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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十八( 17 )

列伝第十八 目次

呉良 康茂才 丁徳興 耿炳文 郭英

華雲竜 韓政 仇成 張竜 呉復 周武

胡海 張赫 華高 張銓 何真

 論賛、陳友諒が太平府を攻略した頃、その軍勢は非常に精悍であり、康茂才が居なければ金陵の安危は分からなかったであろう。呉良が江陰州を守り、耿炳文が長興州を守った為、呉の人(張士誠)は思い通りにすることが出来なかったので、建業の基礎に於いて、その業績の貢献する所は大きい。例えば華雲竜・張赫・呉復・胡海の類に至っては、ある者は辺境に威勢を留め、ある者は海運に功績を残し、旗を奪い陣を落し、向かう所の敵をすべて挫いたことは、先代王朝の功臣と比べて、どうして多くを譲る所があろうか。そしてまた皆よく食禄と官位を保ち、その待遇のまま最後を迎えることが出来たのは、これ以上に素晴らしく優美なことがあろうか!
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by su_shan | 2016-08-03 13:40 | 『明史』列伝第十八

何真

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 何真、字を邦佐、東莞県の人。幼少より優秀で、書物と剣術を好んだ。元朝の至正年間の初め、河源県務副使となり、淡水場管勾に転出したが、辞任して帰郷した。元朝末期に盗賊が跋扈すると、何真は手勢を集めて郷里を守った。(至正)十四年、同県の王成・陳仲玉が叛乱を企てたので、何真は元帥府に赴いて告発した。ところが責任者は買収されており、逆に何真を捕縛しようとした。何真は坭岡に落ち延び、挙兵して王成を攻撃したが、成功しなかった。しばらくして、恵州路出身の王仲剛と叛将の黄常が恵州路を占拠した。何真は黄常を敗走させ、王仲剛を殺害した。その功績によって恵陽路同知・広東都元帥を授かり、恵州路を鎮守した。海賊の邵宗愚〔一〕が広州路を陥落させた。何真は兵を率いてこれを撃退し、またその主城を奪還したので、広東分中書省参知政事に抜擢され、次いで右丞に抜擢された。贛州路出身の熊天瑞が数万の水軍を引き連れて何真を陥れようと企図したので、何真はこれを胥江に迎え撃った。俄かに激しい雷雨が沸き起こり、熊天瑞の旗艦の帆柱をへし折ったので、攻撃して敗走させた。広東の人々は何真に頼って身の安全を得ることが出来た。これより以前、何真は再び王成を攻撃したことがあるが、陳仲玉を誅殺したものの王成の兵の守りは固かった。(至正)二十六年にまた王成を包囲し、王成を捕らえた者には鈔十千を与えると布告した。王成の召使が主人を捕縛して現れた。何真は彼に鈔を与えたが、湯釜を用意するよう命じ、それで召使を煮殺して、衆人に言い放った。「召使が主人に叛けばこの様になるぞ。」沿海の地域で叛いた者はみな降伏した。時に中原は戦禍に覆われていたが、嶺表の地はそこから遠く隔たっていたことから、尉佗の故事に倣うよう進言する者があった。何真は聞き入れなかった。しばしば使者を派遣して海路より朝廷へ進物を捧げ、資徳大夫・行中書省左丞に昇進した。
 洪武元年、太祖(朱元璋)は廖永忠を征南将軍に命じ、水軍を率いて広東を攻略させた。廖永忠が福州路に差し掛かった時、書状によって何真を招聘し、遂に航海を続けて潮州路に入った。船団が到着すると、何真は都事劉克佐を廖永忠の軍門に派遣して自らの印章を捧げ、支配下にある郡県の戸籍や田糧を記載した表を提出して降伏した。廖永忠が朝廷に報告すると、何真を賞賛する詔を賜った。「朕の考える古の豪傑とは、境界を保って民衆を安んじ、徳者の到来を待つものである。例えば竇融・李勣の類は、兵を擁して天険に拠り、群雄の間に屹立し、真の主以外には決して屈することが無かったので、彼らは漢・唐の名臣となったのであるが、今の時勢ではこういった者を見かけない。汝、何真は数郡の軍民を束ね、しかも一兵をも煩わせること無く、境界を保全して帰順したことは、どうして竇融・李勣に引けを取ることがあろうか。」廖永忠が東莞県に達すると、何真は官僚を引き連れて出迎え、遂に詔書を奉じて入朝した。江西行中書省参知政事に抜擢され、さらに次の様に諭された。「天下を争奪するに際して、いわゆる豪傑には三つの種類がある。乱を鎮めてよく治める者、これが最も良い。民衆を守り情勢の変化と帰順する先を知る者、これは次点である。ただ引き籠るだけで安寧を貪り、死んでも悔いるところが無い、これは更に下である。卿は投降して国土を納め、面目に逆らわない、まさに時勢を知る者というべきである。」何真は平伏して感謝した。何真の官僚としての声望は非常に高く、最も儒術を歓迎し、書物を読み文章を綴った。
 程無くして山東行中書省参知政事に転出した。(洪武)四年に広東への帰還を命じられ、旧来の兵卒を召集させた。任務を終えると、また山東に赴き、(洪武)九年に致仕した。
 大軍を発して雲南遠征が行われると、何真に命じて兵馬指揮を担当する子の何貴と共に行かせ、軍糧輸送を策定し、駅站を設置した。何真は山西右布政使に遷った。再び何貴と共に広東での軍務に従事し、何貴は鎮南衛指揮僉事に抜擢された。次いで何真に浙江布政使を命じ、湖広布政使に改めた。
 (洪武)二十年に再び致仕し、東莞伯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられ、没した。
 子の何栄が跡を継いだ。弟の何貴及び尚宝司丞の何宏はみな藍玉の徒党に連座して処刑された。何真の弟の何迪は自身に危害が及ぶことを恐れ、遂に叛乱を起こし、南海県の官軍三百人余りを殺害し、海中の島に遁走した。広東都指揮使司が兵を発して討伐に向かい、誅殺された。

【校勘記】
〔一〕邵宗愚、もとは「趙宗愚」となっており、本書巻百二十九、廖永忠伝・『明史稿』伝十四、何真伝・『太祖実録』巻二十七、洪武元年四月辛丑条・『元史』巻四十六、順帝本紀に基づいて改めた。
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by su_shan | 2016-08-03 13:35 | 『明史』列伝第十八

張銓

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 張銓、定遠県の人。太平路奪取に従軍し、集慶路・鎮江路・常州路・婺州路を平定した。江州路を突き、鄱陽湖に戦い、卾渚を奪取した。淮東を収め、呉の地を平定した。功績を重ねて指揮僉事となった。従軍して中原・燕・晋・秦・蜀の地を奪取し、都督僉事に昇進した。斉王府の造営を命じられ、工事が完了すると、江夏侯周徳興を補佐して五渓蛮に遠征した。水尽源・通塔平・散毛諸洞の酋長が乱を起こしたので、また周徳興を補佐してこれを討伐した。雲南遠征に従軍し、永寧より烏撒を攻略した。しばらくして、また傅友徳に従って烏撒及び曲靖・普定・竜海・孟定の諸蛮を平定した。洪武二十三年に永定侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世襲指揮使となった。
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by su_shan | 2016-08-02 12:44 | 『明史』列伝第十八

華高

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 華高、和州の人。兪通海らと共に巣湖水師を伴って帰順した。太平路攻略に従軍し、総管を授かった。従軍して采石・方山の兵を破り、集慶路・鎮江路を降伏させ、秦淮翼元帥に遷った。鄧愈と共に広徳路を従えた。この時、守将は城内に堅守を命じていた為、華高は数騎で挑発したが、元軍は城壁から決して動かなかった。華高は強襲して城壁を破り、遂に城を陥落させ、兵卒一万人を獲得し、糧食数千斛を接収した。常州路平定に従軍し、僉行枢密院事に昇進した。兪通海を補佐して趙普勝の水上陣地を撃破した。再び陳友諒を破り、長興州を救援し、武昌路に勝利し、湖広行中書省左丞を授かった。水軍を率いて淮東攻略に従軍し、浙西を収め、湖広行中書省平章政事に昇進した。洪武三年に広徳侯に封じられ、食禄六百石とされた。
 華高の性格は臆病で、更に子も居なかったので、宿直の職に就きたいと請願していた。ある時に征討の機会があったが、華高は病気と称して出征しなかった。水軍の操練を命じられた時も、また未熟であるからと言って辞退した。洪武帝(朱元璋)は古い友人だからと容認していた。時に勲臣の多くが辺境に出向いていたが、ただ華高だけが派遣されなかった。最後に広東の沿海堡塁の修築だけは、華高自らが請願して担当した。洪武帝は言った。「卿がまた自ら励むとは、とても良いことではないか。」四年四ヶ月で工事は完成したが、瓊州に差し掛かった時に没した。初め、華高は利殖に手を出していると言う者が居た為に、食禄は一人だけ少なくされた。ここに至って貧しさの為に埋葬できなかった。洪武帝はこれを哀れみ、三百石を支給するよう命じた。子が居ない為に、墓に誥券を納めた。巣国公を贈られ、武荘と諡された。甥の華岳は指揮僉事を授かった。
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by su_shan | 2016-08-02 12:43 | 『明史』列伝第十八

張赫

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 張赫、臨淮県の人。江淮の地が戦乱に曝された為、義兵をまとめて郷里を守った。嘉山の繆把頭が招聘したが、応じなかった。太祖(朱元璋)の挙兵を聞くと、手勢を率いて帰順した。千戸を授かり、功績を挙げて万戸に昇進した。長江渡河に従い、あらゆる征討に従事したことで、功績によって常春翼元帥に抜擢され、常州府を鎮守した。次いで鄱陽湖の戦いに従軍し、武昌路を攻撃した。また大将軍(徐達)に従って張士誠を討伐し、進攻して平江路を包囲した。諸将は門毎に担当を分けて布陣し、張赫は閶門に布陣した。張士誠はしばしば兵を繰り出して突撃させたが、その都度に鋭鋒を挫かれた。また大軍を発した慶元路攻略に従軍し、併せて温州・台州を降伏させた。
 洪武元年、福州衛都指揮副使に抜擢され、本衛指揮同知に昇進し、また署都指揮使司事を拝命した。この当時、沿海の群島には倭寇が出没し、間隙に乗じて岸伝いに掠奪を働いたので、沿海地域の民衆は苦しんでいた。洪武帝(朱元璋)はしばしば日本国王に対して使者を派遣して詔書を送り取り締まりを求めたが、また何度も日本の朝貢を拒絶したので、遂に倭人について解決することができなかった。張赫は海上で長い経験を積んでいたので、倭人を捕らえる他に策は無いと考えた。最終的に倭寇を追討して琉球近海に至り、交戦し、その首魁十八人を捕らえ、数十人を斬首し、倭船十数隻を鹵獲し、数え切れない程の弓や刀などの武具を接収した。洪武帝は張赫の功績を称え、都指揮使の印章を掌握するよう命じた。次いで興化衛に異動した。召還され、大都督府都督僉事に抜擢された。たまたま遼東への輸送が上手くいかず、軍糧の補給が間に合わないということがあり、洪武帝は非常に懸念していた。張赫は海路に習熟していたので、海上輸送の監督を命じられた。
 しばらくして航海侯に封じられ、世券を与えられた。これに前後して遼東に往来すること十二年、およそ十回の輸送を監督し、その間は徹底的に職務に精励したので、軍はこれに頼り物資が欠乏することは無かった。病没すると、恩国公に追封され、荘簡と諡された。
 子の張栄は、雲南遠征で功績を挙げ、水軍右衛指揮使となった。孫の張鑑は、福建都指揮使となった。永楽年間、交阯に留まり鎮守した。
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by su_shan | 2016-08-02 12:42 | 『明史』列伝第十八

胡海

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 胡海、字を海洋、定遠県の人。嘗て赤塘の土豪王総管の陣営に属していたが、自ら離脱して帰順し、百戸を授かった。従軍して元朝の部将賈魯の兵を破り、泗州・滁州に勝利し、万戸に進んだ。長江渡河に従い、蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨を突破し、陳野先(陳エセン)の兵を破り、集慶路・鎮江路の攻略に従軍した。寧国路に於いて元朝の部将謝国璽を破り、選抜されて先鋒に充てられた。大軍を発した湖州包囲に従軍し、東南門の月城を陥落させた。宜興州攻撃に従軍し、婺州路を降伏させ、紹興路に於いて激戦を繰り広げ、敵兵四百人余りを捕らえ、都先鋒に昇進した。また竜江の戦いに従軍し、安慶路に勝利し、漢(陳友諒)兵と対峙し、八度の戦闘すべてに大勝を収め、遂に江州路に入城した。徐達に従って廬州路を攻め、すべてに功績を挙げた。
 胡海は強靭で勇ましく、戦う度に傷を作り、手足と胸腹の間に万遍なく戦傷を受けたが、闘志は増すばかりであった。胡海に付き従う兵卒でその姿に激励されない者は居なかった。太祖(朱元璋)は胡海を称え、花槍上千戸を授けた。
 また大軍に従って荊門州・澧州路・衡州路・湘潭州に勝利し、宝慶衛指揮僉事に抜擢され、指揮使に遷り、益陽県鎮守を命じられた。平章政事楊璟に従って湖南・広西の未だに降伏しない郡県を制圧した。祁陽県より進出して永州を包囲し、東郷橋に於いて守備兵と戦い、兵卒千人・万戸四人を捕らえ、夜半に先頭を切って城壁を登りこれを突破した。靖江に到達すると、南門に戦い、万戸二人を捕らえた。夜中に鼓を四度打ち、自ら北門の八角亭に先頭を切って登り、最大の功績を挙げたので、左副総兵を命じられた。左江の上思蛮を討伐した。蜀(明昇)遠征に動員され、竜伏隘・天門山及び温湯関に勝利し、世襲指揮使を与えられ、なお益陽県を鎮守した。武岡州・靖州・五開の諸苗蛮が立て続けに乱を起こすと、首魁の悉くを捕らえて処分し、その手勢を慰撫し、都督僉事に遷った。
 (洪武)十四年に雲南遠征に従軍し、永寧より烏撒を突き、進出して可渡河に勝利した。副将軍沐英と共に軍を合流させて大理を攻撃したが、敵は全軍を上関・下関に投入して牽制した。定遠侯王弼は洱水より東進して上関を突き、沐英の率いる大軍は下関を突き、胡海を派遣して夜中に鼓を四度打って石門を奪取させた。間道より渡河し、点蒼山を巡った後、大木をよじ登り崖に沿って上へ向かい、幟旗を立てた。沐英の兵卒がこれを眺め見ると、みな勇躍して大声で叫んだので、敵兵は驚愕して取り乱した。沐英は遂に関を破って突入し、胡海もまた山上の軍に攻め下るよう指示を発したので、前後より挟撃されて全ての敵が潰走した。
 (洪武)十七年に功績を評価されて東川侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。
 三年後、左参将として金山遠征に従軍した。また二年後、征南将軍として澧州の九渓諸蛮の乱を討伐した。軍が帰還すると、郷里への引退を願い出た為、手厚く金帛を賜い認められた。(洪武)二十四年七月、腫瘍のために没した。六十三歳であった。
 長男の胡斌は竜虎衛指揮使となり、雲南遠征に従軍した。曲靖を通過した時、突然敵襲に遭い、流れ矢に当たって死亡した。都督同知を贈られた。次男の胡玉は藍玉の徒党に連座して処刑された。三男の胡観は南康公主を娶り、駙馬都尉となったが、跡を継ぐことなく没した。宣徳年間、南康公主が子の胡忠に跡を継がせるよう請願した。詔が下りて孝陵衛指揮僉事を授かり、世襲を許された。
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by su_shan | 2016-08-01 21:18 | 『明史』列伝第十八

周武

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 初め、呉復と同じく西番遠征の功績によって侯となった者に周武がいる。周武、開州の人。江東平定に従軍し、漢(陳友諒)を滅ぼし、淮東を手中に収め、呉(張士誠)を平定し、功績を重ねて指揮僉事となった。中原平定に従軍し、都督僉事に昇進した。洪武十一年に参将として沐英に従い西番の朶甘(ダカン)を討伐し、多くの功績を挙げた。軍が帰還すると、雄武侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使となり、河南軍務を北辺を巡撫した。(洪武)二十三年に没し、汝国公を贈られ、勇襄と諡された。
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by su_shan | 2016-08-01 15:06 | 『明史』列伝第十八

呉復

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 呉復、字を伯起、合肥県の人。幼少より勇敢で智略に富んでいた。元朝末期、手勢を集めて郷里を守った。濠州に於いて太祖(朱元璋)に帰順し、泗州・滁州・和州・采石・太平路の攻略に従軍し、昇進を重ねて万戸となった。蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨攻撃に従軍し、集慶路を平定した。徐達に従って鎮江路を攻め、元朝の平章政事定定(ディンディン)を斬殺し、丹陽県・金壇県を降伏させ、常州路に勝利し、統軍元帥に昇進した。江陰州・無錫州を従え、帰還して常州路を鎮守した。張士誠の兵の急襲を受けたが、奮戦してこれを破り、追撃して長興州に至り、立て続けに高橋・太湖及び忠節門の戦闘で打ち破ったので、張士誠は戦意を阻喪した。安豊路救援に従軍し、武昌路を平定した。徐達に従って廬州路に勝利し、漢陽府・沔陽府・荊門州の諸郡県を降伏させ、鎮武衛指揮同知を授かり、沔陽府を鎮守した。常遇春に従って襄陽路を降伏させ、また別の部将が安陸府を破り、元朝の枢密同僉任亮を捕らえたので、遂に当地を鎮守した。汝州・魯山県に勝利した。
 洪武元年に懐遠将軍・安陸衛指揮使を授かり、鄖県・均州・房州・竹山県の諸山寨で未だに帰順しない者の悉くを平定した。(洪武)三年、大将軍(徐達)に従って陝西に遠征し、拡廓帖木児(ココテムル)を破り、その部将を捕らえた。再び秦州に於いて拡廓帖木児を破った。吐蕃に遠征し、河州〔一〕に勝利し、漢中を救援し、南鄭県を突破した。翌年に傅友徳に従って蜀(明昇)を平定した。またその翌年には鄧愈に従って九渓・辰州の諸蛮を平定し、四十八洞に勝利し、帰還して安陸府を鎮守した。(洪武)七年に大都督府都督僉事に昇進した。北平府を巡察して帰還し、世襲指揮使を授かった。(洪武)十一年に沐英に従って再び西番に遠征し、三人の副使を捕らえ、納隣哈七站の地を得た。翌年、軍が帰還すると、功績を評価されて安陸侯に封じられ、食禄二千石とされた。
 (洪武)十四年、傅友徳に従って雲南に遠征し、普定路に勝利し、水西に築城した。総兵官を拝命し、諸蛮を討伐して捕縛した。遂に関索嶺より鬱蒼とした山道を切り開き、広西を制圧した。(洪武)十六年に墨定苗に勝利し、吉剌堡に到達し、安荘・新城に築城し、七百房の諸寨を平定し、捕殺した敵兵は一万を数え、盤江に糧食を転送した。この年の十月、先に受けた戦傷が悪化し、普定府に於いて没した為、黔国公に追封され、威毅と諡され、五百石を加増され、世券を与えられた。
 呉復は戦陣にあっては気力を奮い起こして矢石を顧みること無く突き進んだので、身体に傷の無い所は無かった。平時にあっては温和であり、征伐の事を口にしなかった。普定府にいた時に十七歳の楊氏という妾を買った。呉復が没し、埋葬が終わるのを見届けると、楊氏は沐浴して衣服をあらため、自経して死んだ。彼女は貞烈淑人に封じられた。
 子の呉傑が跡を継ぎ、しばしば山西・陝西・河南・北平府に出向き、練兵と遠征に従事した。(洪武)二十八年、罪を得たものの、竜州遠征に従軍し、功績を挙げて自ら罪を贖った。建文年間、軍を率いて真定府を救援し、白溝河に戦うが、軍律を徹底させることができず、南寧衛指揮使に降格された。永楽元年、子の呉璟が継承を請願し、正統年間〔二〕には三度も請願したが、いずれも承認されなかった。弘治六年、呉璟の孫の呉鐸が恩詔による継承を請願したが、またも承認されなかった。(弘治)十八年に呉復の子孫の調査が行われ、世襲千戸となった。

【校勘記】
〔一〕河州、もとは「和州」であった。本書巻二、太祖本紀・巻百二十六、鄧愈伝・巻三百三十、西番諸衛伝・『明史稿』伝十四、呉復伝・『太祖実録』巻五十二、洪武三年五月辛亥条はいずれも「河州」となっている。本書巻四十二、地理志によると臨洮府に河州という地名があり、元朝では吐蕃宣慰司に所属していた。吐蕃遠征であれば河州であって当然であるので、これに基づいて改めた。
〔二〕正統、もとは「正徳」であり、『明史稿』伝十四、呉復伝に基づいて改めた。永楽元年は正徳年間と百年の開きがあることから、呉璟が三度も継承を請願することは不可能であり、かつ直後の文章に「弘治六年、呉璟の孫の呉鐸が恩詔による継承を請願した」とあり、祖父が継承を請願する以前にその孫が継承を請願する筈が無い。
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by su_shan | 2016-08-01 15:05 | 『明史』列伝第十八

張竜

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 張竜、濠州の人。長江渡河に従い、常州路・寧国路・婺州路の平定に功績を挙げた。江州路遠征に従軍した際は都先鋒を拝命した。武昌路を平定すると、花槍所千戸を授かった。淮東遠征に従軍し、海安を鎮守し、張士誠の部将と湾内に戦い、彭元帥を捕らえ、その兵卒数百人を捕虜にした。通州に進攻し、賊将を斬殺し、威武衛指揮僉事に抜擢された。山東・河南平定に従軍した。大軍を発して潼関に勝利すると、張竜を副留守に任命した。
 洪武三年に鳳翔府鎮守に派遣され、鳳翔衛指揮使に改められた。賀宗哲が全軍を率いて城を包囲したが、張竜は堅守した。賀宗哲は北門を攻撃したので、張竜は出撃して肉薄戦を敢行し、右脇に矢傷を受けたが、動じなかった。遂にこれを打ち破り、進撃して鳳州に勝利し、李参政らに二十数人を捕らえた。大将軍(徐達)が沔州に進攻すると、張竜に一軍を与えて派遣し、鳳翔府より連雲桟に向かい、興元路を攻撃し、その守将劉思忠を降伏させた。蜀(明昇)の部将呉友仁が侵攻すると、張竜はこれを迎撃して退けた。呉友仁はまた全軍を繰り出して城に迫り、攻城兵器を配備した。張竜は北門より突出して呉友仁の背後に回った為、敵軍は武器を捨てて敗走し、これ以降は再び興元路を窺うことは無かった。召還されて大都督府都督僉事となった。
 (洪武)十一年に李文忠を補佐して西番の洮州に遠征した。功績を評価され、鳳翔侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使となった。また傅友徳の雲南遠征に従軍し、七星関を鎮め、大理・鶴慶を破り、複数の洞蛮を平定し、五百石を加増され、世券を与えられた。(洪武)二十年に馮勝に従って金山に遠征し、納哈出(ナガチュ)を降伏させた。翌年、馮勝は降兵を雲南遠征に充てたが、常徳府に差し掛かったところで叛乱逃亡した。張竜は追撃して重慶府に到達し、収拾してこれを捕縛した。(洪武)二十三年の春に延安侯唐勝宗と共に平越・鎮遠・貴州に於ける屯田を監督し、竜里衛の設置を建言した。都匀の乱に際しては、藍玉を補佐してこれを討伐した。既に老齢であったことから致仕を求め、(洪武)三十年に没した。
 子の張麟は福清公主を娶り、駙馬都尉を授かった。孫の張傑は京師の公主に侍従した。永楽年間の初め、侯爵位を剥奪された。張傑の子の張嗣は、宣徳十年に恩詔による爵位継承を請願した。吏部は張竜の侯爵位を継ぐ者が四十年間なかったと主張し、承認されなかった。
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by su_shan | 2016-07-31 01:56 | 『明史』列伝第十八

仇成

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 仇成、含山県の人。当初従軍して万戸に充てられ、昇進を重ねて秦淮翼元帥府副元帥に至った。太祖(朱元璋)が安慶路を攻撃した際、敵は防御を固めて交戦しなかった。廖永忠・張志雄がその水寨を破ると、仇成は陸兵を率いてこれに乗じ、遂に安慶路を攻略した。当初、元朝の左丞余闕が安慶路を鎮守していたが、陳友諒の部将趙普勝がこれを陥落させた。陳友諒は早くも趙普勝を殺害したので、元帥余某が襲撃して当地を占拠した。張定辺が再び侵攻した為、余元帥は敗死した。ここで仇成は横海衛指揮同知となって当地を鎮守した。当時、左君弼は廬州路に割拠し、羅友賢は池州路に挙兵し、無為知州の董曽は殺害され、四方はすべて賊の領域であった。仇成は軍民を集めて慰撫し、防御を固めたことで、漢軍(陳友諒)は敢えて東進しようとしなかった。鄱陽湖の戦いに従軍し、涇江口の殲滅戦では最も功績を挙げた。平江路に遠征し、張士誠の兵を城の南西で破った。
 洪武三年、大都督府都督僉事となり、遼東を鎮守した。しばらくして、屯田等に成果が無かった為に永平衛指揮使〔一〕に降格されが、次いで元の官職に戻された。
 (洪武)十二年に藍玉らの西方遠征の功績によって封爵を検討された。洪武帝(朱元璋)は仇成の長らくの貢献を思い、まず安慶侯に封じ、歳禄二千石とした。(洪武)二十年に征南将軍に任命され、容美諸峒を討伐した。また大軍を発した雲南遠征に従軍し、多くの功績を挙げ、世券を与えられ、五百石を加増された。
 (洪武)二十一年七月に病気を発症した。酒を賜い、直筆の詔で見舞いを受けた。没すると皖国公を追贈され、荘襄と諡された。子の仇正が爵位を継いだ。

【校勘記】
〔一〕永平、もとは「永昌」であった。『太祖実録』巻七十六、洪武五年十一月壬申条・巻百九十二、洪武二十一年七月辛巳条は等しく「永平」としている。仇成が降格されたのが洪武五年であることを考えると、当時の雲南の永昌はなおも元朝の梁王の支配下にあって、永平衛は直隷永平府にあり、洪武三年正月丁巳に設置されたことが『太祖実録』巻四十八に見える。これらに基づいて「永平」に改めた。
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by su_shan | 2016-07-30 23:44 | 『明史』列伝第十八