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by すーさん

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李文忠

『明史』巻一百二十六、列伝第十四

 李文忠、字を思本、小字を保児、盱眙県の人。太祖(朱元璋)の姉の子である。十二歳にして母が没し、父の李貞はこれを伴って戦乱の中を転々とし、何度も死に瀕したことがあった。二年後、滁陽に於いて太祖に謁見した。太祖は李保児を引見すると、非常に喜び、養子として、朱姓を名乗らせた。書物の内容を日頃の習慣の様に素早く理解した。十九歳の時、舎人として親軍を率い、池州府を救援し、天完(徐寿輝)軍を破り、その勇猛振りは諸将の中でも抜きん出ていた。これとは別に青陽県・石埭県・太平県・旌徳県を攻め、これら全てを陥落させた。元朝の院判阿魯灰(アルグイ)を万年街に破り、また苗軍を於潜県・昌化県に破った。淳安県に進攻し、洪元帥を夜襲し、その軍千人余りを降伏させ、帳前左副都指揮兼領元帥府事を授かった。次いで鄧愈・胡大海の軍と合流し、建徳路を奪取すると、厳州府と改称されたので、これを鎮守した。
 苗軍の将帥楊完者(楊オルジェイ)が苗族・僚族数万を率いて水陸両面より襲来した。李文忠は軽装の兵を率いてその陸軍を破り、斬り落とした首級を巨大な筏に載せて川に浮かべた。水軍はこれを見て遁走した。楊完者はまた侵攻して来たので、鄧愈と共にこれを迎え撃って退けた。進軍して浦江県に勝利し、放火と掠奪を禁じたことで、恩義と信用を示した。義士の鄭氏は山中の谷に兵乱を避けていたが、これを招聘して帰らせようとし、兵に護衛させた。民衆は非常に喜んだ。楊完者が死ぬと、その部将が投降を申し出たので、これを迎え入れ、三万人余りを手に入れた。
 胡大海と共に諸曁州を突破した。張士誠が厳州府を襲撃すると、これを東門で防ぎ、別将を小北門より出撃させて、間道伝いにその背後を襲わせ、これを挟撃して大いに打ち破った。月を越えて、再び侵攻して来たので、これを再び大浪灘に破り、勝勢に乗じて分水県に勝利した。張士誠は部将を派遣して三渓に布陣させたので、またこれを攻撃して破り、陸元帥を斬殺し、その堡塁を焼き払った。これ以降、張士誠は二度と厳州府に手を出そうとしなかった。江南行枢密院同僉に昇進した。
 胡大海は漢(陳友諒)の部将李明道・王漢二を捕らえたので、李文忠の下へ送致したが、釈放した上に礼節を以て処遇し、建昌路守将の王溥を招聘させた。王溥は降伏した。苗軍の部将蒋英・劉震が胡大海を殺害し、金華府を占拠して叛いた。李文忠は部将を派遣してこれを攻撃して敗走させ、自らその軍を鎮定した。処州府の苗軍もまた耿再成を殺害して叛いた。李文忠は部将を派遣して縉雲県に駐屯させ、これに対処した。浙東行中書省左丞を拝命し、厳州府・衢州府・信州府・処州府・諸全州の軍事を統括した。
 呉(張士誠)の兵十万が諸全州を急襲すると、守将の謝再興が救援を要請したので、同僉の胡徳済を派遣して援軍に向かわせた。謝再興は再び増援を要請したが、李文忠の手元に兵が少なく対処出来なかった。たまたま太祖が邵栄に命じていた処州府の叛乱鎮圧が完了した所であったので、李文忠は徐右丞(徐達)・邵平章(邵栄)が大軍を引き連れて直にでもやって来ると言い触らした。呉軍はこれを聞いて恐れ、夜の内に退却しようと画策した。胡徳済と謝再興は決死隊を率いて夜中に門を開き突撃し、これを大いに打ち破り、諸全州を守り切ることが出来た。
 翌年、謝再興が叛いて呉に投降したことで、呉軍は東陽県に侵攻した。李文忠と胡深はこれを義烏県に迎え撃ち、千騎を率いてその陣営を側面から突き、これを大いに打ち破った。既に、胡深の献策を採用して諸全州城から五十里の地点に別の城を築き、掎角の構えを取っていた。張士誠は司徒李伯昇を派遣して十六万の軍を率いて来襲したが、勝利出来なかった。翌年、再び二十万の軍を率いて諸全新城に来襲した。李文忠は朱亮祖らを率いて救援に駆け付け、新城から十里の地点に宿営した。胡徳済は賊軍の勢いが強盛であることから、少数の兵のみを留めて大軍の到来を待った方が良いと伝達した。李文忠は言った。「戦とは計略に有り、数では無い。」そこで下令して言った。「敵軍は数多く油断しているが、我が軍は数少なく精鋭である、精鋭を以て油断した軍にぶつければ、必ずや勝利出来よう。敵軍の輜重は山と積まれているが、これは汝らに天が与え給うたものである。努力せよ。」たまたま白い煙が北東より現れて軍を覆ったので、これを占ったところ、「必勝」と出た。翌朝になって会戦に及ぶと、戦場には濃霧が立ち込めて暗闇になったので、李文忠は諸将を集めて天を仰いで誓いを立てて言った。「国家の興廃はこの一戦に在り、文忠は敢えて死をも厭わぬことを三軍に示そうぞ。」そこで元帥徐大興・湯克明らに左軍を、厳徳・王徳らに右軍を率いさせ、自らは中軍を以て敵を突こうとした。たまたま処州府からの援軍も到着したので、猛進肉薄した。霧がやや晴れると、李文忠は槊を手に鉄騎数十騎を率いて高地を駆け下り、中央に突入した。敵軍は精騎を以て幾重にも李文忠を取り囲んだ。李文忠は何人もの敵兵を手当たり次第に殴り殺し、馬を走らせて駆け巡ったので、向かう先の敵兵は全て後ずさった。大軍はこれに乗じ、城内の兵もまた鼓を打ち鳴らして出撃したので、敵軍は遂に潰走状態に陥った。北方へ追撃すること数十里にして、斬首は数万を数え、渓水は悉く赤く染まり、将校六百人・兵三千人を捕らえ、鹵獲した武器食糧は数日をかけても数え切れない程であり、李伯昇は単身で逃げ延びた。勝報が届くと、太祖は非常に喜び、召還させると、何日も宴を催して労い、御衣と名馬を賜って、任地へ戻らせた。
 翌年の秋、大軍を発して呉を討伐すると、杭州路を攻撃してこれを牽制するよう命じられた。李文忠は朱亮祖らを率いて桐廬県・新城県・富陽県に勝利し、遂に余杭県を攻撃した。守将の謝五は、謝再興の弟であり、これを諭して降伏させるに当たって、死罪を免じた。謝五と謝再興の子五人が投降した。諸将はこれを皆殺しにしようと迫ったが、李文忠は許さなかった。遂に杭州路に到達すると、守将の潘元明もまた投降したので、軍を整列させて入城した。潘元明は女楽を以て歓迎したが、指示して止めさせた。麗譙に宿営し、下令して言った。「民家に押し入った者は死罪とする。」ある兵卒が民家から釜を借りたことが発覚すると、これを斬り捨てて見せしめとしたので、城内は静まり返った。兵卒三万人と食糧二十万石を接収した。この功績により栄禄大夫を加官されて浙江行中書省平章政事に就任し、また李姓に戻された。大軍を発して閩(福建)の地に遠征すると、李文忠は別軍を率いて浦城県に駐屯し、これを圧迫した。軍を帰還させると、残党の金子隆らが衆を集めて掠奪して回ったので、李文忠は再び討伐に赴いてこれを捕らえ、遂に建寧路・延平路・汀州路の三州を平定した。軍中に路上の孤児を保護するよう命じたので、数え切れない程の子供が生き延びることが出来た。
 洪武二年の春、偏将軍として右副将軍常遇春の塞外遠征に従い、上都路に迫り、元朝の順帝を追いやったが、それは常遇春伝に詳しい。常遇春が没すると、李文忠に命じてその軍を代わりに率いさせ、詔を奉じて大将軍徐達と合流して慶陽府を攻撃しようとした。太原府に差し掛かった折、大同府が急襲されているという報告を受け、左丞趙庸に対して次の様に言った。「我らは命を受けて来たのであるが、外地の事が仮にも国に利するのであれば、これに専念すべきであろう。今、大同府が危機に瀕しているのであれば、これを救援するのだ。」こうして雁門関を越え、馬邑県に次いだところで、元朝の遊軍を破り、平章政事劉帖木(劉テム)を捕らえ、白楊門に進んだ。雪混じりの雨が降ったので、宿営に移ると、李文忠は五里前進するよう命じ、川を遮って固守した。元軍が夜陰に乗じて襲撃して来たが、李文忠は堅く守って動こうとしなかった。夜が白み始めた頃、敵軍が大挙して押し寄せて来た。これを二つの陣営に委ね、決死の戦を挑み、敵の疲労に乗じて、精兵を繰り出して左右より叩いたので、これを大いに打ち破り、その部将脱列伯(トレバイ)を捕らえ、一万人余りを捕殺し、莽哥倉まで急追した後に帰還した。
 翌年に征虜左副将軍を拝命した。大将軍(徐達)と共に経路を分けて北征し、十万人を率いて野狐嶺に進出し、興和路に到達し、その守将を降伏させた。兵を察罕脳児(チャガンノール)に進め、平章政事竹真〔一〕を捕らえた。駱駝山に差し掛かり、平章政事沙不丁(シハーブッディン)を敗走させた。開平県に差し掛かり、平章政事上都罕(シャンドゥガン)らを降伏させた。時に元朝の順帝は崩御し、皇太子の愛猷識里達臘(アユルシリダラ)が新たに即位した。李文忠は間諜によりこれを知り、夜を徹して応昌路へ急行した。元朝の後継者は北方へ逃れ、その嫡子買的立八剌(マイテリバラ)及び后妃・宮人・諸王・将軍・丞相・官吏数百人を捕らえ、並びに宋朝・元朝の玉璽・金宝十五、玉冊二、鎮圭・大圭・玉帯・玉斧各々一つを鹵獲した。精騎を繰り出して北慶州まで追撃した後に帰還した。その道中の興州にて、国公江文清らを捕らえ、三万七千人を降伏させた。紅羅山に到達し、また楊思祖の軍一万六千人余りを降伏させた。捕虜を京師に献じ、洪武帝(朱元璋)は奉天門に臨御して朝賀を執り行った。大規模な功臣封爵が行われた際に、李文忠の功績は最上級の評価を受け、開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・大都督府左都督を授かり、曹国公に封じられ、同知軍国事となり、食禄三千石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年秋、傅友徳らが蜀(明昇)を平定すると、これを懐柔する為に李文忠に向かうよう命じた。成都新城を築き、諸郡の要害の地に軍営を設け、帰還した。翌年に再び左副将軍として東道より北征し、居庸関を越え、和林(カラコルム)に向かい、口温に差し掛かると、元軍は遁走した。臚朐河(ケルレン河)まで進出し、部将の韓政らに命じて輜重を守らせ、自らは大軍を率いて、各人に二十日分の食料を持たせ、土剌河(トゥール河)に急行した。元朝の太師蛮子哈剌章(マンジカラジャン)は全軍を渡河させており、騎兵を並べて待ち構えていた。李文忠は軍を引き連れてこれに迫ると、敵軍はやや後退した。阿魯渾河(アルグン河)に到達する頃には、敵軍は増強されていた。李文忠の馬が流れ矢に当たったので、下馬して短刀に持ち替え戦った。指揮使李栄は乗馬を李文忠に授け、自らは敵の馬を奪って乗った。李文忠は馬を得ると、更に決死の戦いを繰り広げ、遂に敵を破り、捕虜は一万人を数えた。追撃して称海(チンカイ)に到達すると、敵兵は再び大挙集結していた。そこで李文忠は兵を収めて天険に拠り、牛を殺して兵卒に供し、捕らえた馬などを平野に放った。敵は伏兵を疑い、徐々に後退した。李文忠もまた引き返したが、元の道を見失ってしまった。桑哥児麻(サンガルマ)に到達したが、水源に乏しかった為に、喉の渇きが著しく、天に祈りを捧げた。乗馬が地面を掘り返したところ、泉が湧き出て、三軍全てに行き渡ったので、生贄を捧げて祭祀を執り行った。こうして遂に帰還することが出来た。この戦役では、両軍の勝敗は決着しなかったものの、宣寧侯曹良臣、指揮使周顕・常栄・張耀が戦死し、論功行賞は行われなかった。
 (洪武)六年に北平府・山西辺境に赴き、三角村の戦いで敵を破った。(洪武)七年に部将を派遣して複数の経路より塞外へ出撃した。三不剌川(サンブラ河)に到達し、平章政事陳安礼を捕らえた。順寧府・楊門に到達し、真珠驢を斬殺した。白登県に到達し、太尉不花(ブカ)〔二〕を捕らえた。その年の秋に軍を率いて大寧路・高州を攻めてこれに勝利し、元朝の宗王朶朶失里(ダダシリ)を斬殺し、承旨百家奴を捕らえた。追撃して氈帽山に到達し、魯王を攻めて斬殺し、その王妃及び司徒答海(ダハイ)らを捕らえた。豊州へ進軍し、元朝の元官僚十二人、大量の馬・駱駝・牛・羊を捕らえ、急追して百干児(バイガンル)〔三〕に到達して帰還した。これ以降もしばしば出撃して辺境を防衛した。
 (洪武)十年に韓国公李善長と共に軍国の重要事項への参議を命じられた。(洪武)十二年、洮州の十八の蛮族が叛き、西平侯沐英と兵を合わせてこれを討伐し、東籠山南川に築城し、洮州衛を設置した。帰還すると西安城内の水源は塩分が多く飲用出来ないことを報告し、竜首渠を開削延長して城内へ引き入れた上で取水させるよう提案したので、採用された。帰還して大都督府と国子監の業務を掌握した。
 李文忠の器量は非常に大きく、他人にはその際限を推し量ることが出来なかった。戦陣に臨んでは卓越して鋭敏であり、大敵に遭遇すれば益々奮い立った。頗る学問を好み、常々金華府の范祖幹・胡翰に師事し、経義に通暁し、詩歌を作れば優れた才幹を覗かせた。初め、太祖が応天府を手に入れた頃、軍糧の供給が追い付かず、民田からの徴発を増やしたところ、李文忠が諫言して、減額されたことがあった。兵を従えず家に居る時は、儒者の様に穏やかに振る舞い、洪武帝はこれを特に重用した。家には食客が多く、嘗て食客の言によって、洪武帝に対して誅戮を減らすよう勧め、また洪武帝の日本遠征を戒め、宦者の災禍について言及したことは、君子危うきに近寄らずとは言えない。こうして度々上意に逆らった為に、譴責を免れることは出来なかった。(洪武)十六年の冬に病気を発症した。洪武帝は自ら見舞いに訪れ、淮安侯華中に医薬を持たせた。翌年三月に没した時、四十六歳であった。洪武帝は華中が毒薬を盛ったのではないかと疑い、華中の爵位を剥奪し、その家属を建昌衛へ配流し、諸々の医師並びに妻子は全て斬殺した。洪武帝自ら弔文を作り葬儀を執り行い、岐陽王に追封し、武靖と諡した。太廟に配列され、功臣廟に肖像が置かれ、序列は何れも第三位とされた。父の李貞は既に没していたが、隴西王を贈られ、恭献と諡された。
 李文忠には三人の男子があり、長男を李景隆、次男を李増枝、三男を李芳英と言ったが、全て洪武帝より下賜された名である。李増枝は当初勲衛を授かり、前軍都督府左都督に抜擢された。李芳英の官職は中都正留守に至った。

 李景隆、小字を九江。読書を好み典故に通じた。長身にして眉目秀麗、周囲の者が気を引かれる程に立派であった。朝会の度に、鷹揚として非常に優雅に振る舞った為、しばしば太祖の目に留まった。(洪武)十九年に爵位を継承し、しばしば湖広・陝西・河南に出向いて練兵を行い、西番と馬を交易した。昇進して左軍都督府の業務を掌握し、太子太傅を加官された。
 建文帝(朱允炆)が即位すると、李景隆は肺腑の様に信任を受け、嘗て周王朱橚の捕縛を命じられたこともあった。燕王(朱棣)が挙兵するに及んで、長興侯耿炳文が燕王を討伐したものの勝機に乏しく、斉泰・黄子澄らは共に李景隆を推薦した。そこで耿炳文に代わって李景隆がを大将軍となり、五十万の兵を率いて北伐することになった。通天犀帯を賜り、建文帝自ら推輪の儀式を執り行い、これを長江の畔まで見送り、一切の行事に関する便宜を図らせた。李景隆は貴公子であり、兵事を知らず、ただ尊大なだけで、宿将の多くを快く思わず登用しなかった。李景隆は徳州に到達すると、兵を糾合して陣営を河間府に前進させた。燕王はこれを聞くと喜び、諸将に対して語ったという。「李九江なんぞ着飾った孺子に過ぎぬわ、容易く捻じ伏せてくれようぞ。」こうして世子(朱高熾)に留守を任せ、出撃を固く禁じた上で、自らは兵を率いて永平府を救援し、大寧衛を直撃した。李景隆はこの報告を受けると、進軍して北平府を包囲した。都督瞿能が張掖門を攻撃し、突破寸前まで追い詰めた。李景隆は瞿能の手柄になることを妬み、攻撃を中止させた。燕王軍が大寧衛を破ると、軍を反転させて李景隆を攻撃した。李景隆はしばしば大敗して徳州へ遁走した為、諸軍は全て壊滅した。翌年の正月、燕王が大同府を攻撃した為、李景隆は軍を率いて紫荊関を越えて救援に赴いたが、戦果を挙げられずに撤退した。建文帝は李景隆の職権が不足しているのではないかと懸念し、宦官を派遣して璽書を送り、黄鉞と弓矢を賜り、征伐に専念させようとした。ところが長江を渡ろうとした時、暴風雨によって船が損壊し、全ての賜物が失われてしまったので、改めて作り直して送り届けたのであった。四月、李景隆は徳州に於いて大誓師の儀式を執り行い、真定府に於いて武定侯郭英・安陸侯呉傑らと合流し、六十万もの軍を集結させ、陣営を白溝河に前進させた。燕王軍と連戦し、再び大敗し、璽書や斧鉞は全て放棄して徳州へ逃げ帰り、また済南府へ逃走した。今回の戦役では、皇帝側の死者は数十万人に達し、南軍は遂に戦線を支えることが出来なくなった為に、建文帝は詔を下して李景隆を召還した。黄子澄は恥じて憤り、群臣の居並ぶ中で李景隆を捕らえ、これを誅殺して天下に示しを付けることを願った。燕王軍が長江を渡河すると、建文帝の側近は狼狽し、方孝孺は再び李景隆の誅殺を願い出た。建文帝は何れも聞き入れなかった。李景隆及び尚書茹瑺・都督王佐を燕王軍への使者として出向かせ、領土の割譲を条件として和平を提案しようとした。燕王軍が金川門に布陣すると、李景隆と谷王朱橞は門を開いて投降してしまった。
 燕王が帝位に就くと、李景隆に奉天輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・左柱国を授け、食禄千石を加増した。朝廷に重大な事案があれば、李景隆は尚も首班として意見を取り纏めたので、功臣たちは皆不平を抱いた。永楽二年、周王の告発により嘗て建文年間に私邸を訪問して収賄したことが発覚し、刑部尚書鄭賜らもまた、李景隆が悪事を企み、力を蓄えて亡命し、謀叛を画策していると弾劾した。詔を下して不問に付した。それ以降にも、成国公朱能・吏部尚書蹇義と文武双方の群臣は、李景隆及び弟の李増枝の叛逆は事実であると訴えた為に、六科給事中張信らもまたこれを弾劾した。詔によって勲号を剥奪され、朝会への参列を禁じられたが、国公の地位は安堵されて帰邸し、曹国長公主を祀ることになった。間も無くして、礼部尚書李至剛らが再び告発した。「李景隆は私邸に於いて、自らは座にあって門番を平伏させること君臣の礼の如し、これは大いに不道であり、李増枝は多くの荘田を立て、見境無く幾百幾千もの召使を集めており、その意図は窺い知れません。」こうして李景隆の爵位は剥奪され、並びに李増枝及びその妻子数十人は私邸に禁錮され、財産を没収された。李景隆は十日間絶食したが死ねず、永楽末年に至って漸く没したのであった。
 正統十三年に初めて詔が下されて李増枝らの禁錮が解かれ、自由になることが出来た。弘治初年、李文忠の後嗣を調査したところ、李景隆の曽孫にあたる李璿を南京錦衣衛世襲指揮使とした。没すると、子の李濂が跡を継いだ。没すると、子の李性が跡を継いだ。嘉靖十一年に詔によって李性は臨淮侯に封じられ、食禄千石とされた。翌年に没し、子が無かった為に、李濂の弟の李沂が紹封された。没すると、子の李庭竹が跡を継いだ。しばしば五軍都督府を管轄し、提督操江となり、平蛮将軍の印章を帯び、湖広に鎮守した。没すると、子の李言恭が跡を継いだ。南京守備となり、京営を監督し、累進して少保を加官された。李言恭、字を惟黄、学問を好み詩を得意とし、常々清貧であった。子の李宗城は、若くして文学の名声を得た。万暦年間、日本が朝鮮に侵攻すると、兵部尚書石星は封貢策を提案し、李宗城の才幹を見出して推薦し、都督僉事を授け、正使に充て、節刀を携えて赴かせ、指揮使楊方亨にこれを補佐させた。李宗城は朝鮮の釜山(プサン)に到達した所で、日本が増援を送り込んで来たので、街道は大混乱に陥り、口々に言い立てて二人の使者を脅かした。李宗城は恐れ、変節して逃げ帰った。一方で楊方亨は海を渡ったが、日本に侮辱される所となった。李宗城は獄に下されて辺戍が決定したので〔四〕、その子である李邦鎮が侯爵位を継承した。明朝が滅亡すると、爵位は断絶した。

【校勘記】
〔一〕竹真、『明史稿』伝十二、李文忠伝は「祝真」としているが、本書巻二、太祖本紀・巻三百二十七、韃靼伝、『太祖実録』巻四十九、洪武三年二月戊子条は「竹貞」としており、等しく同名ではあるが異なる音訳である。
〔二〕不花、『太祖実録』巻八十八、洪武七年四月甲辰条・巻百六十、洪武十七年三月戊戌条は「伯顔不花(バヤンブカ)」としている。
〔三〕百干児、元は「百千児」となっていたが、『明史稿』伝十二、李文忠伝、『太祖実録』巻百六十、洪武十七年三月戊戌条に基づき改めた。
〔四〕辺戍が決定したので、本書巻百五、功臣世表は「死罪が決定」としている。
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by su_shan | 2016-08-30 10:37 | 『明史』列伝第十四

列伝第二十四 目次

陶安 銭用壬 詹同 朱升 崔亮 牛諒 答禄与権 張籌 朱夢炎

劉仲質 陶凱 曾魯 任昂 李原名 楽韶鳳

 論賛、明朝初期の礼制に関する議論については、宋濂は出仕していなかった事から、その制度の多くは陶安が裁定を行ったものである。大祀礼には専ら陶安の意見を採り上げ、その他は諸説を取り纏め、その長所を取り入れた。祫禘には詹同の意見を採り上げ、時享には朱升の意見を採り上げ、釈奠・耕耤には銭用壬の意見を採り上げ、五祀には崔亮の意見を採り上げ、朝会には劉基の意見を採り上げ、祝祭には魏観の意見を採り上げ、軍礼には陶凱の意見を採り上げたのである。みな経義に基づいてよく援用し、古代を斟酌して当代に準え、郁然と一代の内に休明の治を作り上げたのである。折衷しながら決定したとは言っても、細心の注意を払って判断したものであり、諸臣の功績が少ないなどとという事があろう筈が無いのである。
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by su_shan | 2016-08-23 23:53 | 『明史』列伝第二十四

列伝第二十三 目次

陳遇 秦従竜 葉兌 范常 潘庭堅 宋思顔 夏煜

郭景祥 李夢庚 王濂 毛騏 楊元杲 阮弘道 汪河 孔克仁

 論賛、太祖(朱元璋)は庶人より身を起こし、天下を経略した。長江を渡って以来、規模は奥深く拡がり、名声は風の速さで広まった。天授とは言うが、そもそも左右の輔弼の臣に多くの憂国の士の助力があったからであろうか。陳遇は劉基に劣らぬ礼遇を受けながら、利益には一切関知しなかった。葉兌は天下の大計の策定に於いて、詳細に方策を述べ、また忠節を捧げることに抗って隠遁した様に、その高潔さは等しく余人の容易に及ぶ所では無かった。孔克仁については言う程のことは無いが、太祖の遠大な計略をその時々に応じて備えたので、本編に序列されたのである。
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by su_shan | 2016-08-23 23:19 | 『明史』列伝第二十三

孔克仁

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 孔克仁、句陽県の人。江南行中書省都事より郎中に昇進した。嘗て宋濂と共に太祖(朱元璋)に侍り、しばしば太祖と天下の形勢や歴代王朝の興亡について語り合った。陳友諒が滅亡すると、太祖は中原を攻略しようと志し、孔克仁に対して言った。「元朝の命運は既に傾き、豪傑は互いに争いを続けているので、その間隙に乗じるべきである。我は両淮・江南諸郡の民衆を監督し、時に耕種し、訓練を加え、兵農の源泉を兼ねた上で、進んでは取り、退いては守ろうと思う。そして両淮の間に食糧を運び込み、糧秣を備蓄して時機を待つのだ。軍糧が充足すれば、いよいよ中原攻略に取り掛かるべきだと思うが、卿はどう考えるか?」孔克仁は答えた。「糧秣を積み上げて兵卒を訓練し、間隙を観察して時機を待つ、これは遠大な計画にございます。」正にこの当時、江左の軍勢は日増しに強くなり、太祖は自らを漢朝の高祖(劉邦)に準え、孔克仁に対して言ったことがある。「秦朝の政治は暴虐であったから、漢朝の高祖は庶人より起ち、寛大に群雄を御して、遂に天下の主となったのである。今、群雄が蜂起したは良いが、みな法令を修めて軍政を明らかにすることを知らぬから、大成する者が居らんのだ。」孔克仁はしばらく感嘆していた。また次の様に言ったこともある。「天下の兵を用いる者には、河北に孛羅帖木児(ボロトテムル)があり、河南に拡廓帖木児(ココテムル)があり、関中に李思斉・張良弼がある。しかし兵を有していても紀律が無いのが河北であり、やや紀律を有していても軍勢が振るわないのが河南であり、道路が通じず、食糧の運搬が続かないのが関中だ。江南は我と張士誠だけである。張士誠は頻繁に謀略を用い、間諜を重んじ、配下には規律が無い。我は数十万人の衆を以て、軍政を修め、将帥を任じ、時機を見て動く、そもそも勢いだけで平定するには不足があるのだ。」孔克仁は平伏して言った。「主上はこの上なく優れた武徳をお持ちでございますから、必ずや天下を統一なさるでしょう。」
 嘗て『漢書』を講読していた時、宋濂と孔克仁が傍らに控えていた。太祖は言った。「漢朝の政治の良くない点は何であるか?」孔克仁は答えた。「王道と覇道を混同させたことでございましょう。」太祖は言った。「誰がその責を負うているか?」孔克仁は言った。「責は高祖にございます。」太祖は言った。「高祖の創業は、秦朝の学問排除に遭い、民衆は憔悴して立ち直ろうとしている所であったから、礼楽などを講じている場合では無かったのだ。孝文王(嬴柱)は名君たらんとし、礼を制定して楽を作り、三代(夏・殷・周)の制度を復古させようとしたが、あれこれ逡巡する暇さえ無く、結局はこの様に漢朝の帝業に至ったのだ。帝王の道とは、貴きものは時勢に逆らわないものである。三代の王は時機を得てよく事を成し、漢朝の文帝は時機を得ても成すことが出来なかったが、後周朝の世宗(柴栄)は時機が無くとも事を成した者である。」また嘗て孔克仁に対して質問したことがある。「漢朝の高祖は徒歩の身分より起って万乗の主となったが、どの様な方法を用いたのだ?」孔克仁は答えた。「人を知ってよく任用したのでございます。」太祖は言った。「項羽は南面して王位に就きながらも、仁義を与えること無く、自ら驕り昂ぶり傲慢に振る舞った。高祖はそうであることを知っていたので、柔和と謙遜を以て意見を聞き入れ、心を広く持ち情け深く助け、遂にこれに勝利したのである。今や豪傑は一人だけでは無く、我は江左の地を守り、賢材を任用して民衆を慰撫し、情勢の変化を観察しているが、もし共に武力を競うだけでは、早々に平定することは難しいのだ。」
 徐達らが淮東・淮西を陥落させるに及んで、また孔克仁に対して言ったことがある。「壬辰の年の兵乱で、民衆は塗炭の苦しみを味わった。中原の諸将では、孛羅帖木児は兵を擁して宮殿に侵入し、倫理を乱して規律を犯し、敵対者を葬り去った。拡廓帖木児は皇太子を擁立して戦端を開き、私怨を優先し、本来の敵を滅ぼそうとする意志を持たなかった。李思斉などはただ平凡なだけで、ひっそりと一地方に割拠し、民衆はその害を受けている。張士誠は表面上は元朝の名を立ててはいるが、実際は二心を抱えている。明玉珍父子は蜀の地に割拠して帝号を僭称したが、喜々として好き勝手に振る舞うだけで遠謀を持ち合わせていない。連中の所為を見た所、みな大成することは出来ないであろう。予は天の与え給うた機会に謀り、人として最善を尽くし、平定の機会を得ることが出来た。今、軍は西に襄・樊の地に進出し、東に淮・泗の地を越え、首尾は相応しく、これを撃てば必ず勝利し、大事は成就し、天下は難無く平定出来るであろう。一たび平定されてしまえば、生き永らえることは難しく、その労苦に思いを致さんばかりである。」孔克仁は帷幕に侍っていた期間が最も長く、故に太祖の謀略に関与する機会も多かった。洪武二年四月に孔克仁らに命じて諸子に経書を講義させ、功臣の子弟もまた入学を命じた。江州知府に出向した後、入朝して参議となったが、ある事案に連座して処刑された。
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by su_shan | 2016-08-23 23:17 | 『明史』列伝第二十三

楊元杲 阮弘道 汪河

(本伝は原書に基づき楊元杲と阮弘道と汪河の伝を分割せずにお届けしております)

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 楊元杲・阮弘道は、いずれも滁州の人であり、代々儒者の家柄であった。長江渡河に従い、共に江南行中書省左右司員外郎となり、陶安らと共に適宜交代で文章を起草した。楊元杲は郎中として金華府に於ける兵站管理の任務に抜擢され、また楊元杲は同年に郎中として大都督朱文正に従って南昌府を鎮守し、その全てに功績を挙げた。二人は何れも太祖(朱元璋)の最も初期からの臣下であり、また一人前の儒者として文学を嗜み、政治に熟練して深く通じ、しかも楊元杲の知慮は最も周密であった。嘗て洪武帝(朱元璋)は次の様に言ったことがある。「長江渡河に従った文臣で、帳簿と文章を掌り、勤労すること十数年、楊元杲・阮弘道・李夢庚・侯元善・樊景昭に勝る者は居ない。」後に、楊元杲は応天府尹を、阮弘道は福建・江西行中書省参知政事まで歴任し、何れも在職中に没した。
 楊元杲の子は楊賁と言い、博学で記憶力に優れ、詩文に巧みであるとの評判を得、推薦によって大名知県を授かり、周王府紀善に至った。
 侯元善は全椒県の人で、参知政事まで歴任しているが、樊景昭については記録が残っていない。

 また汪河という人物は、舒城県の人で、嘗て余闕に師事し、文章が巧みであるとの評判を得た。長江渡河に従い、江南行中書省掾となり、しばしば適切な提言を行った。太祖はその才能を評価し、大都督府都事に昇進させた。察罕帖木児(チャガンテムル)への使者を拝命し、上意を伝え論じ合った。後に命を奉じて銭楨を伴い河南へ赴き、拡廓帖木児(ココテムル)からの使節に対して報いたが、拘留されてしまった。太祖は七回も拡廓帖木児に書状を送ったが、遂に返答は無かった。洪武元年、大軍が河南府路・洛陽県を陥落させると、拡廓帖木児は定西州へ敗走し、汪河は漸く帰還することが出来たが、拘留されてから凡そ六年が経過していた。洪武帝はこれを喜び、吏部侍郎に昇進させ、西方攻略の方策を立案させた。(洪武)二年に御史台侍御史に改められた。(洪武)九年に晋王府左相を拝命した際には、洪武帝自ら御便殿にてこれを諭して派遣した。数年にして、在職中に没した。
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by su_shan | 2016-08-22 17:45 | 『明史』列伝第二十三

毛騏

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 毛騏、字を国祥、王濂の同郷。太祖(朱元璋)が濠州より兵を引き連れて定遠県に向かった折、毛騏は県令を伴って投降した。太祖は喜び、留めて飲食を共にし、兵事を立案させれば、常に適切な策を提示した。滁州を奪取し、総管府経歴に抜擢され、倉廩を管理し、併せて朝夕の暦を掌り、将兵で離脱しようとする者を押し止めた。長江渡河に従い、江南行中書省郎中に抜擢された。この時、太祖の左右に控えていたのは、李善長と毛騏だけであり、機密文書に関しては、全て両名の協力によるものであった。次いで参議官を授かった。婺州路に遠征した際に、江南行中書省の政務の代行を命じられたのは、最も信頼の置ける臣下だったからである。急病で没すると、太祖は自ら文章を作ってこれを嘆き、その葬儀に臨御した。
 子の毛驤は、管軍千戸となり、功績を重ねて親軍衛指揮僉事になった。中原平定に従軍し、指揮使に昇進した(※1)。滕州の段士雄が叛くと、毛驤はこれを討伐した。浙東に倭寇を捕らえ、その多くを捕殺し、都督僉事に抜擢され、信任を得て、臨時に錦衣衛の事務を掌り、詔獄を監督した。後に胡惟庸の徒党に連座して処刑された。

【注釈】
(※1)指揮使に昇進した、『太祖実録』巻七十、洪武四年十二月丙申条に「羽林左衛指揮同知毛驤・羽林右衛指揮同知陳方亮を共に本衛指揮使とする。」とあることから、羽林左衛指揮使である。前文の親軍衛指揮僉事については不明。
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by su_shan | 2016-08-22 12:41 | 『明史』列伝第二十三

王濂

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 王濂、字を習古、定遠県の人。李善長の妻の兄である。僅かに学問を嗜み、親に孝行していた。当初、汝州・潁州の盗賊に従い、太祖(朱元璋)が集慶路に勝利すると、長江を渡って帰順した。李善長の言により、謁見の機会を得たことで、執法官に除せられ、公正に案件を処理した。中書省員外郎に遷り、出向して浙江按察僉事となり、その活躍は世間に広く知られた。ある時、昼間に真っ暗になって強風が吹き荒れたことがあった。王濂は詔に応えて民衆の困苦を報告し、外征を緩めるよう請願した。太祖はこれを聞き入れた。洪武三年に没した。洪武帝(朱元璋)は李善長に対して言った。「王濂には王佐の才があると言うのに、死んでしまうとは、朕は片腕を失ったのだ。」後に李善長はある事案によって罪を得たが、洪武帝は悲嘆して言ったものである。「王濂が生きておれば、絶対にこうはなるまいに。」
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by su_shan | 2016-08-21 23:18 | 『明史』列伝第二十三

郭景祥 李夢庚

(本伝は原書に基づき郭景祥と李夢庚の伝を分割せずにお届けしております)

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 郭景祥、濠州の人。鳳陽県の李夢庚と共に長江渡河に従い、文書管理を掌り、謀議を補佐し、それぞれ江南行中書省左右司郎中に任じられた。両名共に浙東分中書省に派遣され、次いで再び共に大都督府参軍となった。郭景祥の為人は実直で、幅広く経書と史籍に通じ、事ある毎に口を挟んだので、太祖(朱元璋)はこれを信任した。嘗て次の様に言ったことがある。「郭景祥は文官ではあるが、折衝禦侮(※1)の才能があるので、我に忠節を尽くすのであれば、大任を任せられようぞ。」これより以前、滁州・太平路・溧陽州に勝利した際に、城郭が不完全であったので、郭景祥に命じてこれを修繕させた。間も無く和州の守臣が言うには、州城は長らく廃城になっているとのことであったので、郭景祥に命じて調査を行わせた結果、跡地に築城することになり、三ヶ月にして工事は完了した。太祖は能力を認め、和州総制を授けた。郭景祥は更に城郭や櫓を整備し、屯田を広げ、兵卒を訓練し、威光や人望は粛然としていた。こうして和州は重鎮となり、璽書によって功績を賞賛された。最後は浙江行中書省参知政事となった。
 謝再興が諸全州を鎮守していた折、その部将が呉(張士誠)の地との境目で密貿易を働いていた。太祖は激怒してその部将を処刑し、謝再興を召還して叱責し、李夢庚を諸全州に派遣して軍事を統括させた。謝再興が鎮に戻ると、自分の上位に李夢庚が置かれたことに腹を立て、遂に叛き、李夢庚を捕らえて呉に投降したことにより、李夢庚は死んだ。その当時、行中書省の官僚には、また毛騏・王濂といった人物が居た。

【注釈】
(※1)折衝禦侮、折衝とは攻撃してくる敵の武器を挫くこと、禦侮とはこちらを侮ることを防ぐこと。すなわち敵の攻撃を防いで、相手を恐れされること。
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by su_shan | 2016-08-21 23:18 | 『明史』列伝第二十三

宋思顔

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 宋思顔、何処の人かは不明。太祖(朱元璋)が太平路に勝利すると、宋思顔を幕府に置いた。集慶路を平定するに及んで、江南行中書省を設置すると、太祖は省事を統括し、李善長及び宋思顔を参議とした。同時に省内に官職を設け李夢庚・郭景祥・侯元善・楊元杲・陶安・阮弘道・孔克仁・王愷・欒鳳・夏煜ら数十人を任用したが、宋思顔はただ独り李善長と並んで参議を授かったので、その責任は他の官僚に比べても重いものであった。大都督府が設置されると、宋思顔に参軍事を兼任させた。
 嘗て太祖は自ら東閣で政務に当たっていた所、猛暑のせいで、衣服が汗だくになったことがあった。左右の者が替えの衣服を進めたが、それは一度に何度も洗濯を繰り返した物であった。宋思顔は言った。「主公は自ら倹約に努めておられますが、本当に子孫に対して模範を示したいとお考えでしたら、出来れば最後まで同じ様にして頂きたいものでございます。」太祖はその直言を喜び、これに幣を賜った。またある日、進言したことがあった。「句容県の虎害につきましては、既に捕獲したことで収束しておりますが、早く処分してしまいましょう、今飼育した所で民間に何の益がございますか?」太祖は喜んで、虎を殺すよう命じた。その何かに付けても忠実であることは、この様なものであった。後に出向して河南道按察僉事となったが、ある事案に連座して処刑された。
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by su_shan | 2016-08-21 16:00 | 『明史』列伝第二十三

夏煜

『明史』巻一百三十五、列伝第二十三

 夏煜、字を允中、江寧県の人。俊才として名を馳せ、詩文に巧みで、召し出されて江南行中書省博士となった。婺州路が平定されると、浙東分中書省に派遣され、二度も方国珍への使者となり、いずれも上意を伝えた。太祖(朱元璋)が陳友諒を討伐した時は、儒臣ではただ劉基と夏煜だけが側に控えた。鄱陽湖の戦いに勝利すると、太祖が起草を命じた賦詩は、夏煜が第一人者であった。洪武元年に浙東諸府の統括を命じられ、高見賢・楊憲・凌説と共に四人で秘密裏に視察して暴いて回ったが、後にみな成果不十分として処刑された。
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by su_shan | 2016-08-21 16:00 | 『明史』列伝第二十三