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by すーさん

<   2016年 07月 ( 13 )   > この月の画像一覧

張竜

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 張竜、濠州の人。長江渡河に従い、常州路・寧国路・婺州路の平定に功績を挙げた。江州路遠征に従軍した際は都先鋒を拝命した。武昌路を平定すると、花槍所千戸を授かった。淮東遠征に従軍し、海安を鎮守し、張士誠の部将と湾内に戦い、彭元帥を捕らえ、その兵卒数百人を捕虜にした。通州に進攻し、賊将を斬殺し、威武衛指揮僉事に抜擢された。山東・河南平定に従軍した。大軍を発して潼関に勝利すると、張竜を副留守に任命した。
 洪武三年に鳳翔府鎮守に派遣され、鳳翔衛指揮使に改められた。賀宗哲が全軍を率いて城を包囲したが、張竜は堅守した。賀宗哲は北門を攻撃したので、張竜は出撃して肉薄戦を敢行し、右脇に矢傷を受けたが、動じなかった。遂にこれを打ち破り、進撃して鳳州に勝利し、李参政らに二十数人を捕らえた。大将軍(徐達)が沔州に進攻すると、張竜に一軍を与えて派遣し、鳳翔府より連雲桟に向かい、興元路を攻撃し、その守将劉思忠を降伏させた。蜀(明昇)の部将呉友仁が侵攻すると、張竜はこれを迎撃して退けた。呉友仁はまた全軍を繰り出して城に迫り、攻城兵器を配備した。張竜は北門より突出して呉友仁の背後に回った為、敵軍は武器を捨てて敗走し、これ以降は再び興元路を窺うことは無かった。召還されて大都督府都督僉事となった。
 (洪武)十一年に李文忠を補佐して西番の洮州に遠征した。功績を評価され、鳳翔侯に封じられ、食禄二千石とされ、世襲指揮使となった。また傅友徳の雲南遠征に従軍し、七星関を鎮め、大理・鶴慶を破り、複数の洞蛮を平定し、五百石を加増され、世券を与えられた。(洪武)二十年に馮勝に従って金山に遠征し、納哈出(ナガチュ)を降伏させた。翌年、馮勝は降兵を雲南遠征に充てたが、常徳府に差し掛かったところで叛乱逃亡した。張竜は追撃して重慶府に到達し、収拾してこれを捕縛した。(洪武)二十三年の春に延安侯唐勝宗と共に平越・鎮遠・貴州に於ける屯田を監督し、竜里衛の設置を建言した。都匀の乱に際しては、藍玉を補佐してこれを討伐した。既に老齢であったことから致仕を求め、(洪武)三十年に没した。
 子の張麟は福清公主を娶り、駙馬都尉を授かった。孫の張傑は京師の公主に侍従した。永楽年間の初め、侯爵位を剥奪された。張傑の子の張嗣は、宣徳十年に恩詔による爵位継承を請願した。吏部は張竜の侯爵位を継ぐ者が四十年間なかったと主張し、承認されなかった。
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by su_shan | 2016-07-31 01:56 | 『明史』列伝第十八

仇成

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 仇成、含山県の人。当初従軍して万戸に充てられ、昇進を重ねて秦淮翼元帥府副元帥に至った。太祖(朱元璋)が安慶路を攻撃した際、敵は防御を固めて交戦しなかった。廖永忠・張志雄がその水寨を破ると、仇成は陸兵を率いてこれに乗じ、遂に安慶路を攻略した。当初、元朝の左丞余闕が安慶路を鎮守していたが、陳友諒の部将趙普勝がこれを陥落させた。陳友諒は早くも趙普勝を殺害したので、元帥余某が襲撃して当地を占拠した。張定辺が再び侵攻した為、余元帥は敗死した。ここで仇成は横海衛指揮同知となって当地を鎮守した。当時、左君弼は廬州路に割拠し、羅友賢は池州路に挙兵し、無為知州の董曽は殺害され、四方はすべて賊の領域であった。仇成は軍民を集めて慰撫し、防御を固めたことで、漢軍(陳友諒)は敢えて東進しようとしなかった。鄱陽湖の戦いに従軍し、涇江口の殲滅戦では最も功績を挙げた。平江路に遠征し、張士誠の兵を城の南西で破った。
 洪武三年、大都督府都督僉事となり、遼東を鎮守した。しばらくして、屯田等に成果が無かった為に永平衛指揮使〔一〕に降格されが、次いで元の官職に戻された。
 (洪武)十二年に藍玉らの西方遠征の功績によって封爵を検討された。洪武帝(朱元璋)は仇成の長らくの貢献を思い、まず安慶侯に封じ、歳禄二千石とした。(洪武)二十年に征南将軍に任命され、容美諸峒を討伐した。また大軍を発した雲南遠征に従軍し、多くの功績を挙げ、世券を与えられ、五百石を加増された。
 (洪武)二十一年七月に病気を発症した。酒を賜い、直筆の詔で見舞いを受けた。没すると皖国公を追贈され、荘襄と諡された。子の仇正が爵位を継いだ。

【校勘記】
〔一〕永平、もとは「永昌」であった。『太祖実録』巻七十六、洪武五年十一月壬申条・巻百九十二、洪武二十一年七月辛巳条は等しく「永平」としている。仇成が降格されたのが洪武五年であることを考えると、当時の雲南の永昌はなおも元朝の梁王の支配下にあって、永平衛は直隷永平府にあり、洪武三年正月丁巳に設置されたことが『太祖実録』巻四十八に見える。これらに基づいて「永平」に改めた。
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by su_shan | 2016-07-30 23:44 | 『明史』列伝第十八

韓政

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 韓政、睢州の人。一時は元朝の義兵元帥であったが、軍を率いて太祖(朱元璋)に帰順し、江淮行中書省平章政事を授かった。李済が濠州を占拠すると、名目上は張士誠の為に当地を鎮守したが、その実は形勢を窺っていた。太祖は右相国李善長に書状を用いて李済に帰順を呼び掛けさせたが、返答は無かった。太祖は悲嘆して言った。「濠州は我が家であるのに、李済があのように居座っておっては、我は国を得て家を失う様なもの、これで良いはずがあろうか!」そこで韓政に命じて指揮使顧時を率い雲梯・石弾を用いて四方より濠州を攻撃させた。李済は支えることができず、開城して投降した。韓政は李済を応天府へ護送した。太祖は非常に喜び、顧時を濠州鎮守とした。
 韓政は徐達に従って安豊路を攻め、その四門を封鎖し、密かに城東の竜尾壩より坑道を掘り、城に潜入すること二十余丈。城壁は崩壊し、遂に安豊路は打ち破られた。元朝の将帥の忻都(ヒンドゥ)・竹貞・左君弼はみな敗走した。追撃すること四十余里、忻都を捕らえた。俄かに竹貞〔一〕が兵を引き連れて増援に現れたので、南門付近で戦闘になり、これを再び破って敗走させた。淮東・淮西は悉く平定された。大軍に従って呉の地を平定すると、また北伐に従軍し、梁城守将の盧斌を降伏させ、兵を分けて黄河を抑え、山東の援軍を断ち、遂に益都路・済寧路・済南路を占領し、その全てに功績を挙げた。東平路での勝利に際しては最も功績が高く、山東行中書省平章政事に改められた。軍を率いて臨清県にて大将軍(徐達)と合流すると、韓政に檄を送って東昌路を鎮守させた。大都が陥落すると、韓政に命じて兵を分け広平路を鎮守させた。韓政は白土諸寨を帰順させた。彰徳路の鎮守に移り、蟻尖寨を降伏させた。蟻尖寨とは、林慮県の北西二十里にあり、元朝の右丞呉庸・王居義・小鎖児が占拠する所であった。大将軍(徐達)の北伐に際しては、将兵を派遣して諸山寨を奪回させたので、相次いで降伏する者が現れたが、蟻尖寨はただ天険を頼みとして投降しなかった。ここに至って兵が迫ると、呉庸は王居義及び小鎖児を誘い出し殺害して投降、兵卒一万余人を得た。次いで陝西遠征に任用され、軍を帰還させた後は河北を鎮守した。
 洪武三年に東平侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。山東の鎮守に移った。程無くして、再び河北に移った。流民を寄せ集め、彼らを元の生業に復帰させた。左副将軍李文忠に従って応昌を突き、臚朐河(ケルレン河)に到達した。李文忠は長駆進軍し、韓政に命じて輜重を守らせた。帰還すると、河南・陝西の巡視を命じられた。再び信国公湯和に従い臨清県にて練兵を実施した。(洪武)十一年二月に没し、洪武帝(朱元璋)は自らその喪に臨んだ。鄆国公を追封され、子の韓勲が跡を継いだ。(洪武)二十六年に藍玉の徒党に連座して誅殺され、爵位を剥奪された。

【校勘記】
〔一〕竹貞、「竹昌」とすべきであり、巻百二十五の校勘記〔一〕を参照されたい。『太祖実録』丙午四月辛未条は、徐達は安豊路を破り、「竹昌・左君弼はみな汴梁へ敗走した。日没の頃、元朝の平章政事竹貞が兵を引き連れて増援に現れたので、韓政らは再び南門の外に戦い、これを大いに破ったので、竹貞は遁走した。」としており、安豊路を鎮守していたのは竹昌で、増援に現れたのが竹貞であるから、本伝は誤って同一人としている。
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by su_shan | 2016-07-28 23:06 | 『明史』列伝第十八

華雲竜

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 華雲竜、定遠県の人。手勢を集めて韭山に篭っていたが、太祖(朱元璋)の挙兵に際して帰順した。滁州・和州攻略に従軍し、千夫長となった。長江渡河に従い、采石の水寨及び方山営を破り、集慶路を占領し、元朝の将帥を捕らえ、兵卒一万人を得た。鎮江路に勝利し、総管に遷った。広徳路を突破し、旧館に戦い、湯元帥を捕らえ、右副元帥に進んだ。竜江の戦いでは、華雲竜は石灰山に潜み、肉薄して相当数を殺傷した。華雲竜は馬を躍らせて大声で叫び、その中堅を突き、遂に陳友諒の兵を打ち破り、勝利に乗じて太平府を奪還した。九江・南昌路攻略に従軍し、兵を分けて瑞州路・臨江路・吉安路を占領した。安豊路救援に従軍し、彭蠡に戦い、武昌路を平定した。功績を評価されて豹韜衛指揮使に昇進した。徐達に従って兵を率いて高郵府を占領し、淮安路に勝利し、命を受けて当地を鎮守し、淮安衛指揮使に改められた。次いで嘉興路を攻め、呉の部将宋興を降伏させ、平江路を包囲し、胥門に布陣した。大軍の北伐に従い、山東の郡県を従え、徐達と通州に軍を会し、進撃して大都を占領した。大都督府都督僉事に抜擢され、六衛の兵を統率して鎮守すると共に北平行中書省参知政事を兼任した。年を越えて、雲州を攻略し、平章政事火児忽答(コルクタ)・右丞哈海(ハハイ)を捕らえ、都督同知に昇進し、燕王府左相を兼任した。
 洪武三年の冬、功績を評価されて淮安侯に封じられ、食禄一千五百石とされ、世券を与えられた。華雲竜の報告には次の様にある。「北平府の辺境にあっては、東方は永平府・薊州から西方は灰嶺の麓に至るまで、狭隘の地は一百二十一ヶ所、二千二百里にわたって続いております。また王平口から官座嶺に至るまで、狭隘の地は九ヶ所、五百余里にわたって続いております。いずれも要衝でありますから、兵を置かなくてはなりません。紫荊関及び蘆花山の嶺は最大の要害でありますから、守御千戸所を設けなくてはなりません。」また次の様にも言った。「先に大軍を以て永平府に勝利しましたが、元々元朝の八翼であった兵卒千六百人を留めて屯田を行わせ、一人一月あたり食料五斗を支給しておりますが、収穫によって経費を賄っておりませんので、燕山諸衛に組み入れ、隊伍を補充して操練しなくてはなりません。」いずれの提案も採用された。辺境に沿って雲州に到達し、牙頭に宿営していた元朝の平章政事僧家奴を襲撃し、その幕舎に突入してこれを捕らえ、その集団の悉くを捕虜とした。上都の大石崖に到達し、劉学士の諸寨を占領し、驢児国公は沙漠の北方へと奔走した。これより後に長城以南を荒らす者はおらず、その名声は大いに高まった。燕邸の造営、北平城の築造も全て華雲竜の計画によるものである。
 洪武七年、華雲竜が元朝の丞相であった脱脱(トクト)の邸宅に居座り、元朝の宮中にあった遺物を私用しているとの訴えがあった。華雲竜は召還され、何文輝が代行を務めた。華雲竜は京師に到着することなく、その道中で没した。子の華中が跡を継いだ。李文忠の死に際して、華中が侍従して薬を勧めていたことから、連座して死罪となった。(洪武)二十三年に華中は胡惟庸の徒党であると追認され、爵位を剥奪された。
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by su_shan | 2016-07-28 14:41 | 『明史』列伝第十八

郭英

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 郭英、鞏昌侯郭興の弟。十八歳の時、郭興と共に太祖(朱元璋)に仕えた。信頼を得、幕中に侍衛することを命じられ、郭四と呼ばれた。滁州・和州・采石・太平路の攻略に従軍し、陳友諒を討伐し、鄱陽湖に戦い、その全てに功績を挙げた。武昌路遠征に従軍した折、陳氏の驍将陳同僉が槊を手に突入して来たので、太祖は郭英を呼んで殺し、その死体を戦袍で包んでやった。岳州路を攻撃し、その援軍を破り、軍を返して廬州路・襄陽路に勝利し、驍騎衛千戸を授かった。淮安路・濠州・安豊路を占領し、指揮僉事に昇進した。徐達の中原平定に従軍し、また常遇春の太原路攻略に従軍し、拡廓帖木児(ココテムル)を敗走させ、興州・大同路を降伏させた。沙浄州に到達して黄河を渡り、西安・鳳翔府・鞏昌府・慶陽府を占領し、賀宗哲を追撃して乱山に破り、本衛指揮副使に遷った。進軍して定西州を占領し、察罕脳児(チャガンノール)に遠征し、登寧州に勝利し、斬首すること二千人、河南都指揮使に昇進した。時に郭英の妹が寧妃となっており、郭英の赴任に際して、寧妃に命じて邸宅にて郭英に餞を贈り、白金二十罌・馬二十頭を賜った。任地に赴いてからは流民を集めてよく慰撫し、約束事を表明し、領域の治安を守った。(洪武)九年、北平府鎮守に移った。(洪武)十三年に召還され、前軍都督府都督僉事に昇進した。
 (洪武)十四年、潁川侯傅友徳の雲南遠征に従軍し、陳桓・胡海と共に兵を分けて複数路より赤水河路に侵攻した。長らく雨が降った為に、河は著しく増水していた。郭英は木を伐採して筏を造り、夜陰に乗じて渡河した。払暁、賊軍の陣営に到達した。賊は驚愕して潰走した。烏撒並びに阿容などの地を突いた。曲靖・陸涼・越州・関索嶺・椅子寨を攻撃して占領し、大理・金歯・広南を降伏させ、諸山寨を平定した。(洪武)十六年、また傅友徳に従って蒙化・鄧川を平定し、金沙を渡り、北勝・麗江を占領した。この間に斬首すること一万三千人余り、捕縛二千人余り、鹵獲した甲冑は数万組、船舶は千艘余りに達した。
 (洪武)十七年に雲南平定の功績を評価されて武定侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)十八年に靖海将軍を加官され、遼東を鎮守した。(洪武)二十年、大将軍馮勝に従って金山に出撃し、納哈出(ナハチュ)が降伏し、征虜右副将軍に昇進した。藍玉に従って捕魚児海(ブユル湖)に到達した。軍が帰還すると、手厚い褒賞を賜ったが、郷里に送って帰郷した。翌年、召し出されて入京し、禁衛兵の統括を命じられた。(洪武)三十年に征西将軍耿炳文を補佐して陝西辺境に備え、沔県の賊の高福興を平定した。帰還したところ、御史裴承祖が郭英は自宅に奴隷百五十数人を養い、また勝手に男女五人を殺害したと告発した。洪武帝(朱元璋)は不問に付した。僉都御史張春らが執拗に上奏を繰り返したので、複数の所管大臣に命じてその罪状を協議させた。結論が出され、最終的に罪を許された。
 建文帝の時代、耿炳文・李景隆に従い燕王朱棣を討伐したが、功績を立てられなかった。靖難戦役の後、官を辞して自宅に隠棲した。永楽元年に没した時、年齢は六十七歳であった。営国公を贈られ、威襄と諡された。
 郭英は親孝行で兄弟仲が良く、書史に通じ、軍中にあっては規律を保ち、謹んで太祖に忠節を尽くし側近に侍った。また寧妃の事例などその恩寵は最も厚かったので、他の功臣達で敢えて同じ待遇を望もうとする者は居なかった。
 男子は十二人いた。郭鎮は永嘉公主を娶った。郭銘は遼府典宝となった。郭鏞は中軍都督府右都督となった。娘は九人おり、うち二人は遼王朱植と郢王朱棟の妃となった。孫娘は仁宗の貴妃となり、彼女は郭銘の娘であったことから、郭銘の子の郭玹が侯爵位を継ぐことができた。宣徳年間、郭玹は署宗人府事となり、河間府の民間の田伏を奪い、また天津の屯田千畝を奪ったが、その家奴に罪を着せた為に郭玹は許された。英宗の初め、永嘉公主は子の郭珍に侯爵位を継がせるよう請願した。郭珍は郭英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事を授かった。郭玹が没すると、子の郭聡と郭珍が跡目を争ったので、遂にいずれにも継承させず、また郭聡には郭珍と同様の官位を授けた。天順元年、郭珍の子の郭昌は恩詔を得て跡を継いだので、郭聡はもはや争うことができなくなった。郭昌が没すると、子の郭良が跡を継ごうとしたが、郭良は郭昌の子ではないと郭聡が吹聴した為に、また継承を止め、指揮僉事を授かった。その後、しばしば継承を請願したので獄に下されたが、許されて官職に復帰した。既にこの頃、郭氏一族はみな郭英の子孫を一人選んで郭英の爵位を継がせるように請願していた。廷臣はみな郭良は元より郭英の嫡流であるから、侯爵位を継がせるべきだと言った。詔によって認められた。郭良は正徳年間の初めに没した。子の郭勛が跡を継いだ。

 郭勛は狡猾ではあるが智略に富み、書史に精通していた。正徳年間、両広地方を鎮守し、三千営を掌握した。世宗の初め、団営を掌握した。大礼の議が沸き起こると、郭勛は上意を酌んで張璁に同調した為、世宗は非常に気に入って偏愛した。郭勛は寵愛を恃みとして、非常に驕慢になった。大学士楊一清がこれを憎んだことにより、ある贈賄の事実が発覚した為、団営を解任され、継承した官位を剥奪された。楊一清が辞任すると、五軍営を総括し、近郊の開発を監督した。翌年、団営を統括した。(嘉靖)十八年、領後軍都督府事を兼任した。承天府行幸に扈従し、五世祖の郭英を太廟に祀る許しを求めた。廷臣はこぞって反対し、特に侍郎唐冑が最も強硬に抵抗した。嘉靖帝は反対を認めず、郭英は最終的に太廟に祀られることになった。その翌年、献皇は宗と称し、太廟に入り、郭勛は翊国公に進み、太師を加官された。
 これより以前、妖人李福達という者が自分は薬物から金銀を作ることができると触れ回っていた。郭勛と交遊を持った。李福達が失脚すると、処罰を強硬に主張した廷臣の多くが罪を着せられた。ここでまた方士段朝用を薦め、金銀を変化させて飲食器を作ったり、不死にできると言った。嘉靖帝は益々郭勛を忠義者と認めた。給事中戚賢は郭勛が職権を濫用し、暴利を貪って民衆を虐げている事などを弾劾した。李鳳来らもまた同様の発言を行った。案件を所管部署に回して調査させたところ、郭勛が京師に有する店舗は千ヶ所あまりに及んでいた。副都御史胡守中もまた親類の郭憲が東廠を掌握して無実の人を勝手に虐待していると郭勛を弾劾した。嘉靖帝は取り合わなかった。偶々嘉靖帝は司法官の提言を採用して郭勛に勅を下し、兵部尚書王廷相・遂安伯陳譓と共に軍役の監査をさせることにした。勅書が届いたが、郭勛は拝領しなかった。司法官はその権勢を笠に着て徒党を組んでいる様を弾劾した。郭勛が上疏した文章の中に、「何の必要があって殊更に勅を賜らねばならんのか」という言葉があった。嘉靖帝は激怒し、その傍若無人振りと臣下の礼節に悖る態度を責め立てた。ここで給事中高時が郭勛の不当に取得した利益の悉くを告発し、また張延齢と交流があったことにも言及した。嘉靖帝は更に激怒し、郭勛を錦衣獄に下した。(嘉靖)二十年九月のことである。
 次いで鎮撫司に諮問して如何なる刑罰に処すべきか尋ねた。上奏には郭勛を死罪にすべしとあった。嘉靖帝は司法部門に再調査を命じた。そこで給事中劉大直が郭勛の政治を乱した十二の罪状を調査し、重ねて処罰を要請した。司法部門は数々の報告書にある罪状の悉くを事実と認め、郭勛を絞死の罪にすべしとした。嘉靖帝は詳細に討議するよう命じた。司法部門は更に郭勛を不軌として斬死の罪とし、妻子と田地宅地は没収すべしとした。上奏は保留されて決断されなかった。嘉靖帝は尚も郭勛を助命しようと考え、しばしばその意思を示した。しかし廷臣の郭勛に対する憎悪は甚だしく、誤って意趣変えしない者は、更に郭勛に連座して死罪となった。翌年になると司法官が監察を受け、高時を二級降格させる特旨を発して廷臣を牽制した為、遂に廷臣は郭勛の処遇についての要請を取り止めた。その年の冬、郭勛は獄中で没した。嘉靖帝はこれを哀れみ、司法部門を問責して処分を行った。刑部尚書呉山は更迭され、侍郎や都御史以下の官は程度に応じて降格された上で、郭勛の籍没は免除され、僅かに誥券を剥奪されただけであった。
 明王朝の勃興以来、勲功の臣は政事に参与しなかった。ただ郭勛は恩寵を盾に朝廷を専横し、邪心の趣くままに振る舞って失脚した。郭勛の死から数年後、その子の郭守乾が侯爵位を継ぎ、曽孫の郭培民まで継承させたが、崇禎末年に流賊の殺害する所となった。
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by su_shan | 2016-07-28 12:15 | 『明史』列伝第十八

耿炳文

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 耿炳文、濠州の人。父の耿君用は太祖(朱元璋)の長江渡河に従い、功績を評価されて管軍総管となった。宜興州を救援した折、張士誠の兵と陣営を争って戦死した。耿炳文が職位を継ぎ、その軍を受領した。広徳路を占領し、長興州に進攻し、張士誠の部将趙打虎を破り、軍船三百艘余りを鹵獲し、守将李福安らを捕らえ、遂に長興州に勝利した。長興州は太湖口に位置し、陸路は広徳路に通じ、宣城・歙県と領域を接する、江浙の門戸であった。太祖は早くもその地を獲得したので非常に喜び、長安州と改称し、永興翼元帥府を設立し、耿炳文を総兵都元帥として当地を鎮守させた。温祥卿という者がおり、智略に富み、戦乱を避けて帰順したので、耿炳文は幕府に引き入れ、あらゆる防御策を立案させた。張士誠の左丞潘元明・元帥厳再興が軍を率いて来襲した。耿炳文は奮戦して大いに打ち破った。しばらくして、張士誠はまた十万の軍を率いる司徒李伯昇を派遣し、水陸同時に侵攻させた。城内の兵は七千人しか居なかった為、太祖はこれを憂慮して陳徳・華高・費聚に命じて救援させた。李伯昇はその陣営を夜襲したので、諸将はみな潰走した。耿炳文は城の固守に徹し、急襲があれば対応して防御に回り、武装を解かない日が一ヶ月余りも続いた。常遇春が援軍を率いて現れると、李伯昇は陣営を放棄して遁走したので、追撃して五千人余りを斬殺した。翌年、永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司に改め、耿炳文を指揮使とした。この時既に張士誠は大軍を発し、弟の張士信を派遣して再び来襲した。耿炳文は再びこれを破り、その元帥宋興祖を捕らえた。張士信は憤激し、兵を増強して城を包囲した。耿炳文は費聚と共に出撃し、またこれを大いに打ち破った。長興州は必ず張士誠と係争する地であり、耿炳文は当地を堅守することおよそ十年、寡兵を以て大軍を防ぎ、大小数十戦の内、戦って勝利しなかったことは無く、張士誠の目論見を挫き続けた。張士誠討伐の大軍が出征すると、耿炳文は部曲を率いて湖州路を占領し、平江路を包囲した。呉の地が平定されると、大都督府都督僉事に昇進した。
 中原遠征に従軍し、山東の沂州・嶧州といった諸州に勝利し、汴梁路を降伏させ、河南を従わせ、北方巡幸に扈従した。また常遇春の大同路攻略に従軍し、晋・冀の地に勝利した。大将軍徐達に従って陝西に遠征し、李思斉・張思道を敗走させ、当地を鎮守した。涇陽県の洪渠を十万丈余りにわたって浚渫したので、民衆はその業績に感謝した。次いで秦王左相兼大都督府都督僉事を拝命した。
 洪武三年、長興侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)十四年に大将軍(徐達)の塞外遠征に従軍し、元朝の平章政事乃児不花(ナイルブハ)を北黄河の戦いで破った。(洪武)十九年に潁国公傅友徳の雲南遠征に従軍し、曲靖蛮を討伐した。(洪武)二十一年に永昌侯藍玉の北征に従軍し、捕魚児海(ブユル湖)に到達した。(洪武)二十五年に兵を率いて陝西徽州の妖人の乱を鎮圧した。(洪武)三十年、征西将軍として蜀の高福興という賊を捕らえ、三千人を捕虜とした。
 初め、耿炳文は長興州を鎮守した功績が最も高く評価され、太祖が功臣を序列した折には、耿炳文を大将軍徐達に並ぶ一等の地位に置いた。洪武末年に及んで、諸公・侯のほとんどが消え去り、残っている者はただ耿炳文と武定侯郭英の二人だけであり、特に耿炳文は勲功の宿将であったので、朝廷の重鎮となった。
 建文元年、燕王朱棣が挙兵すると、建文帝(朱允炆)は耿炳文を大将軍に任命し、副将軍李堅・甯忠を率いて北伐させたが、この時六十五歳になっていた。兵力は三十万人を号したが、実際に集結したのは十三万人であった。八月に真定府に差し掛かり、滹沱河の南北に布陣した。都督徐凱は河間府に、潘忠・楊松は鄚州に、その先鋒九千人は雄県に駐留した。中秋になった頃、防御に不備があった為に、燕王朱棣の襲撃を受け、九千人が全滅した。潘忠らが救援に駆け付けたが、月漾橋を通過した所で水中より伏兵が現れた。潘忠・楊松の両名が捕らわれたが、帰順を拒んだので殺害され、鄚州は陥落した。しかも耿炳文の部将であった張保という人物が燕王に投降したことで、南軍の内情が筒抜けになってしまった。燕王は張保を解放して帰らせ、雄県・鄚州での敗戦の状況と、北軍が間も無く侵攻して来るということを吹聴させた。こうして耿炳文の軍は全て渡河を終え、総力を挙げて敵に当たることになった。軍が移動を始めると、急進してきた燕王軍と接触したので、城の周囲で戦闘が行われた。耿炳文の軍は戦列を維持できず、敗北して城に逃げ込んだ。城門付近が戦場となったので、城門を閉塞した為に、殺到して踏み付けられ死亡した者は数え切れない程に多かった。燕王軍は遂に城を包囲した。耿炳文は依然として十万人を擁していたが、城を堅守して出撃しなかった。燕王は耿炳文が経験豊富な老将であることを知っていたので、易々と陥落させることはできないと考え、三日経ってから包囲を解いて後退した。一方で建文帝は耿炳文の敗北を知ると非常に憂慮した。太常卿の黄子澄は李景隆を大将軍にするよう薦め、側近であることを利用して耿炳文を更迭した。この決定が前線に届いた時、燕王軍は既に一日早く立ち去っていた。耿炳文は帰還し、李景隆が大将軍を交代したが、最終的に敗北した。燕王が皇帝を称した翌年〔一〕、刑部尚書鄭賜・都御史陳瑛は耿炳文が衣服や食器に竜鳳の飾りを誂え、玉帯に紅の腰帯を用いて、不道の罪を犯していると告発した。耿炳文は恐懼して自殺した。

 子の耿璿は前軍都督府都督僉事となり、懿文太子朱標の長女の江都公主を娶った。耿炳文の北伐に際して、耿璿は北平府を直撃するよう進言した。耿炳文の更迭後、再び進言したがこれも承認されず、耿璿は非常に憤慨した。永楽年間の初め、門を閉ざして病気と称したが、罪に連座して処刑された。耿璿の弟の耿巘は後軍都督府都督僉事となり、江陰侯呉高・都指揮使楊文と共に、遼東の軍を率いて永平府を包囲したが、攻略できず、後退して山海関を保持した。呉高は離間されて広西に移された。楊文は遼東を守ったが、耿巘はしばしば永平府を攻撃して北平府を圧迫するよう要請したにも関わらず、楊文は聞き入れなかった。後に弟の尚宝司卿の耿瑄と共に、いずれも罪に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕翌年は永楽元年にあたる。本書巻六、世祖本紀・巻百五、功臣世表はいずれも永楽「二年」としている。
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by su_shan | 2016-07-26 12:31 | 『明史』列伝第十八

丁徳興

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 丁徳興、定遠県の人。濠州に於いて太祖(朱元璋)に帰順した。その容貌が立派であったことから、「黒丁」と呼ばれた。洪山寨攻略に従軍し、百騎を率いて賊数千人を破り、その悉くを降伏させた。滁州・和州攻略に従軍し、青山の盗賊を破った。長江渡河に従い、采石を突破し、太平路を占領し、兵を分けて溧水州・溧陽州を攻略し、その全てで最初に城壁を登った。蛮子海牙(マンジハイヤ)の水寨を破るのに従い、方山営を突き、陳兆先を捕らえ、集慶路を降伏させ、鎮江路を攻略し、功績を評価され管軍総管に昇進した。金壇県・広徳路・寧国路を降伏させ、左翼元帥に抜擢された。寧国路が叛くと、胡大海に従って奪還した。兵を分けて江陰州を降伏させ、徽州路・石埭県・樅陽を攻略し、江州路を攻め、兵を移して安慶路を撃ち、向かう所全てに勝利した。また江陰州を救援し、江西近隣の州県を攻略し、双刀趙を攻め、その鋭鋒を挫いた。時に徐達・邵栄が宜興州を攻めたが長らく占領できなかったので、太祖は使者を派遣して言った。「宜興州城の太湖口に通じる経路の西方に位置し、それが張士誠の糧道となっているので、その経路を断てば必ず破れよう。」徐達は丁徳興を派遣して太湖口を封鎖し、次いで合流して急襲し、城は遂に陥落し、功績を評価されて鳳翔衛指揮使を授かった。
 陳友諒が竜江に侵入すると、丁徳興は石灰山に布陣し、奮戦してこれを撃退した。陳友諒征伐に従軍し、安慶路を突き、九江を占領し、安豊路を救援し、呂珍を破り、左君弼を敗走させた。鄱陽湖の戦いに従軍し、武昌路を平定し、廬州路を占領し、湖南衡州路の諸郡を攻略した。また大将軍(徐達)に従い淮東を手中に収め、浙西に遠征し、旧館の戦いで張士誠を破り、湖州路を降伏させ、平江路を包囲した。その軍中で没し、都指揮使を贈られた。洪武元年に済国公を追封され、功臣廟に列祀された。子の丁忠は竜江衛指揮使として世券を与えられた。
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by su_shan | 2016-07-25 21:24 | 『明史』列伝第十八

康茂才

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 康茂才、字を寿卿、蘄州の人。経史の大略に通じていた。よく母親に孝行した。元朝末期の戦乱で蘄州が陥落すると、義兵を結集して郷里を守った。功績を挙げ、長官より淮西宣慰司都元帥に昇進した。
 太祖(朱元璋)は既に長江を渡河したが、将兵の家族を和州に留めていた。時に康茂才は采石の守備に移っており、渡河を妨害した。太祖は兵を送ってしばしばこれを攻撃したが、康茂才は堅守した。常遇春が伏兵を用いてその精鋭を殲滅した。康茂才はまた天寧洲に砦を築いたが、再度破られ、集慶路に遁走した。太祖が集慶路を攻略すると、麾下の部曲を率いて降伏した。太祖は彼を赦し、もとの部曲を率いて従軍するよう命じた。翌年、秦淮翼水軍元帥を授かり、竜湾を鎮守した。江陰州の馬馱沙を占領し、張士誠の兵を破り、その楼船を鹵獲した。廖永安に従って池州路を攻め、樅陽を占領した。太祖は兵事によって民が農作業できないので、康茂才を都水営田使に任命し、帳前総制親兵左副指揮使を兼任させた。
 陳友諒が太平府を陥落させると、張士誠と共謀して応天府の挟撃を画策した。太祖はその侵攻を速めて、これを打ち破ろうとした。康茂才と陳友諒が知己の間柄であることが分かると、召使に書状を持たせて派遣するよう命じ、内通を偽装させた。陳友諒は非常に喜び、康茂才の所在を質問した。康茂才は答えた。「江東木橋を守っている。」使者が帰ると、太祖は橋を石造りに変えてしまった。陳友諒が到着すると、橋を見て愕然とし、「老康!」と連呼したが、答える声は無かったので、竜湾まで後退した。すると四方から伏兵が襲い掛かり、康茂才は諸将と共に猛撃を加え、大いに打ち破った。太祖は康茂才の功績を賞賛し、手厚く恩賞を賜った。翌年、太祖は陳友諒を親征し、康茂才は水軍を率いて安慶路攻略に従軍し、江州路を破り、陳友諒は西方へ遁走した。遂に蘄州・興国県・漢陽県を占領し、流れに沿って黄梅寨に勝利し、瑞昌県を奪取し、陳友諒麾下の八人の指揮使を破り、兵卒二万人を降伏させた。帳前親兵副都指揮使に遷った。左君弼を廬州路に攻めたが、占領はできなかった。南昌府救援に従軍し、彭蠡湖(鄱陽湖)に戦い、陳友諒を敗死させ、武昌路遠征に従軍し、その全てに功績を挙げた。金吾侍衛親軍都護に昇進した。大将軍徐達に従い再び廬州路を攻めてこれを占領し、江陵県及び湖南の諸路を攻略した。神武衛指揮使に改められ、大都督府副使に昇進した。
 張士誠が江陰州を攻めると、太祖は自ら迎え撃とうとした。鎮江府に至るに及んで、張士誠は既に瓜洲を焼き払って遁走していた。康茂才は追撃して北進し浮子門に至った。呉軍は海口を遮り、潮位に乗じて肉薄した。康茂才は奮戦し、これを大いに打ち破った。淮安路の馬騾港を攻撃し、その水寨を突破し、淮安路を平定した。次いで湖州路を突破し、平江路へ迫った。張士誠は精鋭を派遣して迎え撃ち、両軍は尹山橋で激突した。康茂才は巨大な戟を持って督戦し、敵軍を覆滅させた。諸将と共にその城を包囲し、斉門に布陣した。平江路が陥落すると、軍を還して無錫州を占領した。同知大都督府事兼太子右率府使に遷った。
 洪武元年、大将軍(徐達)に従って中原を攻略し、汴梁路・洛陽県を占領、陝州に留まって守備した。絶えず軍糧を運搬し、浮橋を造って軍を渡河させ、絳州・解州といった諸州を帰順させ、潼関を抑え、秦地方の敵軍を東進させることは無かった。康茂才はよく民衆を労わったので、民衆は石碑を建立してその人徳を称えた。(洪武)三年〔一〕、再び大将軍(徐達)に従って定西州に遠征し、興元路を占領した。その帰還の途上で没した。蘄国公を追封され、武康と諡された。
 
 子の康鐸は、十歳にして皇太子の読書大本堂に入って仕え、父の功績によって蘄春侯に封じられ、食禄一千五百石とされ、世券を与えられた。民衆を監督して鳳陽を開墾した。兵を率いて辰州の蛮族を征伐し、施州・畳州といった諸州を平定した。大将軍徐達の北征に従軍した。また征南将軍傅友徳の雲南遠征に従軍し、普定路を占領し、華楚山の諸砦を破った。軍中で没した時、二十三歳であった。蘄国公を追封され、忠愍と諡された。子の康淵は幼少であったので後を継ぐことができず、散騎舎人を授かった。早くも事件に連座して衣冠を改められ山西に隠棲したので、遂に後を継ぐことはできなかった。弘治年間の末、康茂才の後裔を調査した折に世襲千戸となった。

【校勘記】
〔一〕三年、もとは「この年」となっており、これでは洪武元年を指すことになる。徐達の定西州遠征は洪武三年の出来事であるから、本書巻二、太祖本紀・巻百二十五、徐達伝・巻百二十六、李文忠伝及び『太祖実録』巻五十五、洪武三年八月己未条に基づいて改めた。
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by su_shan | 2016-07-25 01:13 | 『明史』列伝第十八

呉良

『明史』巻一百三十、列伝第十八

 呉良、定遠県の人。初めの名は呉国興と言い、呉良の名を賜った。逞しく剛直で、弟の呉禎と共に勇気と知略で評判を得た。太祖(朱元璋)の濠梁での挙兵に従い、弟と並んで帳前先鋒となった。呉良は水に潜って敵情を偵察することが得意で、呉禎は毎回服装を変えて間諜の役目を果たした。呉禎には別に伝がある。呉良は滁州・和州攻略に従い、采石に戦い、太平路に勝利し、溧水州・溧陽州を降伏させ、集慶路を平定するのに多くの功績があった。また徐達に従って鎮江路を占領し、常州路を降伏させ、鎮撫に昇進し、丹陽県を鎮守した。趙継祖らと共に江陰州を攻略した。張士誠の兵が秦望山に布陣していたので、呉良はこれを攻撃して奪取し、遂に江陰州を占領した。そこで命を受け指揮使となって当地を鎮守した。
 時に張士誠は呉の地を足掛かりとし、淮東・浙西に跨る地域を支配していたので、兵站は万全であった。江陰州はまさにその要衝であり、長江を支え、南北を抑える要害であった為に、張士誠はしばしば将兵に金帛を送り付け、隙を窺った。太祖は呉良に言い聞かせた。「江陰州は我が東南の障壁であるから、汝は兵卒を束ね、外部と接触することなく、逃亡者を許すことなく、小利を貪ることなく、共に先陣を競うことなく、ただ境界を保全して民衆を安んじることにのみ注力せよ。」呉良は命を奉じてただ謹み、防御に専念した。敵を撃退した功績により枢密院判官に昇進した。張士誠が大挙して来襲すると、艨艟は長江を覆い、その部将蘇同僉は君山に布陣し、進軍を指揮した。呉良は弟の呉禎を派遣して北門より出撃して交戦し、密かに元帥王子明の率いる精鋭を南門から急行させて挟撃し、大いにこれを破って捕殺多数の大戦果を挙げた。敵は夕刻になると撤退した。次いでまた常州府が襲撃されると、呉良は兵を派遣して間道を進ませ、無錫州でその援軍を殲滅した。まさにこの時、太祖はしばしば自ら江・楚の上流に争い、陳友諒と対立していたので、大軍を動かすことが多く、金陵が空であるのに、張士誠は敢えて北進して僅かばかりも侵犯しなかったのは、呉良が江陰州にあって障壁となっていたからである。
 呉良は仁徳があって寛容で倹約家であり、名声・女色・財貨・利殖に好むものは無かった。夜間は城楼に宿泊し、夜通し枕元に矛を置き、その練兵振りは常に敵襲を受けているかの様であった。時間があれば儒学者を集めて経史を講読し、学宮を新築し、社学を立て、屯田を開拓し、労役と納税を均等にした。境界にあること十年、当地は平安であった。太祖は常に呉良を召し出して労った。「呉院判が一方を守っているお陰で、我は東方の心配をしないで済むのであるから、その功績は非常に大きく、車や珠玉を以てしてもその労いを表現することはできない。」そこで学士宋濂らに命じて詩文を作らせて賛美し、任地に帰らせた。次いで大軍を発して淮東を攻略、泰州を占領した。張士誠の兵が再び馬馱沙より出撃し、鎮江府に侵入し、数百隻もの巨艦が長江を遡上した。呉良は厳戒態勢を敷いて時期を待った。太祖は自ら大軍を督戦してこれを防いだ。張士誠の兵は遁走し、追撃して浮子門に至った。呉良は兵を繰り出して挟撃し、兵卒二千人を捕らえた。太祖は江陰州を訪れて軍を労い、城壁を巡り、感嘆して言った。「呉良よ、汝は現代の呉起である。」呉の地域が平定されると、昭勇大将軍・蘇州衛指揮使を加官され、蘇州鎮守に移った。武装を増強し、軍民を融和させた。都督僉事に昇進し、全州鎮守に移った。
 洪武三年に都督同知に昇進し、江陰侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年に靖州・綏寧県の諸蛮族を討伐した。(洪武)五年、広西の蛮族が叛き、征南将軍鄧愈を補佐して平章政事李伯昇を率いて靖州より出撃しこれを討伐した。数ヶ月にして左右両江および五渓の地の悉くが平定され、兵を移して銅鼓・五開に入り、潭渓を収め、太平を開き、清洞・崖山の賊を銅関鉄寨の戦いで殲滅した。諸蛮族はみな恐懼して帰順し、粤西の地域は遂に平定された。(洪武)八年、鳳陽の屯田を監督した。(洪武)十二年、斉王朱榑が青州に封じられた。その王妃は呉良の娘であり、呉良は王府建設を命じられて赴任した。(洪武)十四年、青州に於いて没した。五十八歳であった。江国公を贈られ、襄烈と諡された。

 子の呉高が江陰侯を継ぎ、しばしば山西・北平・河南に出向いて練兵し、北征に従軍し、外兵を率いて百夷を討伐した。(洪武)二十八年、罪を得て広西に調遣され、趙宗寿討伐に従軍した。燕王朱棣が挙兵した折、呉高は遼東を鎮守しており、楊文と共にしばしば出撃して永平府を攻撃した。燕王は呉高を除こうと企んで言った。「呉高は臆病者ではあるが綿密であり、楊文は勇敢で無謀であるから、呉高が居なくなれば、後は無能な楊文だけだ。」そこで二人に書状を送り、一方で呉高を褒め称え、一方で楊文を扱き下ろし、その書状を入れた箱を取り替えて渡すようにした。二人が書状を受け取ると、同時に報告した。果たして建文帝は呉高の内通を疑い、爵位を剥いで広西に移し、ただ楊文だけが遼東を守ったが、遂に敗北した。永楽年間の初め、呉高は召し出されて大同府鎮守として復帰し、辺境防衛の方策を建言した。(永楽)八年、永楽帝(朱棣)が北征より帰還すると、呉高は病を称して入朝しなかった。この為に弾劾を受け、官爵を廃して庶人に落とされ、世券を剥奪された。洪熙元年、洪熙帝が呉高の名を見出して言った。「呉高は嘗て多くの無礼を働いておるから、海南に謫戍してやるがよい。」呉高は既に没していたので、その家族が移されたが、恩赦にあって許しを得た。宣徳十年、子の呉昇が爵位の継承を願い出たが、許されなかった。
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by su_shan | 2016-07-24 19:48 | 『明史』列伝第十八

蔡子英

『明史』巻一百二十四、列伝第十二

 蔡子英、永寧路の人。元朝の至正年間の進士。察罕帖木児(チャガンテムル)が河南に開府すると、参軍事として仕え、行中書省参知政事まで昇進した。元朝が亡ぶと、拡廓帖木児(ココテムル)に従って定西州へ逃走した。明軍が定西州を攻略すると、拡廓帖木児は敗北し、蔡子英は単騎で関中へ落ち延び、南山に潜伏した。太祖(朱元璋)はその声望を聞き付け、人を派遣して似顔絵を描かせて手配したところ捕らえることができたので、京師まで送還させた。長江の畔まで来た時、逃亡し、姓名を変え、日雇いで粟搗きをして糊口を凌いだ。しばらくして、再び捕縛された。拘束されて洛陽を通り掛かった時、湯和に引見されたが、丁重かつ礼に則った挨拶をしなかった。湯和は蔡子英を抑え付け跪かせたが、それでもすることは無かった。湯和は怒り、火を付けてその髭を炙った。偶々蔡子英の妻が洛陽におり、面会を申し出たが、蔡子英は避けて会わなかった。京師に到着すると、太祖は拘束を解くよう命じ、礼節を以て処遇し、官位を授けたが、蔡子英は受け取らなかった。退出した後に上書して言った。「陛下は時勢に乗じて天運に応じられ、群雄を削平され、その威徳は海内のみならず海外にも轟き、帰順して朝貢しない者はおりません。臣は鼎の網から溢れ出た魚でございまして、南山に閉塞しておりました。先に露見して捕らわれ、また逃れるを得ました。七年の長きにより、官憲の執拗な追跡を受けました。ところが陛下は万乗の尊であらせられますのに、匹夫の忠節を全うさせ、天誅を下さず、却ってその疾病を癒し、礼服を取り替え、酒肴を賜り、官爵を授けて頂けますとは、陛下の度量たるや天地を覆わんばかりでございます。臣はその恩義に感服すること無量でございますので、犬馬の労を厭わない訳には参りませんが、ただ義理がございますので、敢えて初志を曲げることはできません。自身は庶民であったことを思うと、智識は浅く狭いにも関わらず、蒙古の主より頂いた知遇と薦挙は分を過ぎたるもので、七度も官職を拝命するに至り、馬に跨って肉を食らうこと十五年、恐縮にも僅かばかりも国士としての待遇に報いることはできませんでした。国家が破滅するに及んで、また節を失ったとあれば、何の面目があって天下の士に見えることができましょうか。管子は『礼を尊び、義を重んじ、欲を捨て、恥を知る、それが国の四つの大綱である。』と言っております。今、陛下は王朝を創業なさって皇統を伝承されましたが、まさに厳格なる道徳と法律を堅持して、子孫臣民に対して範を示さねばなりません。そうでございますのに、どうして礼儀を知らず、廉恥に乏しい俘囚の身を、新しき王朝の賢人士大夫の列に放り込もうとなさるのですか!臣は日夜を問わず思索に耽り、嘗て国に報いて死ぬことができなかったことを悔やみ、今日に至って、ようやく自決する覚悟ができました。陛下は臣を遇するに恩義と礼節を以てなさいましたが、もとより臣は敢えて命を絶って名を立てる様なことは望まず、また敢えて生き延びて賎しく食禄を貪る様なことも望みません。もし臣の愚考をお察し頂き、臣の志を全うさせて頂けるのであれば、その余生を終えるまで海南に禁錮なさって下さい。そうすれば、死する日が訪れたとしても、なおも生き生きとして迎えることができるでしょう。かつて王燭は門を閉ざして自ら縊死し、李芾は一族もろとも自ら屠ったと言いますが、彼らは栄華富貴を憎んで喜々として死んでいったのではなく、大義の前では、煮え滾る湯であっても避けることはしないのです。矮小なるこの身では、先人に会わせる顔が無く、死しては遺恨を残しますので、ただ陛下の御判断に従うのみでございます。」洪武帝(朱元璋)はその書を見ると、ますます蔡子英に惚れ込み、邸宅に留めて儀曹とした。ある時、一晩中大声で泣き叫んで止まないことがあった。人がその理由を質問すると、答えた。「他でも無い、ただ昔の主を思ってのことだ。」洪武帝はもはや蔡子英を靡かせることができないと悟り、洪武九年十二月、官吏に命じて塞外まで送り届け、和林(カラコルム)の嘗ての主に従わせた。
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by su_shan | 2016-07-24 13:43 | 『明史』列伝第十二