと主張し、遂に丁玉の建議の通り、官を設けて防御施設を築いた。たまたま四川の妖人彭普貴が十四もの州県を掠奪すると、指揮使普亮らは鎮圧出来ず、丁玉に命じて軍を移してこれを討伐させた。洪武帝は自ら勅書を記して褒賞し、左御史大夫に転出させた。軍が帰還すると、大都督府左都督を拝命した。(洪武)十三年、胡惟庸の血縁を理由に誅殺された。


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by su_shan | 2017-06-12 20:50 | 『明史』列伝第二十二

花茂

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 花茂、巣県の人。当初は陳野先(陳エセン)に従い、次いで帰順した。江左平定に従軍し、陳友諒を滅ぼし、中原・山西・陝西を平定し、功績を重ねて武昌衛副千戸を授けられた。西蜀に遠征すると、瞿唐関に勝利し、重慶路に入城し、左・右両江及び田州を陥落させ、神策衛指揮僉事に昇進し、広州左衛に調遣された。陽春県・清遠県・英徳州・翁源県・博羅県の諸山寨の叛蛮及び東莞・竜川諸県の乱民を平定し、指揮同知に昇進した。電白県・帰善県の賊を平定し、また都指揮同知に異動し、世襲指揮使となった。しばしば連州・広西・湖広の瑤族を掃討した。花茂は提案した。「広東の南側は大海に面し、奸賊が出没し、東莞・筍岡諸県の逃亡した蜑戸は、海島に居付き、官軍に遭遇すれば偽って漁民と称し、蛮族と遭遇すれば共に掠奪を働き、唐突なること常ならず、摘発が困難でございます。戸籍に登録して兵員とするに越した事は無く、願わくば御裁可いただきますよう。」また沿海地方では山に拠って広海・碣石・神電等の二十四衛所を設置し、城を築き池を浚い、海島の逃亡者や無戸籍者などを収容して軍とし、山海の要害の地に堡塁を立てて軍を駐屯させ、不慮の事態に備えるよう提案したところ、全て許可された。都指揮使に昇進した。しばらくして没すると、安徳門に埋葬される名誉を賜わった。
 長男の花栄が職位を継承した。次男の花英は決断力に優れ意志が強く、父に似ていた。戦功によって広東都指揮使となり、永楽年間に名声を得たのであった。


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by su_shan | 2017-06-12 20:46 | 『明史』列伝第二十二

金興旺 費子賢

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 金興旺は来歴が定かでは無い。威武衛指揮僉事となり、指揮同知に昇進した。洪武元年、大将軍徐達が河南から陝西へ侵入すると、増援して潼関の守備を要請したので、金興旺と副将郭興にこれを守らせ、指揮使に昇進した。翌年に臨洮府を攻撃すると、金興旺は鳳翔府に移鎮し、軍糧を運搬した。しばらくして、賀宗哲が鳳翔府を攻撃すると、金興旺と知府周煥は籠城した。敵軍は茨を編んで大きな箕を作り、その形状は半ば船の様であった。箕毎に五人が入り、これを背負って城を攻撃したので、矢石が通用しなかった。藁を投げ入れて焼き払おうとしても、忽ちにして舞い上がってしまった。そこで藁の中に鉤を仕込み、箕の隙間を狙って投げ込むと、遂に火が立ち昇り、敵軍は箕を捨てて敗走した。また坑道を掘って城に迫ると、城内では矛を突き出して迎え撃ち、敵軍は大量の戦死者を出したものの、攻勢を中断しなかった。金興旺と周煥は策を練って言った。「連中は我々の援軍が到来せず、絶対に出撃する事は無いと言っている。その不意に乗じて攻撃すれば、打ち破れようぞ。」密かに西北門を出ると、奮戦の結果、敵軍はやや退いた。たまたま百戸王輅が臨洮府より李思斉の降兵を収容して帰還したので、その軍を入城させて共に防御した。敵軍が陣営を引き払って移動すると、皆は追撃しようとしたが、王輅は言った。「敗れてもいないのに退くのは、我々を誘っているからです。」騎兵を出して偵察させると、五里坡に差し掛かった所で、果たして伏兵が現れ、敵軍は戻って再び城を包囲した。皆は城を棄てて逃げようとしたので、金興旺は叱咤した。「陛下よりお預かりした城を、どうして投げ出す事など出来ようか!」王輅の配下は皆新参であり、変事を警戒して、城内の貨畜の全てを庭に積み上げ、命じて言った。「敵軍はやや緩んでおるから、今の内に新兵を労おうぞ。」新兵は歓喜して、防御に協力した。対峙すること十五日、敵軍は慶陽府が陥落した事を聞くと、撤退した。洪武帝(朱元璋)は遣使して金綺を以て金興旺らを労った。
 翌年、徐達が沔州に侵攻すると、金興旺と張竜を派遣して鳳翔府より連雲桟に侵攻させ、興元路を合撃した。守将が降伏すると、金興旺が当地を鎮守し、大都督府都督僉事に抜擢された。蜀(明昇)将呉友仁が三万の軍を率いて興元路に侵攻すると、金興旺は城内の兵三千を結集して敵軍を防いだ。顔面に流矢を受けるも、矢を抜いて再び戦い、数百人を斬首した。敵軍は多勢であり、兵を収容して入城した。呉友仁は濠を決壊させ、堀を埋め、必勝の策を準備した。徐達は報告を受けると、傅友徳に命じて木槽関を夜襲し、斗山寨を攻撃し、一人当たり十本の篝火を持たせて山上に連ねた。呉友仁は驚愕して遁走した。金興旺は出兵してこれを追撃し、岩塊を落として殺害した敵兵は数え切れず、呉友仁は意気を喪失した。当時、金興旺は威勢を以て隴蜀の地を鎮守した。国初の諸都督の内、守城の功労者としては、金興旺の他には費子賢が最たる例であろう。

 費子賢もまた来歴は定かでは無い。長江渡河に従い、広徳翼元帥となり、何度も功績を挙げた。武康県を奪取し、また安吉県を奪取し、城を築いて当地を鎮守した。張士誠の兵は侵攻する度に撃退された。最終的に、張左丞が八万の兵を率いて攻め寄せた時は、費子賢の部隊は僅か三千人であったが、堅固に防御した。城壁に車弩を設け、勇将二人を射殺すると、敵軍は退却した。戦功によって指揮同知に昇進した。福建を奪取し、大都・定西州に勝利して共に功績を挙げ、大都督府都督僉事を授けられ、世襲指揮使となった。


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by su_shan | 2017-06-11 07:04 | 『明史』列伝第二十二

甯正 袁義

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 甯正、字を正卿、寿州の人。幼くして韋徳成の養子となり、韋姓を名乗った。元朝末期に韋徳成に従って帰順し、長江渡河に従った。韋徳成が宣州(寧国路)で戦没すると、甯正がその軍を引き継ぎ、功績を重ねて鳳翔衛指揮副使を授けられた。中原平定に従軍し、大都へ入城すると、元朝の将兵八千人余りを投降させた。傅友徳が真定路から定州を攻略すると、甯正を真定路の守備とした。次いで、大軍に従って陝西を奪取した。馮勝が臨洮府に勝利すると、甯正を留めて当地を鎮守させた。大軍が慶陽府を包囲すると、甯正は邠州に駐屯し、敵軍の増援を阻止した。慶陽府が陥落すると、帰還して臨洮府を鎮守した。鄧愈に従って定西州を破ると、河州路に勝利した。
 洪武三年に河州衛指揮使を授けられた。甯正は提案した。「西方の民衆は軍への食糧供給に大きな負担を抱えております。一方で、茶や布であれば食糧に替え易いものでございます。そこで茶布を以て軍に供給させ、自ら貿易するよう命じれば、運搬の労苦は軽減されるでしょう。」詔によってこの提案は採用された。甯正が河州衛に赴任した当初、城邑は廃墟ばかりであり、慰労に努めた。数年を経ずして、河州府は楽土となった。璽書によって功労を評価され、初めて甯姓に戻す事になった。寧夏衛を兼任し、漢・唐代の旧渠を修築し、河水を引いて田に注ぎ、数万頃を開墾したので、軍の食糧は充足した。
 (洪武)十三年、沐英に従って北征し、元朝の平章政事脱火赤(トガチ)・知院愛足(アズ)を捕らえ、全寧路四部を奪取した。(洪武)十五年、四川都指揮使に異動し、松・茂諸州を討伐した。雲南が平定されると、甯正と馮誠に命じて共に当地を鎮守させた。思倫発が叛乱すると、甯正はこれを摩沙勒寨の戦いで破り、斬首一千五百を記録した。次いで、敵軍が大挙集結し、定辺県を包囲した。沐英は軍を三隊に分け、甯正は左軍を率い、奮戦の結果、大いにこれを撃破した事は、沐英伝に記されている。土酋阿資が叛くと、また沐英に従って討伐し、これを降伏させた。沐英が没すると、詔によって甯正は左都督を授かり、鎮守の任を代行した。次いで、また平羌将軍を拝命し、川陝地方の兵を総括して階州・文州の叛徒張者を討伐した。(洪武)二十八年、秦王(朱樉)に従って洮州の蛮族を討伐し、京師に帰還した。その翌年に没した。

 また袁義という人物は、盧江県の人で、元は張姓であり、張徳勝の一族である。当初、双刀趙の総管となり、安慶路を鎮守し、沙子港の戦いで趙同僉・丁普郎を破った。左君弼がこれを招聘したものの、従わなかった。張徳勝が戦死すると、初めて帰順し、帳前親軍元帥となって、姓名を賜った。何度も征伐に従軍し、功績を重ねて興武衛指揮僉事となった。大将軍(徐達)の北征に従軍し、通州の戦いで元朝の平章政事俺普達(アルブダ)らを破り、沢州・潞州の戦いで賀宗哲・詹同を敗走させ、最大の功績を挙げた。また陝西平定に従軍し、元朝の豫王の兵を破った。諸将と共に慶陽府を合撃した。俄かに張良臣の兵が袁義の陣営に迫ると、袁義は布陣を固めて動揺せず、その疲弊を待ち、力戦してこれを打ち破った。定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)の軍を敗走させ、南進して興元路を奪取し、本衛指揮同知に昇進し、羽林衛に調遣され、遼東に移鎮した。
 次いで、沐英に従って雲南に遠征し、普定路の諸城に勝利すると、残留して楚雄府を鎮守した。蛮人は何度も叛いたものの、袁義は軍糧を備蓄すると共に堡塁を高く築き、守っては戦い、戦功によって楚雄衛指揮使に異動した。入朝すると、洪武帝(朱元璋)は手厚く慰労した。老齢であった事から、太医院に命じて鬚鬢を染めさせると、任地へ戻ってからは威遠の人として評判になり、更に特別に銀印を賜わるなど袁義は格別に重用された。二十年を経て、田地を開墾して堰堤を築き、城郭や橋梁を整備したので、領内の計画は十分に達成された。軍民は袁義の徳行に感謝したものである。建文元年に召還されると、右軍都督府都督僉事となり、都督同知に昇進し、在任中に没した。


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by su_shan | 2017-06-10 23:17 | 『明史』列伝第二十二

王銘

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 王銘、字を子敬、和州の人。初めは元帥兪通海の麾下に属し、次いで采石鎮に蛮子海牙(マンジハイヤ)を攻撃した。王銘は勇敢であった事から、奇兵に選抜された。戦闘が始まると、決死隊を率いて喚声を上げながら突撃し、その水寨を突破した。これ以降、数々の功績を挙げた。呉軍(張士誠)と太湖に戦い、流れ矢が右肘に当たると、佩刀を引いてその矢尻を抉り出し、再び戦った。兪通海はこれを労った。また通州の黄橋・鵝項諸寨を突破した。白金文綺を賜った。竜湾に戦い、追撃して北方の采石鎮に到達すると、王銘は単独で突撃した。敵兵は槊を突き出して王銘を狙い、頬を負傷した。王銘は三度突撃して三度突入し、多くの敵兵を殺傷した。文綺銀椀を賜り、宿衛に選抜された。次いで江州路を奪取し、康郎山及び涇江口に戦い、また英山諸寨に勝利し、管軍百戸に抜擢された。副将軍常遇春に従って湖州路の昇山〔一〕に戦い、また旧館に戦い、次いで烏鎮に戦った。前後数十戦、功績は大きく、松江府の鎮守を命じられた。太倉に移鎮し、倭寇千人余りを捕殺し、再び金幣を賜った。
 洪武四年に都試百戸の任にあって槍術を得意とする者の中には、王銘に敵う者は居なかった。昇進を重ねて長淮衛指揮僉事に到達し、温州府に移鎮した。王銘は上疏して言った。「臣の拝領致しました鎮につきましては、外部に島夷を控えている状況であるにも関わらず、依然として城壁や楼櫓は狭小であり、ただ国威を発揚するに足りないばかりか、俄かに風潮の変でもございましたら、防ぐどころでは無く、直ちに改修しなければなりません。」洪武帝(朱元璋)は認可の旨を回答した。こうして城壁を補修して濠を浚ったので、旧来に倍する様相となった。加えて外垣を築き、海神山より郭公山に至るまでの二千丈余りは、広敞壮麗にして、屹然たる浙東の巨鎮となったのであった。洪武帝はこれを喜び、世襲を認めた。嘗て王銘は休暇の為に和州へ戻った事があった。温州府の士女は道を遮る様にして送迎した。長吏はみな互いに感嘆して言ったものである。「我々は官員ではあるが、民衆が我々の去来を眺める様は漠然としておるのに、王指揮の見送りの多き事には恥じ入るばかりよ。」王銘は右軍都督府都督僉事を歴任したが、(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕昇山、元は「弁山」であり、本書巻百二十三、張士誠伝・巻百二十五、徐達伝・常遇春伝は全て「昇山」としている。湖州路に昇山があり、また弁山(別名を卞山と言う)もある事を考えると、弁山では進軍経路と一致しない為、「昇山」として改めた。


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by su_shan | 2017-06-10 00:24 | 『明史』列伝第二十二

蔡遷 陳文

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 蔡遷〔一〕、その出身とする郷里は不明であり、元朝末期に芝麻李(李二)に従って徐州を占拠した。芝麻李が敗退すると、太祖(朱元璋)に帰順し、先鋒となった。長江渡河に従い、采石鎮を陥落させ、太平路に勝利し、溧水州を奪取し、蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨及び陳野先(陳エセン)を破り、その全てに功績を挙げた。集慶路を平定すると、千戸を授けられた。徐達に従って広徳路・寧国路を奪取し、万戸に異動した。常州路に進攻し、黄元帥を捕らえ、遂に都先鋒となった。馬駄沙遠征に従軍し、池州路に勝利し、樅陽を攻撃し、衢州路・婺州路遠征に従軍し、帳前左翼元帥を授かった。竜江の戦いで陳友諒を破り、進軍して太平府を奪還し、安慶路の水寨を奪取し、九江(江州路)を制圧し、瑞昌〔二〕県の戦いで陳友諒の八個の陣営を破り、遂に南昌(竜興路)に勝利した。安豊路救援に従軍し、合肥県を攻撃し、鄱陽湖に戦い、武昌路遠征に従軍し、指揮同知に昇進した。常遇春に従って鄧克明の残党を討伐し、贛州路に進攻し、南安路・南雄路の諸郡を奪取し、兵を返して饒鼎臣を茶陵州に追い、竜驤衛指揮同知に異動した。徐達に従って高郵府に勝利し、馬港〔三〕を破り、武徳衛指揮使を授けられ、淮安府を鎮守し、黄州府に移鎮した。次いで湘潭州・辰州・全州・道州・永州等の諸州を陥落させ、荊州衛指揮使に異動した。進軍して広西に勝利し、広西行中書省参知政事に異動し、靖江王府相を兼任し、叛いた諸蛮族を討伐した。洪武三年九月に没すると、詔によって遺体は京師に送還されて葬られ、安遠侯を贈られ、武襄と諡された。
 蔡遷は将帥としての十五年間で独任した事は無く、多くの場合は諸将に従って征討に赴いた。自身は数十戦を経験し、その度に勇敢に突進し、大刀を振るって左右を撃ち払ったので、敵兵は慄いて敢えて近寄ろうとはしなかった。帰還すると、全身に戦傷を負い、他人からすれば見るに堪えない程であったが、蔡遷は殆ど意に介さなかった事から、太祖の偏愛を受けたものである。蔡遷が没するに及んで、太祖はこれを痛惜し、自ら弔文を記して祀ったのであった。

 合肥県の陳文という人物は、南北に転戦し、しばしば戦功を立て、蔡遷に次ぐものである。陳文は幼くして父を失い、よく母に孝行し、元朝の末期に家族を連れて太祖に帰順し、昇進を重ねて官位は都督僉事に達した。没すると、東海侯に追封され、孝男と諡された。明朝の臣下で孝の諡を得た人物は、陳文ただ一人である。

【校勘記】
〔一〕蔡遷、本書巻百五、功臣世表・『太祖実録』巻五十五、洪武三年八月丙子条・巻五十六洪武三年九月丙午条は全て「蔡僊」としている。
〔二〕瑞昌、元は「寿昌」であった。『太祖実録』巻五十六、洪武三年九月丙午条に基づき改めた。『明史考証』巻四には、「孫興祖伝の記載では、統軍元帥であった時に瑞昌の八陣営を破り、とあり、これが八陣指揮を指すので、その事であろう。当時の情勢を考えると、陳友諒は江西・湖広地方を有していたので、瑞昌に陣営を置いて明兵を防いだのであろう、従って寿昌は誤りである。」とある。
〔三〕馬港、本書巻百二十五、徐達伝は「馬騾港」、『明史稿』伝二十五、蔡遷伝は「馬邏港」としている。


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by su_shan | 2017-06-09 12:22 | 『明史』列伝第二十二

繆大亨 武徳

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二


 繆大亨、定遠県の人。当初、義兵を糾合して元朝の為に濠州を攻撃したものの、果たせず、元軍が壊滅すると、繆大亨はただ二万の軍を率いて張知院と共に横澗山に布陣し、一月余り堅守した。太祖(朱元璋)は計略を用いてその陣営を夜襲し、これを打ち破ると、繆大亨は子と共に逃走した。翌朝、再び離散した兵卒を集めると、陣を構えて待ち受けた。太祖は叔父の繆貞を送って降伏するよう説得させ、部隊を率いて遠征に従軍するよう命じ、しばしば功績を挙げ、元帥に抜擢された。軍を率いて揚州路を攻略し、これに勝利した。青軍元帥張明鑑を降伏させた。
 当初、張明鑑は淮西地方の兵を集め、青色の布を目印にして「青軍」と自称し、また長鎗に巧みであった事から「長鎗軍」とも自称した。含山県から転じて揚州路を掠めたが、元朝の鎮南王孛羅普化(ボロトブカ)の招撫によって帰順し、濠泗義兵元帥となった。翌年、食糧が底を尽いたので、鎮南王を擁して叛乱を企てた。鎮南王は逃走先の淮安府で殺害されたので、遂に張明鑑は揚州城を拠点とし、住民を虐殺して飢えを凌いだ。繆大亨が太祖に告げた所によると、賊は飢餓に陥り、仮に四方へ掠奪に奔ればその統制は困難なれど、猛禽としては利用する価値が有るので、敢えて他人に獲得させる事は無い、というものであった。太祖は繆大亨に急襲を命じると、張明鑑は降伏し、数万の軍と馬二千頭余りを接収し、その将校らの妻子は全て応天府へ護送させた。淮海翼元帥府が江南分枢密院に改組されると、繆大亨は枢密院同僉となり、揚州府・鎮江府を総制した。
 繆大亨には治世の手腕が有り、寛容にして妄動しない一方で、厳粛に軍を統制し、暴虐を禁じて残虐を除いたので、民衆は非常に喜んだものである。しばらくして死没した。太祖は鎮江府に差し掛かると、悲嘆して言った。「繆将軍の一生は公明正大で、ただ一度の失敗も無かった。二度と見えぬ事が惜しいものである。」こうして使者を派遣してその墓を祀ったのであった。

 武徳、安豊県の人。元朝の至正年間に義兵千戸となった。元朝の崩壊が間近に迫っている事を悟ると、上官の張鑑に告げた。「我々の武勇は万夫に冠絶し、今や東西を挫いておりますが、時勢を鑑みるに、速やかに拠るべき所を選ぶに越した事はございません。」張鑑はその進言を聞き入れ、共に太祖に帰順した。李文忠に従い、池州路攻撃に従軍し、奮戦の最中に右股に流れ矢を受けたが、これを引き抜くと何事も無かったかの様に戦い続けた。於潜県・昌化県の攻略、厳州の勝利に寄与し、万戸に昇進した。苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)が烏竜嶺に布陣すると、武徳は言った。「襲撃を加えて奪取すべきです。」李文忠は根拠を尋ねた。武徳は答えた。「高所に登って観察致しますと、その部隊は落ち着きを見せず、騒々しい音を立てております。」李文忠は言った。「良いだろう。」こうして楊完者を襲撃し、その陣営を壊滅させた。蘭渓州を奪取し、諸曁州に勝利し、紹興路を攻撃し、その何れにも先頭を切って敵陣を粉砕し、右肘を負傷しても顧みる事は無かった。李文忠は感嘆して言った。「この様な武人を率いておれば、負け戦など有り得ぬ。」
 蔣英・賀仁徳が叛くと、浙東地方は大いに震撼した。李文忠に従って金華府を平定し、また処州府攻撃に従軍し、劉山で賀仁徳と遭遇すると、右股に戈を受けた。武徳は佩刀を抜いて戈を断ち切ると、これを追撃した。賀仁徳は再び戦い、また敗走し、最後は部下に殺害された。武徳は軍を帰還させて厳州府を鎮守した。二年後、官制が整備されると、管軍百戸に改められた。李文忠に従って諸曁州の戦いで張士誠の兵を破り、諸将と共に浦城県を救援し、道中の山寨は全て降伏させた。また李文忠に従って建寧・延安・汀州三路を陥落させ、全ての閩渓諸寨を平定し、管軍千戸に昇進し、衢州府の鎮守に移り、世襲を許された。最後は靖海侯呉禎に従って海上を巡視した。呉禎は武徳の才能を認め、平陽県を守らせた。在任八年にして引退した。雲南遠征に際して、洪武帝(朱元璋)は武徳が宿将である事から、諸軍に随行するよう命じたのであった。
 張鑑は、別名を張明鑑と言って、淮西地方の人である。太祖に帰順すると、遠征に際しては必ず武徳を伴い、武徳に先んじて他界した。官位は江淮行枢密院副使に昇った。


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by su_shan | 2017-04-18 12:42 | 『明史』列伝第二十二

葉旺 馬雲

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 葉旺、六安県の人。合肥県の馬雲と共に長鎗軍の謝再興に従い千戸となった。謝再興が叛くと、二人は自ら離脱して帰順した。しばしば遠征に従軍し、功績を重ねてどちらも指揮僉事を授かった。洪武四年には共に遼東を鎮守した。元朝の国主が北方へ逃走した当初、遼陽行中書省参知政事劉益は蓋州に駐屯する事で平章政事高家奴と互いに連携し、金県・復州等の地域を維持していた。洪武帝(朱元璋)は断事官黄儔に詔書を持たせて劉益に降伏を勧告させた。劉益は管内の兵馬・銭糧・輿地の数々を書物に記して帰順した。こうして遼陽指揮使司(※1)が設立されると、劉益は指揮同知となった。しばらくして、元朝の平章政事洪保保・馬彦翬が共謀して劉益を殺害した。右丞張良佐・左丞商暠が馬彦翬を捕らえて殺害すると、洪保保は黄儔を連行して納哈出(ナガチュ)の陣営へ向かった。張良佐は衛指揮使司に関する権限を掌握していた事から事態を報告し、重ねて申し立てた。「遼東の僻地は海沿いに在り、肘腋の地は全て敵と境界を接しております。平章政事高家奴は遼陽の山寨を守り、知院哈剌章(カラジャン)は瀋陽の古城に駐屯し、開元路は即ち右丞也先不花(エセンブカ)の、金山は即ち太尉納哈出の支配する所でございまして、彼らは互いに支援し合い、時として来寇を企んでおります。今や洪保保は逃げ去りましたが、必ずや紛糾が生じるでしょうから、断事官呉立殿を当地に留めて軍民を鎮撫させるよう要請致します。また捕縛致しました平章政事八丹(バダン)・知院僧孺らは拘束して京師へ護送致します。」洪武帝は呉立・張良佐・商暠を共に蓋州衛指揮僉事に命じた。更に遼陽の地を重鎮と見做し、都指揮使司を設置して各衛を統括させ、葉旺及び馬雲を都指揮使として赴任させた。次いで、黄儔が殺害された事が伝わり、納哈出の侵入が迫ると、葉旺らに勅を発して戦備を整えさせた。
 しばらくして納哈出は軍を率いて来襲したものの、強固な防御体制を目にすると敢えて攻撃せず、蓋州を無視して金州へ向かった。金州城は戦備が整っておらず、指揮使韋富・王勝らは兵卒を率いて各城門の守備を分担した。乃剌吾(ナイラウ)という人物は敵軍の猛将であり、精鋭数百騎を引き連れて城下で戦闘を挑んだが、潜ませていた弩が命中して落馬し、我が方の捕虜となった。敵軍は戦意を喪失した。韋富らが反撃に転じると敵は撤退したが、敢えて元の経路を取らず、蓋州城の南方十里を流れる柞河に沿って遁走した。葉旺は先んじて兵を配置し、柞河を抑えた。連雲島から窟駝寨までの十数里は、河岸に氷塊を積み上げて防壁を作り、その上から水を注ぐと、一夜にして城壁の様に凝結した。砂の中には釘を打ち付けた板を敷き、その傍らには落とし穴を設け、兵を伏せて待機した。馬雲及び指揮使周鶚・呉立らは城内に巨大な旗幟を掲げ、兵の移動を厳禁し、誰も居ないかの様な静穏を演出した。次いで、敵軍が蓋州城の南方に差し掛かると、四方から伏兵が現れ、両軍の旗幟が空を覆い、矢石が雨の様に降り注いだ。納哈出は恐慌に陥って連雲島へ向かったものの、氷壁に阻止されたので並走したが、従った者は全て落とし穴に落ち、遂に敵軍は壊滅したのであった。馬雲は城内から出撃し、兵を合流させて将軍山・畢栗河まで追撃すると捕殺及び凍死した者は数え切れず、勝勢に乗じて更に追撃し、猪児峪に到達した。納哈出は辛うじて単騎で脱出した。功績が評価され、葉旺・馬雲は共に都督僉事に昇進した。時に洪武八年の出来事である。
 (洪武)十二年、馬雲は大寧遠征を命じられた。勝報が届くと褒賞を受け、召還されて京師へ帰還した。その数年後に死没した。葉旺は依然として任地に留まった。たまたま高麗の使節が書状と礼物を携えて来訪し、竜州の鄭白らが朝廷への口添えを願い出た。葉旺は報告した。洪武帝は、臣下に外交権限は無く、これは間諜の欺瞞であるとして、軽々しく信用してはならず、彼らが我が方に対して殊更に弱味を示す事で辺境防備の不備を窺おうとしているので、これを送り返してしまえば、付け入る隙を与えずに済むと指示した。翌年、葉旺は再び周誼という高麗の使節を送って入京させた。洪武帝は高麗の国主弑逆と、国朝の使者を謀殺した事を理由に、その反覆振りを信用出来ず、葉旺らを叱責して断交させ、周誼を拘留して返さなかった。(洪武)十九年、葉旺は召還されて後軍都督府都督僉事となった。三ヶ月後、遼東から急報が届くと、再び任地へ戻るよう命じられた。(洪武)二十一年三月に死没した。
 葉旺と馬雲が遼東を鎮守した有様は、まるで茨の棘を刈る様なもので、軍府を設立し、軍民を按撫し、一万頃余りの田地を開墾した事は、結果として長年に及ぶ恩恵となった。葉旺は最も在任期間が長く、前後凡そ十七年であった。遼東の人々はこれに感謝したものである。嘉靖初年、遼東に於ける二人の功績が評価されると、役所に命じて祠堂が建立され、一年を通して祀られたのであった。

【注釈】
(※1)遼陽指揮使司、原文には「遼陽指揮使司」とあるが、正しくは「遼東衛指揮使司」である。『太祖実録』巻六十一、洪武四年二月壬午条には「主上は文章に目を通すとその誠実を称え、詔を発して遼東衛指揮使司を設置し、劉益を指揮同知とした(上覧表嘉其誠、詔置遼東衛指揮使司、以益為指揮同知)」とある。また同書巻六十五、洪武四年五月丙寅条には「旧元朝の平章政事洪保保・馬彥翬・八丹等らが叛き、遼東衛指揮同知劉益を殺害した(故元平章洪保保・馬彥翬・八丹等叛、殺遼東衛指揮同知劉益)」とあり、遼東衛指揮使司であった事は明らかである。


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by su_shan | 2017-04-11 20:35 | 『明史』列伝第二十二