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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十四( 6 )

列伝第十四 目次

李文忠 鄧愈 湯和 沐英

 論賛、明朝開闢の諸将では、六王が筆頭に挙げられる。ただ優れた功績を残しただけに留まらず、またその忠誠を契りを交わした主君に捧げた事が明白だからである。親密さでは岐陽王(李文忠)に及ぶ者は居らず、古くからの付き合いでは東瓯王(湯和)に及ぶ者は居らず、寧河王(鄧愈)・黔寧王(沐英)は何れも英気盛んな年頃に腹心の部下となった。戦場で活躍して功績を挙げ、偽り無く尽力して二心を抱かず、王侯の旗幟は燦々と輝きを放ち、一点の曇りも無いのである。岐陽王は詩文を詠い礼節を説いて儒者を重用し、東瓯王は引退を請うて私邸へ帰り、聡明にして自身を全うした事は、一際目立って余人の及ぶ所では無い。ただ黔寧王だけは、遐荒の地に威勢を轟かせ、代々封爵を賜ったので、名声は明朝の治世と共に在った。一方、寧河王は労苦を顧みず全力で奔走したものの、功績の規模にも関わらず早逝し、その後嗣は特記すべき事績に乏しい。諸王の恩沢には、特に著しい盛衰が有ると論者は言うが、しかしながら中山王(徐達)の家系に徐増寿あり、岐陽王の家系に李景隆あり、その偉大なる先人に遡れば、遺憾に思わないでも無い。待遇が等しくなくとも、またどうしてその幸や不幸を判断するなど出来ようか。
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by su_shan | 2016-09-08 19:23 | 『明史』列伝第十四

沐英(続)

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りしております)

 沐春、字を景春、父親同様に勇武の才能が有った。十七歳の時、沐英に従って西番に遠征し、また雲南遠征に従軍し、江西の叛乱平定に従軍し、その全てに先陣を切った。功績を重ねて後軍都督府都督僉事を授かった。群臣は任職に当たって試験を要請したが、洪武帝は答えた。「この子は、我が家人であるから、試験は必要無いのだ。」こうして正式に授官したのであった。以前、烈山の囚人の調査を命じられ、また蔚州に於いて賊徒の懲罰を命じられた際には、それぞれ釈放を許された者が数百人に達した。沐英が没すると、爵位継承を命じられ、雲南府に鎮守した。洪武二十六年、維摩十一寨が叛乱すると、瞿能を派遣してこれを討伐させた。翌年に越嶲蛮を平定し、瀾滄衛を設立した。その年の冬、阿資が又もや叛いた為、何福と共にこれを討伐した。沐春は言った。「この賊めが長年誅殺から逃れる事が出来たのは、諸々の土酋長と婚姻関係を結び、各地を転々として身を隠れているのだ。今、全ての諸酋長に号令を発して軍に従わせ、これを繋ぎとめておき、多くの堡塁を築き、その出入を統制すれば、必ずや首を取ることが出来よう。」こうして越州へ向かい、経路を分けてその州城へ迫り、街道沿いに精兵を伏せ、弱兵を用いて賊軍を誘い出し、欲しいままに攻撃してこれを大いに打ち破った。阿資は山中に落ち延びたので、沐春は密かに近隣の土官と結託して、その所在を伺い、木で堡塁を築きその糧道を遮断した。賊軍は非常に困窮した。それから不意にその根城を突き、遂に阿資を捕らえ、併せて徒党二百四十人を誅殺した。越州は遂に平定された。広南の酋長儂貞佑が一党を糾合して官軍を拒むと、破ってこれを捕らえ、一千人を捕殺した。寧遠州の酋長刀拝爛は交阯を頼みにして命令に従わなかったので、何福を派遣してこれを討伐し降伏させた。
 (洪武)三十年、麓川宣慰使思倫発は部下の刀幹孟に追放されて、逃げ込んで来た。沐春は連れ立って共に入朝し、洪武帝より方略を授かり、遂に沐春は征虜前将軍を拝命し、何福・徐凱を率いてこれを討伐することになった。これに先んじて、兵に命じて思倫発を金歯へ護送させ、刀幹孟に檄を発して迎えさせようとした。これには応じなかった。そこで兵卒五千人を選抜し、何福と瞿能に指揮を命じて、高良公山〔一〕を越え、直に南甸を突き、大いにこれを破り、その酋長刀名孟を斬殺した。軍を転進して景罕寨を攻撃した。賊軍は高所に拠って堅守したので、官軍の食料は底を尽き、何福は救援を求めた。沐春は五百騎を率いてこれを救援しようとし、夜中に怒江(サルウィン川)を渡り、夜明けには寨に到着すると、下令して騎兵を駆け回らせ、空を蔽う程の土煙を立てさせた。賊軍は驚愕して潰走した。勝勢に乗じて崆峒寨を攻撃し、また潰走させた。これに前後して降伏した者は七万人に達した。将兵はこれを皆殺しにしようとしたが、沐春は認めなかった。刀幹孟は降伏を申し出たが、洪武帝は許さず、沐春に滇・黔・蜀の地の兵を率いてこれを攻撃するよう命じようとした。ところが発令される前に沐春は没してしまった。三十六歳であった。恵襄と諡された。
 沐春は鎮に在任すること七年の間、屯田行政を大きく改善し、三十数万畝を開墾し、鉄池河を開削し、宜良県の乾田数万畝を灌漑し、民業に復帰した者は五千戸余りに達したので、祠を建立してこれを祀った。子は無く、弟の沐晟が跡を継いだ。

 沐晟、字を景茂、幼少より慎重で、寡黙温和で、読書を好んだ。太祖はこれを可愛がった。昇進を重ねて後軍都督府左都督に到達した。建文元年に侯爵位を継承した。任地に赴いた所、既に何福が刀幹孟を捕らえていたので、思倫発を帰らせた。間も無く思倫発が死に、諸蛮族が各地で蜂起したので、沐晟はこれを討伐した。その地域には三府二州五長官司を置き、また怒江の西側に屯衛千戸所を置いてこれを鎮守させたので、遂に麓川は安定した。当初、岷王(朱楩)が雲南に封じられたが、法を順守しなかったので、建文帝(朱允炆)に捕らえられてしまった。成祖が即位すると、藩地へ戻らせたが、以前より増して傲慢に振る舞った。沐晟は手を抜いて応接した。岷王は怒り、沐晟を讒言した。永楽帝(朱棣)は岷王の告発によって詔を下して沐晟を訓戒し、岷王には書状を送って、沐晟の父親の功績を称え、過失を咎めない様にした。
 永楽三年、八百(ラーンナー)大甸の賊徒が辺境を掠奪し、朝貢使節を遮った為、沐晟は車里(シーサンパンナ)・木邦(シャン)と共同してこれを鎮定した。翌年に交阯討伐の為に大軍を発すると、沐晟は征夷左副将軍を拝命し、大将軍張輔と分かれて雲南府より進攻した。こうして蒙自県より野蒲を経て木を切り倒しながら道を開き、猛烈・弸華といった要害の地を奪取した。船を担いで夜中に洮水に入り、富良江を渡り、張輔と軍を合流させた。共同して多邦城を破り、その東西二都を突き、複数の拠点を粉砕し、偽王黎季犛を捕らえたが、事は張輔伝に詳しい。論功行賞によって黔国公に封じられ、食禄三千石とされ、世券を与えられた。
 交阯の簡定が再び叛くと、沐晟に征夷将軍の印章を与えてこれを討伐させたが、生厥江の戦いで敗北した。再び張輔が出陣したので軍を合流させてこれを討伐し、簡定を捕らえて京師へ送った。張輔は帰還したが、沐晟は留まって陳季拡を追討したが、何度交戦しても降伏させることが出来なかった。張輔は再び出陣して沐晟と合流し、急追して占城に到達し、陳季拡を捕らえたので、軍を返し、沐晟もまた表彰を受けた。(永楽)十七年、富州の蛮族が叛くと、沐晟は兵を率いてこれに対応したが、戦闘は行わず、人を遣わして説得し、遂にこれを降伏させた。
 仁宗(朱高熾)が即位すると、太傅を加官され、征南将軍の印章を鋳造して支給された。沐氏が任地を引き継ぐ際には、印章を与えることが通例となった。宣徳元年、交阯の黎利の勢力が拡大すると、沐晟に詔を下して安遠侯柳升と合流して討伐するよう命じた。柳升は敗死し、沐晟もまた兵を引き上げた。群臣は口々に沐晟を弾劾したので、宣徳帝(朱瞻基)はその印章を取り上げて懲戒を示した。正統三年、麓川の思任発が叛いた。沐晟は金歯に赴き、弟の沐昂及び都督方政と兵を合流させた。方政は前鋒となり、河沿いの諸寨に篭る賊を破り、大軍は追撃して高黎共山の麓に至り、再びこれを破った。翌年にまたその旧寨を破った。方政は伏兵に殺害され、官軍は敗退した。沐晟は退却したが、慚愧して病に罹り、楚雄府に差し掛かった所で死没した。定遠王を贈られ、忠敬と諡された。
 沐晟は父兄の業績を引き継いだが、用兵は得意では無く、何度も苦戦を強いられた。朝廷は遠隔地であること、更に功臣に連なる将帥であることから、これを大目に見た。滇の人々は沐晟父子の威信を畏怖し、あたかも朝廷に対するかの様に厳かに仕えた。書信を下せば、土着の酋長は威儀を正して城郭を出て迎え、手を清めてから開封し、「これは令旨である。」と言った。沐晟は長年在任し、三百六十ヶ所もの田園を設置し、資財を充満させ、中央の高位者に対しては恭しく仕え、絶えず贈賄したので、内外に名声を得る事が出来たのである。沐晟には沐斌という子が居り、字を文輝と言ったが、幼くして公爵位を継ぎ、京師に在住したことから、沐昂に鎮守の任を代行させる事となった。
 
 沐昂、字を景高、当初、府軍左衛指揮僉事となった。成祖が沐晟を南方遠征に起用しようとした際に、沐昂を都指揮同知に抜擢し、雲南都指揮使司を拝領し、昇進して右都督に至った。正統四年に将印を帯び、麓川を討伐しようとし、金歯に到着した。賊軍の強盛さに萎縮し、長い間討伐を先延ばしにした。参将張栄が先駆して芒部へ向かったが敗れると、沐昂は救援せずに退却した為、俸禄を二等級落された。続いて思任発が蠢動したので、攻撃してこれを退け、また師宗州の賊徒を捕殺した。(正統)六年、兵部尚書王驥・定西伯蒋貴が大軍を率いて思任発を討伐した際に、沐昂は兵站を担当した。賊が鎮圧されると、沐昂は復職し、軍を率いて思任発の追討を命じられたが、達成は出来なかった。(正統)十年、沐昂は没した。定辺伯を贈られ、武襄と諡された。
 沐斌が初めて任地に赴いた頃、たまたま緬甸(ミャンマー)が思任発を捕らえて京師へ送致したが、その子である思機発が来襲したので、沐斌はこれを撃退した。思機発はまた孟養を拠点とした。(正統)十三年に再び大軍を発し、王驥らにこれを討伐させた際には、沐斌は後詰となり、兵站を管理したので不足する事は無かった。没すると太傅を贈られ、栄康と諡された。
 子の沐琮は幼く、景泰初年、沐昂の孫の沐璘に命じて都督同知として任を代行させた。沐璘、字を廷章、上品で学問の素養があり、滇の人々はこれを御し易いと考えたものの、果たして号令は粛然として違反する事は出来なかったが、天順初年に没した。沐琮は依然として幼く、沐璘の弟の錦衣衛副千戸沐瓚を都督同知に抜擢し、代行させた。在任七年の間に、霑禄諸寨及び土官で争乱した者を討伐し、思卜発を降伏させ、諸蛮族の侵攻した地域を整然と奪還した。多くの功績を挙げたが、また贈賄も多かった。
 成化三年の春、沐琮は初めて任地に赴くと、沐瓚を副総兵とし、金歯に拠点を移した。沐琮、字を廷芳、経書に通じ、詩歌や文章に長け、配下の蛮族から貢物を贈られても受け取る事は無かった。尋甸府のある酋長が兄の子を殺害し、自らを鎮守の任に充てんと要望したが、沐琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が暴政を布いた事から、所部が叛乱を起こすと、沐琮は改めて流官(※1)を設置する様に要請したので、民衆は非常に喜んだ。次いで馬竜州・麗江軍民府・剣川州・順寧府・羅雄州の諸蛮族の叛乱を討伐し、橋甸・南窩の賊徒を捕らえた。死没すると、太師を贈られ、武僖と諡された。子は無く、沐瓚の孫の沐崑が跡を継いだ。
 沐崑、字を元中、当初は錦衣衛指揮僉事を世襲した。沐琮が養子に迎え、沐崑は西平侯の後裔である事から侯爵位を継承させるべしとの評議が提出されたものの、守臣の間で議論が紛糾し、滇の人々は黔国公を知っていても西平侯を知らないと言い、西平侯が軽んじられる事を警戒した。孝宗(朱祐樘)はそれもそうだと考え、公爵位を継ぐよう命じ、通例の様に印章を帯びさせた。弘治十二年に亀山・竹箐の諸蛮族を平定し、また普安州の賊徒を平定し、再び食禄を加増された。正徳二年、師宗州の民であった阿本が叛乱を起こすと、都御史呉文度と共に兵を率いて三路に分かれて進発した。一つは師宗州へ向かい、一つは羅雄州に向かい、一つは弥勒州に向かい、また別に一軍を派遣して盤江に伏せ、賊軍の巣窟を掃討し、遂にこれを打ち破った。(正徳)七年、安南長官司那代が世襲を争い、土官を殺害したので、再び都御史顧源と共にこれを討伐して捕らえ、また太子太傅を加官された。沐崑は当初こそ文学を嗜み、自らを厳しく律していたが、後に贈賄して中央に取り入ると、要望して通らない事は無くなった。驕り昂ぶり、三司(※2)を見下して、角門より入庁させた。司法官で弾劾を行った者が何人か居たが、罪を着せられて失脚した。死没すると、太師を贈られ、荘襄と諡された。
 子の沐紹勛が跡を継いだ。尋甸府の土舎(※3)であった安銓が叛くと、都御史傅習がこれを討伐したが、敗北した。武定軍民府の土舎であった鳳朝文もまた叛き、安銓と兵を連ねて雲南府に攻め入り、大混乱を巻き起こした。世宗(朱厚熜)は尚書伍文定に大軍を与えて派遣し、これを討伐させた。これの到着以前に、沐紹勛は所部を引き連れて先発し、土官の子弟で世襲を望む者は、予め冠帯を与え、賊を破った後に要請する旨を通告した。大勢が奮戦し、賊軍は大敗を喫した。鳳朝文は普渡河を堰き止めて逃走したが、東川軍民府で追いつかれて斬殺された。安銓は尋甸府へ戻り、数十ヶ所も砦を連ねたが、官軍はこれを破り、芒部に於いて安銓を捕らえた。これに前後して捕縛した賊徒は千人余り、捕殺は数え切れなかった。時に嘉靖七年の事である。勝報が届くと、太子太傅を加官され、食禄を加増された。一方で、この当時は老撾(ラオス)・木邦・孟養(カチン)・緬甸・孟密らは仇敵の間柄で、師宗州・納楼茶甸長官司・思陀甸長官司・八寨長官司は何れも混乱し、長期間解消されなかった。沐紹勛は使者を派遣して諸蛮族を歴訪させ、武定軍民府・尋甸府の事例を引き合いに出すと、皆平伏したので、侵犯した地を返還するよう要望した所、木邦・孟養は共に宝物を貢いで罪過を詫びた。こうして南中の地の悉くが平定された。沐紹勛は勇気と才略に優れ、兵を用いれば勝利した。死没すると、太師を贈られ、敏靖と諡された。
 子の沐朝輔が跡を継いだ。都御史劉渠が賄賂を求めたので、沐朝輔はこれに与え、更に上章して言った。「臣の一族が代々この地を守ること、脈々と受け継がれております。今や役人は法制を無闇矢鱈に改め、守臣が職務に精励しても、有るがままに報告されず、接見しても前例に従いません。臣は遠方の地で危険にも孤立し、行動は掣肘を受けるので、蛮人を弾圧する事はございません。どうか諸臣に対して訓戒頂き、万事旧例に則ってお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。」詔を下してこれを認めた。給事中万虞愷が沐朝輔を弾劾し、追及は劉渠にも及んだ。詔を下して劉渠を罷免する一方、沐朝輔には引き続き従来の職務を命じた。死没すると、太保を贈られ、恭僖と諡された。
 二人の子、沐融・沐鞏は何れも幼かった。詔を下して沐琮・沐璘の故事に倣い、沐融に公爵位を継承させ、食禄の半分を支給し、沐朝輔の弟の沐朝弼に都督僉事の地位を授け、印章を与えて鎮守の任を代行させた。在任三年にして、沐融は没し、沐鞏が跡を継ぐことになったが、沐朝弼は内心快く思わなかったので、沐朝輔の生母である李氏は沐鞏を京師に安住させて、その成長を待って任地へ戻らせるよう申し出た。認可された。沐鞏は京師に到着する前に死没し、沐朝弼は遂に後継する事が出来た。嘉靖三十年、元江軍民府の土舎であった那鑑が叛いた。詔を下して沐朝弼と都御史石簡にこれを討伐させると、五軍に分かれてその城に迫った。城を陥落寸前まで追い込んだ時、瘴気が発生した為に退却する事になった。詔を下して石簡を罷免し、再度出撃させようとした。那鑑は恐れて毒薬を仰いで死んだので、出兵は取り止めになった。(嘉靖)四十四年に叛旗を翻した蛮族の阿方・李向陽を討伐して捕らえた。隆慶初年、武定軍民府の叛徒の首魁であった鳳継祖を鎮圧し、賊の拠点三十ヶ所余りを撃破した。沐朝弼は元より驕慢な性格で、母や嫂への接し方は礼節を欠き、兄の田宅を奪い、罪人の蒋旭らを匿い、兵や召使を使って京師を探らせた。こうして沐朝弼は罷免され、その子である沐昌祚が跡を継ぎ、食禄の半分を支給された。沐朝弼は怏怏として楽しまず、ますます勝手な振る舞いをする様になった。母を埋葬する為に京師に到着すると、ある都御史がこれを拘留する様に要請した。詔を下して滇の地に戻る事が認められたが、当地の軍政に関与する事は許されなかった。沐朝弼は憤慨し、沐昌祚を殺害しようとした。巡撫・按察使の任にある者が立て続けに現状を報告し、更に殺人や蛮族との内通など数々の不法行為を告発した為に、逮捕投獄された上で死刑を検討された。これまでの功績が助けとなり、南京にて禁錮処分となり、死没した。
 沐昌祚は当初都督僉事総兵官として鎮守の任に当たり、しばらくして公爵位を継承した。万暦元年、姚安軍民府の蛮族羅思らが叛き、郡守を殺害した。沐昌祚は都御史鄒応竜と共に現地人と漢人双方の兵を発してこれを討伐し、向寧・鮓摩など十数ヶ所の寨を破り、その拠点を掃討し、羅思ら全員を捕らえた。(万暦)十一年、隴川宣撫司の賊徒岳鳳が叛いて緬甸に帰順すると、その兵を引き入れて近隣の土司に侵攻した。沐昌祚は洱海(アルハイ)に塁壁を築き、裨将鄧子竜・劉綖らを率いて木邦の叛徒の首魁である罕虔を斬殺したが、猛暑と瘴気の為に軍を引き上げた。翌年に再び罕虔の旧拠点を攻撃し、三路より同時に進攻し、その酋長罕招らを捕らえ、また猛臉長官司に於いて緬甸の兵を破った。岳鳳は降伏した。論功行賞により太子太保を加官され、食禄は元の全額となった。また羅雄州で叛旗を翻した諸蛮族を平定し、再び銀幣を賜った。緬甸の兵が猛広を攻撃すると、沐昌祚は軍を集結させて永昌軍民府に塁壁を築き、緬甸人が遁走すると、那莫江まで追撃したが、瘴気の為に撤退した。(万暦)二十一年、緬甸人が再び侵攻したが、沐昌祚はこれを駆逐した。連戦連勝の結果、遂に緬甸を従属させたものの、たまたま蛮族間で内乱が発生した為に撤退した。
 沐氏は滇の地に在任すること長く、権勢は日増しに強まり、あたかも親王の様に尊重された。沐昌祚が外出した時、僉事楊寅秋が道を譲らなかったので、沐昌祚はその輿丁を鞭打ったという事が有った。楊寅秋が朝廷に訴えた事で、詔が下されて叱責を受けた。それ以降は病により、子の沐叡が任地を引き継いだ。武定軍民府の土酋阿克が叛き、府城を攻め、脅迫して府印を持ち去ってしまった。沐叡は逮捕投獄され、再び沐昌祚が任地を掌握した。死没すると、孫の沐啓元が跡を継いだ。その死没後、子の沐天波が跡を継いだ。十余年にして土司沙定洲が叛乱し、沐天波は永昌軍民府へ逃れた。叛乱が鎮圧されると、滇に復帰した。永明王朱由榔が滇に入ると、沐天波は元の職務に任じられた。次いで、緬甸への脱出に従った。緬甸人はこれを脅そうとしたが、屈服せず死んだ。初め、沙定洲の乱に際して、沐天波の母の陳氏・妻の焦氏は自ら火を放って死んだ。後に沐天波は緬甸に逃れたが、愛妾の夏氏は付いて行けず、自ら縊死した。数十日を経てから埋葬したものの、その遺体は腐敗しておらず、人々は節義の賜物だと口々に言い合ったものである。

【注釈】
(※1)流官、世襲に依らない官。世官と対を成す。
(※2)三司、明代では承宣布政使司・提刑按察使司・都指揮使司を指す。
(※3)土舎、土司の属官。

【校勘記】
〔一〕高良公山、本書内では「高黎共山」或いは「高黎貢山」となっている。
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by su_shan | 2016-09-08 18:40 | 『明史』列伝第十四

沐英

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りします)

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 沐英、字を文英、定遠県の人。幼少時に父を失い、母に連れられて兵乱を避けていたが、母もまた死んでしまった。太祖(朱元璋)と孝慈皇后はこれを憐み、養子として朱姓を名乗らせた。十八歳にして帳前都尉を授かり、鎮江府を守った。しばらくして指揮使に遷り、広信府を守った。次いで、大軍に従って福建に遠征すると、分水関を突破し、崇安県を攻略し、別に閔渓十八寨を破り、馮谷保を捕縛した。初めて沐姓に戻すよう命じられた。建寧府鎮守に移り、邵武衛・延平衛・汀州衛の三衛を節制した。次いで大都督府都督僉事に遷り、都督同知に昇進した。大都督府の業務は積滞していたが、沐英は年少でありながら明敏であり、決裁を滞らせることは無かった。後にしばしばその才幹を賞賛され、洪武帝(朱元璋)もまたこれを重用した。
 洪武九年に駅馬に乗って関中・陝西に赴くよう命じられ、熙河に到着し、民衆の労苦について問い質した所、便ならざる部分があったので、対策を上奏した。翌年に征西副将軍となって、衛国公鄧愈に従い吐蕃を討伐し、西進して川蔵走廊を攻略し、崑崙山に布陣して威勢を轟かせた。多くの功績を挙げ、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国・西平侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。翌年に征西将軍を拝命し、西番を討伐し、これを土門峡に破った。洮州を通過し、その長であった阿昌失納(アチャンシナ)を捕らえ、東籠山に築城し、酋長三副使癭嗉子(インスーズ)らを捕らえ、朶甘納児(ダカンナル)七站を平定し、数千里に及ぶ地域を掃討し、男女合わせて二万人、家畜二十万頭余りを捕らえ、帰還した。元朝の国公脱火赤(トガチ)らは和林(カラコルム)に駐屯し、しばしば辺境を荒らしていた。(洪武)十三年に沐英に陝西の兵を総括して塞外に出征するよう命じ、亦集乃路(エチナ路)攻略を目指し、黄河を渡り、賀蘭山を越え、流沙地帯を踏破し、七日にしてその境界に到達した。四翼に分かれてこれを夜間に襲撃し、自らは精騎を率いてその中堅を突いた。脱火赤及び知院愛足(アズ)らを捕らえ、その全ての部曲を接収して帰還した。翌年、また大将軍(徐達)に従って北征し、異なる経路から塞外に進出し、公主山長寨を攻略し、全寧路四部に勝利し、臚朐河(ケルレン河)を渡り、知院李宣を捕らえ、その軍の悉くを捕虜にした。
 次いで征南右副将軍を拝命し、永昌侯藍玉と共に将軍傅友徳に従い雲南に遠征した。元朝の梁王は平章政事達里麻(タリマ)を派遣して、十数万の兵を用いて曲靖で食い止めようとした。沐英は濃霧に乗じて白石江に向かった。霧が晴れると、両軍は互いを視認し、達里麻は驚愕した。傅友徳はすぐさま渡河しようとしたが、沐英は制止して言った。「我が兵を進めてはなりません、恐らくは敵の阻止する所となりましょうぞ。」そこで白石江に沿って諸軍を厳重に展開させ、今にも渡河するかの様に見せ掛けた。一方で奇襲部隊を下流より渡らせて、その背後に進出させ、山中の谷に偽物の旗幟を立て、銅製の角笛を吹き鳴らした。元軍は大混乱に陥った。沐英は軍を急き立てて渡河させようとし、水泳の得意な者にこれを先導させて、長刀を用いて敵軍に斬りかかった。敵軍は退いたので、自軍は渡河を終えた。激戦が続いたが、また鉄騎の活躍によって、遂にこれを打ち破り、達里麻を捕らえ、野晒しの死体が十余里も続いた。長駆して雲南に入ると、梁王は逃げ延びた先で死に、右丞観音保は城を以て投降し、属郡は全て降伏した。ただ大理だけは点蒼山・洱海を頼みとし、竜首・竜尾二関を抑えた。関は嘗ての南詔時代に築かれたもので、これを土酋段世が守っていた。沐英は自ら下関に赴き、王弼を派遣して洱水より東進して上関へ向かわせ、胡海は石門より間道伝いに渡河し、点蒼山に登って頂上に旗幟を立てた。沐英は乱戦のなか関を突破して進み、山上の軍もまた駆け下りて挟撃し、段世を捕らえ、遂に大理を破った。兵を分けて未だに帰順しない諸蛮族を抑え、官を設け衛を置いてこれを守らせた。軍を転進させ、傅友徳と滇池で合流し、経路を分けて烏撒・東川・建昌・芒部諸蛮族を平定し、烏撒・畢節二衛を設置した。土酋楊苴らがまた諸蛮二十数万人を扇動して雲南城を包囲した。沐英は急ぎ救援し、蛮族は潰走して山中に潜伏したので、兵を分けてこれを掃討し、六万人を斬首した。翌年に詔によって傅友徳及び藍玉には軍を帰還させる一方、沐英には残留して滇中を鎮守させた。
 (洪武)十七年、曲靖府亦佐の酋長が叛乱を起こしたので、これを討伐して降伏させた。普定府・広南府の諸蛮族が平定されたことで、田州府への糧道が開通した。(洪武)二十年に浪穹県の蛮族を平定し、詔を奉じて永寧県より大理府に至るまで、六十里毎に一つの堡塁を設け、軍を留めて屯田を実施させた。翌年、百夷の思倫発が叛くと、諸蛮族を勧誘して摩沙勒寨に攻め入ったが、都督甯正を派遣してこれを打ち破った。(洪武)二十二年、思倫発は再び定辺県を荒らし、三十万の軍を号した。沐英は三万騎を選抜して急ぎ救援し、三段から成る火砲と強弩の陣を構えた。蛮族は百頭の象を駆り、鎧を着せて柵を背負わせ、左右に大竹を挟んで筒を作り、その筒には投げ槍を入れており、非常に精悍であった。沐英は軍を三つに分け、都督馮誠は前軍を率い、甯正は左軍を率い、都指揮同知湯昭は右軍を率いた。戦闘に臨んで、全軍に下令した。「今日の戦は、前進こそ有れど後退など有り得ぬぞ。」風に乗せて大声で叫ぶと、砲と弩が一斉に発射され、象は全て反対方向へ走った。昔剌亦という者は勇将であり、特に死闘を繰り広げ、左軍はやや後退した。沐英は高台に上ってこの光景を目にすると、刀を抜き放ち、将帥の首を斬って持って来る様に左右の者に命じた。左軍の将帥は一人が刀を手にして駆け付けて来るのを見ると、恐れを為して、大声で叫んで敵陣へ突入した。大軍もこれに乗じ、四万人余りを斬首し、三十七頭の象を捕らえ、他の象は悉く殺された。賊軍の渠帥はそれぞれ百本余りの矢を受け、象の背中に倒れ込んで絶命していた。思倫発は遁走したので、諸蛮族は恐懼し、麓川は漸く解放されて二度と閉塞することは無かった。その後、潁国公傅友徳と合流して東川の蛮族を討伐し、また越州の酋長阿資及び広西の阿赤部を平定した。この年の冬、帰朝し、奉天殿に宴席を賜り、黄金二百両・白金五千両・鈔五百錠・綵幣百疋を給わり、任地へ戻った。陛辞の折、洪武帝は自らこれを撫でて言った。「我が南方を憂慮せずに枕を高くさせてくれたのは、汝英であるぞ。」鎮へ戻ると、再び百夷を景東府に破った。思倫発は投降を申し出て、財物を貢いだ。阿資が再び叛いたので、これを攻撃して降伏させた。こうして南中は悉く平定された。使者を派遣して軍勢の威光によって諸蛮族を帰順させ、各蛮族は通訳を重ねて次々と来貢した。
 (洪武)二十五年六月、皇太子(朱標)の逝去を耳にすると、悲哀を極めて慟哭した。初め、孝慈高皇后の崩御に際しては、沐英は慟哭の余り吐血するに至った。ここに至って疾病に罹患し、鎮中で没した時、四十八歳であった。軍民は至る所で慟哭し、遠方の蛮族すら皆涙を流した。遺体は京師に送還されて埋葬され、黔寧王に追封され、昭靖と諡され、太廟に配列された。
 沐英は沈着毅然かつ寡黙温和であり、賢礼の士を優遇し、兵卒を慰撫して恩義を与え、妄りに人を殺すことは無かった。滇の地に在任していた頃、様々な政務が有ったので、指示を簡潔にし、農業と養蚕を奨励し、年毎の屯田の増減を比較して賞罰を行ったので、開墾した田地は百万畝余りに達した。滇池は狭かったので、浚渫してこれを拡張したので、二度と水の不足に悩まされることは無くなった。塩井を開発して商業を活発化し、物品を区別して租税を定め、民の人数を考慮して労役負担を公平にした。些事に対して度量を広く持ち、民衆の安寧を優先した。日頃より書物から手を放さずに読書に耽り、暇が有れば儒者を集めて経書と史書の講義を行わせた。太祖が挙兵した当初、他家から何人も養子を取り、郡邑を攻め下すと、これを派遣して鎮守の任に充て、その数は二十人余りにも達したが、ただ沐英だけが西南の地に在って最大の勲功を挙げた。子の沐春・沐晟・沐昂は何れも雲南に鎮守した。沐昕は成祖(朱棣)の娘の常寧公主を娶り、駙馬都尉となった。

(沐春付伝に続く)
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by su_shan | 2016-09-02 13:21 | 『明史』列伝第十四

李文忠

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 李文忠、字を思本、小字を保児、盱眙県の人。太祖(朱元璋)の姉の子である。十二歳にして母が没し、父の李貞はこれを伴って戦乱の中を転々とし、何度も死に瀕したことがあった。二年後、滁陽に於いて太祖に謁見した。太祖は李保児を引見すると、非常に喜び、養子として、朱姓を名乗らせた。書物の内容を日頃の習慣の様に素早く理解した。十九歳の時、舎人として親軍を率い、池州府を救援し、天完(徐寿輝)軍を破り、その勇猛振りは諸将の中でも抜きん出ていた。これとは別に青陽県・石埭県・太平県・旌徳県を攻め、これら全てを陥落させた。元朝の院判阿魯灰(アルグイ)を万年街に破り、また苗軍を於潜県・昌化県に破った。淳安県に進攻し、洪元帥を夜襲し、その軍千人余りを降伏させ、帳前左副都指揮兼領元帥府事を授かった。次いで鄧愈・胡大海の軍と合流し、建徳路を奪取すると、厳州府と改称されたので、これを鎮守した。
 苗軍の将帥楊完者(楊オルジェイ)が苗族・僚族数万を率いて水陸両面より襲来した。李文忠は軽装の兵を率いてその陸軍を破り、斬り落とした首級を巨大な筏に載せて川に浮かべた。水軍はこれを見て遁走した。楊完者はまた侵攻して来たので、鄧愈と共にこれを迎え撃って退けた。進軍して浦江県に勝利し、放火と掠奪を禁じたことで、恩義と信用を示した。義士の鄭氏は山中の谷に兵乱を避けていたが、これを招聘して帰らせようとし、兵に護衛させた。民衆は非常に喜んだ。楊完者が死ぬと、その部将が投降を申し出たので、これを迎え入れ、三万人余りを手に入れた。
 胡大海と共に諸曁州を突破した。張士誠が厳州府を襲撃すると、これを東門で防ぎ、別将を小北門より出撃させて、間道伝いにその背後を襲わせ、これを挟撃して大いに打ち破った。月を越えて、再び侵攻して来たので、これを再び大浪灘に破り、勝勢に乗じて分水県に勝利した。張士誠は部将を派遣して三渓に布陣させたので、またこれを攻撃して破り、陸元帥を斬殺し、その堡塁を焼き払った。これ以降、張士誠は二度と厳州府に手を出そうとしなかった。江南行枢密院同僉に昇進した。
 胡大海は漢(陳友諒)の部将李明道・王漢二を捕らえたので、李文忠の下へ送致したが、釈放した上に礼節を以て処遇し、建昌路守将の王溥を招聘させた。王溥は降伏した。苗軍の部将蒋英・劉震が胡大海を殺害し、金華府を占拠して叛いた。李文忠は部将を派遣してこれを攻撃して敗走させ、自らその軍を鎮定した。処州府の苗軍もまた耿再成を殺害して叛いた。李文忠は部将を派遣して縉雲県に駐屯させ、これに対処した。浙東行中書省左丞を拝命し、厳州府・衢州府・信州府・処州府・諸全州の軍事を統括した。
 呉(張士誠)の兵十万が諸全州を急襲すると、守将の謝再興が救援を要請したので、同僉の胡徳済を派遣して援軍に向かわせた。謝再興は再び増援を要請したが、李文忠の手元に兵が少なく対処出来なかった。たまたま太祖が邵栄に命じていた処州府の叛乱鎮圧が完了した所であったので、李文忠は徐右丞(徐達)・邵平章(邵栄)が大軍を引き連れて直にでもやって来ると言い触らした。呉軍はこれを聞いて恐れ、夜の内に退却しようと画策した。胡徳済と謝再興は決死隊を率いて夜中に門を開き突撃し、これを大いに打ち破り、諸全州を守り切ることが出来た。
 翌年、謝再興が叛いて呉に投降したことで、呉軍は東陽県に侵攻した。李文忠と胡深はこれを義烏県に迎え撃ち、千騎を率いてその陣営を側面から突き、これを大いに打ち破った。既に、胡深の献策を採用して諸全州城から五十里の地点に別の城を築き、掎角の構えを取っていた。張士誠は司徒李伯昇を派遣して十六万の軍を率いて来襲したが、勝利出来なかった。翌年、再び二十万の軍を率いて諸全新城に来襲した。李文忠は朱亮祖らを率いて救援に駆け付け、新城から十里の地点に宿営した。胡徳済は賊軍の勢いが強盛であることから、少数の兵のみを留めて大軍の到来を待った方が良いと伝達した。李文忠は言った。「戦とは計略に有り、数では無い。」そこで下令して言った。「敵軍は数多く油断しているが、我が軍は数少なく精鋭である、精鋭を以て油断した軍にぶつければ、必ずや勝利出来よう。敵軍の輜重は山と積まれているが、これは汝らに天が与え給うたものである。努力せよ。」たまたま白い煙が北東より現れて軍を覆ったので、これを占ったところ、「必勝」と出た。翌朝になって会戦に及ぶと、戦場には濃霧が立ち込めて暗闇になったので、李文忠は諸将を集めて天を仰いで誓いを立てて言った。「国家の興廃はこの一戦に在り、文忠は敢えて死をも厭わぬことを三軍に示そうぞ。」そこで元帥徐大興・湯克明らに左軍を、厳徳・王徳らに右軍を率いさせ、自らは中軍を以て敵を突こうとした。たまたま処州府からの援軍も到着したので、猛進肉薄した。霧がやや晴れると、李文忠は槊を手に鉄騎数十騎を率いて高地を駆け下り、中央に突入した。敵軍は精騎を以て幾重にも李文忠を取り囲んだ。李文忠は何人もの敵兵を手当たり次第に殴り殺し、馬を走らせて駆け巡ったので、向かう先の敵兵は全て後ずさった。大軍はこれに乗じ、城内の兵もまた鼓を打ち鳴らして出撃したので、敵軍は遂に潰走状態に陥った。北方へ追撃すること数十里にして、斬首は数万を数え、渓水は悉く赤く染まり、将校六百人・兵三千人を捕らえ、鹵獲した武器食糧は数日をかけても数え切れない程であり、李伯昇は単身で逃げ延びた。勝報が届くと、太祖は非常に喜び、召還させると、何日も宴を催して労い、御衣と名馬を賜って、任地へ戻らせた。
 翌年の秋、大軍を発して呉を討伐すると、杭州路を攻撃してこれを牽制するよう命じられた。李文忠は朱亮祖らを率いて桐廬県・新城県・富陽県に勝利し、遂に余杭県を攻撃した。守将の謝五は、謝再興の弟であり、これを諭して降伏させるに当たって、死罪を免じた。謝五と謝再興の子五人が投降した。諸将はこれを皆殺しにしようと迫ったが、李文忠は許さなかった。遂に杭州路に到達すると、守将の潘元明もまた投降したので、軍を整列させて入城した。潘元明は女楽を以て歓迎したが、指示して止めさせた。麗譙に宿営し、下令して言った。「民家に押し入った者は死罪とする。」ある兵卒が民家から釜を借りたことが発覚すると、これを斬り捨てて見せしめとしたので、城内は静まり返った。兵卒三万人と食糧二十万石を接収した。この功績により栄禄大夫を加官されて浙江行中書省平章政事に就任し、また李姓に戻された。大軍を発して閩(福建)の地に遠征すると、李文忠は別軍を率いて浦城県に駐屯し、これを圧迫した。軍を帰還させると、残党の金子隆らが衆を集めて掠奪して回ったので、李文忠は再び討伐に赴いてこれを捕らえ、遂に建寧路・延平路・汀州路の三州を平定した。軍中に路上の孤児を保護するよう命じたので、数え切れない程の子供が生き延びることが出来た。
 洪武二年の春、偏将軍として右副将軍常遇春の塞外遠征に従い、上都路に迫り、元朝の順帝を追いやったが、それは常遇春伝に詳しい。常遇春が没すると、李文忠に命じてその軍を代わりに率いさせ、詔を奉じて大将軍徐達と合流して慶陽府を攻撃しようとした。太原府に差し掛かった折、大同府が急襲されているという報告を受け、左丞趙庸に対して次の様に言った。「我らは命を受けて来たのであるが、外地の事が仮にも国に利するのであれば、これに専念すべきであろう。今、大同府が危機に瀕しているのであれば、これを救援するのだ。」こうして雁門関を越え、馬邑県に次いだところで、元朝の遊軍を破り、平章政事劉帖木(劉テム)を捕らえ、白楊門に進んだ。雪混じりの雨が降ったので、宿営に移ると、李文忠は五里前進するよう命じ、川を遮って固守した。元軍が夜陰に乗じて襲撃して来たが、李文忠は堅く守って動こうとしなかった。夜が白み始めた頃、敵軍が大挙して押し寄せて来た。これを二つの陣営に委ね、決死の戦を挑み、敵の疲労に乗じて、精兵を繰り出して左右より叩いたので、これを大いに打ち破り、その部将脱列伯(トレバイ)を捕らえ、一万人余りを捕殺し、莽哥倉まで急追した後に帰還した。
 翌年に征虜左副将軍を拝命した。大将軍(徐達)と共に経路を分けて北征し、十万人を率いて野狐嶺に進出し、興和路に到達し、その守将を降伏させた。兵を察罕脳児(チャガンノール)に進め、平章政事竹真〔一〕を捕らえた。駱駝山に差し掛かり、平章政事沙不丁(シハーブッディン)を敗走させた。開平県に差し掛かり、平章政事上都罕(シャンドゥガン)らを降伏させた。時に元朝の順帝は崩御し、皇太子の愛猷識里達臘(アユルシリダラ)が新たに即位した。李文忠は間諜によりこれを知り、夜を徹して応昌路へ急行した。元朝の後継者は北方へ逃れ、その嫡子買的立八剌(マイテリバラ)及び后妃・宮人・諸王・将軍・丞相・官吏数百人を捕らえ、並びに宋朝・元朝の玉璽・金宝十五、玉冊二、鎮圭・大圭・玉帯・玉斧各々一つを鹵獲した。精騎を繰り出して北慶州まで追撃した後に帰還した。その道中の興州にて、国公江文清らを捕らえ、三万七千人を降伏させた。紅羅山に到達し、また楊思祖の軍一万六千人余りを降伏させた。捕虜を京師に献じ、洪武帝(朱元璋)は奉天門に臨御して朝賀を執り行った。大規模な功臣封爵が行われた際に、李文忠の功績は最上級の評価を受け、開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・大都督府左都督を授かり、曹国公に封じられ、同知軍国事となり、食禄三千石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年秋、傅友徳らが蜀(明昇)を平定すると、これを懐柔する為に李文忠に向かうよう命じた。成都新城を築き、諸郡の要害の地に軍営を設け、帰還した。翌年に再び左副将軍として東道より北征し、居庸関を越え、和林(カラコルム)に向かい、口温に差し掛かると、元軍は遁走した。臚朐河(ケルレン河)まで進出し、部将の韓政らに命じて輜重を守らせ、自らは大軍を率いて、各人に二十日分の食料を持たせ、土剌河(トゥール河)に急行した。元朝の太師蛮子哈剌章(マンジカラジャン)は全軍を渡河させており、騎兵を並べて待ち構えていた。李文忠は軍を引き連れてこれに迫ると、敵軍はやや後退した。阿魯渾河(アルグン河)に到達する頃には、敵軍は増強されていた。李文忠の馬が流れ矢に当たったので、下馬して短刀に持ち替え戦った。指揮使李栄は乗馬を李文忠に授け、自らは敵の馬を奪って乗った。李文忠は馬を得ると、更に決死の戦いを繰り広げ、遂に敵を破り、捕虜は一万人を数えた。追撃して称海(チンカイ)に到達すると、敵兵は再び大挙集結していた。そこで李文忠は兵を収めて天険に拠り、牛を殺して兵卒に供し、捕らえた馬などを平野に放った。敵は伏兵を疑い、徐々に後退した。李文忠もまた引き返したが、元の道を見失ってしまった。桑哥児麻(サンガルマ)に到達したが、水源に乏しかった為に、喉の渇きが著しく、天に祈りを捧げた。乗馬が地面を掘り返したところ、泉が湧き出て、三軍全てに行き渡ったので、生贄を捧げて祭祀を執り行った。こうして遂に帰還することが出来た。この戦役では、両軍の勝敗は決着しなかったものの、宣寧侯曹良臣、指揮使周顕・常栄・張耀が戦死し、論功行賞は行われなかった。
 (洪武)六年に北平府・山西辺境に赴き、三角村の戦いで敵を破った。(洪武)七年に部将を派遣して複数の経路より塞外へ出撃した。三不剌川(サンブラ河)に到達し、平章政事陳安礼を捕らえた。順寧府・楊門に到達し、真珠驢を斬殺した。白登県に到達し、太尉不花(ブカ)〔二〕を捕らえた。その年の秋に軍を率いて大寧路・高州を攻めてこれに勝利し、元朝の宗王朶朶失里(ダダシリ)を斬殺し、承旨百家奴を捕らえた。追撃して氈帽山に到達し、魯王を攻めて斬殺し、その王妃及び司徒答海(ダハイ)らを捕らえた。豊州へ進軍し、元朝の元官僚十二人、大量の馬・駱駝・牛・羊を捕らえ、急追して百干児(バイガンル)〔三〕に到達して帰還した。これ以降もしばしば出撃して辺境を防衛した。
 (洪武)十年に韓国公李善長と共に軍国の重要事項への参議を命じられた。(洪武)十二年、洮州の十八の蛮族が叛き、西平侯沐英と兵を合わせてこれを討伐し、東籠山南川に築城し、洮州衛を設置した。帰還すると西安城内の水源は塩分が多く飲用出来ないことを報告し、竜首渠を開削延長して城内へ引き入れた上で取水させるよう提案したので、採用された。帰還して大都督府と国子監の業務を掌握した。
 李文忠の器量は非常に大きく、他人にはその際限を推し量ることが出来なかった。戦陣に臨んでは卓越して鋭敏であり、大敵に遭遇すれば益々奮い立った。頗る学問を好み、常々金華府の范祖幹・胡翰に師事し、経義に通暁し、詩歌を作れば優れた才幹を覗かせた。初め、太祖が応天府を手に入れた頃、軍糧の供給が追い付かず、民田からの徴発を増やしたところ、李文忠が諫言して、減額されたことがあった。兵を従えず家に居る時は、儒者の様に穏やかに振る舞い、洪武帝はこれを特に重用した。家には食客が多く、嘗て食客の言によって、洪武帝に対して誅戮を減らすよう勧め、また洪武帝の日本遠征を戒め、宦者の災禍について言及したことは、君子危うきに近寄らずとは言えない。こうして度々上意に逆らった為に、譴責を免れることは出来なかった。(洪武)十六年の冬に病気を発症した。洪武帝は自ら見舞いに訪れ、淮安侯華中に医薬を持たせた。翌年三月に没した時、四十六歳であった。洪武帝は華中が毒薬を盛ったのではないかと疑い、華中の爵位を剥奪し、その家属を建昌衛へ配流し、諸々の医師並びに妻子は全て斬殺した。洪武帝自ら弔文を作り葬儀を執り行い、岐陽王に追封し、武靖と諡した。太廟に配列され、功臣廟に肖像が置かれ、序列は何れも第三位とされた。父の李貞は既に没していたが、隴西王を贈られ、恭献と諡された。
 李文忠には三人の男子があり、長男を李景隆、次男を李増枝、三男を李芳英と言ったが、全て洪武帝より下賜された名である。李増枝は当初勲衛を授かり、前軍都督府左都督に抜擢された。李芳英の官職は中都正留守に至った。

 李景隆、小字を九江。読書を好み典故に通じた。長身にして眉目秀麗、周囲の者が気を引かれる程に立派であった。朝会の度に、鷹揚として非常に優雅に振る舞った為、しばしば太祖の目に留まった。(洪武)十九年に爵位を継承し、しばしば湖広・陝西・河南に出向いて練兵を行い、西番と馬を交易した。昇進して左軍都督府の業務を掌握し、太子太傅を加官された。
 建文帝(朱允炆)が即位すると、李景隆は肺腑の様に信任を受け、嘗て周王朱橚の捕縛を命じられたこともあった。燕王(朱棣)が挙兵するに及んで、長興侯耿炳文が燕王を討伐したものの勝機に乏しく、斉泰・黄子澄らは共に李景隆を推薦した。そこで耿炳文に代わって李景隆がを大将軍となり、五十万の兵を率いて北伐することになった。通天犀帯を賜り、建文帝自ら推輪の儀式を執り行い、これを長江の畔まで見送り、一切の行事に関する便宜を図らせた。李景隆は貴公子であり、兵事を知らず、ただ尊大なだけで、宿将の多くを快く思わず登用しなかった。李景隆は徳州に到達すると、兵を糾合して陣営を河間府に前進させた。燕王はこれを聞くと喜び、諸将に対して語ったという。「李九江なんぞ着飾った孺子に過ぎぬわ、容易く捻じ伏せてくれようぞ。」こうして世子(朱高熾)に留守を任せ、出撃を固く禁じた上で、自らは兵を率いて永平府を救援し、大寧衛を直撃した。李景隆はこの報告を受けると、進軍して北平府を包囲した。都督瞿能が張掖門を攻撃し、突破寸前まで追い詰めた。李景隆は瞿能の手柄になることを妬み、攻撃を中止させた。燕王軍が大寧衛を破ると、軍を反転させて李景隆を攻撃した。李景隆はしばしば大敗して徳州へ遁走した為、諸軍は全て壊滅した。翌年の正月、燕王が大同府を攻撃した為、李景隆は軍を率いて紫荊関を越えて救援に赴いたが、戦果を挙げられずに撤退した。建文帝は李景隆の職権が不足しているのではないかと懸念し、宦官を派遣して璽書を送り、黄鉞と弓矢を賜り、征伐に専念させようとした。ところが長江を渡ろうとした時、暴風雨によって船が損壊し、全ての賜物が失われてしまったので、改めて作り直して送り届けたのであった。四月、李景隆は徳州に於いて大誓師の儀式を執り行い、真定府に於いて武定侯郭英・安陸侯呉傑らと合流し、六十万もの軍を集結させ、陣営を白溝河に前進させた。燕王軍と連戦し、再び大敗し、璽書や斧鉞は全て放棄して徳州へ逃げ帰り、また済南府へ逃走した。今回の戦役では、皇帝側の死者は数十万人に達し、南軍は遂に戦線を支えることが出来なくなった為に、建文帝は詔を下して李景隆を召還した。黄子澄は恥じて憤り、群臣の居並ぶ中で李景隆を捕らえ、これを誅殺して天下に示しを付けることを願った。燕王軍が長江を渡河すると、建文帝の側近は狼狽し、方孝孺は再び李景隆の誅殺を願い出た。建文帝は何れも聞き入れなかった。李景隆及び尚書茹瑺・都督王佐を燕王軍への使者として出向かせ、領土の割譲を条件として和平を提案しようとした。燕王軍が金川門に布陣すると、李景隆と谷王朱橞は門を開いて投降してしまった。
 燕王が帝位に就くと、李景隆に奉天輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・左柱国を授け、食禄千石を加増した。朝廷に重大な事案があれば、李景隆は尚も首班として意見を取り纏めたので、功臣たちは皆不平を抱いた。永楽二年、周王の告発により嘗て建文年間に私邸を訪問して収賄したことが発覚し、刑部尚書鄭賜らもまた、李景隆が悪事を企み、力を蓄えて亡命し、謀叛を画策していると弾劾した。詔を下して不問に付した。それ以降にも、成国公朱能・吏部尚書蹇義と文武双方の群臣は、李景隆及び弟の李増枝の叛逆は事実であると訴えた為に、六科給事中張信らもまたこれを弾劾した。詔によって勲号を剥奪され、朝会への参列を禁じられたが、国公の地位は安堵されて帰邸し、曹国長公主を祀ることになった。間も無くして、礼部尚書李至剛らが再び告発した。「李景隆は私邸に於いて、自らは座にあって門番を平伏させること君臣の礼の如し、これは大いに不道であり、李増枝は多くの荘田を立て、見境無く幾百幾千もの召使を集めており、その意図は窺い知れません。」こうして李景隆の爵位は剥奪され、並びに李増枝及びその妻子数十人は私邸に禁錮され、財産を没収された。李景隆は十日間絶食したが死ねず、永楽末年に至って漸く没したのであった。
 正統十三年に初めて詔が下されて李増枝らの禁錮が解かれ、自由になることが出来た。弘治初年、李文忠の後嗣を調査したところ、李景隆の曽孫にあたる李璿を南京錦衣衛世襲指揮使とした。没すると、子の李濂が跡を継いだ。没すると、子の李性が跡を継いだ。嘉靖十一年に詔によって李性は臨淮侯に封じられ、食禄千石とされた。翌年に没し、子が無かった為に、李濂の弟の李沂が紹封された。没すると、子の李庭竹が跡を継いだ。しばしば五軍都督府を管轄し、提督操江となり、平蛮将軍の印章を帯び、湖広に鎮守した。没すると、子の李言恭が跡を継いだ。南京守備となり、京営を監督し、累進して少保を加官された。李言恭、字を惟黄、学問を好み詩を得意とし、常々清貧であった。子の李宗城は、若くして文学の名声を得た。万暦年間、日本が朝鮮に侵攻すると、兵部尚書石星は封貢策を提案し、李宗城の才幹を見出して推薦し、都督僉事を授け、正使に充て、節刀を携えて赴かせ、指揮使楊方亨にこれを補佐させた。李宗城は朝鮮の釜山(プサン)に到達した所で、日本が増援を送り込んで来たので、街道は大混乱に陥り、口々に言い立てて二人の使者を脅かした。李宗城は恐れ、変節して逃げ帰った。一方で楊方亨は海を渡ったが、日本に侮辱される所となった。李宗城は獄に下されて辺戍が決定したので〔四〕、その子である李邦鎮が侯爵位を継承した。明朝が滅亡すると、爵位は断絶した。

【校勘記】
〔一〕竹真、『明史稿』伝十二、李文忠伝は「祝真」としているが、本書巻二、太祖本紀・巻三百二十七、韃靼伝、『太祖実録』巻四十九、洪武三年二月戊子条は「竹貞」としており、等しく同名ではあるが異なる音訳である。
〔二〕不花、『太祖実録』巻八十八、洪武七年四月甲辰条・巻百六十、洪武十七年三月戊戌条は「伯顔不花(バヤンブカ)」としている。
〔三〕百干児、元は「百千児」となっていたが、『明史稿』伝十二、李文忠伝、『太祖実録』巻百六十、洪武十七年三月戊戌条に基づき改めた。
〔四〕辺戍が決定したので、本書巻百五、功臣世表は「死罪が決定」としている。
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by su_shan | 2016-08-30 10:37 | 『明史』列伝第十四

鄧愈

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 鄧愈、虹縣の人。最初の名は鄧友徳といったが、太祖(朱元璋)より名を賜った。父の鄧順興は臨濠に割拠したが、元軍と交戦して戦死し、兄の鄧友隆が後を継いだが、これもまた病死し、皆は鄧愈を推薦して軍を統率させた。このとき鄧愈は十六歳、戦闘になれば毎回必ず先頭を切って城壁を登り敵陣を陥落させたので、軍中の者はその武勇に感服した。太祖が滁陽で挙兵すると、鄧愈は盱眙県より馳せ参じて帰順し、管軍総管を授かった。長江渡河に従い、太平路を攻略し、陳野先(陳エセン)を破って捕らえ、溧陽州・溧水州を平定し、集慶路を陥落させ、鎮江路を奪取するのに全て功績を挙げた。広興翼元帥に昇進し、広徳州を鎮守し、州城下にて長鎗元帥謝国璽を破り、その総管武世栄を捕虜とし、重兵千人を捕らえた。宣州鎮守に移り、その兵を率いて績渓県を奪取し、胡大海と共に徽州路を攻略し、行枢密院判官に遷って当地を鎮守した。
 苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)が十万の兵を率いて来襲したが、防御は脆弱であったので、鄧愈は将兵を激励し、胡大海と共に挟撃し、これを撃破して敗走させた。進攻して休寧県・婺源州を突破し、兵三千人を捕らえ、高河塁を降伏させた。李文忠・胡大海と共に建徳路を攻め、遂安県に差し掛かったところで、長鎗元帥余子貞を破り、追撃して淳安県まで北上し、またその援軍を破り、遂に建徳路を攻略した。楊完者が来襲したが、撃破してその部将李副枢を捕らえ、渓洞出身の兵三万人を降伏させた。月を越えて、再び楊完者を烏龍嶺の戦いで破った。僉行枢密院事に遷った。
 臨安路を攻略した際、李伯昇が来援したが、これを閑林寨の戦いで破った。使者を派遣して饒州守将于光を説得して投降させ、遂に饒州鎮守に移った。饒州は彭蠡湖(鄱陽湖)の畔にあり、陳友諒と境界を接していたので、しばしば侵攻を受けたが、その都度撃破して退けた。江南行中書省参知政事に昇進し、各翼元帥府の軍馬を管理した。浮梁州を占領し、楽平州を従え、余干州・建昌路は全て降伏した。
 陳友諒の撫州路守将鄧克明は呉宏(※1)の攻撃を受け、使者を派遣して投降する振りを見せることで攻撃を回避しようとした。鄧愈はその意図に気付き、武装して夜を徹して二百里を駆け、黎明に入城した。鄧克明は出撃しようにも出来ず、単騎で逃走した。鄧愈は軍令を徹底させ、少しも違反させることが無かったので、遂に撫州路を平定することができた。鄧克明は止むを得ず降伏した。陳友諒の丞相胡廷瑞が竜興路を献じて投降すると、洪都府と改称し、鄧愈は江西行中書省参知政事となって当地を鎮守し、降将の祝宗・康泰に命じて元の部曲を統率させた。二人は元より降伏する意図は無く、徐達に従って武昌路攻略を命じられるに及んで、遂に叛いた。船団が女児港に入港するや、急いで軍を返し、夜陰に乗じて新城門を破って洪都府を占拠した。鄧愈は俄かに変事を聞き付け、数十騎を率いて逃走したが、その最中に何度も叛乱軍と遭遇した。続行した騎兵は次々と討たれて消えてゆき、窮地に陥った。鄧愈は立て続けに三度馬を替えたが、その馬も倒れた。最後に鄧愈の養子の馬を得てこれに乗り、ようやく撫州門を奪回して脱出することができ、奔走して応天府に帰還した。太祖はその罪を問わなかった。既に徐達は軍を引き返して洪都府を奪還していたので、再び鄧愈を大都督朱文正の補佐として当地に鎮守させた。その翌年、陳友諒は六十万人の軍を率いて来襲し、城に匹敵する高さの楼を備えた船団を以て、水位の上昇に乗じて直接城下に乗り付け、数百周も包囲した。鄧愈は撫州門を守ったが、ここはまさに要衝であった。陳友諒は自ら攻城を督戦し、城壁は三十数丈にわたって破壊されたが、鄧愈は修築しながらも戦った。敵の攻勢は増々激しくなり、夜になっても武装を解かない日々が三ヶ月も続いた。太祖は自ら救援に向かい、初めて包囲が解かれ、論功行賞で敵を打ち破るに等しい評価を受けた。太祖は武昌路を平定すると、鄧愈に命じて未だに帰順しない江西の諸州県を従わせた。鄧克明の弟の鄧志清は永豊県に割拠し、兵二万人を有していた。鄧愈はこれを攻撃して破り、その大将五十数人を捕らえた。常遇春に従って沙坑・麻嶺諸寨を平定し、兵を進めて吉安路を攻略し、贛州路を包囲し、五ヶ月後に占領した。江西行中書省右丞に昇進したが、このとき二十八歳であった。挙兵以後、諸将の中で若くして栄達した者は鄧愈と李文忠くらいのものである。
 鄧愈の為人は明朗でありながら慎重かつ綿密で、危険を憚らず、軍令は厳粛にし、よく帰順者を扱った。例えば安福州を従えた時、部下に掠奪を働いた者がいた。判官潘枢が面会を求めるや、入るなり面と向かって鄧愈を批判した。鄧愈は驚いて陳謝し、民衆を掠める者は斬刑に処すことを下令し、軍中を捜索して捕らわれている子女がいれば全て連れ出した。潘枢は彼女らを空家の中に閉じ込めておき、自らは屋外に座り、粥を作って食べさせた。また夜陰に乗じて盗みを働こうと企んだ兵は、鄧愈自ら鞭打って見せしめにした。潘枢は全員を護衛して家に帰らせたので、民衆は非常に喜んだ。常遇春が襄陽路を攻略すると、鄧愈は湖広行中書省平章政事として当地を鎮守したが、その際の辞令書には次の様に記されていた。「汝が襄陽府を守るに当たっては、必ずよく法令を守らせよ。山寨の帰順する者は、兵民を問わず全て元の戸籍に付け、小校以下の者は全て屯種させ、耕作と戦闘を両立させよ。汝の守る地に臨する拡廓帖木児(ココテムル)にしても、もし汝が民に愛情を持って接し、軍令を徹底させれば、彼の部曲はみな義を慕って帰順するであろう、虎口を脱して慈母に接するようにせよ。我が頼みとする汝は長城の如し、汝は大いに精励せよ。」鄧愈は障害を排除して、軍列・行政・堡塁・屯田を整備し、帰順者を厚遇したので、その威徳は特筆すべきものであった。
 呉元年に御史台が設立されると、召還されて右御史大夫となり、御史台を領導した。洪武元年に太子諭徳を兼任した。大軍が中原を平定すると、鄧愈は征戍将軍となり、襄陽府・漢陽府の兵を率いて南陽府以北の未だ帰順しない州郡を後略した。唐州を占領し、南陽府に進攻し、元軍を瓦店站の戦いで破り、追撃して北上し遂に城下に至り、これを占領して史国公ら二十六人を捕らえた。隋州・葉県・舞陽県・魯山県といった諸州県は相次いで降伏した。牛心・光石・洪山の諸山寨を攻撃して占領し、均州・房州・金州・商州の地は悉く平定された。(洪武)三年、征虜左副副将軍として大将軍(徐達)に従い定西州に遠征した。拡廓帖木児は車道峴に駐屯していたので、鄧愈はその堡塁を直撃し、柵を立てて前進し、拡廓帖木児は敗走した。兵を分けて臨洮府より河州に進攻して勝利し、吐蕃の諸酋長に帰順を持ち掛けたので、宣慰使何鎖南普(ハスェナムボ)〔一〕らはみな印章を納めて投降を申し出た。豫王を追撃して西黄河に至り、黒松林の戦いでその大将を破って斬殺した。河州以西の朶甘(ダカン)・烏斯蔵(ウイグル)らの諸部族は悉く帰順した。甘粛の西北に出撃すること数千里にしてようやく帰還した。論功行賞によって開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国を授けられ、衛国公に封じられ、同参軍国事とされ、歳禄三千石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年の蜀討伐では、鄧愈に命じて襄陽府の軍馬を操練し、兵卒に糧食を供給させた。(洪武)五年、辰州・澧州の諸蛮が叛乱を起こしたので、鄧愈を征南将軍とし、江夏侯周徳興・江陰侯呉良を副将軍として討伐させた。鄧愈は楊璟・黄彬を率いて澧州を出撃し、四十八もの洞に勝利し、また房州の叛逆者を捕らえて斬殺した。(洪武)六年、右副将軍として徐達に従い西北辺境を巡回した。(洪武)十年、吐蕃が川蔵走廊を封鎖し、貢使を襲撃したので、鄧愈は征西将軍として副将軍沐英と共にこれを討伐した。兵を三路に分け、急追して崑崙山に至り、捕殺した敵兵は万を数え、馬牛羊十数万頭を捕獲し、兵をいくつかの要害に留めて帰還した。その道中で病に罹り、寿春県に到着したところで没した。四十一歳であった。寧河王に追封され、武順と諡された。
 長男の鄧鎮が後を継ぎ、申国公に追封され、征南副将軍として永新州龍泉山の賊を平定した。また塞外に出撃し功績を挙げた。その妻は李善長の外孫であった為に、李善長が粛清されると姦党に連座して誅殺された。弟の鄧銘は錦衣衛指揮僉事として蛮族制圧の軍中で没した。子の鄧源が鄧鎮の後を継いだ。弘治年間、鄧源の孫の鄧炳は南京錦衣衛世襲指揮使となった。嘉靖十一年に詔して鄧炳の子の鄧継坤を定遠侯に封じた。五代後の鄧文明は、崇禎の末年に流賊によって殺害された。

【注釈】
(※1)呉宏、もと陳友諒麾下で平章政事の官にあって饒州を鎮守していたが、朱元璋に投降した。前後関係を補足すると、『太祖実録』巻九、辛丑八月戊申条に「陳友諒の平章政事呉宏が饒州を以て投降したので、命じて旧官のまま饒州を鎮守させた。」とあり、また同十一月己未条には「命じて平章政事呉宏らに兵を率いて撫州路を攻略させた。時に陳友諒の右丞鄧克明は籠城して拒み、…」とある。

【校勘記】
〔一〕何鎖南普、元は「何鎖南」で、「普」一字が脱落していた。『太祖実録』巻五十九、洪武三年十二月辛巳条・同書巻六十、洪武四年正月辛卯条・同書巻百十六、洪武十年十一月壬午条・『国榷』巻四、四百三十八頁に基づいて補足した。本書巻三百三十西番伝は「鎖南普」としている。
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by su_shan | 2016-07-23 14:22 | 『明史』列伝第十四

湯和

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 湯和、字を鼎臣、濠州の人で、太祖(朱元璋)の同郷。幼くして大志あり、喜々として騎射を習い、子供たちを部分けして率いた。成長するに及んで身の丈は七尺に達し、才気に溢れ智略に優れた。郭子興が起兵した当初、湯和は若者十余人を引き連れてこれに帰順し、戦功を立てて千戸を授かった。太祖に従って大洪山を攻め、滁州の戦いで勝利し、管軍総管を授かった。和州占領に従事した。時に諸将の多くは太祖と同輩であって、敢えて下になろうとする者は居なかった。湯和は太祖より三歳年上であったが、唯一約束を守って良く謹んだので、太祖はこれを非常に喜んだ。太平路の平定に従事し、馬三百頭を捕獲した。陳野先への攻撃に参加したところ、左股に流れ矢を受けたが、矢を抜いて再度戦い、遂に諸将と共に陳野先を撃破して捕らえた。他には溧水州・句容県を降伏させ、集慶路平定に参加した。徐達に従って鎮江路を攻略し、統軍元帥に昇進した。奔牛鎮・呂城を従え、陳保二を降伏させた。金壇県・常州路を占領したので、湯和を枢密院同僉としてこの地を鎮守させた。
 常州路と呉の地域は境界を接しており、張士誠の間諜が頻繁に侵入していた。湯和は防御を厳戒にしたので、敵は様子を窺うことができなかった。再度侵攻してきたので、再度迎撃して撃退し、捕殺した敵兵は千人を数えた。無錫州に進攻し、錫山の戦いで呉軍を大いに破り、莫天祐を敗走させ、その妻子を捕らえ、中書左丞に昇進した。水軍を率いて黄楊山を従え、呉の水軍を破り、千戸四十九人を捕らえ、平章政事を拝命した。長興州を救援し、張士信と州城下で戦った。城中の兵が加勢して挟撃したので、これを大いに破り、兵八千人を捕らえ、解囲して帰還した。江西の諸山寨を討伐した。永新州守将の周安が叛いたので、進撃してこれを破り、その十七寨を連破して城を包囲すること三ヶ月、遂に占領し、周安を捕らえて後送し、帰還して常州府を鎮守した。張士誠討伐の大軍に従事し、太湖水寨の戦いで勝利し、呉江州を降伏させ、平江路を包囲し、閶門に戦うが、砲弾で左臂を負傷し、応天府に召還され、傷が快復して再度赴き、攻撃してこれに勝利し、論功行賞で金帛を賜った。
 最初に御史台を設立した時、湯和を左御史大夫兼太子諭徳とした。次いで征南将軍を拝命し、副将軍呉禎と共に常州府・長興州・江陰県の諸軍を率いて方国珍を討伐した。曹娥江を渡り、余姚州・上虞県を降伏させ、慶元路を占領した。方国珍は敗走して海に逃げたので、追撃してこれを破り、その大将二人・海船二十五艘を捕らえ、斬首は数え切れない程に多く、帰還して周辺の属城を平定した。遣使して方国珍を招いたので、方国珍は出頭して軍門に降り、兵二万四千人、海船四百余艘を得た。浙東は悉く平定された。遂に副将軍廖永忠と共に陳友定を討伐し、明州府より海路を進んで風に乗り福州路の五虎門に到達し、南台島に駐留し、降伏勧告の使者を送った。陳友定は返答しなかったので、遂にこれを包囲した。平章政事曲出を城下で破った。参知政事袁仁が投降を申し出たので、遂に乗じて城内に突入した。兵を分けて興化路・漳州路・泉州路及び福寧州といった諸州県を従えた。進攻して延平路を突破し、陳友定を捕らえて京師に送還した。時に洪武元年正月の事である。
 大軍がまさに北伐を行っている頃、湯和は明州府で海船を建造し、兵糧を直沽に輸送するよう命じられた。しかし海上は強風が吹くことが多く、物資を鎮江に輸送して帰還した。偏将軍を拝命した。大将軍(徐達)の西征に従事し、右副将軍馮勝と共に懐慶府から太行山脈を越え、沢州・潞州・晋州・絳州といった諸州郡を占領した。大将軍(徐達)に従って河中を突破した。翌年、黄河を渡って潼関に入城し、兵を分けて涇州に向かい、部将に命じて張良臣を投降させたが、早くも叛旗を翻した。大軍を集結して慶陽路を包囲し、張良臣を捕えて斬殺した。また翌年、再び右副副将軍〔一〕として大将軍(徐達)に従い定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)を破り、遂に寧夏路を平定し、遂に北方の察罕脳児(チャガンノール)に到達し、猛将虎陳を捕らえ、馬牛羊十数万頭を捕獲した。東勝州・大同路・宣府を従えるに当たって全てに功績を挙げた。帰還後、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国を授かり、中山侯に封じられ、歳禄は千五百石、世券を与えられた。
 (洪武)四年に征西将軍を拝命し、副将軍廖永忠と共に水軍を率いて長江を遡航し夏を討伐した。夏は兵を要害に置いたので、攻撃しても破ることができなかった。長江の水流が荒れたので、大渓口に停泊してしばらく前進できないでいると、傅友徳が早くも秦・隴方面から長駆進攻して漢中を占領した。廖永忠は先発して瞿塘関を破り、夔州路に侵入した。湯和は軍を率いて続行し、重慶に入城して明昇を降伏させた。軍が帰還すると、傅友徳・廖永忠は最上の賞を受けたものの、湯和はこれに及ばなかった。翌年、大将軍(徐達)に従って北伐し、断頭山で敵と遭遇、敗北して指揮使一人を失うが、洪武帝(朱元璋)は不問に付した。次いで李善長と共に中都の宮殿を造営した。北平府を鎮守し、彰徳城を修築した。察罕脳児に遠征し、大勝利を収めた。(洪武)九年、伯顔帖木児(バヤンテムル)が辺境を脅かしたので、征西将軍として延安府を防衛した。伯顔帖木児が講和を申し出たので、帰還した。(洪武)十一年春、信国公に進封し、歳禄三千石に加増、議軍国事とされた。しばしば中都・臨清府・北平府に出向いて練兵し、城郭を保全した。(洪武)十四年、左副将軍として塞外に出撃し、乃児不花(ナイルブカ)を討伐し、灰山営の戦いで敵を破り、平章政事別里哥(ベルゲ)・枢密使久通を捕らえて帰還した。(洪武)十八年、思州蛮が叛いたので、征虜将軍として楚王朱楨に従いこれを征討し、四万人を捕虜とし、その酋長を捕らえて帰還した。
 湯和は沈着聡明ではあったが、あまりにも飲酒が過ぎることがあった。常州府を鎮守していた時、嘗て太祖にある事を要請したものの、認められず、泥酔して恨み言を漏らした。「我がこの城を守っているということは、屋根の天辺に座っているようなものだ。左を向けば左に転がる、右を向けば右に転がるのだ。」太祖はこれを聞いて胸中に留め置いた。中原平定の軍が帰還して論功行賞を行った際、湯和が閩(福建)を攻略した時に陳友定の残党を放置した為に八郡が再び荒らされ、軍が帰還すると、秀蘭山の賊に襲撃されるところとなって、指揮使二人を失ったので、公に封爵されなかったのである。蜀遠征から帰還すると、敵を恐れて前進しなかった咎を直接詰問された。湯和は頓首して謝罪したので、それで済んだ。その信国公に封じられた折、なおも常州府での過失を挙げられ、これを誥券に刻まれたのであった(※1)。時に、洪武帝も年老い、天下は平穏になり、魏国公(徐達)・曹国公(李文忠)は既に他界し、諸将が長らく兵権を握ることを快く思わなかったが、未だに廃止できないでいた。湯和は間を置いて落ち着いて言った。「臣は犬馬の労を厭わずお仕え致しましたが既に年老い、二度と軍務には堪えられないでしょう。願わくは故郷に帰ることさえできれば、棺を入れる土盛を作り、骸骨になるのを待ちたいものです。」洪武帝は非常に満足し、鈔と中都の邸宅を下賜し、合わせて諸公・侯の邸宅を造営した。
 この時既に倭人が上海を略奪していたので、洪武帝はこれを危惧し、湯和を顧みて言った。「卿は老いたりと言えども、敢えて朕の為に今一度行ってはくれまいか。」湯和は方鳴謙と共に任務に当たりたいと要請した。方鳴謙とは、方国珍の甥で、海事に習熟し、常に防倭策を持って訪れていた。方鳴謙は言った。「倭人は海上からやって来るので、海上で防ぐのみです。沿海の地を測量し、衛所を置き、陸地に歩兵を集め、海上に軍船を備えれば、倭人は侵入することができず、侵入したところで岸に上がることはできません。近隣の海民で四人に一人を軍としてその地を守らせ、客兵に煩わされることのないように致しましょう。」洪武帝はその意見を認めた。湯和は浙西・浙東の地を測量し、沿海に五十九ヶ所もの衛所を並べ、成人男子三万五千人を選抜して工事に当たらせ、その財源は州県ばかりか罪人からも徴収して事業に投入された。ところが役夫は往々にして要求が過大で、民衆の生活の混乱を防ぐことができなかったので、浙江の人々は大変苦しんだ。ある人が湯和に言った。「民衆は不満を持っております。如何致しましょうか。」湯和は言った。「遠大な策を成す為には、小怨など危惧しないし、大事を任される者は細事など考慮しないものだ。次に不満を言う者がおれば、我が剣にかけるぞ。」年を越えて工事は完了した。軍列を整え、考課を定め、賞罰を立てた。浙東の民で一戸に四人以上ある者は、戸毎に一人を守備に充て、およそ五万八千七百余人を集めた。翌年、閩でも工事が完了したので、湯和は帰還して報告し、中都の新邸も完成した。湯和は妻子を連れて挨拶に訪れ、黄金三百両・白金二千両・鈔三千錠・彩幣四十有副を下賜され、夫人の胡氏もまた下賜を受けた。並びに璽書を下されて褒諭されたので、他の功臣で湯和に並ぶ者は誰もいなかった。この時より湯和は一年に一度は京師の朝廷に出向いた。
 (洪武)二十三年正月に朝廷を訪れた時、病の為に声を出せなくなった。洪武帝は即日見舞いに現れ、長らく嘆き悲しみ、郷里に送り帰らせた。病が小康になると、またその子に命じて都に迎えさせ、安車のまま内殿に招き入れられ、宴を用意して労い、家族にも金帛御膳法酒を賜った。(洪武)二十七年、病は重篤となって起き上がることができなくなった。洪武帝は引見したいと思い、詔して安車にて入観させると、手を撫でて湯和を摩り、共に昔の故郷のことや兵を興して艱難に耐えたこと等を話し尽くした。湯和はもはや応えることができず、ただ頓首するだけであった。洪武帝は涙を流し、葬儀の費用として厚く金帛を賜った。翌年八月に没した。歳は七十であった。東瓯王に追封され、襄武と諡された。
 湯和の晩年はこれまでよりも更に恭しく慎み、召して国策を聞いても、一言も語りはしなかった。その媵妾は百人余りを数えたが、病を得た後はすべて財産を与えて帰らせた。受け取った賞賜は、その多くを郷里の為に遺し、庶民の頃に馴染のあった老人を見出すと、大いに喜んだものであった。まさにこの当時、公・侯諸宿将の多くが姦党に連座して粛清され、これを免れたものは僅かであったが、湯和は独り長寿を全うし、功名を遺して一生を終えた。嘉靖年間、東南の地域が倭寇に苦しんだが、湯和が築城した沿海の城塞群はみな堅牢かつ精緻で、長らく崩れることが無かったので、浙江の人々はこれに頼って防衛することができ、彼を偲んで多くの歌が作られた。ある巡按御史が朝廷に要請して、廟堂を建てて祀ったものであった。
 湯和には五人の子があった。長男の湯鼎は前軍都督僉事となり、雲南遠征に従軍したが、その道中で没した。末子は湯醴といい、功績を積んで左軍都督同知に昇進し、五開に遠征したが、軍中で没した。湯鼎の子の湯晟、湯晟の子の湯文瑜はいずれも早逝し、後嗣が得られなかった。英宗の時代、湯文瑜の子の湯傑が爵位の継承を願い出たが、遂に四十数年間経っても襲爵できず、断念した。湯傑には子が無く、弟の湯倫の子である湯紹宗が後を継いだ。孝宗が功臣の後裔を調査したところ、湯紹宗は南京錦衣衛の世襲指揮使を授かった。嘉靖十一年に霊璧侯に封じられ、食禄千石とされた。子に継がれて孫の湯世隆は、隆慶年間に協守南京兼領後軍都督府となり、後に提督漕運に遷り、四十数年を経て、労に報いて太子太保を加官され、少保に昇進した。没後、僖敏と諡された。爵位は継承されたが、明朝滅亡に至って断絶した。

 湯和の曽孫は湯胤勣、字を公譲といった。諸生となり、詩に巧み、才能に富んで気鋭であった。巡撫尚書周忱が啓事を作らせたところ、即席で数万言を書き上げた。周忱は朝廷に推薦した。少保于謙に召し出されて古今の将略や兵事について諮問されたところ、湯胤勣の応対は非常に素早かった。重ねて錦衣衛千戸を授けられた。中書舎人趙栄と共に(オイラトに捕らわれた)英宗を沙漠に訪ねた時、脱脱不花(トクトブハ)が北京の朝廷の様子を尋ねたが、毅然と応答して僅かも動じることは無かった。景泰年間、尚書胡濙の推薦で署指揮僉事となった。天順年間、錦衣衛を内偵した者が湯胤勣の昔の不祥事を聞きつけたので、罪を得て庶民に落とされた。成化年間の初め、再び官職を得た。三年後に署都指揮僉事に抜擢され、延綏東路参将となり、孤山堡を防衛した。孤山は当地で一番の要害であり、湯胤勣は上奏して城を築き糧を集め、兵を増強して守りに就いた。突然として敵が攻め寄せた。湯胤勣は病を押して馬に跨り駆け回ったが、罠に嵌って戦死した。事の次第が伝わると、形通りの贈位祭礼が執り行われた。

【注釈】
(※1)なおも常州府での過失を挙げられ、これを誥券に刻まれたのであった、『明太祖文集』巻三、信国公湯和誥に、「正に論功行賞を行おうとした時、汝湯和は古参の将帥ではあったが、ただ毗陵を鎮守するに忠誠に欠ける所があった為に、未だに顕彰せず、その心情は在れども、とうとう行うことが出来なかった。朕は長らくそうしたいと考えており、先の過失を挽回して封爵に値する功績を認めたので、中山侯に封じたのである。今、朕は再び従来の功績に思いを馳せるに、汝の功績の東は越の地を平らげ、南は八閩の地を下し、西に察罕脳児の酋長を捕らえ、巴蜀を下したことは、非常に大きな功績である。今、朕は特別に汝の過失を赦し、長年の勤労に報い、信国公の爵位を授けるので、永久に子孫に世禄を伝えよ。」とある。毗陵は常州府の古称。

【校勘記】
〔一〕右副副将軍、元々「副」が一字脱落していた。『太祖実録』巻四十八、洪武三年正月癸巳条は、「主上(太祖)は王保保(拡廓帖木児)が西北の災禍となっていることを受けて、また命じて右丞相信国公徐達を征虜大将軍とし、浙江行中書省平章政事李文忠を左副将軍とし、都督馮勝を右副将軍とし、御史大夫鄧愈を左副副将軍とし、湯和を右副副将軍とし、沙漠を遠征させた。」と記す。『明史』鄧愈伝は鄧愈を「左副副将軍」としているので、これもまた証左である。これらに基づいて補った。
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by su_shan | 2016-07-22 01:42 | 『明史』列伝第十四