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by すーさん

カテゴリ:『明史』列伝第十( 3 )

列伝第十 目次

郭子興 韓林児

 論賛、元朝末期、群雄が蜂起した。郭子興は濠州に割拠したが、地盤は偏在し勢力は弱体であった。しかるに明朝の覇業の基礎は、実に滁陽への征途に始まる。郭子興を王に封じて廟堂に祀り、長らく養い報いたのは、真に理由のあることなのである。韓林児は広く中原に割拠し、兵を欲しいままにして蹂躙し、浙江・両淮の地を十数年にわたって覆い遮った。太祖(朱元璋)が従容として創業することが出来たのは、その力を借りたからである。帝王の勃興には、必ず先駆者があり、これを活用してその覇業を成就させるものであるから、決して偶然の産物などでは無いのである。
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by su_shan | 2016-08-17 12:49 | 『明史』列伝第十

郭子興

『明史』巻一百二十二、列伝第十

 郭子興、その祖先は曹州の人である。父の郭公は若い頃に占い師として定遠県に周遊し、禍福を言い当てていた。村の資産家に盲目の娘が居たが嫁ぐ先が無かったので、郭公はこれを娶ったところ、家は日を追う毎に豊かになっていった。三人の子が生まれ、郭子興はその次男であった。生まれた時、郭公がこれを占ったところ吉と出た。成長するに及んで、任侠を好み、よく賓客をもてなした。たまたま元朝の政治が混乱すると、郭子興は家財を投げ打ち、牛を屠って酒を注ぎ、壮士と結託した。至正十二年の春、若者数千人を集め、濠州を襲撃して占拠した。太祖(朱元璋)は駆け付けて来てこれに従おうとした。ところが門番は間諜ではないかと疑い、捕らえて郭子興に報告した。郭子興は太祖の容貌を見て只者では無いと思い、縄を解いて語らい、幕下に収め、十夫長にしたところ、しばしば戦闘に参加して功績を挙げた。郭子興は喜び、その二人目の妻である小張夫人もまた太祖を指さして言った。「この人は普通では無い。」そこで養育していた馬公の娘を娶らせたのであるが、これが後の孝慈高皇后である。
 当初、郭子興と共に挙兵した者には孫徳崖ら四人の有力者がおり、郭子興を入れると五人となって、それぞれが元帥を自称して互いに下風に立とうとはしなかった。四人は粗野にして痴愚であり、毎日の様に強盗掠奪を働いたので、郭子興は内心これを軽蔑していた。四人の方でも面白くなく、共謀して郭子興を失脚させようとした。郭子興は殆ど家に居て事に当たることが無かった。太祖は隙を見て説得して言った。「連中が更に結託すれば、我々は更に離間され、しばらくすると必ずや制圧されてしまうでしょう。」郭子興は従うことが出来なかった。
 元軍が徐州を破ると、徐州の将帥である彭大・趙均用が残兵を率いて濠州へ逃れて来た。孫徳崖らは彼らが盗賊の首魁として有名であったので、共にこれを推戴して、自分達の上位に置こうとした。彭大は智略に優れていたので、郭子興と互いに厚遇し合う一方で趙均用に対しては冷遇した。ここに至って孫徳崖らは趙均用に誹った。「郭子興は彭将軍があることを知っているだけで、将軍があることをまるで分かっておりませんぞ。」趙均用は怒り、間隙に乗じて郭子興を捕らえ、孫徳崖の家に幽閉した。太祖が他の部曲から帰って来ると、驚愕して、急いで郭子興の二人の息子を連れて彭大に訴えた。彭大は言った。「我がおるからには、父君を俎上の魚肉にはさせん。」太祖と共に孫徳崖の家に押し入ると、檻を破壊して郭子興を救出し、これを抱えて帰ったのである。元軍が濠州を包囲すると、前からの因縁を捨て、共に五ヶ月もの間、城を守った。包囲が解けると、彭大・趙均用はいずれも王を自称したが、郭子興や孫徳崖らは本の元帥のままであった。間も無くして、彭大が没すると、子の彭早住がその兵を領有した。趙均用はますます粗暴になり、郭子興を脅迫して盱眙県・泗州を攻撃させ、これを死なせようとした。太祖は既に滁州を奪取していたが、人を送って趙均用を説得して言った。「大王が窮迫された時、郭公は門を開いて迎え入れられた程、その仁徳は非常に厚いではございませんか。大王は報いることが出来ず、却って小人の言葉を聞き入れてこれを謀り、自らの羽翼を捥ぎ、豪傑の心を離反させておられ、思うに大王はこの様にすべきではありません。更にその部曲は尚も多く、これを殺してしまっても何ら後悔する所が無いと仰るのでございますか。」趙均用は太祖の兵が非常に精強であることを聞くと、内心これを憚り、太祖はまた人を使ってその左右の側近を買収していたので、郭子興は離脱することが出来、その部曲一万人余りを引き連れて滁州の太祖に合流した。
 郭子興の為人は勇猛でよく戦い、気性は率直で容赦無かった。事態が急変した際には、太祖の謀略に従い、自らの両手の様に信頼した。事態が収束すると、讒言を信じて太祖を疎んじた。太祖の左右に仕えていた者は悉く召還して去らせ、太祖の兵権を剥奪してしまった。それでも太祖は郭子興に謹んで仕えた。将兵に献上された物品があれば、孝慈皇后が郭子興の妻に送り届けた。郭子興が滁州に到着すると、割拠して自らも王になろうと考えた。太祖は言った。「滁州は周り全てを山に囲まれ、水運にも商業にも不便で、終始安心出来るものではありません。」こうして郭子興は取り止めた。和州を奪取するに及んで、郭子興は太祖に諸将を統べて当地を鎮守するよう命じた。孫徳崖が飢餓に陥ると、和州との境に来て食糧を探し、城内に軍を留めて要求した。太祖はこれを受け入れた。郭子興に讒言する者が居た。郭子興が夜中に和州に到着したので、太祖が謁見に訪れたところ、郭子興は激怒して一言も語らなかった。太祖は言った。「嘗て孫徳崖は公に嫌がらせをしましたので、備えておきましょう。」郭子興は無言であった。孫徳崖は郭子興が来たことを聞き付けると、謀って退去する様に見せ掛けた。既に前衛は出発したが、孫徳崖は留まって後衛を指揮し、その軍は郭子興の軍と交戦し、多くの死者を出した。郭子興は孫徳崖を捕らえたが、太祖もまた孫徳崖の軍に捕らえられてしまった。郭子興がこの報告を受けると、驚愕して、徐達を太祖の身代わりに立たせ、孫徳崖を解放して帰らせた。孫徳崖の軍も太祖を解放し、徐達もまた脱出して戻って来ることが出来た。郭子興は孫徳崖を非常に憎んでおり、思い通りにしてやろうと思った矢先に、太祖の為に敢えてこれを解放したので、悶々として面白く無かった。間も無くして、病気になって没し、戻って滁州に埋葬した。
 郭子興には三人の男子があった。長男は以前に戦死していたので、郭天叙・郭天爵が跡を継いだ。郭子興が死ぬと、韓林児は檄を発して郭天叙を都元帥とし、張天祐と太祖にこれを補佐させた。張天祐とは、郭子興の妻の弟である。太祖が長江を渡ると、郭天叙・張天祐は兵を率いて集慶路を攻撃したが、陳野先(陳エセン)が叛いた為に、一緒に殺害されてしまった。韓林児はまた郭天爵を中書右丞とした。既に太祖は平章政事となっていた。郭天爵は下位に甘んじることに恨みを募らせ、しばらくして太祖を失脚させようと画策したが、露見して誅殺された為に、遂に郭子興の後嗣は途絶えてしまった。娘が一人おり、小張夫人の子であるが、太祖に仕えて恵妃となり、蜀王・谷王・代王の三王を生んだ。
 洪武三年に郭子興を滁陽王に封じ、官吏に詔を下して廟堂を建立させ、羊と豚を用いて祀り、またその隣家の宥氏は、代々王墓を守った。(洪武)十六年、太祖は自ら郭子興の事績を記し、太常丞張来儀に命じてその石碑に刻ませた。滁州の人で郭老舎という人物がおり、宣徳年間に滁陽王の末裔だと言って京師に赴き入朝した。弘治年間には、郭琥という人物が自身の四代前の郭老舎は滁陽王の第四子であり、冠帯を授かって奉祀したいと言った。早くも宥氏の告発する所となった。礼官は言った。「滁陽王の祀典については、太祖の定めたる所では、後嗣が無いということは廟碑に明確に刻まれておりますので、郭老舎は滁陽王の子ではございません。」こうして奉祀する資格を剥奪されたのであった。
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by su_shan | 2016-08-17 12:43 | 『明史』列伝第十

韓林児

『明史』巻一百二十二、列伝第十

 韓林児、欒城県の人、ある者は李氏の子であると言う。その祖先は白蓮会として焼香して民衆を惑わした為に、永年に配流された。元朝末期、韓林児の父である韓山童は妖言を吹聴して回った。「天下は大いに乱れようとしている、弥勒仏が下生なさるぞ。」河南・浙江・両淮の愚民の多くがこれを信じた。潁州の人劉福通はその徒党の杜遵道・羅文素・盛文郁らと共に言った。「韓山童殿は、宋の徽宗の八世孫であらせられるぞ、正に中国の主とするべし。」そうして白馬と黒牛を屠り、天地に誓いを立て、挙兵せんと企み、紅巾を旗印とした。至正十一年五月、事が露見すると、劉福通らは慌てて潁州に入城して叛いたが、韓山童は官憲に捕らわれ誅殺されてしまった。韓林児は母の楊氏と共に武安山中に落ち延びた。劉福通は朱皐を占拠し、羅山県・上蔡県・真陽県・確山県を破り、葉県・舞陽県を侵犯し、汝寧府・光州・息州を陥落させ、その衆は十数万に達し、元軍は防ぐことが出来なかった。時に徐寿輝らは蘄州路・黄州路に挙兵し、布王三・孟海馬らは湘・漢の地に挙兵し、芝麻李は豊県・沛県に挙兵し、そして郭子興もまた濠州を占拠してこれに呼応した。時に皆これを「紅軍」と呼び、また「香軍」と呼んだ。
 (至正)十五年二月、劉福通は韓林児を捜索し、これを碭山夾河に見出し、亳州に迎えると、皇帝を僭称させ、また小明王と呼び、宋を建国し、竜鳳と建元した。鹿邑県の太清宮の資材を流用して、亳州に宮廷を造営した。楊氏を奉って皇太后とし、杜遵道・盛文郁は丞相となり、劉福通・羅文素は平章政事となり、劉六は知枢密院事となった。劉六とは、劉福通の弟である。杜遵道は何かにつけて劉六を重用した。劉福通はこれを妬み、密かに兵士に命じて杜遵道を殴殺し、自らが丞相となって、太保を加官し、全権を劉福通に集約させた。既に元軍は太康県の戦いで劉福通を撃破し、進撃して亳州を包囲したので、劉福通は韓林児を伴って安豊路へ逃走した。間も無くして、再び軍勢を盛り返し、その一党を派遣して複数の経路から各地を攻略させた。
 (至正)十七年、李武・崔徳が商州を陥落させると、遂に武関を突破して関中を窺い、一方で毛貴は膠州・莱州・益都路・浜州を陥落させ、山東の郡邑の多くが降伏した。この年の六月、劉福通は軍勢を率いて汴梁路を攻撃し、さらに軍を三路に分け、関先生・破頭潘・馮長舅・沙劉二・王士誠は晋・冀の地に向かい、白不信・大刀敖・李喜喜は関中に向かい、毛貴は山東より北に侵攻した。その軍勢は非常に精悍であった。田豊という人物は、黄河を鎮守する元朝の義兵万戸であったが、叛いて劉福通に帰順し、済寧路を陥落させ、次いで敗走した。その年の秋、劉福通の兵は大名路を陥落させ、遂に曹州・濮州より衛輝路を陥落させた。白不信・大刀敖・李喜喜は興元路を陥落させ、遂に鳳翔府に侵入したが、しばしば察罕帖木児(チャガンテムル)・李思斉に撃破された為に、敗走して蜀の地へ向かった。
 (至正)十八年、田豊はまた東平路・済寧路・東昌路・益都路・広平路・順徳路を陥落させた。毛貴もまたしばしば元軍を破り、清州・滄州を陥落させ、長蘆鎮を占拠し、次いで済南路を陥落させ、増強した兵を引き連れて北進し、南皮県の戦いで宣慰使董搏霄を殺害し、薊州を陥落させ、漷州に侵攻し、柳林を攻略して大都に迫った。順帝は四方の兵を召集して防衛に当たらせると共に、その鋭鋒を避ける為に遷都することについて議論させた。大臣が諫言したので取り止めになった。毛貴は元軍に撃退された為に、帰還して済南路に割拠した。一方で劉福通は黄河の南北に出没を繰り返し、五月には汴梁路を攻め取り、守将竹貞は遁走したので、遂に韓林児を迎え入れて都としたのである。関先生・破頭潘らはまたその軍を二分し、一つは絳州に、もう一つは沁州に向かった。太行山を越え、遼州・潞州を破り、遂に冀寧路を陥落させ、保定路を攻撃したが勝利することは出来なかったものの、完州を陥落させ、大同路・興和路の塞外諸郡を掠奪し、上都路を陥落させるに至り、数々の宮殿を破壊して、転じて遼陽路を掠奪し、高麗に到達した。(至正)十九年に遼陽路を陥落させ、懿州路総管呂震を殺害した。順帝は上都路の宮殿が全て破壊されてしまった為に、これ以降は二度と北巡を実施することは無かった。李喜喜の残党はまた寧夏府路を陥落させ、霊武周辺の地を攻略した。
 当時は太平の世が長く続いていた為に、州郡の防備は皆無に等しかった。高官は賊軍の到来を聞くと、城を棄てて遁走したので、至る所で賊軍を粉砕する機会を失った。ところで韓林児は本来盗賊の出身で、大志など無く、また劉福通の指図に従ったので、ただの有名無実であった。諸将で外地にある者は約束を守ることなどせず、至る所で放火と掠奪を働き、食糧として老弱を食らい、さらにみな劉福通と昔からの同輩であった為に、劉福通ですらも制御することが出来なかった。軍勢は強力ではあったが、威令は行き届かなかった。しばしば城邑を攻め取っても、元軍もまたその後に奪還した為、守ることは出来なかった。ただ毛貴だけは僅かに智略を備えていた。済南路を破った際には、賓興院を建て、元朝の官僚であった姫宗周らを登用して諸路を鎮守させた。また莱州に於いて三百六十ヶ所もの屯田を開き、屯田毎に三十里を隔て、大型の荷車百両を作らせ、凡そ官田と民田は収穫の十分の二を徴収した。多くの施策を講じたので、三年もの間山東に割拠することが出来た。察罕帖木児はしばしば賊を破るに及んで、関中・隴西の地の悉くを奪還すると、この年の五月に秦・晋の軍を汴梁城下に大挙集結させて、杏花営に駐屯し、諸軍は城を取り囲んで堡塁を築いた。韓林児の兵は出撃したが敗北し、城を守ること百日余りにして、食糧は尽きようとしていた。劉福通は手の施しようが無いと考え、韓林児を伴い百騎を従えて東門より安豊路へ逃れた為に、後宮の属官や子女及び符璽印章財貨の類は悉く察罕帖木児に接収された。時に毛貴は既に一党の趙均用に殺害されていたが、続継祖という人物がおり、また趙均用を殺害した為に、その部曲同士で互いに攻撃し合った。ただ田豊だけが東平路に割拠し、勢力を強めていた。
 (至正)二十年、関先生らは大寧路を陥落させ、再び上都路に侵入した。田豊は保定路を陥落させたので、元朝は使者を派遣してこれを招聘しようとしたが、使者は殺害された。王士誠もまた晋・冀の地を蹂躙した。元朝の部将孛羅帖木児(ボロトテムル)はこれを台州の戦いで破ったので、遂に東平路に入って田豊と合流した。嘗て劉福通は李武・崔徳の敢闘精神の欠如を叱責し、これを処罰しようとしたことがあった。(至正)二十一年の夏、両名が離反し、李思斉に投降した。時に李喜喜・関先生らは東西に転戦していたが、既に部下の多くが逃走したり戦死しており、残党は高麗から戻って上都路を襲撃したが、孛羅帖木児は再び撃退してこれを降伏させた。一方で察罕帖木児は既に汴梁路を奪取し、子の拡廓帖木児(ココテムル)を派遣して東平路を討ち、田豊・王士誠を脅迫して降伏させ、勝勢に乗じて山東を平定した。ただ陳猱頭だけは、独り益都路を守って降伏せず、遠く劉福通と連携した。
 (至正)二十二年六月、田豊・王士誠は間隙に乗じて察罕帖木児を刺殺し、益都に入城した。元朝は拡廓帖木児に兵権を授け、城を幾重にも包囲したので、陳猱頭らは救援を求めた。劉福通は安豊路より兵を引き連れて援軍に赴いたが、火星埠に於いて元軍と遭遇し、大敗を喫して撤退した。元軍は益都を急襲し、坑道を掘って侵入を果たし、田豊・王士誠を殺害し、陳猱頭を拘束して京師に送致したので、韓林児の勢力は大きく削がれた。翌年、張士誠の部将呂珍が安豊路を包囲すると、韓林児は太祖(朱元璋)に救援を求めた。太祖は言った。「安豊路が破られれば、張士誠は更に強大になるではないか。」遂に自ら軍を率いて救援に赴いたが、既に呂珍は入城を果たして劉福通を殺害していた。太祖は呂珍を攻撃して敗走させ、韓林児を連れ帰り、滁州に行在させた。翌年、太祖は呉王となった。その二年後、韓林児は没した。異聞によると、太祖は廖永忠に命じて韓林児を応天府に迎え入れる途中、瓜歩に差し掛かったところで、船を転覆させて長江に沈めてしまったのだと言う。
 初め、太祖が和陽に駐屯していた時、郭子興が没すると、韓林児は郭子興の子である郭天叙を都元帥とし、張天祐を右副元帥とし、太祖を左副元帥とする旨を報せて来た。時に太祖は孤軍を率いて一城を保つのみであったが、韓林児が宋の後裔を自称すると、四方から呼応する者があったので、遂にその年号を用いて軍中に命令した。韓林児が没すると、初めてその翌年を呉元年としたのである。その年、大将軍(徐達)を派遣して中原を平定し、順帝は北帰したが、韓林児の死から僅か一年余りの出来事である。韓林児が帝号を僭称してから凡そ十二年であった。
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by su_shan | 2016-08-17 12:41 | 『明史』列伝第十