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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十二( 6 )

列伝第十二 目次

拡廓帖木児 蔡子英 陳友定 伯顔子中 等

把匝剌瓦爾密

 論賛、洪武九年に方谷珍が没し、宋濂が勅を奉じて墓碑を撰した時、当代の群雄は全てその名を直に記したのであるが、ただ察罕帖木児に至っては、斉国李忠襄王と呼んだので、順逆の道理が明らかであることを見て取ることが出来るのである。拡廓帖木児は百戦を経ても屈せず、先人の遺志を継ごうと欲したが、恨みを抱いて没した。陳友定は何真の様に生き永らえることをせず、梁王は納哈出(ナガチュ)の背国を恥としたので、みな元朝の忠臣なのである。『詩経』は「その進むべき道は一つ、固く心に決めている」と言い、『易経』は「度を越した節制に悔いは無くなる」と言う、それは伯顔子中・蔡子英のことである。嘗て元朝の塞外北帰について、その時付き従った臣下の中に必ずや沙漠の表に於いて式微の章を誦じた者が居たのであるが、惜しくもその姓字は跡形も無く消えてしまい、今や世間で目にすることは出来ない。それが仮に蔡子英の様な人物であったとしたら、また何と不幸なことであろうか!
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by su_shan | 2016-08-16 15:41 | 『明史』列伝第十二

伯顔子中 等

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 鄭定、字を孟宣、剣術を得意とし、陳友定の書記となった。敗北するに及んで、海へ逃れて交趾・広州の間に潜伏した。しばらくして、戻って来て長楽県に居住した。洪武末年、国子監助教まで累進した。王翰、字を用文、元朝に仕えて潮州路総管となった。陳友定が敗北すると、道士となり、十年間も永泰山に隠棲した。太祖はその賢才を聞き付けると、これを強引に出仕させようとした為、自ら首を刎ねて死んだのであるが、子の王偁は広く名を知られることになった。
 陳友定に仕えた者の中に、伯顔子中(バヤン子中)という人物がいる。伯顔子中(※1)、その先祖は西域人で、後裔は江西の地に任官したので、それによって定住した。伯顔子中は『春秋』に明るかったが、五度の推挙全てに落第したので、行中書省は東湖書院の山長職を授け、建昌学教授に遷った。伯顔子中は儒者ではあったが、意気が盛んで兵事の話をを好んだ。江西に盗賊が現れると、分中書省都事を授かり、贛州路鎮守を命じられたが、陳友諒の兵は既に贛州路に侵入を始めていた。伯顔子中は急いで官吏と民衆を徴募し、城下で戦ったが、勝つことは出来ず、間道より閩(福建)へ逃走した。陳友定は本より伯顔子中を知っていたので、行中書省員外郎を授けた。奇計を用いて、陳友定の兵に建昌路を奪還させ、海路より元朝の都に捕虜を献上した。数度の昇進を経て吏部侍郎に遷った。広東の何真の兵に閩を救援させる為の使者となったが、到着した時には既に何真は廖永忠に降伏してしまっていた。伯顔子中は馬から転げ落ち、片足を骨折し、軍前に引っ立てられた。廖永忠はこれを投降させようと脅迫したが、屈することは無かった。廖永忠は義としてこれを解放してやった。そして姓名を変え、道士に身を窶し、浙江と湖広の間を巡り歩いた。太祖はこれを仕官させようと求めたが、得ることは出来なかったので、その妻子を探し出したのであるが、結局のところ伯顔子中は出仕しなかった。嘗て手に入れた鴆(という毒鳥)を持ち歩いていたことがあったが、しばらくの後に浸漬して溶解し、郷里に戻った。洪武十二年に郡県に詔を下して元朝の遺民を推挙させた。承宣布政使の沈立本は朝廷に対して密かに伯顔子中のことを報告し、贈物を用いて招聘しようとした。使者が到来すると、伯顔子中は大きな溜息をついて言った。「死に時を誤ってしまった。」七章歌を作ると、その祖父や老師や朋友の名を泣きながら叫び、鴆毒を仰いで死んでいった。
 元朝が崩壊した時、国土を守る臣下にあって節操を保って死んだ者は非常に多かった。明軍が太平路に勝利した際には、総管の靳義が入水して死んだ。集慶路を攻撃した際には、江南行御史台御史大夫の福寿が戦い敗れるも、城を堅守していた。城壁は破られたが、なおも兵を率いて戦い続け、伏亀楼に移って指揮を執った。左右の者が脱出を勧めたが、福寿は叱り付けてこれを射殺し、遂に戦死した。参知政事伯家奴・達魯花赤(ダルガチ)達尼達思(ダニダシ)らは何れも戦死した。鎮江路に勝利した際には、守将段武・平章政事定定(ディンディン)が戦死した。寧国路に勝利した際には、百戸張文貴が妻妾を殺害した後に自らも首を刎ねて死んだ。徽州路に勝利した際には、万戸呉訥が戦い敗れた後に自殺した。婺州路に勝利した際には、浙東廉訪使楊恵・婺州路達魯花赤僧住が戦死した。衢州路に勝利した際には、総管馬浩〔一〕が入水して死んだ。石抹宜孫は処州路を鎮守していたが、その母親と弟の石抹厚孫が先に明軍の捕虜となったことから、書状によってこれを招聘しようとした。石抹宜孫が従うことは無かった。処州路に勝利するに及んで、石抹宜孫は戦い敗れ、建寧路に遁走したが、兵卒を召集して、再び処州路を奪還しようとした。慶元路を攻撃したものの、耿再成に敗北し、建寧路に逃げ帰った。その道中にて郷兵に遭遇し、殺害された為に、部将の李彦文がこれを竜泉県に埋葬した。太祖はその忠義を称え、使者を派遣して祭祀を行わせ、また処州府に生祠を建立させた。福寿は応天府に、余闕は安慶府に、李黼は江州府に祠を建立した。余闕・李黼の事績は『元史』に詳しい。
 その後、大軍が北進して益都路に勝利した際には、平章政事普顔不花(ボヤンブカ)が屈することなく死んだ。東昌路に勝利した際には、平章政事申栄が自ら縊死した。真定路達魯花赤鈒納錫彰(ジナシルジャ)は明軍が元朝の都を奪取したことを聞くと、朝服に着替えて城の西側の崖に登り、北面して再拝した後、身を投げて死んだ。奉元路に勝利した際には、陝西行御史台御史桑哥失里(サンガシリ)が妻子と共に崖から身を投げ、左丞拝泰古は終南山に落ち延び、郎中王可は毒薬を仰いで死に、検校阿失不花(アシブカ)は自ら縊死した。三原県尹朱春はその妻に言った。「我は死して国に報いん。」妻は答えた。「君が忠節を尽くすというのに、妾もどうして貞節を尽くさないことがありましょうか。」こうして一緒に首を吊って死んだ。また大軍が永州路を攻撃した際には、右丞鄧祖勝が堅守したが、糧食が尽きて困窮し、毒薬を仰いで死んだ。梧州路に勝利した際には、吏部尚書普顔帖木児(ボヤンテムル)が戦死し、張翱は入水して死んだ。靖江に勝利した際には、都事趙元隆・陳瑜・劉永錫、廉訪使僉事帖木児不花(テムルブカ)、元帥元禿蛮、万戸董丑漢、府判趙世傑が自殺した。劉福通・徐寿輝・陳友諒らの破る所となった郡県に於いても、鎮守していた官吏や将帥の多くが忠節に殉じたことが『元史』に散見されるが、詳細には記されておらず、記述は『明実録』を参照すると良い。
 また劉諶という人物がおり、江西の人で、仁寿県の教官となった。明玉珍が蜀に侵入すると、官職を辞して瀘州に隠棲した。明玉珍はこれを仕官させようとしたが、応じなかった。鳳山の趙善璞は山奥に隠遁し、明玉珍は招聘して学士にしようとしたが、やはり応じなかった。張士誠が平江路を破った際には、参軍楊椿が身を挺して戦い、刀に胸を刺し貫かれると、目に怒りを滾らせ激烈な罵声を撒き散らして死に、妻もまた自ら縊死して果てた。張士誠はまた書状と贈物を用いて松江府に於いて元左司員外郎楊乗を求めたが、楊乗は祖禰廟に酒醴を捧げ、晴れやかな西日に振り返って言った。「人生の晩節とは、こういうのが良い。」夜になって自ら縊死した。そして親藩として難に殉じた最も壮烈な人物に、雲南の梁王がいる。

【注釈】
(※1)伯顔子中、『七修類稿』巻十六、義理類、伯顔子中伝には、「伯顔、字を子中」とあり、子中を字としている。

【校勘記】
〔一〕馬浩、『明史稿』伝十、陳友定伝・『太祖実録』巻七、己亥七月丁未条はいずれも「馮浩」としている。
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by su_shan | 2016-08-16 15:36 | 『明史』列伝第十二

陳友定

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 陳友定、またの名を陳有定、字を安国、福清州の人で、汀州路の清流県へ移り住んだ。代々農家を営んだ。為人は沈着かつ勇敢で、遊侠を好んだ。郷里の者はみな恐れ従った。至正年間、汀州路府判の蔡公安が清流県を訪れ民兵を募集して賊を討伐しようとしたので、陳友定は募集に応じた。蔡公安が陳友定と話をしたところ、これは尋常では無い人物だと思ったので、募兵した部曲を掌握させ、黄土砦巡検に割り当てた。数々の山寨を平定した功績によって、清流県尹に遷った。陳友諒がその部将鄧克明らを派遣して汀州路・邵武路を陥落させ、杉関を攻略した。行中書省は陳友定に汀州路総監を授け、これを防がせた。黄土の戦いで大勝利を収め、鄧克明は敗走した。年を越えて、鄧克明は再び汀州路を奪取し、建寧路を急襲した。守将の完者帖木児(オルジェイテムル)は陳友定に檄を飛ばして来援を要請したので、立て続けに賊軍を破り、失陥した郡県の悉くを回復した。行中書省はその功績を第一等とし、参知政事に昇進させた。既に、延平路に分中書省が設置されていたので、陳友定を平章政事としたことで、陳友定は福建八郡の地の悉くを領有することになった。
 陳友定は農家の子でありながら募兵として出世したので、文章の読み書きが出来なかった。八郡を領有するに及んで、しばしば文学の著名人を招き、例えば閩県の鄭定・廬州路の王翰の類は、麾下に留め置いた。書籍には粗方目を通し、五字小詩の作り方を習ったが、いずれも道理に適っていた。しかしながら思うに任せて処断することが多く、所属する者で命令に違反した者は誅殺や追放される事例が後を絶たなかった。漳州路守将の羅良は不満に思い、書状を送り付けて批判した。「郡県とは国家の土地である。官僚と官衙は、主君の臣下である。そして糧倉は、朝廷の外庫なのである。今、貴殿は郡県を家の様に見て、官僚を下僕の様に急き立て、糧倉を私蔵の様に扱い、表向きは国家に貢献している様に見えて、実際は好き勝手に振る舞っているだけなのだ。愚かにも貴殿は郭子儀たらんとしているのか、或いは曹孟徳たらんとしているのか?」陳友定は怒り、とうとう兵を用いて羅良を誅殺してしまった。福清州宣慰使の陳瑞孫・崇安県令の孔楷・建陽県の人である詹翰は陳友定を拒んで従わなかった為に、全員殺害された。こうして陳友定は八閩の地を震撼させたが、元朝の臣下としての節度は未だに逸脱したことが無かった。当時、張士誠は浙西に割拠し、方国珍は浙東に割拠していたが、名目上は元朝に帰順していたので、毎年大都に粟を輸送していたが、すぐに到着しなくなってしまった。一方で陳友定は毎年数十万石の粟を輸送したが、遙かに遠い海路であった為に、到着したのは十のうち三か四であった。順帝はこれを喜び、詔を下して褒美を与えた。太祖(朱元璋)が婺州路を平定すると、陳友定と領域を接することになった。陳友定は処州府に侵攻した。参知政事胡深が迎え撃ってこれを敗走させ、遂に浦城県を陥落させ、松渓県に勝利し、陳友定の部将張子玉を捕らえ、朱亮祖と共に建寧路に進攻し、その二柵を破った。陳友定は阮徳柔を派遣して兵四万を以て錦江に駐屯させ、胡深の後背に回り込ませ、その帰路を断ち、自らは副将の頼政らを率いて精鋭を以て肉薄し、阮徳柔も後背より挟撃した。胡深の軍は敗れ、捕らわれて殺害された。太祖は既に方国珍を平定していたので、兵を発して陳友定を討伐した。将軍胡廷美・何文輝は江西より杉関に向かい、湯和・廖永忠は明州府より海路を進んで福州路を奪取し、李文忠は浦城県より建寧路を奪取し、これとは別に使者を延平路に派遣して、陳友定を招聘した。陳友定は酒を置いて諸将や賓客を一堂に集め、明朝の使者を殺害し、その血を酒甕の中に零して、皆で掬ってこれを飲んだ。酒が充分に回ると、皆に誓って言った。「我らは等しく元朝の厚恩を享受しているのだ、死を以てせずして拒む者が居れば、その身体を磔にし、妻子は殺戮してくれる。」遂に福州路に出向いて視察し、城の周囲に堡塁を建造した。堡塁より五十歩を隔てて、高台を築き、厳重に警戒して防御する策を採った。既に杉関が突破されたという報告を受けると、素早く軍を二分し、一軍を以て福州路を守り、自らは一軍を率いて延平路を守り、互いに掎角の形を作った。湯和らの水軍が福州路の五虎門に到達すると、平章政事曲出(クチュ)が兵を率いて迎撃したが敗れ、明軍は南台の縁に殺到して城壁を登った。守将は遁走し、参知政事尹克仁・宣政使朶耳麻(ドルマ)は屈すること無く戦死し、僉院柏帖木児(柏テムル)は楼下に薪を積み上げ、妻妾と二人の娘を殺害し、火を放って自らを焼いた。
 胡廷美が建寧路に勝利すると、湯和は延平路に進攻した。陳友定は持久戦を挑んでこれを困窮させようと考え、諸将が出撃を要請しても認めなかった。何度も要請が続いて止むことが無かったので、陳友定は部将の謀叛を疑い、蕭院判を殺害した。兵卒の多くが投降した。たまたま軍器局で火災が発生し、城内から地を揺るがす程の爆発音が聞こえた為、明軍は変事が発生したことを悟り、城を急襲した。陳友定は部下を呼んで訣別の言葉を交わした。「大事は既に去れり、我は一人死して国に報いん、諸君らは努力せよ。」下がって省堂へ入って行き、衣冠を整え北面して再拝し、毒を仰いで死んだ。麾下の軍は競って城門を開き、明軍に投降した。軍が入城し、陳友定を確認しに行ったところ、まだ絶命していなかった。担がれて水東門を出たところ、激しい雷雨に遭い、陳友定は蘇生した。拘束されて京師に送還された。謁見の場で太祖はこれを詰問した。陳友定は声を張り上げて叫んだ。「国破れて家滅びれば、ただ死するのみ、これ以上何も言うものか!」こうして子の陳海と共に殺害されてしまった。
 陳海、またの名を陳宗海、騎射に巧みで、また好んで文人を礼遇した。陳友定が捕らえられると、将楽県より軍門に降って来たが、ここに至って共に殺害された。
 元朝末期に盗賊の跋扈した地域に於いては、民間の者が義兵を起こして郷里を保全し、元帥を自称した者は数え切れない程に多いが、元朝はそれらの者に対して容易く官位を与えた。その後、ある者は翻って盗賊となり、ある者は最後まで元朝に仕えたが、ただ陳友定父子の義に殉じた姿勢は、当時の人々に忠節を全うしたものと称えられた。陳友定が死亡すると、興化路・泉州路はいずれも威勢に靡いて帰順した。ただ漳州路達魯花赤(ダルガチ)の迭里彌実(デリウィシュ)だけは公服を身に着け、北面して再拝し、斧を振り下ろして印章を砕き、腰に帯びた刀で咽喉を刺し貫いて果てた。当時謳われていた「閩に三忠あり」とは、陳友定・柏帖木児・迭里彌実のことである。
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by su_shan | 2016-08-13 17:26 | 『明史』列伝第十二

把匝剌瓦爾密

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 梁王把匝剌瓦爾密(バツァラワルミ)、元朝の世祖(クビライ)の第五子、雲南王忽哥赤(クゲチ)の末裔である。梁王に封じられ、雲南に鎮守した。順帝の治世、天下は様々な出来事があったが、雲南は遠く隔たっていたことから、梁王の支配は威厳と徳に満ちていた。至正二十三年〔一〕、明玉珍が蜀に於いて帝号を僭称すると、三路より出兵して侵攻して来た為、梁王は退避して金馬山に野営した。翌年に大理で迎え撃ち、明玉珍の兵は敗走した。しばらくして、順帝が北方に逃げ延びると、大都は守られず、中国には寸土しか元朝には残されなかったが、一方で梁王は自若として雲南を守り、毎年使者を派遣して塞外より元朝の皇帝の行在を訪ね、従来の様に臣下としての礼節を保ち続けた。間も無くして、明軍が四川を平定すると、天下はほぼ明王朝の元に統一された。太祖(朱元璋)は雲南が険阻かつ遠方の地であることから、出兵を望まなかった。翌年正月、北平府の守将が梁王の漠北に派遣した使者である蘇成を捕らえて送還して来たので、太祖は待制の王禕に命じて詔書を携えて蘇成と共に行かせ、梁王を招聘した。梁王は礼節を以て王禕を接待した。たまたま元朝の後嗣が使者脱脱(トクト)を糧食の徴発の為に派遣して来ていたが、脱脱は梁王に二心があるのではと疑念を抱き、脅迫して殺めさせようとした。梁王は遂に王禕を殺害したが、礼節に則ってこれを埋葬した。三年後、太祖はまた湖広行中書省参知政事の呉雲に北伐軍が捕らえた雲南の使者鉄知院らと共に行かせた。鉄知院は自らが奉使でありながら捕らわれてしまったことを恐れ、呉雲を誘って制書を差し替え、梁王を欺こうとした。呉雲は従わず、殺害された。梁王は呉雲の死を聞くと、その遺骨を集めさせ、蜀の給孤寺に送り届けた。
 太祖は遂に梁王が招聘によって帰順させることが出来ないと悟ると、傅友徳を征南将軍に命じ、藍玉・沐英を副将軍とし、軍を率いてこれを討伐させた。洪武十四年十二月に普定路を陥落させた。梁王は司徒平章政事達里麻(タリマ)を派遣して兵を率いて曲靖に駐留させた。沐英は軍を引き連れて急行し、濃霧に乗じて白石江に到達した。霧が晴れると、達里麻は目前の光景に驚愕した。傅友徳らは兵を率いて進撃し、達里麻の兵は潰走して捕らえられた。これより以前、梁王は娘を大理の酋長段得功に嫁がせていたので、嘗てはその兵力を頼みとしていたが、後に疑惑を抱いてこれを殺害したので、遂に大理からの救援は現れなかった。ここに至って達里麻が敗北し、精兵十数万が失われた。梁王はもはやどうすることも出来ないと悟り、普寧州の忽納砦に落ち延び、その竜衣を焼き捨て、妻子を急き立てて滇池に身を投げさせた。そして遂に左丞達的(ダダ)・右丞驢児(ルアル)と夜間に藁舎に入り、共に自ら縊死した。太祖はその家属を耽羅に遷した。

【校勘記】
〔一〕二十三年、元は「二十九年」となっていた。明玉珍が至正二十二年に皇帝を称した後に兵を発して三路より雲南に侵攻して梁王を攻めたのは至正二十三年であることを考えると、本書巻百二十三、明玉珍伝・『太祖実録』巻十六、丙午二月「是月」条に基づいて改めた。また同じく上記の『太祖実録』によると、梁王が退避して金馬山に野営したのは至正二十四年春三月のことで、大理の兵を以て迎え撃ったのは同年夏四月であるから、伝中の文章は互いに異なる年の出来事に分割してしまっている。
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by su_shan | 2016-08-12 22:46 | 『明史』列伝第十二

蔡子英

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 蔡子英、永寧路の人。元朝の至正年間の進士。察罕帖木児(チャガンテムル)が河南に開府すると、参軍事として仕え、行中書省参知政事まで昇進した。元朝が亡ぶと、拡廓帖木児(ココテムル)に従って定西州へ逃走した。明軍が定西州を攻略すると、拡廓帖木児は敗北し、蔡子英は単騎で関中へ落ち延び、南山に潜伏した。太祖(朱元璋)はその声望を聞き付け、人を派遣して似顔絵を描かせて手配したところ捕らえることができたので、京師まで送還させた。長江の畔まで来た時、逃亡し、姓名を変え、日雇いで粟搗きをして糊口を凌いだ。しばらくして、再び捕縛された。拘束されて洛陽を通り掛かった時、湯和に引見されたが、丁重かつ礼に則った挨拶をしなかった。湯和は蔡子英を抑え付け跪かせたが、それでもすることは無かった。湯和は怒り、火を付けてその髭を炙った。偶々蔡子英の妻が洛陽におり、面会を申し出たが、蔡子英は避けて会わなかった。京師に到着すると、太祖は拘束を解くよう命じ、礼節を以て処遇し、官位を授けたが、蔡子英は受け取らなかった。退出した後に上書して言った。「陛下は時勢に乗じて天運に応じられ、群雄を削平され、その威徳は海内のみならず海外にも轟き、帰順して朝貢しない者はおりません。臣は鼎の網から溢れ出た魚でございまして、南山に閉塞しておりました。先に露見して捕らわれ、また逃れるを得ました。七年の長きにより、官憲の執拗な追跡を受けました。ところが陛下は万乗の尊であらせられますのに、匹夫の忠節を全うさせ、天誅を下さず、却ってその疾病を癒し、礼服を取り替え、酒肴を賜り、官爵を授けて頂けますとは、陛下の度量たるや天地を覆わんばかりでございます。臣はその恩義に感服すること無量でございますので、犬馬の労を厭わない訳には参りませんが、ただ義理がございますので、敢えて初志を曲げることはできません。自身は庶民であったことを思うと、智識は浅く狭いにも関わらず、蒙古の主より頂いた知遇と薦挙は分を過ぎたるもので、七度も官職を拝命するに至り、馬に跨って肉を食らうこと十五年、恐縮にも僅かばかりも国士としての待遇に報いることはできませんでした。国家が破滅するに及んで、また節を失ったとあれば、何の面目があって天下の士に見えることができましょうか。管子は『礼を尊び、義を重んじ、欲を捨て、恥を知る、それが国の四つの大綱である。』と言っております。今、陛下は王朝を創業なさって皇統を伝承されましたが、まさに厳格なる道徳と法律を堅持して、子孫臣民に対して範を示さねばなりません。そうでございますのに、どうして礼儀を知らず、廉恥に乏しい俘囚の身を、新しき王朝の賢人士大夫の列に放り込もうとなさるのですか!臣は日夜を問わず思索に耽り、嘗て国に報いて死ぬことができなかったことを悔やみ、今日に至って、ようやく自決する覚悟ができました。陛下は臣を遇するに恩義と礼節を以てなさいましたが、もとより臣は敢えて命を絶って名を立てる様なことは望まず、また敢えて生き延びて賎しく食禄を貪る様なことも望みません。もし臣の愚考をお察し頂き、臣の志を全うさせて頂けるのであれば、その余生を終えるまで海南に禁錮なさって下さい。そうすれば、死する日が訪れたとしても、なおも生き生きとして迎えることができるでしょう。かつて王燭は門を閉ざして自ら縊死し、李芾は一族もろとも自ら屠ったと言いますが、彼らは栄華富貴を憎んで喜々として死んでいったのではなく、大義の前では、煮え滾る湯であっても避けることはしないのです。矮小なるこの身では、先人に会わせる顔が無く、死しては遺恨を残しますので、ただ陛下の御判断に従うのみでございます。」洪武帝(朱元璋)はその書を見ると、ますます蔡子英に惚れ込み、邸宅に留めて儀曹とした。ある時、一晩中大声で泣き叫んで止まないことがあった。人がその理由を質問すると、答えた。「他でも無い、ただ昔の主を思ってのことだ。」洪武帝はもはや蔡子英を靡かせることができないと悟り、洪武九年十二月、官吏に命じて塞外まで送り届け、和林(カラコルム)の嘗ての主に従わせた。
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by su_shan | 2016-07-24 13:43 | 『明史』列伝第十二

拡廓帖木児

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 拡廓帖木児(ココテムル)、沈丘県の人。元の姓は王氏で、小字を保保といい、元朝の平章政事察罕帖木児(チャガンテムル)の甥である。察罕帖木児の養子となり、順帝は拡廓帖木児の名を下賜した(※1)。汝州・潁州に盗賊が起ち、中原は大混乱に陥ったが、元軍は長らく成果を挙げることができなかった。至正十二年、察罕帖木児は義兵を起こし、河南・河北を転戦し、関中・河東に賊を討ち、汴梁路を奪還し、劉福通を敗走させ、山東を平定し、田豊を降伏させ、幾度も賊を滅ぼした。大軍を統率して益都を包囲した折、田豊が叛き、察罕帖木児は王士誠に刺殺される所となったが、事の次第は『元史』に詳しい。察罕帖木児が死亡した為に、順帝は軍中の拡廓帖木児を推す声に即して、太尉・中書省平章政事・知枢密院事と察罕帖木児同様の官位とした。兵を率いて益都を包囲し、坑道を掘って城内に侵入し、これに勝利した。田豊・王士誠を捕らえると、その身体を解体し、心臓を捧げて察罕帖木児を祀り、陳猱頭ら二十余人〔一〕を順帝の御前に献じた。東進して莒州を占領し、山東の地は悉く平定された。至正二十二年のことである。
 初め、察罕帖木児が晋・冀の地を平定した時、孛羅帖木児(ボロトテムル)は大同路にあり、両者共に兵を率いて係争し、しばしば交戦し、朝廷が詔を下して和解させたものの、遂に決着は付かなかった。拡廓帖木児は既に斉の地を平定したので、軍を返して太原に駐留し、孛羅帖木児と以前の様に対峙した。偶々朝臣の老的沙(ラオディシャー)・禿堅(トゥジェン)が皇太子に罪を着せられて孛羅帖木児のもとへ出奔したので、孛羅帖木児は彼らを匿った。詔して孛羅帖木児の官職を剥奪し、その兵権を解いた。孛羅帖木児は遂に挙兵して叛き、京師に侵攻し、丞相搠思監(サクサカン)を殺害し、自ら左丞相となり、老的沙を平章政事とし、禿堅を知枢密院事とした。皇太子は拡廓帖木児に救援を求めたので、拡廓帖木児はその部将の白鎖住に一万騎を預けて差し向けたが、戦闘は不利であった為、皇太子を奉じて太原に遁走した。年を越えて、拡廓帖木児は皇太子の命令に基づいて孛羅帖木児討伐の兵を挙げ、大同路に入り、大都に迫った。順帝は宮中で孛羅帖木児を殺害した。拡廓帖木児は皇太子を従えて入観し、太傅・左丞相となった。まさにこの時、拡廓帖木児はともかく、皇太子の立場は非常に危険であった。拡廓帖木児の功績は高いとはいっても、ほんの僅かな間に、急速にその地位に昇った為に、朝廷の旧臣の多くは彼を妬んでいた。一方で拡廓帖木児は長らく軍を率いていたので、朝廷内に馴染めず、滞在すること二ヶ月にして、兵を率いて江・淮の地を平定したいと願い出た。詔が下りて許され、河南王に封じられ、共に天下の兵を総べ、皇太子に代わって出征し、官庁の官僚の半数が分かれて自ら随行した。盾や武器が数十里にわたって続いたので、その軍容は非常に立派であった。時に太祖(朱元璋)は既に陳友諒を滅ぼし、江・楚の地の悉くを領有し、張士誠は淮東・浙西に割拠していた。拡廓帖木児は南方の諸軍閥が精強であることを知り、今は軽々しく前進すべきではないと考え、軍を河南に駐留させ、檄文を発して関中の四将軍を大挙集結させようとした。四将軍とは、李思斉・張思道・孔興・脱列伯(トレバイ)のことである。
 李思斉、羅山県の人。察罕帖木児と共に義兵を起こし、その待遇は殆ど同輩の関係にあった。檄文を受け取るや激怒して言った。「我と汝の父親とは、産毛の乾かぬ内からの付き合いであるのに、その我に檄を飛ばすとは何事か!」下令して一兵も武関から出さなかった。張思道らも完全に檄文を無視した。拡廓帖木児は悲嘆して言った。「吾は詔を奉じて天下の兵を統率しているというのに、守将は我が節制を受けず、これでどうして賊を討てようか!」そこで弟の脱因帖木児(トインテムル)を派遣して一軍を以て済南路に駐屯させ、南方軍閥を防ぎ、自らは兵を率い西進して関中に入り、李思斉らを攻撃した。李思斉らは兵を長安に集結させ、含元殿跡地にて盟約を交わし、連合して拡廓帖木児に対抗した。両者が拮抗すること数年、数百戦を経ても未だに決着は付かなかった。順帝は使者を派遣して兵を退くよう命じ、江・淮攻略に専念するよう諭した。拡廓帖木児は李思斉らを平定したいと考えていたが、止むを得ず軍を東に返した。そこで驍将貊高を河中に派遣して、不意に鳳翔府を奇襲して李思斉の根拠地を陥落させようとした。ところが貊高の率いる者の多くは孛羅帖木児の部曲出身であり、衛輝路に差し掛かったところで叛乱が起き、貊高を脅迫して拡廓帖木児に叛かせ、衛輝路・彰徳路を襲撃してこれを占拠し、朝廷に対して拡廓帖木児の罪状を突き付けた。
 初め、皇太子が太原に遁走した折、唐の粛宗の霊武での故事に倣って自立しようと考えた。拡廓帖木児はこれを認めなかった。京師に帰還するに及び、皇后は皇太子に大勢の精兵を引き連れて入城するよう指嗾し、順帝を脅迫して禅譲を迫ろうとした。このとき拡廓帖木児は京師より三十里の地点にあり、その軍を留め、数騎を連れて入朝した。これにより皇太子は拡廓帖木児を快く思わず、順帝もまた拡廓帖木児を忌避するようになった。廷臣は拡廓帖木児が江・淮平定の命を受けながら西進して関中を攻め、今になって兵を引き、詔を奉じず跋扈している現状を口喧しく騒ぎ立てた。ここに貊高からの上奏が届いたので、順帝は拡廓帖木児の太傅・中書省左丞相を剥奪し、河南王として汝南の食邑に篭るよう下令し、その軍を解体して諸将に隷属させ、貊高を知枢密院事兼平章政事として河北の軍を統括させ、その軍を「忠義功臣」と呼号することを認めた。皇太子は京師に撫軍院を開設し、天下の兵馬を総括したが、専ら拡廓帖木児に備えてのことであった。
 拡廓帖木児は既に詔を受け、軍を沢州に下げ、その部将の関保も朝廷に帰還した。朝廷は拡廓帖木児が孤立したことを察知すると、李思斉らに詔して東進して関中より出撃、貊高と共に拡廓帖木児を挟撃させ、一方で関保に下令して兵を率いて太原路を守らせた。拡廓帖木児の憤激は凄まじく、軍を引き連れて太原を強襲し、朝廷の派遣した官吏の悉くを殺害した。ここに於いて順帝は詔を下して拡廓帖木児の官爵の悉くを剥奪し、諸軍に命じて四方より討伐させた。この時、明軍は既に山東を攻略し、大梁を押さえていた。梁王阿魯温(アルウェン)、すなわち察罕帖木児の父は、河南〔二〕を以て降伏した。脱因帖木児は敗走し、他はすべて成り行きに任せて降伏するか逃亡し、誰一人として抵抗する者は居なかった。明軍は既に潼関に迫り、李思斉らは狼狽し防御を解いて西方に逃げ帰り、貊高・関保はみな拡廓帖木児に捕殺される所となった。順帝は恐懼し、詔を下して全ての罪を皇太子に着せ、撫軍院を廃止し、悉く拡廓帖木児の官位を復活させ、李思斉らと共に数路より南進して対応させようとした。詔を下して一月、明軍は既に大都に迫り、順帝は北方に逃げ帰った。拡廓帖木児の来援は間に合わず、大都は遂に陥落した。察罕帖木児の死より僅か六年のことであった。
 明軍が元朝の都を平定すると、将軍湯和らが沢州より山西を巡った。拡廓帖木児は部将を派遣してこれを防ぎ、韓店の戦いで明軍を撃破した。順帝は拡廓帖木児に大都を奪還するよう開平県より命じたので、拡廓帖木児は北進して雁門関を越え、保安県より居庸関を経て北平府を攻めようとした。徐達・常遇春はその虚に乗じて太原を突いたので、拡廓帖木児は軍を返して救援した。部将の豁鼻馬(ファビマ)が密かに明への投降を約束した。明軍は夜になって陣営を急襲したので、陣中は壊乱に陥った。拡廓帖木児は俄かに十八騎を連れて北方へ敗走し、明軍は遂に西進して関中に入ることができた。李思斉は臨洮府を以て降伏した。張思道は寧夏府路に逃走し、弟の張良臣は慶陽路を以て降伏したが、すぐさま叛いたので、明軍は張良臣を破って誅殺した。ここに於いて元朝の臣はみな明に従い、ただ拡廓帖木児だけが塞上に兵を擁したので、西北辺境はこれに脅かされることになった。
 洪武三年、太祖は大将軍徐達に命じて大軍を統率して西安府より出撃させ、定西州を攻撃させた。拡廓帖木児は蘭州を包囲していたが、急行してこれに向かった。沈児峪の戦いで大敗し、その軍は悉く壊滅し、ただ妻子数人と共に北方へ敗走し、黄河に至り、流木を見つけて渡河することができ、遂に和林に遁走した。時に順帝が崩御し、皇太子が後を継いだが、再び国事を委任された。年を越えて、太祖はまた大将軍徐達・左副将軍李文忠・征西将軍馮勝の率いる十五万の軍を派遣して、経路を分けて塞外に出撃し拡廓帖木児を討伐させた。大将軍(徐達)は嶺北に到達し、拡廓帖木児と遭遇して大敗し、死者は数万人に達した。かつて劉基が太祖に言ったことがある。「拡廓帖木児を軽んずるべきではありません。」ここに至って洪武帝(朱元璋)はその言葉を思い出し、晋王(朱棡)に対して言った。「我が用兵は未だ嘗て敗北したことが無い。今、諸将は自ら求めて長駆し、和林(カラコルム)で敗北したのは、軽々しく信用して計略を怠ったからで、多くの兵卒を死に至らしめたからには、これを戒めとしない訳にはいかない。」翌年、拡廓帖木児は再び雁門関に攻め寄せたので、諸将に命じて厳戒態勢を敷いて備えさせ、これ以降は明軍が塞外に出撃することは珍しくなった。その後、拡廓帖木児はその主君に従って金山に移り、哈剌那海(ハラネ湖)の衙庭で没し、その妻の毛氏は自ら縊死した。洪武八年のことである。
 初め、察罕帖木児が山東を制圧した際、江・淮の地は震撼した。太祖は使者を派遣して好を通じた。元朝は戸部尚書張昶・郎中馬合謀(マフムード)を派遣して海路より江東に向かわせ、太祖に栄禄大夫・江西等処行中書省平章政事を授け、竜衣御酒を賜った。察罕帖木児が刺殺されるに及んで漸くの間、太祖はこれを受けず、馬合謀を殺害し、張昶の才を惜しみ留めて官位を与えた。拡廓帖木児が河南を窺うに及んで、太祖はまた使者を派遣して好を通じたが、拡廓帖木児は使者を留めて返さなかった。およそ七度も書状を送ったが、全て回答しなかった。既に塞外に脱出した後、また人を派遣して投降を呼び掛けたが、やはり応じなかった。最後の使者として李思斉が向かった。到着した時は礼節を以て接遇された。次いで騎士に見送らせたが、塞下に至った時、騎士は李思斉に拝して言った。「主君の命があり、何か公の一物を頂いて別れの証としたいのです。」李思斉は言った。「我は遠方よりやって来たので、渡せるものなど何も持ち合わせてはいない。」騎士は言った。「願わくは公の腕をひとつ頂きたい。」李思斉はもはや免れ得ないと悟り、自ら片腕を断って彼に与えた。李思斉は帰還して間も無く死亡した。これを受けて太祖は拡廓帖木児を心から敬服した。ある時、諸将を集めて質問したことがあった。「天下の奇男子は誰であろう?」みな答えて言った。「常遇春殿であればまさに万人を以てしても抗し得ず、戦場を往来すること敵無し、真の奇男子でありましょう。」太祖は笑いながら言った。「確かに常遇春は傑物ではあるが、我は彼を手に入れて臣下にしたぞ。我が臣下に出来なかった王保保、奴こそ奇男子であろう。」結果として、拡廓帖木児の妹を秦王妃に冊立したのであった。
 張昶は明に仕え、中書省参知政事に昇進し、弁才があり、明は故事を習い、その裁決は水が流れる様に速やかであったので、厚い信任を得ることができた。しかし自身は元々元朝の臣であり、心中の未練は断ち切ることが出来なかった。偶々、太祖が降伏した者を解放して北方へ帰した時、張昶は私書を託して子の消息を探らせた。しかし楊憲が書状の原稿を入手した為に話が伝わり、獄吏に下されて尋問された。張昶は札に大書して背を向けて言った。「身は江南に在れど、心は塞北を思う。」太祖は張昶を殺害した。拡廓帖木児の幕下で、節を曲げずに釈放されて塞外に脱出した者に蔡子英という人物がいる。

【注釈】
(※1)拡廓帖木児の実父である賽因赤答忽(サインチタク)の墓誌銘『賽因赤答忽墓誌』には、伯也台(バヤタイ)氏と記されており、また墓誌銘には「子三人長拡廓鉄穆爾」と記されていることから、拡廓帖木児は漢人ではなく、その名前も本名であるから、『明史』は誤りである。

【校勘記】
〔一〕二十余人、『明史稿』伝十、拡廓帖木児伝は「二百余人」となっている。
〔二〕河南、もとは「河東」であった。本書巻百二十五、徐達伝・『明史稿』伝十、拡廓帖木児伝に基づき改めた。『太祖実録』巻二十七、洪武元年三月戊辰条を見ると、阿魯温は河南行中書省平章政事であるから、「河南」とするのが正しい。
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by su_shan | 2016-07-23 21:20 | 『明史』列伝第十二