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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十九( 16 )

列伝第十九 目次

顧時 呉禎 薛顕 郭興 陳徳 王志 梅思祖

金朝興 唐勝宗 陸仲亨 費聚 陸聚 鄭遇春

黄彬 葉昇

 論賛、諸将は創成の時期にあっては、天命を仰ぎ見て、心を明主に委ね、戦争に勝利して獲得し、殊勲を掴み取るが、すべて一時の智勇である。天下が落ち着きを取り戻すに及んで、名を党籍に連ねれば、ある者は批判され、ある者は連座し、自身を全うすることが出来た者は少ない。圭裳の錫は本より功績に報いるに充分でありながら、砺帯の盟は世代を超えることは出来ず、また嘆かわしいことである。
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by su_shan | 2016-08-08 00:21 | 『明史』列伝第十九

葉昇

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 葉昇、合肥県の人。左君弼が廬州路を占拠すると、葉昇は自ら離脱して帰順した。右翼元帥として江州路遠征に従軍し、指揮僉事として呉の地を平定し、府軍衛指揮使として明州平定に従軍した。洪武三年に功績を評価され、大都督府都督僉事となった。翌年に征西将軍湯和に従い水軍を率いて蜀を奪取した。二年後、出向して都指揮使となり、西安府を鎮守し、慶陽府の叛徒を討伐した。(洪武)十二年に再び大都督府都督僉事となった。西番が叛くと、都督王弼と共に遠征し、乞失迦(チシジャ)を降伏させ、その部落を平定した。また延安路の伯顔帖木児(バヤンテムル)を討伐し、洮州の番酋を捕らえた。功績を評価され、靖寧侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使となった。遼東を鎮守し、海州・蓋州〔一〕・復州の三城を修築した。鎮にあること六年、辺境の防備を補強したので、外部の賊は敢えて襲撃しようとはしなかった。高麗による贈賄を暴いたので、洪武帝(朱元璋)はしばしば勅を賜い、唐勝宗と共に賞賛を受けた。
 (洪武)二十年に普定侯陳桓と共に雲南の定辺県・姚安軍民府に於いて諸軍を統括し、砦を築いて屯田を行い、畢節衛を治めた。翌年、東川軍民府・竜海の諸蛮が叛いたので、葉昇は参将として沐英に従ってこれを討伐した。既に湖広の安福千戸所の千戸夏徳忠が九渓洞の蛮族を取り込んで荒らし回っていたので、葉昇は胡海らと共にこれを討伐した。密かに兵を送って敵の後背を急襲し、夏徳忠を捕らえ、永定衛・九渓衛の二衛を設立し、襄陽府に駐屯した。贛州府の山賊がまた湖広の峒蛮と結託して荒らし回った。葉昇は副将軍となり、胡海らと共にこれを討伐し、捕虜一万七千人を得た。葉昇は凡そ三度の叛蛮を平定し、再び甘粛・河南に出向いて練兵を行った。(洪武)二十五年八月に胡惟庸の事案に関わっていたことが発覚した為、誅殺された。涼国公藍玉は、葉昇の姻族であったことから、藍玉が粛清されると、また葉昇にも連座したので、その名を両党に連ねられることとなったのである。

【校勘記】
〔一〕蓋、もとは「益」であった。海州・蓋州・復州は遼東都指揮使司に属していたことから、本書巻四十一、地理志に基づいて改めた。
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by su_shan | 2016-08-08 00:16 | 『明史』列伝第十九

黄彬

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 黄彬、江夏県の人。欧普祥の袁州路・吉安路属県への攻撃に従軍し、徐寿輝は欧普祥に袁州を守らせた。陳友諒が徐寿輝を殺害するに及んで、偽号を自称したので、黄彬は欧普祥に言った。「公と陳友諒は対等であらせますのに、どうして下位に甘んじておられるのですか?陳友諒は驕慢を恣にするだけで、江東(朱元璋)の敵ではございません。境界を保全して東方の軍に従えば、富貴を失わずに済むでしょう。」欧普祥は遂に使者を派遣して帰順した。陳友諒は弟の陳友仁を派遣してこれを攻撃した。黄彬と欧普祥はその軍を破り、陳友仁を捕らえた。陳友諒は慄き、互いに領域を侵犯しないことを約束して、陳友仁を釈放させた。当時、江・楚諸郡は全て陳氏の支配する所であったが、袁州路がその要害の抑えとなれば、湘潭州・岳州路・贛州路の軍は進出することができず、陳友諒の勢力は非常に縮小する。太祖(朱元璋)の軍がこれに迫り、遂に江州路が放棄されたのは、黄彬の手柄である。
 太祖は竜興路に到達し、欧普祥に命じてそのまま袁州路を守らせる一方で、黄彬を江西行中書省参知政事とした。間も無くして、欧普祥が没し、黄彬がその部曲を受領した。欧普祥は残虐な統治を行っていたが、黄彬は悉く反対の施策を行ったので、民衆は非常に安心した。常遇春に従って贛州路に遠征した。饒鼎臣が吉安路を支配しており、熊天瑞に応援させた。常遇春の軍が到着すると、饒鼎臣は安福州へ逃走したので、黄彬は軍を率いてこれを追撃した。饒鼎臣は更に茶陵州に逃走したので、熊天瑞は降伏した。永新州守将の周安が叛くと、黄彬は湯和に従って周安を捕らえ、饒鼎臣もまた敗死した。袁州路鎮守に移り、諸山寨を招聘し、江西は悉く平定された。江淮行中書省左丞に昇進した。
 洪武三年に宜春侯に封じられ、食禄九百石とされ、世券を与えられた。(洪武)四年、贛州府上猶県の山賊が叛いたので、これを討伐した。(洪武)五年、古州などの洞蛮が叛いたので、鄧愈を征南将軍として、三路より出撃し、黄彬は営陽侯楊璟と共に澧州に出征した。軍が帰還すると、中都に邸宅を賜った。翌年に徐達に従って北平府を鎮守し、沂州・臨清県に出向いて練兵を行った。(洪武)二十三年に胡惟庸の徒党に連座して処刑され、爵位を剥奪された。
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by su_shan | 2016-08-08 00:15 | 『明史』列伝第十九

鄭遇春

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 鄭遇春、濠州の人。兄の鄭遇霖と共に怪力との評判があった。鄭遇霖が村人と諍いを起こし、これを殺そうとした時は、鄭遇春が身体を張って仲裁に努め、和解させたことがある。皆は鄭遇霖を怖がったが、鄭遇春は賢明であるとされた。太祖(朱元璋)が滁州を陥落させると、鄭遇霖を先鋒として、鉄仏岡・三汊河・大柳などの砦を奪取し、鄭遇春もまた功績を重ねて管軍総管となった。蕪湖を攻撃した時、鄭遇霖が戦死したので、鄭遇春がその手勢を受領した。時に諸将の部曲は千人を超えることは無かったが、鄭遇春は二隊を兼ねたので、その部曲は最も勇猛果断で、戦闘の度に多くの功績を挙げ、左翼元帥を授かった。陳友諒平定に従軍した際は、自身を兵卒の前に置いて戦い、未だ嘗て自らの功績を誇ることが無かったので、太祖はこれを格別と思った。六安州を奪取すると、六安衛指揮僉事となった。大将軍(徐達)に従って山東・河南・河北を平定し、朔州に勝利すると、朔州衛指揮副使に改められた。
 洪武三年に大都督府都督同知に昇進し、栄陽侯に封じられ、食禄九百石とされ、世券を与えられた。翌年に臨濠府駐在を命じられ、行大都督府を開設したが、ある事案に連座して爵位を剥奪された。次いで爵位を戻され、再び朔州を鎮守した。傅友徳に従って雲南を平定し、楊文らを率いて城郭や堡塁を治めた。京師に帰還すると、金吾諸衛を監督し、海船百八十艘を建造し、遼東に軍糧を輸送し、陝西の岷州諸衛の官用馬を登録した。(洪武)二十三年に胡惟庸の徒党に連座して処刑され、爵位を剥奪された。
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by su_shan | 2016-08-08 00:15 | 『明史』列伝第十九

陸聚

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 陸聚、何処の人かは不明、元朝の枢密院同知であった。脱脱(トクト)が徐州の戦いで芝麻李を破ると、彭大らは濠州に落ち延びたので、陸聚は流民を集め、城を修築して境界を保全したことで、賊は敢えて侵犯しようとしなかった。徐達が江北・淮東を収めると、陸聚は徐州・宿州の二州を以て投降した。嘗て太祖(朱元璋)は次の様に言って招聘したことがある。「二州は我が桑梓の地(故郷)であるから、未だに兵を加えるに忍びない。」帰順するに及んで、非常に喜び、陸聚を江南行中書省参知政事として、そのまま徐州を守らせた。軍を派遣して沛県・魚台県・邳州・蕭県・宿遷県・雎寧県を攻略した。拡廓帖木児(ココテムル)が李左丞を派遣して徐州に侵攻し、陵子村に駐兵した。陸聚は指揮使傅友徳を派遣してこれを迎え撃ち、その軍を捕虜とし、李左丞を捕らえた。また元軍を宿州の戦いで破り、僉院邢端らを捕らえた。山東攻略に従軍し、汴梁路を平定した。鎮に帰還すると、山東行中書省参知政事に改められた。従軍して元朝の都を平定し、大同路・保定路・真定路を攻略し、車子山及び鳳山・城山・鉄山諸寨を攻撃して勝利し、一軍を以て井陘県の故関を守備し、陝西に軍を合流させ、承天寨に勝利した。陸聚の率いる部曲はみな淮北の精兵で、燕・趙の地の精鋭騎兵ですら及ばなかったのである。北征に従事していたところ、沂州・邳州の山中の民が間隙に乗じて乱を起こしたので、陸聚を召還し、これを討伐させた。
 洪武三年に河南侯に封じられ、食禄九百石とされ、世券を与えられた。(洪武)八年に衛国公鄧愈と共に陝西で屯田を行い、衛所を置いて守らせた。(洪武)十二年に信国公湯和と共に臨清県で練兵を行った。次いで福建の軍務を管理した。召還されると、鳳陽府に邸宅を賜った。(洪武)二十三年に胡惟庸の徒党に連座して処刑され、爵位を剥奪された。
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by su_shan | 2016-08-08 00:15 | 『明史』列伝第十九

費聚

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 費聚、字を子英、五河県の人。父の費徳興は、力があり勇敢で武術に長けていたので游徼卒(邏卒)となった。費聚は幼少時より技撃術を学んだ。太祖(朱元璋)が濠州で出会ったところ、その容貌を気に入り、互いに深く盟約を結んだ。定遠県の張家堡には民兵が居たが旗色を決めていなかったので、郭子興はこれを招聘したいと考えたが、使者の任に堪える者は居ないと思った。太祖は病気を押して自身が向かいたいと願ったので、費聚と共に騎乗して行き、歩兵九人が従った。宝公河に差し掛かった時、その陣営が非常に整っているのが見え、弓や弩はすべて外側を向いていた。歩兵は恐れて、逃げようとした。太祖は言った。「連中は騎兵で我々を一蹴するぞ、逃げたところで何処へ行けると言うのだ?」遂に前進してその陣営に到着した。帰順が決定すると、三日を約して、まず太祖が帰還し、費聚は留まってこれを待った。民兵の首領は彼を手下にしようとしたので、費聚は帰還して事の次第を報告した。太祖はまた費聚と共に三百人を従えて向かい、一計を案じてその首領を縛り上げ、兵卒三千人を手に入れた。豁鼻山に秦把頭率いる八百人が居たので、費聚はまたこれを招聘して降伏させた。遂に従軍して霊璧県を奪取し、泗州・滁州・和州に勝利した。承信校尉を授かった。
 既に江東を平定し、長興州に勝利すると、永興翼元帥府が設立され、費聚は耿炳文の補佐として元帥となった。張士誠が侵攻すると、これを撃退した。召還されて宿衛を統率した。安豊路を救援し、続けて江西を平定し、武昌路に勝利し、いずれも従軍した。永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司に改め、耿炳文補佐のまま指揮同知となった。張士誠が再び来襲すると、その部将宋興祖を捕らえ、再びこれを破った。張士誠は意欲を喪失し、敢えて再び長興州を窺おうとはしなかった。淮安路・湖州路・平江路遠征に従軍し、いずれにも功績があったので、指揮使に昇進した。湯和が方国珍を討伐した際には、費聚は水軍によって海路より邀撃した。浙東が平定されると、再び海路より福州路を奪取し、延平路を破った。帰還して昌国州に差し掛かった時、海賊の葉・陳二氏が蘭秀山を占拠したので、ここに至って費聚は初めて単独で軍を率いた。
 洪武二年に大軍を合流させて西安を奪取すると、西安衛指揮使に改められ、大都督府都督僉事に昇進した。平涼府を鎮守した。(洪武)三年に平涼侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。時に諸将は辺境で屯田を行い隊伍を募り、一年中常に任務に従事していた。費聚は酒色に耽るばかりで一切何もしなかった。また招聘による功績も無く、召還されると、叱責を受けた。翌年に傅友徳に従って雲南に遠征し、白石江に戦い、達里麻(タリマ)を捕らえた。雲南が平定されると、更に進撃して大理を奪取した。間も無くして、諸蛮族が再び叛いたので、安陸侯呉復を補佐して軍を統括するよう命じられ、方策を授かり、分担して関索嶺及び阿咱などの砦を攻撃し、これを悉く陥落させた。蛮族の地は漸く平定された。貴州都指揮使司が設置されると、費聚を署司事とした。(洪武)十八年に総兵官を拝命し、指揮使丁忠らを率いて広南に遠征し、火立達(ホリタ)を捕らえ、その軍一万を捕虜とした。帰還して雲南を鎮守した。(洪武)二十三年に召還された。李善長が粛清されると、費聚に追及が及んだ。洪武帝(朱元璋)は言った。「前に費聚は姑蘇にあって指示に背いたことがあった、嘗て朕が叱責したこともあった、とうとう謀叛を企てるとは!」最終的に徒党に連座して処刑され、爵位を剥奪された。
 子の費超は、方国珍討伐の陣中で没した。費璿は推挙されて江西行中書省参知政事となった。孫の費宏は、雲南遠征に従軍し、功績を重ねて右衛指揮使となった。上奏に虚偽があった罪により、金歯の鎮守とされた。
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by su_shan | 2016-08-07 01:16 | 『明史』列伝第十九

陸仲亨

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 陸仲亨、濠州の人。太祖(朱元璋)に帰順し、滁州制圧に従軍し、大柳樹諸寨を奪取した。和陽に勝利し、元軍を撃破し、青山の群盗を駆逐した。長江渡河に従い、太平路を奪取し、集慶路を平定し、徐達に従って諸郡県を陥落させ、左翼統軍元帥を授かった。陳友諒征伐に従軍し、多くの功績を挙げ、驃騎衛指揮使に昇進した。常遇春に従って贛州を討ち、熊天瑞を降伏させ、贛州衛指揮使となり、嶺南嶺北の新たに帰順した諸郡を節制した。軍を派遣して梅州・会昌州・湘郷州に勝利し、諸山寨の悉くを平定した。洪武元年に衛軍を率いて廖永忠らと共に広東に遠征し、諸郡県を攻略し、廖永忠と広州に於いて合流し、元朝の部将盧左丞を降伏させた。広東は平定された。美東衛指揮使に改められ、江西行中書省平章政事に抜擢された。鄧愈に代わって襄陽府を鎮守し、大都督府都督同知に改められた。
 (洪武)三年の冬に吉安侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。唐勝宗と共にある事案に連座して指揮使に降格された。雁門を襲撃した賊を捕らえ、共に爵位を戻された。(洪武)十二年に周徳興・黄彬らと共に湯和に従って臨清県で練兵を行った。間も無くして、軍中から三人の逮捕者が出たので京師へ送還したが、早くも釈放された。成都府の鎮守に移り、巨津州の蛮族叛乱を平定した。烏撒諸蛮が再び叛いたので、傅友徳に従ってこれを討伐した。
 (洪武)二十三年に胡惟庸の逆党を追及した時、家奴の封帖木(ホンテム)が陸仲亨と唐勝宗・費聚・趙庸が互いに通謀していると告発したので、獄吏に下して尋問させた。供述が出揃うと、洪武帝(朱元璋)は言った。「高位にありながら心配事でもありそうな顔をしておったので、朕はいつも訝しんでいたのだ。」遂に陸仲亨は誅殺され、その家産は没収された。
 初め、陸仲亨が十七歳の時、敗残兵の掠奪を受け、父母兄弟全員を殺害され、たった一升の麦を持ち出して草むらに隠れていた。洪武帝がこれを見つけ、「来なさい」と呼んだので、遂に征伐に従事し、侯爵に封じられるまでに至ったのである。嘗て洪武帝は次の様に言ったことがある。「こやつは我が挙兵時の腹心股肱の部下である。」しかしながら、結局は誅殺されてしまった。
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by su_shan | 2016-08-06 22:50 | 『明史』列伝第十九

唐勝宗

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 唐勝宗、濠州の人。太祖(朱元璋)が挙兵した時、唐勝宗は十八歳であったが、帰順した。長江渡河に従い、功績を重ねて中翼元帥となった。徐達に従って常州路に勝利し、進撃して寧国路を包囲し、要害を抑えて奮戦し、その援軍を破った。城は遂に降伏した。婺州路遠征に従軍し、これに勝利した。池州路遠征に従軍し、奮戦して陳友諒の軍を破り、竜驤衛指揮僉事に抜擢された。陳友諒遠征に従軍し、安慶路に到達したが、敵の守りは固かった。唐勝宗は陸兵を率いてこれを誘い出し、不意を打って、その水寨を突いて勝利した。南昌路攻略に従軍し、江西の諸郡を平定した。安豊路を救援し、廬州路を攻め、鄱陽湖に戦い、涇江口に邀撃し、そのいずれにも功績があり、驃騎衛指揮同知に抜擢された。武昌路平定に従軍し、長沙県・沅陵県・澧陽県を従えた。徐達に従って江陵県を奪取し、帰還して淮東を平定し、坑道を用いて安豊路に勝利し、追撃して元朝の部将忻都(ヒンドゥ)を捕らえ、安豊衛指揮使となって当地を鎮守した。大将軍(徐達)に従って中原を討伐し、汴梁路・帰徳府・許州に勝利し、留守役を拝命した。大軍に従って延安路に勝利し、大都督府都督同知に昇進した。
 洪武三年の冬に延安侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。ところが駅騎を私役した罪で爵位を剥奪され、指揮使に降格された。代県の犯罪者を取り締まった。しばらくして、爵位を戻された。(洪武)十四年、浙東の山賊葉丁香らが叛乱を起こしたので、軍を率いてこれを討伐するよう命じられ、賊の首魁とその一党三千人余りを捕らえた。軍を分けて安福県の賊を平定し、臨安路に到達し、元朝の右丞兀卜台(ウブタイ)らを降伏させた。(洪武)十五年に陝西を巡視し、屯田を監督し、兵卒を整理した。翌年に遼東を鎮守し、勅を奉じて高麗との通交を禁じた。高麗の使者が訪れると、その魂胆を見抜き、報告した。勅と褒美を賜ったが、これは魏の田予が烏桓の賄賂を退け、名臣と称されたことと同じである。遼東を鎮守すること七年、威信は非常に顕著であった。召還されると、軍を率いて貴州の蛮族を討伐し、黄平で練兵を行った。(洪武)二十三年に胡惟庸の徒党に連座して誅殺され、爵位を剥奪された。
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by su_shan | 2016-08-06 14:21 | 『明史』列伝第十九

梅思祖

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 梅思祖、夏邑県の人。当初は元朝の義兵元帥となったが、叛いて劉福通に従った。拡廓帖木児(ココテムル)はその父親を殺害して塩漬肉にした。次いで劉福通を見限って張士誠に帰順し、中書省左丞となり、淮安路を守った。徐達の軍が現れると、迎え入れて降伏し、併せて四つの州を献上した。張士誠はその兄弟数人を殺害した。太祖(朱元璋)は梅思祖を大都督府副使に抜擢した。大軍を発した呉(張士誠)討伐に従軍し、昇山水寨に勝利し、湖州路を陥落させ、平江路を包囲し、いずれも功績を挙げた。呉の地が平定されると、浙江行中書省右丞に遷った。大将軍(徐達)に従って中原を討伐し、山東に勝利し、汴梁路・洛陽県を奪取し、陝州を破り、潼関を陥落させた。軍を返して河北を従え、衛輝路に到達した。元朝の平章政事竜二は城を放棄して彰徳路に逃走したので、軍を追撃に向かわせた。竜二は再び逃走したので、遂に城は降伏し、そのまま鎮守した。北平の未だに帰順しない州郡を平定した。大軍に従って晋・冀の地を平定し、また陝西平定に従軍し、別動隊を率いて邠州に勝利し、元朝の参知政事毛貴ら三十人を捕らえた。大将軍(徐達)に従って定西州の戦いで拡廓帖木児を破った。秦州より帰還すると、略陽県を破り、沔州に侵入し、興元路を奪取した。
 洪武三年に功績を評価されて汝南侯に封じられ、食禄九百石とされ、世券を与えられた。(洪武)四年に蜀(明昇)を討伐した。(洪武)五年に甘粛に遠征した。帰還すると山西・陝西・遼東の城郭の巡視を命じられた。(洪武)十四年、四川の水尽源・通塔平・散毛諸洞の長官が叛乱を起こしたので、梅思祖を征南副将軍に任命し、江夏侯周徳興と共に軍を率いてこれを討伐させた。(洪武)十五年にまた傅友徳と共に雲南を平定し、貴州都指揮使司を設置し、梅思祖を署都指揮使とした。次いで署雲南布政使司事となり、平章政事潘元明と共に雲南を鎮守した。
 梅思祖は治安の安定に長じており、遠方の人々は安心した。この年に没し、鍾山の北側に賜葬された。
 子の梅義は、遼東都指揮使となった。(洪武)二十三年に梅思祖が胡惟庸の徒党に追認され連座すると、その一家は抹殺された。梅思祖の甥の梅殷は、駙馬都尉となり、別に伝がある。
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by su_shan | 2016-08-06 14:20 | 『明史』列伝第十九

金朝興

『明史』巻一百三十一、列伝第十九

 金朝興、巣県の人。淮西の地が戦乱に曝されると、手勢を集めて砦を築き、身を守っていた。兪通海らが既に太祖(朱元璋)に帰順したので、金朝興もまた手勢を率いて来帰した。長江渡河に従い、征伐の事にはいずれも参戦し、功績を挙げた。常州路に勝利し、都先鋒となった。また宜興州を奪還し、左翼副元帥となった。武昌路を平定し、竜驤衛指揮同知に昇進した。呉の地を平定すると、鎮武衛指揮使に改められた。大同路に勝利すると、大同衛指揮使に改められた。東勝州を奪取し、元朝の平章政事劉麟ら十八人を捕らえた。
 洪武三年に功績を評価されて大都督府都督僉事兼秦王左相となった。間も無くして都督府を解任され、傅王専任となった。(洪武)四年に大軍に従って蜀(明昇)を討伐した。(洪武)七年に軍を率いて黒城(カラホト)に到達し、元朝の太尉盧伯顔(ルバヤン)・平章政事帖児不花(テルブカ)並びに中書省枢密院等の官僚二十五人を捕らえた。遂に李文忠に従って東方経路の軍を受領し、和林(カラコルム)を奪取したことについては、李文忠伝に詳しい。 金朝興は沈着かつ勇敢で智略に優れ、あらゆる戦場において一軍を以て勝利を収め、未だに大軍を率いたことは無いとは言うものの、その功績は諸将を凌いでいた。(洪武)十一年に沐英に従って西方に遠征し、納隣七站の地を収めた。翌年に功績を評価されて宣徳侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使を許された。(洪武)十五年に傅友徳に従って雲南に遠征し、臨安府に駐屯し、元朝の右丞兀卜台(ウブタイ)・元帥完者都(オルジェイドゥ)・土酋楊政らは共に降伏した。金朝興の治安は適切であった為に、軍民はみな喜んだ。進軍して会川に差し掛かった所で没し、沂国公に追封され、武毅と諡された。(洪武)十七年に雲南平定の功績を評価され、改めて世侯券を賜り、五百石を加増された。
 長男の金鎮が跡を継いだ。(洪武)二十三年に金朝興が胡惟庸の徒党に追認されて連座すると、金鎮は平壩衛指揮使に降格された。征討に従事して功績を挙げたので、都指揮使に昇進し、その後に世襲衛指揮使となった。嘉靖元年、傅友徳・梅思祖及び金朝興の廟を雲南に建立するよう命じた際には、額に「報功」と刻まれた。
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by su_shan | 2016-08-06 14:20 | 『明史』列伝第十九