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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十三( 4 )

列伝第十三 目次

徐達 常遇春

 論賛、明王朝の太祖(朱元璋)が滁陽の地より奮起して、四方を平定することが出来たのは、天より授かりしものとは言えど、二王の力に依る所が大きいであろう。中山王(徐達)は慎重にして思慮深く、自らの功績を喧伝することは無く、古来よりこれに勝る名臣は存在しない。開平王(常遇春)は敵陣に突入すること、向かう所は必ず勝利を収め、その智勇は中山王に劣ること無く、忠実かつ謙遜、よくその功名を保ち、元勲の最上位たることを許された。身を日月の下に晒して封爵を受けるに、まさに二王の如くは栄誉の極致と言うべきである。中山王の恩賞を受け継いだ後裔を顧みるに、代々寵愛を貪ることが出来た一方で、開平王の天寿は永からず、その子孫もまた衰微していった。地位勲功は同等にありながら、成果の享受は分かたれてしまった、それは何故か?嘗て太祖が諸将に対して語ったことがある。「将たる者は妄りに人を殺さない、それはどうして国家の利益に止まることがあろう、汝らの子孫もまた福徳を受け取ることが出来るのだ。」正にその通りであろう、将帥たる者の模範とすべきである。
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by su_shan | 2016-08-12 12:00 | 『明史』列伝第十三

常遇春

『明史』巻一百二十五、列伝第十三

 常遇春、字を伯仁、懐遠県の人。容貌は非常に立派で、膂力は人並み外れて強く、腕は猿の様に長く弓射を得意とした。当初、劉聚に従って盗賊となったが、劉聚が大成しそうに無いことを察したので、和陽に於いて太祖(朱元璋)に帰順した。これより少し前、常遇春が困窮して田畑の中で寝転がっていると、夢の中に鎧を着て盾を持った神が現れて言った。「起きよ、起きよ、主君のお通りである。」驚いて起き上がると、ちょうど太祖が通り掛かるところであったので、迎えて拝謁した。時に至正十五年四月のことである。特に何もすることが無かったので、自らを先鋒とするよう申し出た。太祖は言った。「お前は腹を空かせて飯に有り付きに来ただけであろう、何故お前などを置いておかなくてはならんのだ。」常遇春は尚も請願した。太祖は言った。「では長江を渡るまで待つのだ、我の為に働くのはそれからでも遅くはあるまい。」牛渚磯に迫るに及んで、元軍は磯上に兵を並べ、軍船は岸より三丈余り隔てていたので、上陸出来そうに無かった。常遇春が小船に飛び乗って現れたので、太祖はこれを差し招いて進ませた。常遇春は声援に応え、矛を振るって前進した。敵がその矛に接する程近づくと、勢いを付けて岸に飛び上がり、大声で叫んで気勢を上げたので、元軍は開く様に後ずさった。諸将はこれに乗じ、遂に采石を突破し、進撃して太平路を奪取した。総管府先鋒を授かり、総管都督〔一〕に昇進した。
 当時、将兵の妻子や輜重は全て和州に残していてが、元朝の中丞蛮子海牙(マンジハイヤ)が再び水軍を用いて襲撃し采石を占拠したので、連絡が遮断されてしまった。太祖は自らこれを攻撃しようと考え、常遇春を先行させて多くの囮の兵を置き、敵軍を分散させた。戦闘が始まると、常遇春は軽船を操り、蛮子海牙の旗艦に衝突させて真っ二つに折った。左右より挟撃し、大いにこれを破り、その船団の悉くを鹵獲した。長江の連絡は再び通じるようになった。次いで溧陽州鎮守を命じられ、集慶路攻略に従軍し、最大の功績を挙げた。元帥徐達に従って鎮江路を奪取し、進撃して常州路を奪取した。呉軍(張士誠)が牛塘に於いて徐達を包囲すると、常遇春が救援に向かい、包囲を破り、その部将を捕らえたので、統軍大元帥に昇進した。常州路に勝利すると、中翼大元帥に遷った。徐達に従って寧国路を攻撃した時、流矢に当たったが、傷を包んで戦い、これに勝利した。これとは別に馬駝沙を奪取し、水軍を用いて池州路を攻撃し、これを陥落させ、江南行中書省都督馬歩水軍大元帥に昇進した。婺州路攻略に従軍し、江南行枢密院同僉に転出し、婺州を鎮守した。軍を移動させて衢州路を包囲した時は、奇襲部隊を用いて南門の甕城に突入させ、その戦備を破壊し、これを急襲して遂に陥落させ、精兵一万人を得て、江南行枢密院僉事に昇進した。杭州路を攻撃したが、戦況は芳しくなかったので、応天府に召還された。徐達に従って趙普勝の水寨を突破し、池州府防衛に従軍し、漢軍(陳友諒)を九華山の麓で大いに破ったが、これについては徐達伝に詳しく記載されている。
 陳友諒が竜湾に迫ると、常遇春は五翼元帥府の軍を用いて伏兵を置き、大いにこれを破り、遂に太平府を回復し、最大の功績を挙げた。太祖は江州路に至るまで陳友諒を追撃し、常遇春に留守を命じたが、法を厳格に運用したので、軍民は粛然として敢えて禁を破る者は居らず、江南行中書省参知政事に昇進した。安慶路奪取に従軍した。漢軍が長江より遊撃したので、常遇春がこれを撃退したところ、みな反転して逃げ去ったので、勝勢に乗じて江州路を奪取した。帰還して竜湾を鎮守し、長興州を救援し、呉軍五千人余りを捕殺し、その部将李伯昇は包囲を解いて遁走した。命を受けて安慶城を修築した。
 これに先んじて、太祖麾下の将帥で最も名声のある人物は、平章政事邵栄・右丞徐達と常遇春の三人であった。邵栄は最も古くからの宿将であり戦が上手かったが、ここに至って驕慢になって二心を抱き、参知政事趙継祖と共に兵を伏せて謀叛を企んでいた。事態が発覚しても、太祖は邵栄を死から救いたいと考えていたが、常遇春が前に進み出て次の様に言い放った。「臣下である者が叛逆したのですぞ、これを許されるのであれば、臣は道義として共に生きることなど出来ません。」太祖は邵栄と酒を交わし、涙を流しながらこれを誅殺し、これ以降は常遇春を偏重する様になった。
 池州府の守将羅友賢が神山寨〔二〕を占拠し、張士誠と通謀したので、常遇春はこれを撃破して斬殺した。安豊路救援に従軍した。この時、呂珍が既にその城を陥落させ、劉福通を殺害していたが、大軍が到来することを聞き付けると、軍を集結させて徹底的に抗戦した。太祖は左右に展開する軍を全て破り、常遇春はその陣営に側面から攻撃を加え、三戦して三度ともこれを破り、捕獲した兵馬は数え切れない程であった。遂に徐達に従って廬州路を包囲した。間も無く城が陥落しようとしていた時、陳友諒が洪都府を包囲した為、召還された。軍を合流させて漢を討伐することになり、彭蠡湖(鄱陽湖)の康郎山付近で両軍は激突した。漢軍の船は巨大で、しかも上流を位置していた為に、その攻勢は強烈であった。常遇春は諸将と共に激戦を繰り広げ、その怒声は天地を震わせたので、一人で百人の敵兵を相手取ることも無いでは無かった。陳友諒の驍将張定辺が太祖の旗艦に肉薄した時、船が浅瀬に乗り上げ、危険な状態になった。常遇春は張定辺を射殺し、太祖の旗艦は離礁することが出来たが、今度は常遇春の船が浅瀬に乗り上げてしまった。たまたま放棄された船が流されて来て、常遇春の船に接触したので離脱することが出来た。転戦すること三日、火を放って漢軍の船団を焼き払った為に、湖水は真っ赤に染まり、陳友諒は再び戦おうとはしなかった。諸将は漢軍は依然として強大であったので、これを放っておいて去るに任せようとしたが、常遇春は一人無言のままであった。湖口に達した時、諸将は船を東に向けて流れに沿って下ろうとしたが、太祖は上流を抑えるよう命じた。常遇春は長江を遡上し、諸将もこれに従った。陳友諒は追い詰められ、百艘ばかりで突破を図った。諸将はこれを迎え撃ち、漢軍は遂に壊滅し、陳友諒は敗死した。軍が帰還すると、最大の勲功として、大量の金帛・田地を賜った。武昌路包囲に従軍し、太祖が応天府に帰還すると、常遇春をそのまま留めて軍を監督させこれを圧迫した。
 翌年、太祖が呉王に即位すると、常遇春を平章政事に昇進させた。太祖は再び武昌路に親征した。漢の丞相張必先が岳州路より来援したが、常遇春はその軍が未だに集結していない隙に乗じて急襲し、これを捕らえた。これによって城内の士気は衰え、陳理は遂に降伏したので、荊・湖の地の悉くを奪取した。左相国徐達に従って廬州路を奪取し、それとは別に軍を率いて臨江路の沙坑・麻嶺・牛陂諸寨を攻略し、自称知州の鄧克明を捕らえ、遂に吉安路を陥落させた。贛州路を包囲したが、熊天瑞が堅守していたので容易に陥落しなかった。太祖は使者を派遣して常遇春を諭した。「城に勝っても大勢を殺すことは無い。その地を得たところで、民が居なければ何の益があると言うのだ?」そこで常遇春は濠を掘って防柵を立て、これを圧迫した。兵を留めること六ヶ月、熊天瑞は力尽きて降伏したが、果たして常遇春は殺さなかった。太祖は非常に喜び、書状を賜って努力を褒め称えた。常遇春は遂に軍の威勢に頼って南雄路・韶州路を諭して降伏させ、帰還して安陸府・襄陽路を平定した。また徐達に従って泰州に勝利し、張士誠の援軍を破った時は、水軍を動員して海安壩に壁を作ってこれを遮った。
 その年の秋に副将軍を拝命し、呉を討伐した。太湖に於いて、毘山に於いて、三里橋に於いて呉軍を破り、遂に湖州路に迫った。張士誠は軍を派遣して来援させ、旧館に駐留させ、大軍を後続させた。常遇春は奇襲部隊を率いて大全港より東阡に布陣し、更にその背後に出現した。敵軍は精鋭を繰り出して接戦となったが、奮戦してこれを撃破した。平望に於いてその右丞徐義を襲撃した時は、その赤竜船の悉くを焼き払い、再びこれを烏鎮に於いて破り、北方の昇山に追い詰め、その水陸両寨を破り、旧館の兵の悉くを捕虜としたので、遂に湖州路は陥落した。進撃して平江路を包囲し、虎丘に布陣した。張士誠は密かに軍を出して常遇春を突いたので、常遇春は北濠にて戦い、これを破り、張士誠を捕らえる寸前まで迫った。しばらくして、諸将は葑門を破り、常遇春もまた閶門を破って突入した為に、呉の地は平定された。中書平章軍国重事に昇進し、鄂国公に封じられた。
 再び副将軍を拝命し、大将軍徐達と共に兵を率いて北征を行った。洪武帝(朱元璋)は自ら諭して言った。「百万の軍勢であっても、鋭鋒を挫き陣営を陥れることに関しては、副将軍に敵うものでは無い。戦えないことを心配するのでは無く、軽々しく戦うことだけを心配せよ。その身は大将となったのであるから、ただ小敵と角を突き合わせることを好むというのは、とてもでは無いが望む所では無い。」常遇春は拝謝した。既に北伐は実行に移され、常遇春は太子少保を兼ねて、山東諸郡を陥落させ、汴梁路を奪取し、河南に進攻した。元軍五万が洛水の北側に布陣した。常遇春はその陣営を単騎で突き、敵兵二十騎余りを纏めて槊で貫いた。常遇春は矢を一閃してその先鋒を射殺し、大声で叫んで突入し、麾下の精兵がこれに続いた。敵は潰走したので、五十里余りにわたって追撃した。梁王阿魯温(アルウェン)を降伏させ、河南の郡邑を次々と陥落させた。汴梁に於いて洪武帝に謁見し、遂に大将軍(徐達)と共に河北の諸郡を陥落させた。先行して徳州を奪取し、水軍を率いて河に沿って進撃し、元軍を河西務の戦いで破り、通州に勝利し、遂に元朝の都に入城した。これとは別に保定路・河間路・真定路を陥落させた。
 大将軍と共に太原を攻めた時、拡廓帖木児(ココテムル)が来援した。常遇春は徐達に言った。「我が方の騎兵は集結しているが、歩兵は未だに到着しておらず、急いで戦えば必ず多くの犠牲が出るから、これを夜襲して目的を達成するべきだ。」徐達は言った。「良いだろう。」たまたま拡廓帖木児の部将豁鼻馬(ファビマ)が投降を約束して来たので、更に内応を要請し、精騎を選抜して夜になると口に枚を含んで襲撃に向かった。拡廓帖木児は火を灯して軍書に目を通しているところであったので、突然のことに対応出来ず、靴も履かずに、痩せ馬に乗って、十八騎を連れて大同路へ敗走した。豁鼻馬は降伏し、精兵四万を得て、遂に太原に勝利した。常遇春は拡廓帖木児を追撃して忻州に至り、帰還した。詔を下して常遇春を左副将軍とし、右副将軍馮勝の上位に置いた。北進して大同路を奪取し、転じて河東を従え、奉元路を陥落させ、馮勝の軍と合流し、西進して鳳翔府を突破した。
 たまたま元朝の部将也速(イェス)が通州を攻撃したので、詔を下して常遇春を帰還させて備え、平章政事李文忠にこれを補佐させ、歩兵・騎兵九万を率いて北平府を発ち、会州を経由して、錦州の戦いで敵将江文清〔三〕を破り、全寧路の戦いで也速を破った。大興州に進攻した時は、千騎ずつ分散させて八ヶ所に伏兵を置いた。守将は夜間に遁走したが、これの悉くを捕らえ、遂に開平県を突破した。元朝の皇帝は北方へ逃れたので、数百里を追撃した。その宗王慶生〔四〕(チンシャン)及び平章政事鼎住ら将兵一万人、車一万台、馬三千頭、牛五万頭を捕らえ、子女・宝物・貨幣も同様であった。軍を帰還させる途中、柳河川に差し掛かった所で急病に倒れた時、僅か四十歳であった。太祖はこれを聞くと、驚愕して悲嘆に暮れた。遺体が竜江に到着すると、自ら出向いて祀り、礼官に命じて天子が大臣に哀礼を発する為の議論を行わせた。宋王朝の太宗が韓王趙普を弔った故事を援用することが提案された。決定して言った。「そうしよう。」鍾山の麓に葬られることを許され、明器九十個を墓中に副葬された。翊運推誠宣徳靖遠功臣・開府儀同三司・上柱国・太保・中書右丞相を贈られ、開平王を追封され、忠武と諡された。太廟に祀られ、功臣廟には肖像が奉られ、その位はいずれも第二等とされた。
 常遇春は勇猛果敢ではあったが、よく兵卒を扱い、鋭鋒を挫いて敵陣を陥れること、未だ嘗て敗北したことは無かった。経書や史書を習ったことは無かったが、その用兵は古来からの戦理に適っていた。大将軍徐達より二歳年上であったが、数々の征伐に従い、約束を守ってよく謹み、一時は名将と言えば徐・常とされた。嘗て常遇春は自らを十万の軍に匹敵すると言い、天下を自由気ままに駆け巡ったので、軍中は「常十万」とも呼んだのである。
 常遇春の従弟の常栄は、功績を重ねて指揮同知となり、李文忠の塞外遠征に従軍したが、臚朐河(ケルレン河)で戦死した。常遇春には常茂・常昇の二子があった。

 常茂は常遇春の勲功によって鄭国公に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられたが、年少であったので政軍事を習わなかった。洪武二十年に大将軍馮勝に従って金山の納哈出(ナガチュ)を討伐するよう命じられた。馮勝は常茂の岳父である。常茂は馮勝との約束を守らない事が多く、馮勝はしばしばこれを叱責した。常茂は傲慢に応対したので、馮勝はますます怒ったが、未だに処分は行われなかった。たまたま納哈出が投降を申し出ると、右副将軍藍玉の陣営を訪ねたので酒宴となったが、藍玉と互いに見えないところに来ると、納哈出は持っていた酒を地面に撒いて、下を向いて文句を言い始めた。常茂も列席していたが、麾下に趙指揮という者がおり、蒙古語を理解していたので、常茂に密告した。「納哈出は逃げようとしています。」常茂は不意に立ち上って、前に進み出て納哈出を殴打した。納哈出は大いに驚き、馬に飛び乗ろうとした。常茂は刀を抜き放ち、その肘を斬って負傷させた。納哈出の配下がこれを聞き付けると、驚いて逃げ去る者まで現れた。この為に常茂への怒りは心頭に達し、その罪状を粉飾し、常茂が発狂したと上奏したので、遂に拘束されて京師に送還されてしまった。常茂もまた馮勝が数多くの不祥事を働いていると発言した。洪武帝は馮勝の総兵印を取り上げる一方、常茂を竜州に配流し、(洪武)二十四年に没した。当初、竜州土官の趙貼堅が没すると、甥の趙宗寿が襲職した。ところが趙貼堅の妻の黄氏は自分の娘を偏愛し、常茂に妾として与え、竜州の政治を思い通りに取り仕切っていた。常茂が没すると、黄氏と趙宗寿は州印を争い、互いに相手の悪事を告発した。ある者が流言を撒き散らし、常茂は実際は死んでいない、趙宗寿はその真相を知っていると言った。洪武帝は怒り、叱責して自ら罪を贖って常茂に献じるよう命じ、楊文・韓観に竜州討伐の為に出撃を命じた。果たして既に常茂が死亡していることが判明し、趙宗寿もまた恭順を申し出たので、出兵は取り止められた。
 常茂には子が無く、弟の常昇が開国公に改封され、しばしば練兵に出向き、太子太保を加官された。常昇の死については、『明実録』に記載されていない。その他の書物の紀伝には、建文年間の末、常昇及び魏国公徐輝祖は浦子口に奮戦し、永楽初年に死亡したとされている。或いは常昇は洪武年間に藍玉の徒党に連座し、三山に兵を集めていると告発された為に誅殺されたともされている。常氏は興宗(朱標)の外戚となり、建文年間に於ける恩礼は非常に厚かった為に、事案に巻き込まれて排除されたので、考証することが出来ず、またその死についても数々の異なる伝聞が残っているのである。常昇の子の常継祖は、永楽元年に雲南の臨安衛に遷された時、僅か七歳であった。常継祖の子は常寧、常寧の子は常復と言った。弘治五年の詔には次の様にある。「太廟に祀られている数々の功臣で、特に王爵を贈られた者は、いずれも皇祖を補佐して天下を平定し、巨大な功績がある。ところがその子孫には僅かな食禄に有り付くことすら出来ず、下賎に堕してしまっている者もいる。朕は忍びなく思うので、所管部署はその嫡嗣を探し求め、適切に一官を授け、先人の祭祀を執り行わせよう。」こうして常復は雲南より召還され、南京錦衣衛世襲指揮使を授かった。嘉靖十一年に四王の後嗣を紹封した際、常復の孫の常玄振を懐遠侯とし、継承されて曽孫の常延齢に至ると、賢明な振る舞いで評判を得た。崇禎十六年、楚の地の全域が失陥すると、常延齢は京軍を率いて九江に赴き協守したいと願い出た。また江都県に常家沙という地名があり、一族数千人は全て遠い始祖の末裔であったので、忠義を鼓吹して、訓練して親軍にしたいと願い出た。崇禎帝はこれを喜んだが、実行に移されることは無かった。南京の勲戚の多くは自分の思うがままに振る舞っていたが、ただ常延齢だけは職責を守ろうとした。明王朝が滅亡すると、自らは田地を耕し、庶人としてひっそりと一生を終えたのである。

【校勘記】
〔一〕総管都督、『太祖実録』巻四、丙申十月丁未条は「管軍総管」となっている。
〔二〕神山寨、元は「賢山寨」となっており、『太祖実録』巻十一、任寅十月任申条・巻十二、癸卯正月庚戌条に基づいて改めた。池州府に「賢山」は無いが、「神山」はあることが『読史方輿紀要』巻二十七によって分かる。
〔三〕江文清、元は「汪文清」となっており、本書巻百二十六、李文忠伝・『太祖実録』巻五十六、洪武三年九月戊申条・巻百六十、洪武十七年三月戊戌条に基づいて改めた。
〔四〕慶生、本書巻三百二十七、韃靼伝は「慶孫」としているが、『太祖実録』巻四十二、洪武二年六月己卯条は「慶生」としている。
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by su_shan | 2016-08-12 00:47 | 『明史』列伝第十三

徐達(続)

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りしております)

 徐輝祖、最初の名を徐允恭と言い、八尺五寸の長身で、才幹があり、父の勲功によって署左軍都督府事となった。徐達が斃れると、爵位を継承した。皇太孫(朱允炆)の諱を避け、今の名を賜った。しばしば陝西・北平・山東・河南に出向いて練兵を行った。元朝の部将であった阿魯帖木児(アルクテムル)が燕王府に所属していたが、叛意を持っていたので、これを捕らえて誅殺した。帰還して中軍都督府事を領した。建文年間の初め、太子太傅を加官された。燕王(朱棣)の子の朱高煦は、徐輝祖の甥である。燕王が挙兵すると、朱高煦は京師に拘留されていたが、徐輝祖の良馬を盗んで逃げ出した。徐輝祖は驚愕し、追っ手を遣わしたが、捕捉することは出来なかったので、建文帝(朱允炆)に報告すると、却って信頼を得ることになった。しばらくして、軍を率いて山東を救援するよう命じられ、斉眉山の戦いで燕軍を破った。燕の人は徐輝祖を大いに恐れた。俄かに詔によって召還されたので、諸将は孤立していき、遂に相次いで敗北を喫した。燕軍が長江を渡河するに及んで、徐輝祖は尚も軍を率いて奮戦していた。成祖(朱棣)が京師に入城すると、徐輝祖はただ父の祠を守って出迎えることは無かった。こうして獄吏に下されて罪状の供述書が作成されたが、父が建国の元勲であることと世券の中に死罪を免ずる文言があることが記されていた。成祖は激怒し、徐輝祖の爵位を剥奪して私邸に幽閉した。永楽五年に没した。万暦年間に建文帝時代の忠臣が記録された際には、南都の廟堂に祀られ、徐輝祖がその筆頭とされた。後に太師を追贈され、忠貞と諡された。
 徐輝祖の死の翌月、成祖は群臣に詔を下して言った。「徐輝祖と斉泰・黄子澄の一党は共謀して社稷を危めた。朕は中山王に巨大な功績があることを思い、曲げて徐輝祖を赦したのだ。今、徐輝祖は没したが、中山王の後嗣を絶やしてはならない。」こうして徐輝祖の長男の徐欽に命じて継承させた。永楽九年、徐欽と成国公朱勇・定国公徐景昌・永康侯徐忠らは、共に悪事を働いたとして六科給事中の弾劾する所となった。永楽帝(朱棣)は朱勇らを許したが、徐欽には帰って勉学に励むよう命じた。永楽十九年に来朝したが、突然に辞去してしまった。永楽帝は怒り、爵位を剥奪して庶人に落とした。仁宗(朱高熾)が即位すると、元の爵位に戻され、子の徐顕宗・徐承宗に継承された。徐承宗は、天順年間の初め、南京守備となり、中軍都督府事を兼領し、公平かつ清廉に兵卒に接したので賢人の名声を得た。没すると、子の徐俌が継承した。徐俌は字を公輔と言い、慎重な性格で、立ち居振る舞いが上手かった。南京守備は最も充実していた時期であったが、懐柔伯施鑑が協同守備として徐俌の上位にあった。徐俌にはそれが不満であり、朝廷に上言したところ、爵位に基づいて序列を決定するよう詔が下されたので、制令となった。弘治十二年、給事中胡易・御史胡献が災害に関して意見したところ獄に下された為、徐俌は上章してこれを救い出した。正徳年間には、上書して皇帝の狩り遊びを諌めたが、その言葉は切実かつ実直であった。嘗て無錫州の民と田地の所有を巡って争った時、(宦官として権勢のあった)劉瑾に贈賄したので、当時は誹謗されることになった。徐俌は爵位を継承してから五十二年で没し、太傅を送られ、荘靖と諡された。孫の徐鵬挙が継承したが、徐鵬挙は妾を寵愛し、妻を差し置いて夫人にしてしまい、その子を嫡子に立てようとした為に、罪を得て食禄を剥奪された。子の徐邦瑞・孫の徐維志が継承し、曽孫の徐弘基になった。徐承宗より徐弘基に至るまで六世代、みな南京を守備し、都督府事を兼領した。徐弘基は累進して太傅を加官され、没し、荘武と諡され、子の徐文爵が継承した。明王朝が滅亡すると、爵位は剥奪された。
 徐増寿は父の登用によって左都督に至った。建文帝は燕王の謀叛を疑い、嘗て徐増寿に質問したことがあった。徐増寿は平伏して言った。「燕王殿下は先帝陛下と同じ気質をお持ちでいらっしゃいますが、既にして富貴を極めておられますので、どうして謀叛などを起こす様なことがございましょうか。」燕王が挙兵するに及んで、徐増寿は何度も京師の内情を燕王に伝えていた。建文帝はこれを悟ったが、特に追及は行わなかった。燕軍が長江を渡河すると、建文帝は徐増寿を召し出して詰問したところ、徐増寿は何も答えなかったので、殿中にて剣を手にこれを斬り捨ててしまった。燕王がやって来ると、その屍を撫でて慟哭した。燕王は即位すると、徐増寿を武陽侯に追封し、忠愍と諡した。次いで定国公に進封し、食禄二千五百石とした。その子の徐景昌が継承した。徐景昌は驕慢な振る舞いを続けた為に、しばしば弾劾されたが、成祖はこれを許した。成祖が崩御すると、徐景昌は自宅で喪に服して葬儀に参列しなかったので、冠服食禄を剥奪されたが、後に返還された。三代継承して玄孫の徐光祚は、累進して軍府の長官となり、太師を加官され、継承して四十五年で没し、栄僖と諡された。子が継承して孫の徐文璧に至り、万暦年間に後軍都督府事を領した。徐文璧は小心な性格ではあったが万暦帝に対しては親に接する様に謹み畏れ敬い、しばしば万暦帝の代理として郊天の儀式を執り行い、太師を加官された。何度も上書して立太子を行うこと、礦税を取り止めること、獄中の囚人を釈放することを請願した。爵位を継承してから三十五年で没し、康恵と諡された。更に継承は続いて曽孫の徐允禎の代に至って、崇禎年間の末に流賊の殺害する所となった。
 洪武帝時代の功臣たちの中で、ただ徐達の子孫だけが二系統の公爵位を有し、両京に分かれ住んだ。魏国公の後裔からは賢人が数多く輩出され、何度も朝廷から恩寵を受けたが、定国公の家系は常に倍にして恩義に報いた。嘉靖年間に詔を下して恩沢世封の善悪を判断させた際に、定国公の功績を評価すべきでは無いと言う者があったが、結局のところ爵位を剥奪されずに済んだのであった。
 徐添福は早逝した。徐膺緒は、尚宝司卿を授かり、中軍都督府都督僉事に累進し、朝廷に参内して、世襲指揮使となった。

【注釈】
(※1)五太子、『太祖実録』巻二十一、丙午九月戊寅条には、「五太子は、張士誠の養子である。元の姓は梁氏といい、身長は低いが精悍であり、地面から一丈余り跳び上がることができ、また潜水を得意とした。」とある。
(※2)批亢擣虚、批は打つ、亢は咽喉、擣は突く、虚は空虚、すなわち要害の地の不意を突くこと。『史記』巻六十五、孫子呉起列伝第五には、「孫子は言った。『そもそも、絡まり縺れている物を解くのに拳骨を用いることは無く、格闘している者を救う為に割って入ったりしない、咽喉を打って不意を突けば、形が整い勢いが削がれ、自然と解けていくものです。』」とある。
(※3)指揮使を殺害し、当時蘭州に鎮守していたのは蘭州衛指揮使張温であるが、ここで殺害された指揮使とは張温では無く鞏昌府守将の鷹揚衛指揮使于光である。『太祖実録』巻四十七、洪武二年十二月庚寅条に、「元朝の部将王保保は内偵によって大将軍(徐達)が南方へ帰還したことを知り、軍を以て蘭州を襲撃し、忽ちにして城下に到達した。指揮使張温は将校らを一堂に会して言った。『敵軍は多く、我が軍は少ないとは言うが、敵は遠方より到来しているので、未だに我が軍の実際の兵数を知らない。薄暮に乗じて奇襲し、その先鋒を挫き、連中が撤退しなければ、守りを固めて増援を待つのだ。』そこで軍列を整えて出撃したところ、王保保の軍は少ししか後退しなかった。夜明け頃に張温は軍を集結させて入城し、遂に敵軍は城を幾重にも包囲した。張温は堅守して出撃することは無かった。この時、鷹揚衛指揮使于光は鞏昌府を守っており、軍を率いて来援したが、蘭州の馬蘭灘に差し掛かったところで突然王保保の軍と遭遇し、敗北して捕縛された。蘭州城下に連行され、張将軍に投降を呼び掛けさせられた。于光は大声で叫んだ。『我は不幸にも捕らわれたが、公らは堅守なされよ、徐総兵が大軍を率いて来て下さるぞ!』敵は怒って于光の頬を殴り、遂に殺害してしまった。城中の者は于光の言葉を聞くと、ますます防御を固めた。王保保は攻城を不利と悟り、また大軍が到着することを恐れ、撤退した。」とある。張温については本書巻百三十二に、于光については本書巻百三十三にそれぞれ伝があるので、参照されたい。なお、本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。
(※4)衛青が蘇建を斬らなかったという故事、『史記』巻百十一、衛将軍驃騎列伝には、「その翌年の春、大将軍衛青は定襄に出征し、…衛尉蘇建は右将軍となり、…右将軍蘇建・前将軍趙信は軍を合流させて三千騎余りとなったが、単独で単于の兵と遭遇し、交戦すること一日余りにして、漢軍は全滅した。前将軍は胡人であり、投降して翕侯となったが、状況は急変し、匈奴はこれを勧誘したので、遂にその残兵八百を率いて単于に投降した。右将軍蘇建はその軍を全て失い、一人逃げ延びて、大将軍の下へ帰還した。大将軍はその罪を正閎・長史安・議郎周霸らに質問した。『蘇建をどうするべきか?』周霸が答えた。『大将軍はこれまで裨将を斬ったことはございません。今、蘇建は軍を棄てましたので、斬ることで将軍の権威を明らかにすることが出来るでしょう。』正閎・長史安が言った。『そうではない。兵法に小敵が強気に出れば、大敵の虜になると言うではないか。今、蘇建は数千の兵を以て単于の数万に当たり、一日余り奮戦して、軍は潰えたのに、敢えて二心を持たず、自ら戻って来ました。自ら帰って来たのに斬られたとあれば、これは後に反感を招くことになるでしょう。斬るべきではありません。』大将軍は言った。『…細かい事は天子にお任せしよう、天子自らこれを裁けば、人は専権とは見做さないであろう、そうではないか?』遂に蘇建を捕らえて行在所へ送還した。」とある。この後、蘇建は庶人に落とされるが、後に代郡太守となった。胡徳済もまた都指揮使に復帰し、陝西に鎮守している。
(※5)穰苴の荘賈に対する処遇、『史記』巻六十四、司馬穰苴列伝には、「…穰苴は荘賈と約束して言った。『明日の正午に軍門で合流しましょう。』…正午になっても、荘賈は現れなかった。…夕暮れ時になって、荘賈が現れた。穰苴は言った。『何故遅れたのか?』荘賈は謝って言った。『親戚や高官が宴を設けてくれたので、遅れてしまったのだ。』穰苴は言った。『将軍は一度命を受ければ家族のことを忘れ、軍中にあっては親戚を忘れ、戦陣にあっては自らの身を忘れると言う。今、敵は我が国深くまで侵攻し、兵卒は前線で夜露に身を曝し、我が君は不安で眠れず、食事の味も分からず、百姓の民の命は全て我が君に懸かっていると言うのに、宴とはどういうことか!』軍正を呼んで質問した。『軍法では、期日に遅れたものはどうなるか?』答えて言った。『斬死です。』荘賈は恐怖し、人を送って景公に報せ、助けを求めた。使者が戻って来るよりも早く、荘賈を斬って三軍に示した。三軍の兵はみな戦慄した。しばらくして、景公の使者が荘賈を釈放させようと軍中に駆け込んで来た。穰苴は言った。『将軍は軍中にあっては、君令であっても受けないことがあるのだ。』…」とある。
(※6)太陰が上将を覆い隠したので、太陰は月、上将は星座の文昌六星の一つ。『晋書』巻十一、天文志上に、「文昌六星は北斗の前方にあり、天の六府であり、主に天道を集計するものである。一つ目を上将と言い、大将軍・建威武、・・・」とあり、太陰が上将を覆い隠すとは、今まさに大将軍徐達の命数が尽きようとしていることを暗示する表現。

【校勘記】
〔一〕竹貞、「竹昌」とすべきである。『太祖実録』巻二十七、洪武元年三月己亥条には、「大将軍徐達が陳橋に到達すると、左君弼・竹昌が迎え入れて降伏した。」とあり、同巻四月壬寅条には、「大将軍徐達は千戸王鎮を派遣して左君弼・竹昌・竹君祥らを京師に護送させた。」とあることを考えると、洪武元年三月に汴梁路の北東にある陳橋で徐達を迎え入れた元朝の部将は左君弼・竹昌らであり、「左君弼・竹貞ら」では無い。元朝の平章政事竹貞は洪武三年二月に察罕脳児(チャガンノール)で李文忠に捕縛されていることが、本書巻二、太祖本紀・『太祖実録』巻四十九・『国榷』巻四、四百九頁によって分かる。伝の文章が「竹貞」としているのは誤りである。また本書巻百三十、韓政伝の「竹貞」も、同様に「竹昌」とすべきである。
〔二〕朴賽因不花、朴は元は「樸」で、間違いである。「朴」が高麗の姓であることを考えると、朴賽因不花は高麗人であり、『元史』巻百九十六に伝もあるので、字は正に「朴」とすべきであるから、改めた。
〔三〕張勝、『太祖実録』巻三十、洪武元年八月庚午条・巻百七十一、洪武十八年二月己未条はいずれも「張煥」としている。
〔四〕定西州、元は「安定」となっており、本書巻百二十六、鄧愈伝・『明史稿』伝十一、徐達伝・『太祖実録』巻百七十一、洪武十八年二月己未条に基づき改めた。
〔五〕文済王、元は「文」の字が脱落しており、『太祖実録』巻百七十一、洪武十八年二月己未条に基づいて補った。『元史』巻百八、諸王表に「済王」、また「文済王」もあるが、済王は既に皇慶元年に呉王に改封されている為、洪武三年に郯王と同時に捕らえられる訳にはいかない。そして文済王は郯王と同時代の人である。
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by su_shan | 2016-08-10 17:21 | 『明史』列伝第十三

徐達

(文字数制限に抵触する為、本伝は二頁に分けてお送りします)

『明史』巻一百二十五、列伝第十三

 徐達、字を天徳、濠州の人、代々農家であった。徐達は幼少より大志があり、長身で頬骨が高く、剛毅で武勇に優れていた。太祖(朱元璋)が郭子興の部将となった時、徐達は二十二歳であったが、駆け付けてこれに従い、ひとたび顔を合わせると語り合った。太祖が南進して定遠県を攻略するに及んで、二十四人の部下を率いて行ったが、徐達はその筆頭であった。次いで従軍して元軍を滁州澗の戦いで破り、和州奪取に従い、郭子興は徐達に鎮撫を授けた。郭子興が孫徳崖を捕らえると、孫徳崖の軍もまた太祖を捕らえた為に、徐達は身を挺して孫徳崖の軍に赴いて交代を申し出たことで、太祖は帰ることが出来、徐達もまた逃れることが出来た。長江渡河に従い、采石を突破し、太平路を奪取し、いずれも常遇春と共に軍の先陣を切った。元朝の将帥陳埜先(陳エセン)を破って捕らえ、別軍を率いて溧陽州・溧水州を奪取し、集慶路を陥落させた。太祖は自身を留め、徐達を大将に命じて、諸軍を率いて東進させ鎮江路を攻め、これを突破した。軍令を厳格にさせたので、城中は安定した。淮興翼統軍元帥を授かった。
 当時、張士誠は既に常州路を占拠し、江東の叛将陳保二と呼応して水軍によって鎮江府を攻撃した。徐達はこれを竜潭の戦いで破り、遂に軍の増強を要請して常州路を包囲した。張士誠は部将を派遣して救援した。徐達は敵軍が狡猾かつ精鋭であることを見抜き、未だに容易には力ずくで奪取することが出来ないと考え、城より後退して二ヶ所に伏兵を置いて待機し、それとは別に王均用の軍を奇襲部隊として用意しておき、自らは督戦して戦闘に臨んだ。敵軍が退却すると伏兵に襲撃させたので、大いにこれを破り、その張・湯二将軍を捕らえ、進軍して常州路を包囲した。翌年に勝利した。江南行枢密院僉事に昇進した。次いで寧国路に勝利し、宜興州を従え、先鋒の趙徳勝に常熟州を陥落させ、張士誠の弟である張士徳を捕らえた。翌年に再び宜興州を攻め、これに勝利した。太祖は自ら婺州路を攻略しようと考え、徐達に応天府の鎮守を命じ、別に一軍を派遣して天完の部将趙普勝を撃破し、池州路を奪還した。奉国上将軍・江南行枢密院同知に遷り、安慶路に進攻し、無為州より陸地を進み、夜間に浮山寨を襲撃し、青山の戦いで趙普勝の部将を破り、遂に潜山に勝利した。帰還して池州を鎮守し、常遇春と共に伏兵を置き、九華山の麓で陳友諒軍を破り、斬首一万人、捕虜三千人の戦果を得た。常遇春は言った。「こいつらは強敵だ、殺しておかないと後々不味いことになる。」徐達は認めず、状況を報告した。ところが常遇春は先んじて捕虜の半数以上を穴埋めにしてしまったので、太祖は喜ばず、残りの捕虜全てを解放して帰らせた。この時点で初めて徐達が諸将を掌握するよう命じたのである。陳友諒が竜江に侵攻すると、徐達は南門の外側に布陣し、諸将と共に奮戦してこれを破り、慈湖まで追撃し、その船団を焼き払った。
 翌年、漢(陳友諒)討伐に従軍し、江州路を奪取した。陳友諒は武昌路に敗走したので、徐達はこれを追撃した。陳友諒は沔陽府に軍船を出撃させたので、徐達は漢陽府の沌口に陣営を築いてこれを妨害した。江南行中書省右丞に昇進した。翌年、太祖が南昌路を平定すると、降将の祝宗・康泰が叛乱した。徐達は沌口の軍を用いてこれを討伐した。安豊路救援に従軍し、呉(張士誠)の部将呂珍を破り、遂に廬州路を包囲した。偶々漢軍が南昌に侵攻したので、太祖は廬州路より徐達を召還して軍を合流させ、鄱陽湖に於いて決戦に臨んだ。陳友諒の軍は非常に優勢で、徐達は諸将の先頭に立って奮戦し、その先鋒を挫き、千五百人を殺害し、一隻の巨船を鹵獲した。太祖は勝機を見出してはいたが、一方で張士誠が呼応することを恐れ、夜の内に徐達を転進させて応天府の守りとし、自らは諸将を率いて激戦を繰り広げ、遂に陳友諒を敗死させたのである。
 翌年、太祖は呉王を自称し、徐達を左相国とした。再び兵を率いて廬州路を包囲し、その主城に勝利した。江陵県・辰州路・衡州路・宝慶路などの諸路を攻略し、湖・湘の地は平定された。召還されると、常遇春らを率いて淮東を従え、泰州に勝利した。呉軍が宜興州を陥落させると、徐達は帰還して救援に赴き、これを奪還した。再び軍を率いて長江を渡り、高郵府に勝利し、呉軍の将兵千人余りを捕虜とした。常遇春と合流して淮安路を攻め、馬騾港の戦いで呉軍を破ったので、守将の梅思祖は城を以て投降した。進軍して安豊路を破り、元朝の部将忻都(ヒンドゥ)を捕らえ、左君弼を敗走させ、その糧船の悉くを鹵獲した。元軍が徐州に侵攻すると、迎え撃ち、これを大いに破り、捕殺した敵兵は一万人を数えた。淮南・淮北は平定された。
 軍が帰還すると、太祖は呉遠征を討議させた。右相国李善長はしばらく延期するように進言した。徐達は言った。「張氏は奢侈に溺れて苛政を敷き、大将である李伯昇の一党はいたずらに子女玉帛を蓄え、容易に付け入ることが出来ます。重用されているのは、黄敬夫・蔡彦文・葉徳新という三人の参軍ですが、書生で大計を知りません。臣が主上の威徳を奉り、大軍を以てこれを圧迫すれば、三呉の地が平定される日を数えながら待つことが出来るでしょう。」太祖は非常に喜び、徐達は大将軍を拝命して、平章政事常遇春を副将軍として、水軍二十万人を率いて湖州路に迫った。敵軍が三路より出撃したので、徐達もまた三軍に分かれて対応し、別動隊を派遣してその帰路を封鎖した。敵軍は交戦して敗走したが、城に戻ることは出来なかった。引き返した敵軍と再度戦闘になり、大いにこれを破り、将帥官吏二百人を捕らえ、その城を包囲した。張士誠は呂珍らを派遣して六万の軍で救援に向かわせ、旧館に駐留させ、五個の砦を築いて固守させた。徐達は常遇春らに十個の堡塁を築造させてこれを遮断した。張士誠自ら精鋭を率いて来援したので、皂林の戦いでこれを大いに破った。張士誠は敗走し、遂に昇山の水陸両寨を突破した。五太子(※1)・朱暹・呂珍らはみな降伏したので、城中に見せ付けたところ、湖州路は降伏した。遂に呉江州を陥落させ、太湖より進撃して平江路を包囲した。徐達は葑門に布陣し、常遇春は虎丘に布陣し、郭子興は婁門に布陣し、華雲竜は胥門に布陣し、湯和は閶門に布陣し、王弼は盤門に布陣し、張温は西門に布陣し、康茂才は北門に布陣し、耿炳文は城の北東に布陣し、仇成は城の南西に布陣し、何文輝は城の北西に布陣し、長大な包囲陣地を築いてこれを困窮させた。木造の攻城塔と城内の仏塔などを橋で渡した。それとは別に三つの高台を造成して完成させ、城内を俯瞰出来るようにし、弓・弩・火砲を配備した。高台にはまた巨砲(襄陽砲)を設置したので、砲撃を受けた箇所は粉砕された。城内は大混乱に陥った。徐達は使者を派遣して方策を尋ねたので、太祖は勅を発して労い、言った。「将軍の勇略は冠絶するものであるから、よく愚策を押し止め、群雄を削平することが出来るのだ。今、事に際して必ずや命を受けようとするのは、将軍の忠心の表れであるから、我は喜ばしく思う。ところで、将軍は外地に在っては、主君の制御を受けないと言う。軍中の差し迫った事態に関しては、将軍が便宜を図って処置すれば良く、我が統制する様なことでは無いのだ。」こうして平江路は打ち破られ、張士誠は捕らわれて応天府に護送され、勝利を得た兵は二十五万人を数えた。城がまさに陥落しようとしている時、徐達と常遇春は約束して言った。「軍の突入に際しては、我が軍は左側、公の軍は右側であるぞ。」また将兵に下令した。「民の財産を掠める者は死罪、民の家を壊す者は死罪、陣営より二十里離れた者は死罪とする。」既に軍は入城したが、呉の人々は以前の様に安堵して生活することが出来た。軍が帰還すると、信国公に封じられた。
 次いで征虜大将軍を拝命し、常遇春を副将軍として、歩兵・騎兵併せて二十五万人の軍を率いて、北進して中原を奪取しようとし、太祖は自ら竜江にて戦神を祀った。この当時、名将と呼ばれる者の中には、必ず徐達と常遇春があった。両者とも才幹と勇気は似通い、いずれも太祖の頼みとするところであった。常遇春は素早く敵地深く侵攻する一方、徐達は最も謀略に長けていた。常遇春は城邑を陥落させても凶行を無くすことは出来なかったが、徐達の通り過ぎる所に擾乱は無く、精兵と間諜を捕らえれば、恩義を与えて翻意させ、自分の為に登用した。その為、多くの者が大将軍の下に帰参した。ここに至って、太祖は諸将に対して、慎重に軍を制御して規律を厳守させ、戦闘に勝利して獲得することを体現できる将帥は、大将軍徐達を置いて他に無いと諭した。また徐達に対しては、侵攻の方策を説明し、まずは山東から始めるべきだと言った。軍が出撃すると、沂州に勝利し、守将の王宣を降伏させた。進撃して嶧州に勝利したところ、王宣が叛いたので、攻撃してこれを斬殺した。莒州・密州・海州といった諸州は悉く降伏した。そこで韓政に一軍を与えて黄河を抑えさせ、張興祖に東平路・済寧路を奪取させ、自らは大軍を率いて益都路を突破し、濰州・膠州といった諸州県を従えて陥落させた。済南路が降伏すると、軍を分けて登州・莱州を奪取した。こうして斉の地は悉く平定された。
 洪武元年、太祖が帝位に就くと、徐達を右丞相とした。皇太子を冊立し、徐達に太子少傅を兼任させた。副将軍常遇春が東昌路に勝利し、済南府に軍を集結させ、楽安県の叛徒を攻撃して斬殺した。軍を済寧府へ返し、水軍を率いて黄河を遡上し、汴梁路に向かうと、守将李克彝は逃走し、左君弼・竹貞〔一〕らは降伏した。遂に虎牢関より洛陽県に入り、元朝の部将脱因帖木児(トインテムル)と洛水の北側で激戦を繰り広げ、これを敗走させた。梁王阿魯温(アルウェン)は河南府路を以て降伏し、崇州・陝州・陳州・汝州といった諸州を攻略し、遂に潼関を突いた。李思斉は鳳翔府に、張思道は鄜城に遁走したので、遂に潼関入城を果たし、西進して華州に到達した。
 勝報が届くと、太祖は汴梁に行幸し、徐達を行在所に召し出して、酒を置いてこれを労い、かつ北伐の軍略を練った。徐達は言った。「大軍で斉・魯の地を平定し、河南・洛陽を掃討致しましたが、王保保(拡廓帖木児、ココテムル)は去就を決めかねて成り行きを見守っております。既に潼関を抑えましたところ、李思斉の一党は狼狽して西方へ遁走しました。元朝の応援は既に遮断されておりますので、この状況に乗じて元朝の都を直撃すれば、戦わずして事を成し遂げることが出来ましょう。」洪武帝(朱元璋)は言った。「良いだろう。」徐達はまた進言した。「元朝の都に勝利する一方で、その主が北方へ逃走した場合は、これを急追すべきでしょうか?」洪武帝は言った。「元朝の命運は衰退している、漸く自ら滅び去ろうとしているのだ、わざわざ戦禍を拡大して煩わされることもあるまい。塞外に出た後は、辺境を固守しておれば、その侵入を防ぐだけで良いのだ。」徐達は平伏して命を受けた。遂に副将軍(常遇春)と河陰県に軍を集結させ、支隊を派遣して経路を分けて河北の地を従え、立て続けに衛輝路・彰徳路・広平路を陥落させた。軍が臨清県に差し掛かると、傅友徳に陸路を開通させて歩兵・騎兵を通し、顧時は河を浚渫して水軍を通し、遂に北進した。常遇春は既に徳州に勝利し、軍を合流させて長蘆を奪取し、直沽を抑え、浮橋を造って軍を渡した。水陸同時に進軍し、河西務の戦いで大いに元軍を破り、進撃して通州に勝利した。順帝は后妃・皇太子を引き連れて北方へ逃れた。日を跨いで、徐達は斉化門に布陣し、濠を埋めて城壁を登った。監国淮王帖木児不花(テムルブカ)、左丞相慶童(チントン)、平章政事迭児必失(デルビシュ)・朴賽因不花〔二〕(朴サインブカ)、右丞張康伯、御史中丞満川(マンチュアン)らは降伏を潔しとしなかったので、これを斬殺したが、彼ら以外には一人も殺害しなかった。府庫を封印し、図書・宝物を記録し、指揮使張勝〔三〕に命じて兵千人を率いて宮殿の門を守らせ、宦者には宮人・妃・公主の護衛を兼ねて監視させ、兵卒による掠奪暴行を禁じた。官吏も民衆も安心して居住を続け、市場では安易に狼藉を働くことなど出来なかった。
 勝報が届くと、詔を下して元朝の都を北平府とし、六衛を置き、孫興祖らをこれに留守せしめ、徐達と常遇春には進撃して山西を奪取するよう命じた。常遇春はまず保定路・中山府・真定路を陥落させ、馮勝・湯和は懐慶路を陥落させ、太行山を越え、沢州・潞州を奪取したので、徐達は大軍を率いて後続した。当時、拡廓帖木児は軍を率いて雁門関に出撃し、居庸関を経由して北平府を攻撃しようとしていた。徐達はこれを察知すると、諸将と共に方策を練った。「拡廓帖木児が遠方に出征しているのであれば、太原は必ずがら空きである。北平府には孫都督が居るのだから、防御は事足りる。今、敵の不備に付け込んで、太原を直撃すれば、前進しても戦うことは出来ず、退いても守る所は無い、これを批亢擣虚(※2)の計と言うのだ。奴が西へ転進して自ら救援に戻ろうとするのであれば、これを捕らえてやるだけのことだ。」諸将は口を揃えて言った。「良いでしょう。」そこで軍を率いて太原へ向かった。拡廓帖木児は保安県に差し掛かったところで、果たして太原を救援する為に引き返すことにした。徐達は精兵を選抜してその陣営に夜襲を敢行した。拡廓帖木児は僅か十八騎を連れて遁走した。その軍は悉くが降伏し、遂に太原に勝利した。勝勢に乗じて大同路を掌中に収め、軍を分けて未だに降伏しない州県を従えた。こうして山西は悉く平定された。
 (洪武)二年に軍を率いて西進し黄河を渡った。鹿台に到達すると、張思道は遁走したので、遂に奉元路に勝利した。当時、常遇春は鳳翔府を陥落させ、李思斉は臨洮府に逃れていたので、徐達は諸将を一堂に会して次に向かうべき所を協議した。皆が言った。「張思道の才幹は李思斉ほどではありません、しかも慶陽府は臨洮府よりも攻め易いですから、まずは慶陽府を攻略致しましょう。」徐達は言った。「そうではない、慶陽城は堅固で兵も精鋭であるから、俄かに易々と攻め取ることが出来るものでは無い。臨洮府の北側は黄河・湟水に接し、西側には羌・戎族が控えている。これを得ることが出来れば、その人員で戦闘に備え、物資は軍糧の助けとなろう。大軍を以て圧迫すれば、李思斉は逃げることも出来ず、もはや手を束ねて縄に就くのみ。臨洮府に勝利すれば、隣郡などどうとでもなろう。」遂に隴山を越え、秦州に勝利し、伏羌県・寧遠県を陥落させ、鞏昌府に入ったので、右副将軍馮勝を派遣して臨洮府に迫らせたところ、果たして李思斉は戦わずして降伏した。軍を分けて蘭州に勝利し、豫王を襲撃して敗走させ、その部曲・輜重の悉くを接収した。帰還して蕭関に出撃し、平涼を陥落させた。張思道は寧夏府路に落ち延び、拡廓帖木児の捕らわれるところとなり、その弟の張良臣は慶陽府を以て降伏した。徐達は薛顕を派遣してこれを受け入れた。ところが張良臣は再び叛き、夜陰に乗じて薛顕を襲撃し手傷を負わせた。徐達は軍を率いてこれを包囲した。拡廓帖木児は部将を派遣して来援したが、反撃に遭って敗走し、遂に慶陽府は陥落した。張良臣親子は井戸に身を投げたが、すぐに引き上げられて斬殺された。こうして陝西の地は悉く平定された。徐達に詔を下して軍を帰還させ、手厚く白金・文綺を賜った。
 功績を評価して大々的に封爵を行おうとした矢先、偶々拡廓帖木児が蘭州を攻撃し、指揮使を殺害し(※3)、副将軍常遇春は既に没していたので、(洪武)三年の春に洪武帝は再び徐達を大将軍として、平章政事李文忠を副将軍とし、経路を分けて出兵させた。徐達は潼関より西進し、定西州を突き、拡廓帖木児を捕捉しようとした。李文忠は居庸関より東進し、沙漠地帯を踏破して、元朝の後継者を追走した。徐達が定西州〔四〕に到達すると、拡廓帖木児は沈児峪に退いたので、進軍してこれに迫った。地溝を隔てて砦を築き、一日に何度も交戦した。拡廓帖木児は精兵を派遣して間道より東南の砦を急襲した為に、左丞胡徳済が突然のことに呆然自失し、軍は恐慌状態に陥ったので、徐達は兵を率いて反撃しこれを退けた。胡徳済は胡大海の子であり、徐達は功臣の子息であることを理由に、これを拘束して京師に送還し、その下にあった指揮使ら数人を斬首して見せしめとした。翌日、軍列を整えて地溝を奪い、決死の戦いを繰り広げ、大いに拡廓帖木児の兵を打ち破った。郯王・文済王〔五〕及び国公・平章政事以下文武官属千八百六十人余り、将兵八万四千五百人余りを捕らえ、接収した馬・駱駝・雑畜の類は統計できない程であった。拡廓帖木児は僅かに妻子数人だけを連れて和林(カラコルム)に遁走した。胡徳済が京師に到着すると、洪武帝はこれを釈放し、書状を送って徐達を諭した。「将軍は衛青が蘇建を斬らなかったという故事(※4)を知るのみで、穰苴の荘賈に対する処遇(※5)に思いを致すことは出来なかったのか?将軍がこれを誅殺すれば、それまでのことではないか。今、朝廷で討議させているところではあるが、我はその信州路・諸曁州での功績を考えると、誅殺とするには忍びない。従って今より、将軍においては一時凌ぎの策を弄することの無い様にせよ。」
 徐達は既に拡廓帖木児を破り、徽州南方の一百八渡より略陽県に到達し、沔州に勝利し、連雲桟に入り、興元路を攻撃し、これを奪取した。一方、副将軍李文忠もまた応昌路に勝利し、元朝の嫡孫や妃・公主・将軍・丞相を捕らえた。勝報がほぼ同時に届くと、詔を下して整然と京師に帰還させた。洪武帝は竜江に出迎えて労った。そして詔を下して大々的に功臣を封爵し、徐達には開国輔運推誠宣力武臣、特進光禄大夫・左柱国・太傅・中書右丞相参軍国事を授け、魏国公に改封し、食禄五千石とし、世券を与えた。翌年に盛熙らを伴って北平府に赴き軍馬を操練し、城郭を修築し、燕山以北の軍民を周辺の諸衛府に振り分け、二百五十四ヶ所の屯田を設置し、千三百頃余りの田地を開墾した。その年の冬に召還された。
 (洪武)五年に再び大軍を発して拡廓帖木児を討伐した。徐達は征虜大将軍として中路を進み、左副将軍李文忠は東路を進み、征西将軍馮勝は西路を進み、それぞれ五万騎を率いて塞外へ出撃した。徐達は都督藍玉を派遣して土剌河(トゥール河)の戦いで拡廓帖木児を破った。拡廓帖木児と賀宗哲は軍を合流させて全力で抗戦したので、徐達は不利な戦闘を強いられ、死者は数万人に達した。洪武帝は徐達の功績の大なることを鑑み、不問とした。同じ頃、李文忠の軍もまた苦戦を強いられ、撤退した。ただ馮勝だけが西涼州に到達して全戦全勝したが、接収した駱駝を隠匿した罪により、表彰されなかったことについては、李文忠伝・馮勝伝に詳しい。翌年、徐達は再び諸将を率いて辺境に赴き、答剌海(トラハイ)の戦いで敵を破り、帰還して北平府に駐留し、留まること三年にして帰京した。(洪武)十四年、再び湯和らを率いて乃児不花(ナイルブカ)を討伐した。出征を終えると、再び鎮に帰還した。
 毎年の様に春先に出陣し、冬の終わりには召還されることが常となった。帰還すると将軍の印綬を返却し、休暇を賜り、宴を設ければ共に喜んで酒を飲み、さながら市井の兄弟の様に振る舞うこともあったが、徐達は徐々に恭しく慎むようになっていった。かつて洪武帝は落ち着き払って言ったことがある。「徐兄さんの功績は大きいのに、まだこんな所に住んでいるなんて、旧邸をあげるとしよう。」旧邸とは、太祖が呉王であった頃の邸宅である。徐達は固辞した。ある日、洪武帝が徐達と屋敷で痛飲して泥酔し、しかも覆い被さって、一緒に倒れて寝てしまったことがある。徐達は目が覚めると、驚いて下段に降り、平伏して死罪を請うた。洪武帝はこれを見て面白がった。そこで役人に命じて旧邸を立派な邸宅に改築させ、その表札に「大功」の二字を掲げさせた。胡惟庸が丞相になると、徐達に取り入ろうとしたが、徐達はその人柄を見下していたので、反応は思わしくなく、そこで徐達の門番である福寿に賄賂を贈って便宜を図ってもらおうとした。福寿はこれを報告し、徐達は問題にしなかったが、しばしば洪武帝に対して胡惟庸が丞相の任に相応しくないと言う様になった。果たして後に胡惟庸は粛清され、洪武帝は更に徐達を重用した。(洪武)十七年、太陰が上将を覆い隠したので(※6)、洪武帝は心中穏やかでは無かった。徐達は北平府にあって背中に腫瘍を患い、やや平復したので、洪武帝は徐達の長男である徐輝祖を派遣して勅をもたらして労い、次いで召還させた。翌年二月、病状が悪化し、遂に没した。五十四歳であった。洪武帝は政務を顧みず、葬儀に際しては悲嘆して止むことは無かった。中山王に追封され、武寧と諡され、三代まで王爵を贈られた。鍾山の北側に埋葬され、神道碑文を建立された。太廟に祀られ、功臣廟には肖像が奉られ、その位はいずれも第一等とされた。
 徐達は簡潔かつ正確な発言を心掛けた。軍中にあっては、同じ命令は二度も発令しなかった。諸将は凛然として指示に従い、洪武帝の面前では恭しく謹んで妄りに言葉を発することは無かった。よく慰撫し、下位の者と苦楽を共にしたので、軍中に恩義を感じない者や死を恐れる者は居らず、故に向かう所は必ず勝利を収めた。最も厳格に軍を治め、平定した大都市は二つ、省治は三つ、郡邑は百を数え、村々は平安として、民衆が軍に悩まされることは無かった。帰朝の日には、車を舎に就け、儒生をもてなし、一日中談義に耽り、ゆったりと落ち着いて過ごした。嘗て洪武帝はこれを賞賛して言ったことがある。「命を受けて出征すれば、成功して帰って来る、自らを顕示せず自らの為に虚言を弄さない、婦女を好まない、財宝を取ることをしない、公正にして無疵、日月の様に隈なく明らかであるのは、ただ大将軍一人だけである。」
 男子は徐輝祖・徐添福・徐膺緒・徐増寿の四人が居た。長女は文皇帝后となり、次女は代王妃となり、三女は安王妃となった。

(徐輝祖付伝に続く)
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by su_shan | 2016-08-10 06:03 | 『明史』列伝第十三