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元バンカー&現役デイトレーダーによる不定期更新。主に修論の副産物を投げつけていきます。

by すーさん

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張士誠

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 張士誠、小字を九四、泰州白駒場亭の人。三人の弟があり、何れも船を動かして塩を運ぶ作業を生業としながら、私的に不当な利益も得ていた。特に蓄財を軽視して施しを好み、仲間内で歓心を得ていた。常々何人もの富豪を相手に塩を販売していたが、富豪の多くはこれを侮辱し、正当な対価を与えない事も有った。中でも弓手を務めていた丘義は張士誠を最も手酷く扱った。張士誠は怒り、弟や壮士李伯昇ら十八人を率いて丘義を殺害し、いくつかの富豪を襲撃し、火を放ってその邸宅を焼き払った。隣郡に入り、若者を集めて挙兵した。塩運業者は重労働に苦しんでいたので、遂に協力して主に推戴し、泰州を陥落させた。高郵府の守将李斉が説得してこれを鎮圧したが、再び叛いた。河南江北行中書省参知政事趙璉を殺害し、並びに興化県を陥落させ、徳勝湖に砦を築き、一万人余りの群衆を集めた。元朝は万戸の辞令書を提示してこれを招聘したが、受け入れなかった。欺いて李斉を殺害し、高郵府を襲撃して占拠し、自ら誠王を称し、独自に大周と号し、天祐と建元した。至正十三年の出来事である。
 翌年、元朝の右丞相脱脱(トクト)が大軍を率いて征討し、何度も張士誠を破り、高郵府を包囲し、その外城を破った。城が陥落する寸前、順帝が讒言を信じ、脱脱の兵権を取り上げ、官爵を剥奪し、他の将帥にこれを代行させた。張士誠は間隙を突いて奮戦し、元軍が潰走したことで、再び威勢を振るう様になった。翌年、淮東で飢饉が発生すると、張士誠は弟の張士徳を派遣して通州より長江を渡って常熟に侵入した。
 (至正)十六年二月に平江路を陥落させ、並びに湖州路・松江府及び常州路といった諸路を陥落させた。平江路を隆平府と改称し、張士誠は高郵府より移って当地を都と定めた。そして承天寺を府庁に指定し、大殿の中に座を設け、棟木に矢を三本射て証とした。この年、太祖(朱元璋)もまた集慶路を陥落させ、楊憲を派遣して張士誠と好を通じようとした。その書状には次の様に記してあった。「昔、隗囂は天水郡に拠って威勢を轟かせたが、今や貴殿もまた姑蘇に拠って王号を称され、事の趨勢は同じく、我は心から貴殿の為に喜んでいる。隣人として睦まじく境界を守る事は、古人の貴ぶ所であって、密かに非常に親しみを感じる物である。ただ今より信使を往来させ、讒言に惑わされて辺境に諍いを生じる事の無い様にしようではないか。」張士誠は書状を受け取ると、楊憲を留めて返答しなかった。直後、水軍を派遣して鎮江府を攻撃した。徐達はこれを竜潭の戦いで破った。太祖は徐達及び湯和を派遣して常州路を攻撃させた。張士誠の兵が来援したが、大敗し、張・湯二将軍を失ったので、書状を送って講和を求め、年間に粟二十万石、黄金五百両、白金三百觔を上納する事を申し出た。太祖は返答し、楊憲を拘留した咎を責め、年間五十万石の上納を求めた。張士誠はまたしても返答しなかった。
 当初、張士誠が平江路を獲得すると、兵を用いて嘉興県を攻撃した。元朝の守将苗軍元帥楊完者(楊オルジェイ)はしばしばその兵を破った。そこで張士徳を派遣して間道伝いに杭州路を破った。楊完者が救援に戻ると、再び敗退した。翌年、耿炳文が長興州を奪取すると、徐達は常州路を奪取し、呉良らは江陰州を奪取し、張士誠の兵は四方に出兵する訳には行かず、その勢力はやや衰えた。間も無くして、徐達の兵が宜興州を従えると、常熟州を攻撃した。張士徳が迎撃したが敗れ、先鋒趙徳勝に捕らえられてしまった。張士徳、小字を九六と言い、戦上手で策謀に長け、よく兵卒の心理を掌握し、浙西の地は全てその手によって攻略平定された物であった。捕縛された事が伝わると、張士誠は非常に落胆した。太祖は張士徳を留めて張士誠を招聘する口実にしようと考えた。張士徳は間道より張士誠に書状を送り、元朝への帰順を勧めた。こうして張士誠は投降の申し出を決意した。江浙行中書省右丞相達識帖睦邇(タッシテムル)は事の次第を朝廷に伝え、張士誠に太尉の地位を授け、その将帥や官吏に対してもそれぞれ官職を用意させた。張士徳は金陵に於いて遂に食を絶って死んだ。張士誠は偽号を廃止したものの、軍や領土は旧来のままであった。達識帖睦邇は杭州路に在って楊完者と折り合いが悪かったので、密かに張士誠の兵を引き入れた。張士誠は史文炳を派遣して楊完者を強襲し殺害、遂に杭州路を掌中に収めた。順帝は使者を派遣して食糧を徴発し、張士誠に竜衣や御酒を賜った。張士誠は海路より食糧十一万石を大都に運び入れ、これは毎年の恒例となった。張士誠はもはや以前にも増して驕慢になり、部下に下令して利益を分け、元朝に対して王爵を求めたが、認められなかった。
 (至正)二十三年九月、張士誠は再び自立して呉王となり、母の曹氏を尊んで王太妃とし、属官を置き、城内に別の府庁を設け、張士信を浙江行中書省左丞相として、達識帖睦邇を嘉興県に幽閉した。元朝は二度と食糧を徴発する事が出来なくなった。参軍の兪思斉という人物は、字を中孚と言って、泰州の人であったが、張士誠を諌めて言った。「反抗して賊となれば、貢納せずとも良いでしょうが、今や臣下となったにも関わらず、貢納しないとは何事にございますか!」張士誠は怒り、档案を地面に叩き付けたので、兪思斉は病気と称して去って行った。この当時、張士誠の支配する地域は、南は紹興路に至り、北は徐州を越え、済寧路の金溝に達し、西は汝州・潁州・濠州・泗州を隔て、東は海に迫り、全体で二千里余りに及び、軍勢は数十万を数えた。張士信及び婿の潘元紹は腹心となり、左丞徐義・李伯昇・呂珍は爪牙の臣となり、参軍黄敬夫・蔡彦文・葉徳新は謀議を主管し、元朝の学士であった陳基・右丞饒介は文章を管理した。また賓客を招き寄せる事を好み、贈答した物品は輿馬・居室・什器など事細かに及んだ。住居を持たない者や戸籍を持たない者は我先にと馳せ参じた。
 張士誠の為人は、外向きは慎重かつ寡黙で、器量が有る様に見える一方で、実際は遠謀など持ち合わせてはいなかった。呉の地に割拠すると、呉は長らく平穏を享受して、戸数からも分かる様に非常に繁栄していた事から、張士誠は奢侈に溺れ、政事を怠る様になった。張士信・潘元紹は最も蒐集を好み、金玉珍宝及び古法書名画の類で、集まらない物は無かった。日夜歌舞に興じて自ら楽しんだ。将帥もまた驕り高ぶって命令を下さず、出征の度に病気と称し、官爵や田宅を求めた後に動く有様であった。戦地に赴こうとする際には、同伴した下女や妾や楽器の列は踵が触れる程に絶え間無く続き、また遊説の士を大勢集め、樗蒲や蹴鞠を楽しみ、みな軍務を意に介さなかった。軍や領土を失って逃げ帰っても、張士誠は大して問題にしなかった。しばらくすると、再び将帥に任用したのである。上下の者が遊び楽しむ様は、滅亡するまで続いたのであった。
 太祖は張士誠と境界を接していた。張士誠はしばしば兵を用いて常州府・江陰州・建徳府・長興州・諸全州を攻撃したが、苦戦を強いられて撤退した。一方で太祖は邵栄に湖州路を攻撃させ、胡大海に紹興路を攻撃させ、常遇春に杭州路を攻撃させたものの、やはり陥落させる事が出来なかった。廖永安が捕らえられ、謝再興が叛いて張士誠に降伏した時、太祖は陳友諒と対峙しており、未だに余裕は無かった。陳友諒はまた使者を派遣して張士誠と太祖挟撃の密約を交わしたが、張士誠は境界を守って状況の変化を観察する事を考えており、使者は認めても、遂に動く事は無かった。太祖が武昌路を平定すると、軍を返し、徐達らに命じて淮東攻略を命じ、泰州・通州に勝利し、高郵府を包囲した。張士誠は水軍を用いて長江を遡上して来援すると、太祖自らこれを撃退した。徐達らが漸く高郵府を突破すると、淮安路を奪取し、淮北の地の悉くが平定された。こうして平江路に檄文を発し、張士誠に八つの罪状を突き付けた。徐達・常遇春は兵を率いて太湖より湖州路へ向かい、呉軍は毘山に迎え撃ち、また七里橋に戦ったが、何れも敗北し、遂に湖州路は包囲された。張士誠は朱暹・五太子らに六万の軍を与えて援軍として派遣し、旧館に駐屯させ、五ヶ所に砦を築いて防御を固めた。徐達・常遇春は十ヶ所に堡塁を築いて連携を断ち、その糧道を遮断した。張士誠は事態の深刻さを悟り、自ら兵を督戦して迎撃したが、皂林の戦いで敗北した。その部将徐志堅は東遷の戦いで敗れ、藩元紹は烏鎮の戦いで敗れ、昇山の水陸両寨は全て撃破され、旧館への援護は絶たれ、五太子・朱暹・呂珍は何れも降伏した。五太子は、張士誠の養子であり、背は短いが精悍で、地面から一丈余りも跳び上がる事が出来、また水泳を得意としており、呂珍・朱暹もまた宿将として戦上手であったが、ここに至って降伏したのであった。徐達らは湖州路に対して戦果を報せた。守将李伯昇らは城を以て降伏し、嘉興県・松江府も相次いで降伏した。潘原明もまた杭州路を以て李文忠に降伏した。
 (至正)二十六年十一月、大軍が平江路に進攻し、長大な包囲陣を築いてこれを困窮させた。張士誠は数ヶ月の間守り続けた。太祖は書状を送ってこれを招聘した。「古の豪傑とは、天意を畏れ民意に応える者が賢者であり、自身を全うし一族を保つ者が智者であり、漢の竇融・宋の銭俶がそれである。汝は熟慮されよ、自ら逆賊を討滅する道を進まねば、天下の笑い者となろうぞ。」張士誠は返答せず、しばしば包囲を突破する為に決戦を挑んだが、苦戦は免れなかった。李伯昇は張士誠が逼迫している事を知り、子飼いの論客に城壁を越えさせて張士誠を説得した。「当初、貴公の頼みとする地域は、湖州路・嘉興県・杭州路だけでございましたが、今や全てが失われました。この城を守るだけでは、いずれ内部より変事が起こり、貴公が死を望んだとしても、それすらも思い通りにならないでしょう。もし天命に従う事を潔しとしないのでありましたら、金陵に使者を派遣して、貴公の義を貴び民を救う意志を表し、城門を開いて、幅巾を身に着けて沙汰を待つのです、そうすれば万戸侯程度の地位は安堵される事でしょう。そもそも貴公の領土は、広大な様でいて、元々は他人の物を奪ったのでございますから、またこれを失ったとしても、貴公は何の損もしておられないのです。」張士誠はしばらく天を仰ぎ見てから言った。「我もこれを考えておった。」そして論客に謝礼したが、遂に降伏しなかった。張士誠の下の勇壮を以て鳴る精鋭で「十条竜」と呼ばれる者は、みな勇猛果敢で、常に銀の甲冑と錦の戦袍を身に着けて陣中に出入りしていたが、ここに至って悉く敗北し、万里橋の下で溺れ死んだ。最後に残った丞相張士信も砲弾の命中によって戦死すると、城内は動揺して抗戦の意志は挫かれた。(至正)二十七年九月、城壁が突破され、張士誠は残兵を集めて万寿寺東街に迎え撃ったが、軍は逃げ散った。慌てふためいて府庁に戻ると、扉を閉め切って首を吊った。元部将であった趙世雄がこれを解いた。大将軍徐達はしばしば李伯昇・潘元紹らを派遣して翻意を促したが、張士誠は目を瞑って答えなかった。担いで葑門を出て、船に乗せると、今度は食事を取ろうとしなかった。金陵に到着すると、遂に自ら縊死した。四十七歳であった。棺を用意する様に命じてこれを埋葬した。
 張士誠が包囲されつつあった時、その妻の劉氏に語った事がある。「我が敗北して死ねば、其方はどうするか?」劉氏は答えた。「ご心配無く、妾は決して貴方にご迷惑を掛けません。」斉雲楼の下に薪木を積み上げた。城壁が突破されると、妾たちを急き立てて楼に登らせ、養子の張辰保に命じて火を放ってこれを焼かせ、また自らは縊死した。幼い二子は民間に匿われたが、その最期を知る者は居ない。以前、黄敬夫ら三人を重用した事で、呉の人々は必ずや張士誠が敗北すると悟り、「黄菜葉」なる十七字の歌謡(※1)が流行ったが、その後は果たして歌の通りになったと言う。
 莫天祐という人物は、元朝末期に群衆を集めて無錫州を保全し、張士誠が招聘しても応じなかった。兵を用いてこれを攻撃しても、勝利出来なかった。張士誠が元朝の官位を授かると、莫天祐は降伏した。張士誠はしばしば上奏して枢密院同僉に推薦した。平江路が包囲されるに及んで、他の城は全て陥落したが、ただ莫天祐だけは堅守していた。張士誠が敗北すると、胡廷瑞がこれを強襲し、降伏した。太祖は自軍の兵の多くを負傷させた事から、これを誅殺した。
 李伯昇は張士誠に仕えて司徒に昇進し、降伏すると、旧官のままを命じられ、中書省平章政事・詹事府同知に昇進した。兵を率いて湖広慈利県の蛮族を討伐し、また征南右副将軍となって、呉良と共に靖州の蛮族を討伐した。後に胡惟庸の徒党に連座して処刑された。潘元明〔一〕は平章政事として杭州路を守ったが降伏し、浙江行中書省平章政事となり、李伯昇と共に食禄七百五十石とされたが、政務には関与しなかった。雲南が平定されると、潘元明は雲南布政使司の業務を担当し、在任中に没した。
 張士誠は挙兵してから滅亡するまで、凡そ十四年であった。

【注釈】
(※1)「黄菜葉」なる十七字の歌謡、『七修類稿』巻十三、国事類、黄蔡葉には、「丞相閣下はお仕事をなさるのに、黄蔡葉ばかり使っておられるけれど、ある日の晩に西の風が吹いて、干乾びてしまったよ(丞相做事業、専用黄蔡葉、一夜西風起、乾癟)。」とある。尚、この丞相は張士信を指しており、張士誠の事では無い。黄蔡葉とは前述した黄敬夫・蔡彦文・葉徳新の事であり、何れも張士信に重用されていた。西の風とは朱元璋の発した呉討伐の大軍である。

【校勘記】
〔一〕潘元明、本書巻百二十六、李文忠伝・巻百三十、耿炳文伝・巻百三十一、梅思祖伝・巻百三十四、郭雲伝も同様である。本巻上文・本書巻一、太祖本紀・『太祖実録』巻十六、丙午八月辛亥条及び『国榷』巻二、三百二十八頁から三百二十九頁は「潘原明」としている。
by su_shan | 2016-09-20 19:52 | 『明史』列伝第十一

陳友諒

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 陳友諒、沔陽府の漁家の子である。本来の姓は謝氏であったが、祖父が陳氏に入婿した為に、その姓に従ったのである。幼くして読書に励み、凡その文意を理解する事が出来た。ある術者がその先代の墓地を観た所、「後に富貴を得るであろう。」と言ったので、陳友諒は内心喜んだ。以前に県の小吏になった事があったが、満足する物では無かった。徐寿輝が挙兵すると、陳友諒は馳せ参じてこれに従属し、その部将倪文俊に仕えて簿掾になった。
 徐寿輝は羅田県の人で、又の名を徐真一と言い、織物を売って生計を立てていた。元朝末期に盗賊が跋扈すると、袁州の僧侶彭瑩玉は妖術を用いて麻城県の鄒普勝と共に群衆を集めて叛乱を起こし、紅の頭巾を目印にし、徐寿輝の容貌が普通では無かった事から、遂に主君として仰いだのであった。至正十一年九月には蘄水県及び黄州路を陥落させ、元朝の威順王寛徹不花(コンチェクブカ)を破った。こうして蘄水県を都に定め、皇帝を称し、天完と国号し、治平と建元し、鄒普勝を太師とした。間も無くして、饒州路・信州路を陥落させた。翌年に四方へ出兵し、立て続けに湖広・江西の諸郡県を陥落させた。遂に昱嶺関を破り、杭州路を陥落させた。別軍を率いて鄒普勝らは太平路近辺の諸路を陥落させた。その勢力は非常に強大化した。しかしながら遠大な志は無く、獲得した地域を守る事が出来なかった。翌年に元軍に敗北すると、徐寿輝は逃げ去った。その後、勢力を盛り返し、漢陽府に遷都したものの、丞相倪文俊の専横を許す事になった。
 (至正)十七年九月、倪文俊は徐寿輝弑逆を画策したものの失敗し、黄州路へ逃げ延びた。当時陳友諒は倪文俊の麾下にあり、しばしば功績を挙げ、領兵元帥になっていた。隙を見て倪文俊を殺害し、その兵を吸収し、自ら宣慰使〔一〕を称し、次いで平章政事を称した。
 翌年に安慶路を陥落させ、また竜興路・瑞州路を破り、兵を分けて邵武路・吉安路を奪取し、自らも兵を率いて撫州路に侵入した。続いて建昌路・贛州路・汀州路・信州路・衢州路を破った。
 この当時、長江以南では陳友諒の兵が突出して最強であった。太祖(朱元璋)が太平路を奪取すると、共に境界を接する事になった。陳友諒が元朝の池州路を陥落させると、太祖は常遇春を派遣してこれを撃退奪取し、これより互いに何度も攻撃する様になった。趙普勝という人物は、勇敢な将帥であった事から、「双刀趙」と号した。最初は兪通海らと共に巣湖に駐屯していたが、共に太祖に帰順し、叛いて徐寿輝の下へ去った。この時点で陳友諒は安慶路を鎮守し、しばしば兵を率いて池州府・太平府を係争し、境界上を往来して掠奪した。太祖はこれを憂慮し、趙普勝の食客を買収し、陳友諒の軍中に潜入させて趙普勝を離間した。趙普勝はこれに気付かず、陳友諒の使者を引見するや自らの功績を訴え、恩着せがましく尊大に振る舞った。陳友諒はこれを含み、自身に対して二心を抱いていると疑い、軍を合流させる名目で、江州路より急行した。趙普勝は雁汊で羊を焼いて出迎えた。船に上ろうとした瞬間、陳友諒は趙普勝を殺害し、その軍を吸収した。そして軽装兵を率いて池州府を襲撃したが、徐達らに撃退され、軍は覆滅した。
 初め、陳友諒が竜興路を破った時、徐寿輝は当地に遷都しようと考えたが、陳友諒は反対した。間も無くして、徐寿輝は漢陽府を発ち、江州路に次いだ。江州路は陳友諒の治める所であったので、城郭外に伏兵を置き、徐寿輝を迎え入れると城門を閉じ、その所部を全滅させた。そして江州路を都とし、徐寿輝を推戴して居処とする一方、自らは漢王を称し、王府官属を設置した。こうして徐寿輝を奉って東進し、太平府を攻撃した。太平府の城壁は堅牢で容易に突破出来ず、巨船を持ち出して城の南西に接近した。兵卒は船尾から城堞によじ登って乗り越え、遂にこれに勝利した。更に意識は驕慢になった。采石磯に進駐し、部将を派遣して徐寿輝の面前で物事を述べさせ、護衛の精兵がその頭部を鉄器で粉砕した。徐寿輝が死亡すると、采石の五通廟を行殿とし、皇帝に即位し、漢と国号し、大義と改元し、太師鄒普勝以下の全てを旧来の官位に留めた。忽ち激しい風雨が巻き起こり、群臣は川岸に並んで祝賀したが、儀礼を成就させる事は出来なかった。
 陳友諒は猜疑心の強い性格で、権謀術数を好んで用いて配下の者を統制した。帝号を僭称するに及んで、江西・湖広の地の全てを領有し、その兵力の強大さを頼みに、東進して応天府を奪取しようとした。太祖は陳友諒と張士誠が呼応する事を恐れ、旧知の康茂才に書状を書かせてこれを誘引するという策を設け、侵攻を促進させた。果たして陳友諒は水軍を率いて東進し、江東橋に到達したが、康茂才を呼んでも応じる声は無く、初めて欺かれていた事を悟った。竜湾に戦い、大敗を喫した。水位の低下で船が座礁し、死者は数え切れず、喪失した軍船は数百隻に達し、軽舸に乗って逃走した。張徳勝が追撃してこれを慈湖に破り、その船を焼き払った。馮国勝は五翼の軍を用いてこれを圧迫し、陳友諒は皂旗軍を繰り出して迎え撃ったが、またしても大敗した。遂に太平府を放棄し、江州路へ敗走した。太祖は勝勢に乗じて安慶路を奪取し、その部将于光・欧普勝が降伏した。翌年、陳友諒は兵を派遣して再び安慶府を陥落させた。太祖は自らこれを討伐し、安慶府を奪還し、長駆して江州路に到達した。陳友諒は敗北し、夜陰に乗じて妻子を連れて武昌路へ遁走した。その部将呉宏は饒州路を以て降伏し、王溥は建昌路を以て降伏し、胡廷瑞は竜興路を以て降伏した。
 陳友諒は領土が日に日に縮小していく事に激怒し、大々的に楼船数百隻を建造したのであるが、その高さは数丈に達し、赤色の漆を用いて装飾し、どの船も三層の甲板を重ね、走馬柵を設け、上下の階に居る人の声が互いに聞こえない程であり、船楼は全て鉄板で裏打ちしていた。家属及び百官を乗せ、全ての精兵で南昌を攻撃すると、飛梯や衝車があらゆる街道を並進した。太祖の甥にあたる朱文正及び鄧愈が堅守した事で、三ヶ月経っても陥落させる事が出来ず、また太祖は自らこれを救援しようとした。陳友諒は太祖が現れたと聞くと、包囲を解き、東の鄱陽湖に進出し、康郎山で接敵した。陳友諒は巨艦を集め、連鎖して陣形を作ったので、太祖の兵は高所の敵と戦う事が出来ず、三日間の連戦で危機に陥った。続いて北東より風が起こり、火を放てば陳友諒の船に延焼し、その弟陳友仁らが焼死した。陳友仁は五王を号し、隻眼ではあったが、勇敢で智略に富んでおり、その死が伝わると、陳友諒は意気を阻喪した。この戦役では、太祖の船は小さかったものの、軽快で動かし易く、陳友諒軍は何れの艨艟も巨艦であり、進退に不便であった為に、敗北を喫したのである。
 太祖の乗る船の帆柱は白く塗られていたので、陳友諒は兵卒に対して翌日の戦いでは白い帆柱の船を総攻撃する様に示し合わせた。太祖はこれを悟ると、全ての船の帆柱を白く塗装した。翌日に再度戦闘が行われ、辰の刻より午の刻まで続いた結果、陳友諒軍は大敗した。陳友諒は後退して鞵山を保持しようとしたが、既に太祖は湖口を抑え、その帰路を遮っていた。膠着して数日が過ぎ、陳友諒は皆を集めて討議した。右金吾将軍は言った。「鄱陽湖を脱出するのは難しく、船を焼き払って上陸し、直接湖南へ向かって再起を図るのです。」左金吾将軍は言った。「それでは負けを認める様な物ではありませんか、奴らが歩騎を以て我らを追撃すれば、進退に窮し、取り返しの付かぬ事態を招きますぞ。」陳友諒は決断を躊躇ったが、漸く口を開いて言った。「右金吾の言を是とする。」左金吾将軍は自らの発言が採用されなかった事から、所部を挙げて投降した。右金吾将軍がそれを知ると、自身もまた投降した。陳友諒は更に困窮した。太祖は陳友諒に書状を送り付けたのであるが、その大略は次の様であった。「我は貴公と合従して、それぞれが一方を治め、天命を待とうと考えていた。それなのに貴公は大計を見失い、欲するままに敵意を剥き出しにした。我が寡兵を繰り出して、貴公の竜興路十一郡を掌中に収めるに、未だに自らを悔いる事無く、再び戦端を開いたのだ。まずは洪都府で苦杯を舐め、再び康郎山に破れ、骨肉の将兵たちに重ねて塗炭の苦しみを味わわせた。幸いにして貴公が生還を果たす事が出来れば、帝号を廃し、座して真の主の到来を待つが良い、そうでなければ一族郎党全てを失い、最期に悔恨を遺すであろう。」陳友諒が書状を開くと激怒して返答しなかった。しばらくして食糧が欠乏すると、包囲を破って湖口脱出を図った。太祖麾下の諸将は上流よりこれを迎え撃ち、涇江口で激戦が繰り広げられた。漢軍は戦う者も居れば逃げる者も居り、日没になっても未だに包囲を破れずにいた。陳友諒は船内から顔を出し、陣頭指揮を執っていたが、突然流れ矢が命中し、眼孔から頭蓋を貫かれて即死した。軍は壊滅し、太子陳善児が捕虜になった。太尉張定辺は夜陰に乗じて陳友諒の次子陳理を護衛しつつ、その遺骸を載せて武昌路へ遁走した。陳友諒は奢侈を好み、技巧を凝らして臥牀に金細工を散りばめ、宮中で使用する器物も同じ様にした。滅亡後、江西行中書省が臥牀を進呈した。太祖は呆れ返って言った。「これでは孟昶の七宝溺器(※1)と何も変わらぬではないか!」役人に命じてこれを処分させた。陳友諒が帝号を称してから四年後の事であった。
 子の陳理が武昌路へ帰還すると、帝位を継承し、徳寿と改元した。この年の冬、太祖は武昌路へ親征した。翌年二月に再び親征した。丞相張必先が岳州路より来援し、洪山に差し掛かった。常遇春が迎撃してこれを捕らえ、城下で見せしめにした。張必先は勇将の誉れ高く、軍中では「溌張」を号して、特に重用されていた。それが捕縛されるに及んで、城内の者は恐懼し、投降しようとする者が続出した。そこで太祖は旧臣羅復仁を城内に派遣して陳理を説得させた。こうして陳理は降伏したのであるが、軍門を訪れると地に伏して顔を上げようとしなかった。太祖は陳理が幼弱である事を見て取ると、これを抱え起こし、その手を握って言った。「我は汝に罪を着せたりはせぬぞ。」府庫の財物は全て陳理に任され、応天府凱旋に随行し、帰徳侯を授かった。
 陳友諒が徐寿輝の下へ走ろうとした時、父の陳普才がこれを制止したが、聞き入れなかった。富貴を得てから、父を迎えに行った所、陳普才は言った。「お前は儂の言い付けを守らなかった。もう何処で野垂れ死のうが知った事では無いわ。」陳普才には五人の男子があり、長男を陳友富、次男を陳友直、三男を陳友諒、四男を陳友仁、五男を陳友貴と言った。陳友仁・陳友貴は既に鄱陽湖で戦死していた。太祖が武昌路を平定すると、陳普才を承恩侯に封じ、陳友富を帰仁伯、陳友直を懐恩伯とし、陳友仁に康山王を贈り、所管部署に命じて廟堂を建立してこれを祀り、陳友貴はこれに合祀した。陳理は京師に在住したが、不機嫌そうに恨み言を口にする様になった。洪武帝(朱元璋)は言った。「こんな物は小童の些細な咎に過ぎぬが、ともすれば人心を惑わし、朕の恩義を忘れる事があるやも知れぬ、遠方へ移した方が良かろう。」洪武五年、陳理及び帰義侯明昇は共に高麗へ移され、元朝の降臣である枢密使延安答理(延安ダリ)に護送させた。高麗王に羅綺を下賜し、これをよく監視させた。また陳普才らは滁陽へ移された。

 熊天瑞という人物は、元は荊州の楽工であったが、徐寿輝が長江・湘江流域を掠め取った時期に従属した。後に陳友諒の命を受け、臨江路・吉安路を陥落させ、また贛州路を陥落させた。陳友諒は参知政事として贛州路を鎮守させ、同時に吉安路・南安路・南雄路・韶州路といった諸路を統括させた。しばらくして、東進を表明し、その旗幟に「無敵」と記して、自ら金紫光禄大夫・司徒・平章軍国重事を称した。陳友諒は制御出来なかった。密かに広東を奪取しようと企図し、南雄路で軍船を建造し、数万の軍を率いて広州路へ向かった。元朝の将帥何真は兵を率いて胥江で迎え撃った。たまたま激しい雷雨が巻き起こり、旗艦の帆柱をへし折った為に、熊天瑞は恐れて撤退した。太祖の兵が臨江路に勝利すると、常遇春らを派遣して贛州路を攻め、熊天瑞は五ヶ月以上も抗戦したが、(至正)二十五年正月、養子の熊元震を引き連れ肩脱ぎして軍門に降った。太祖はこれを赦し、指揮使の職位を授けた。翌年に浙西攻撃に従軍した際に、叛いて張士誠に投降し、張士誠に飛礟(投石機)の製法を伝え、包囲軍を砲撃した。城内の木や石が尽きるまで撃ち続け、包囲軍に大量の負傷者を出した。張士誠が滅亡すると、熊天瑞は誅殺された。
 周時中という人物は竜泉県の人で、徐寿輝の下で平章政事となった。後に所部を率いて投降し、熊天瑞は必ずや謀叛すると口添えした。果たして後にその通りになった。周時中は昇進を重ねて吏部尚書となり、鎮江知府に出向し、福建塩運副使を歴任した。
 熊元震の元の姓は田氏であり、戦上手の評判があった。常遇春が贛州路を包囲した際、熊元震は密かに城を抜け出して敵情偵察に向かい、常遇春もまた数騎を連れて出歩いていると、突然遭遇した。熊元震は相手を常遇春と気付かず、やり過ごした。常遇春が帰ると、初めて事態を悟り、単騎で進み出て常遇春を襲撃した。常遇春は従騎を向かわせて刀を抜いて迎え撃ち、熊元震は鉄器を振り回して戦いつつ走り去った。常遇春は「中々の壮男子ではないか。」と言って、これを捨て置いた。これよりその勇武の才幹を好ましく思った。熊天瑞が降伏すると、推薦して指揮使とした。熊天瑞が誅殺されると、再び元の姓に戻したと言う。

【注釈】
(※1)孟昶の七宝溺器、五代後蜀の後主孟昶の故事。その治世の後期は奢侈に溺れ、便器ですら珍宝で飾り立て、「七宝溺器」と称した。

【校勘記】
〔一〕宣慰使、元は「宣慰司」であった。宣慰司とは機構の名称であり、宣慰使は官名である。陳友諒が自称したのであれば、官名とするのが正しい。『明史稿』伝八、陳友諒伝・『太祖実録』巻十三、癸卯八月壬戌条は何れも「宣慰使」としており、これに基づいて改めた。
by su_shan | 2016-09-19 16:08 | 『明史』列伝第十一

列伝第十七 目次

馮勝 兄国用 傅友徳 廖永忠 趙庸 楊璟 胡美

 論賛、馮勝・傅友徳は百戦錬磨の驍将である。当時に於ける功臣の序列と、太祖(朱元璋)より賜った褒美の詞を考えると、湯和・鄧愈の下位に甘んじるとは思えない。廖永忠の智勇は卓越しており、その功績は宋国公(馮勝)・潁国公(傅友徳)に次ぐものであったが、何れも功名の内に終幕を迎える事が出来ず、身を滅ぼされ爵位を剥奪された事は、慷慨を禁じ得ないものがある。江夏侯周徳興が罪を得た時、太祖はこれを赦し、訓戒して公・侯を諭したものの、多くの粗暴無礼を働き、自ら滅びの道を選んだ。また廖永忠は何度も法を犯したが、改悛せずとも一度ならず赦された。それでは洪武朝時代の功臣で生を全うする事が出来なかった者は、或いはまた自らその道を選んでしまったのであろうか。楊璟・胡美の功績は前者には及ばないが、しかしながら嘗て別軍を率い、それぞれの方面に於いて著しい勲功を挙げた為に、これに次いで列記されたのである。
by su_shan | 2016-09-18 15:39 | 『明史』列伝第十七

胡美

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 胡美、沔陽府の人。最初の名は胡廷瑞と言ったが、太祖(朱元璋)の字を避け、胡美と改名した。当初は陳友諒に仕え、江西行中書省丞相となり、竜興路を鎮守した。太祖が江州路を陥落させると、遣使して胡美を招聘した。胡美は使者として鄭仁傑を九江に派遣して投降を申し出、更に自らの部曲を解散させる事の無いよう要請した。太祖は途端に難しい顔をしたが、劉基はその胡牀を足で小突いた。太祖は理解し、書状を下賜して次の様に返答した。「鄭仁傑なる者が訪れ、貴殿には恭順の意志が有ると言ったが、貴殿は実に明達である。ところで所部の分散を恐れておるそうだが、それは貴殿の心配の度が過ぎるというものだ。我が挙兵してより十年、奇才英士の四方より得たる者の何と多い事か。よく天の時を見定める者は、時機を計って、一々干戈を交える事は無く、賢明に身を寄せて来帰する者は、例外無く誠意を以て遇し、その才幹によってこれを任用し、兵が少なければ兵を与えて増強し、地位が低ければ爵位を授けて高位に上らせ、財産が乏しければ褒賞を与えて厚遇するに、その部曲を散じる事を認めれば、人に身の危険を疑わせ、どうして帰順の意志を持たせる事など出来ようか。更に陳氏の諸将を見れば、例えば趙普勝などは勇敢で戦上手であったが、疑惑を抱かれて殺戮されたと言うではないか。この様に猜疑していては、一体何を成し得えようか。近く建康竜湾の戦役に於いて、我が得た長張・梁鉉・彭指揮ら数名は、元の職位のまま登用し、我が旧来の諸将と同じく、恩も義も均等にしておる。長張は安慶路の水寨を破り、梁鉉らは江北を攻めたので、手厚く褒賞を与えてやった。これら数名の者は、そうする以外に生き延びる方法が無いにせよ、それでもこの様に処遇しておるのに、ましてや貴殿の様に一兵も煩わせる事無く、城を全うして帰順する者は尚更であろう。得失の機会は差し迫っておるぞ、貴殿は一刻も早く方策を立てよ。」胡美は書状を受け取ると、康泰を九江へ派遣して投降した。こうして太祖は竜興路へ赴き、樵舎に到着した。胡美は陳氏より授かった丞相の印章や軍民の数や備蓄物資の記録を献上し、新城門に出迎えて謁見した。太祖はこれを慰労し、元の官職のまま登用した。
 胡美は降伏したものの、同僉康泰・平章政事祝宗は従おうとしなかった為に、胡美は太祖に密告した。太祖はその兵を率いるよう命じ、徐達に従って武昌路に遠征させた。果たして二人は叛き、洪都府を攻め落とした。徐達らは兵を返してこれを撃退した。祝宗は敗死し、康泰は捕らえられて建康へ送られた。太祖は康泰が胡美の甥である事を理由に、誅殺せずに赦免した。胡美は武昌路遠征に従軍し、また徐達らと共に馬歩水軍を率いて淮東を奪取し、張士誠を討伐し、湖州路を陥落させ、平江路を包囲し、別軍を率いて無錫州を奪取し、莫天祐を降伏させた。軍が帰還すると、栄禄大夫を加官された。
 その年の冬、征南将軍を命じ、軍を率いて江西より福建を奪取するに際して、これを諭して言った。「汝は陳氏の丞相として帰順し、我に仕える事数年、忠実にして過失無し、それ故汝に兵を総べて閩の地を奪取するよう命じたのである。左丞何文輝を汝の副将とし、参知政事戴徳に徴発を委ねよ、二人は何れも我の親近ではあるが、だからと言って軍法に悖る様な事が有ってはならぬ。嘗て汝は閩を攻めた事が有ると聞く、ならばその地勢の険易を熟知していよう。今、大軍を総べて城邑を攻囲するに当たり、必ずや便宜の可否を選んで進退を見極め、時機を失する事の無い様にせよ。」こうして胡美は杉関を越え、光沢県を陥落させ、邵武県守将李宗茂は城を以て降伏した。建陽県に差し掛かると、守将曹復疇もまた降伏した。進撃して建寧県を包囲すると、守将同僉達里麻(タリマ)・参知政事陳子琦は堅守して我が軍の疲弊を画策した。胡美は度々挑発したものの、出撃しなかった為、これを強襲して降伏させた。軍列を整えて入城し、秋毫も犯す所は無かった。陳子琦らを捕らえて京師へ送り、将兵九千七百人余りを捕縛し、糧食馬畜の数は相当であった。湯和らと合流して福州路・延平路・興化路を奪取し、胡美は降将を汀州路・泉州路の諸郡に派遣して降伏するよう説得した。こうして福建の地の悉くが平定された。胡美は当地を鎮守した。次いで召還され、汴梁行幸に扈従した。
 太祖が即位すると、胡美は中書省平章政事・詹事院同知となった。洪武三年に命によって河南に赴き、拡廓帖木児(ココテムル)の元の部曲を招集した。この年の冬に論功行賞が行われ、豫章侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられ、その誥詞には竇融が漢に帰順した故事と対比する一節があった。(洪武)十三年に臨川侯に改封され、長沙府での潭王府建設を監督した。太祖は勲臣を配列するに当たって、両雄の間に兵を抱え、時勢の成り行きに関わらず帰順した者七名を言った。七人とは、韓政・曹良臣・楊璟・陸聚・梅思祖・黄彬及び胡美であり、みな侯爵に封じられた。胡美と楊璟は一方面に在って功績著しく、洪武帝(朱元璋)はこれに最上位の厚遇を与えた。
 (洪武)十七年に法に触れて処刑された。(洪武)二十三年、李善長が粛清されると、洪武帝は自ら詔を著して奸党を並び立てたのであるが、胡美の長女が貴妃となっていた事から、その子や婿を伴って押し入り宮禁を破り、その事態が発覚した事で、子や婿は処刑され、胡美は自害を賜ったと記されている。
by su_shan | 2016-09-18 15:37 | 『明史』列伝第十七

楊璟

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 楊璟、合肥県の人。元は儒家の子であった。管軍万戸として太祖(朱元璋)の集慶路攻略に従軍し、管軍総管に昇進した。常州路を陥落させると、親軍副都指揮使に昇進した。続いて婺州路を陥落させ、江南行枢密院判官に遷った。また漢(陳友諒)討伐に従軍し、功績によって湖広行中書省参知政事に抜擢された。江陵県鎮守に移った。湖南地方の蛮族を攻め立て、軍を三江口に駐留させた。また掃討の功績によって湖広行中書省平章政事に遷った。左丞周徳興・参知政事張彬を指揮して武昌府の諸衛軍を率いて広西を奪取した。
 洪武元年の春に永州路へ進攻した。守将鄧祖勝が迎撃したものの敗北し、兵を撤収して固守した。楊璟は進撃してこれを包囲した。元軍が来援すると、東郷に駐留し、湘水に七つの陣営を並べて呼応し、軍勢は強盛であった。楊璟はこれを撃退し、千人余りを捕虜とした。全州路守将の平章政事阿思蘭(アスラン)及び周文貴が再び兵を率いて来援したので、周徳興を派遣してこれを撃退した。千戸王廷を派遣して宝慶路を奪取し、周徳興・張彬は全州路を奪取し、道州・藍山県・桂陽州・武岡県といった諸州県を攻略した。一方で永州路は長らく陥落しなかったので、一軍に下令して各門に布陣させ、堡塁を築いて困窮させ、西江に浮橋を造り、これを急襲した。鄧祖勝は力尽き、毒薬を仰いで自殺した。百戸夏昇が投降を約束した。楊璟の兵が城壁を越えて侵入すると、参知政事張子賢が各所で抗戦したが、軍は壊滅して捕らえられ、漸く永州路に勝利した。一方で征南将軍廖永忠・参知政事朱亮祖もまた広東より梧州路を奪取し、潯州路・貴州・欝林州を平定した。朱亮祖は兵を率いて合流した。靖江に進攻したものの陥落させる事が出来ず、楊璟は諸将に言った。「連中の頼みとする所は西側の水濠だけだ。その堤防を決壊させれば、これを打ち破るのは確実である。」そこで指揮使丘広を派遣して牐口関を攻撃させ、堤防の守兵を殺害し、水濠を完全に決壊させ、更に五本の土堤を築き、城内へ注ぎ入れた。それでも城中の者は固守を続けた。強襲すること二ヶ月、これに勝利し、平章政事也児吉尼(イェルギニ)を捕らえた。これに先んじて張彬が南関を攻撃した時、守兵に悪罵され、激怒してその民衆を虐殺しようとした。楊璟が入城するに当たって、特に下令してこれを禁じた為、民衆は安堵した。再び軍を移して郴州路を従え、両江土官黄英岑・伯顔(バヤン)らを降伏させ、廖永忠もまた南寧路・象州を鎮定した。こうして広西の地の悉くが平定された。
 帰還すると、偏将軍湯和と共に徐達に従って山西を奪取し、沢州に到達したものの、元朝の平章政事韓扎児(韓ジャル)と韓店に戦い、敗北を喫した。帰還すると、唐州の叛乱兵を捕縛し、南陽府に留まって鎮守した。間も無くして、詔を下して楊璟を夏(明昇)へ遣使した。この当時、夏の主君明昇は幼く、母彭氏及び諸大臣が国政を取り仕切っていた。楊璟が到着すると、何度も禍福を説いて明昇を説得し、入朝させようとした。明昇は臣下を集めて協議を行った。ところが諸大臣は私利私益しか考えておらず、明昇の入朝は自らの不利と思い、みな反対したので、明昇は決断する事が出来なかった。楊璟が帰還すると、再び書状を用いて明昇を諭したものの、遂に成果は得られなかった。二年後に夏は滅んだ。楊璟は湖広行中書省平章政事に遷った。
 慈利県の土官覃垕が諸洞蛮を扇動して叛乱を起こすと、軍を率いて討伐するよう命じられ、これを立て続けに破った。覃垕が偽って投降すると、楊璟は配下の者を受諾に向かわせたものの、捕らえられてしまった。太祖は使者を派遣して楊璟を叱責した。楊璟は兵を督戦して強襲し、賊軍は遁走した。
 (洪武)三年に大規模な功臣封爵が行われると、楊璟は営陽侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)四年に湯和に従って夏を討伐したが、瞿塘関の戦いでは苦戦を強いられた。翌年に副将軍に充てられ、鄧愈に従って辰州府・沅州の蛮族叛乱を討伐した。再び大将軍徐達に従って北平府を鎮守し、遼東に練兵した。(洪武)十五年八月に没し、芮国公に追封され、武信と諡された。子の楊通が跡を継ぎ、(洪武)二十年に降兵を率いて雲南鎮守に向かったが、道中でその多くが逃亡した為、普定衛指揮使に降格された。(洪武)二十三年、楊璟が胡惟庸の徒党に連座したとの詔が発せられ、これは瞿塘関での敗戦の責を負わされたものとされているが、異聞では陰謀であると言う。
by su_shan | 2016-09-16 12:16 | 『明史』列伝第十七

趙庸

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 趙庸、廬州路の人、兄の趙仲中と共に手勢を集めて水寨を築き、巣湖に駐屯した後に、太祖(朱元璋)に帰順した。趙仲中は功績を重ねて江南行枢密院僉事となり、安慶府を鎮守した。陳友諒が安慶府を陥落させると、趙仲中は城を棄てて竜江へ逃げ帰ったので、法に照らして誅殺される事になった。常遇春は助命を請うた。太祖は認めず、次の様に言った。「法の通りに執行しなければ、後の戒めとならぬではないか。」こうして趙仲中は誅殺されたものの、その官位は趙庸に授けられた。続いて安慶府を奪還し、江西の諸路を従え、江南行中書省参知政事に昇進した。続いて康郎山に戦い、兪通海・廖永忠らと共に六隻の船を用いて深く突入し、敵を破った。武昌路を平定し、廬州路に勝利し、安豊路を救援し、その全てに功績を挙げた。大軍を発して淮東を奪取すると、趙庸は華高と共に水軍を率いて海安・泰州に勝利し、進撃して平江路を包囲した。呉の地が平定されると、中書省左丞に抜擢された。大将軍(徐達)に従って山東を奪取した。洪武元年に太子副詹事を兼任した。河南府が平定されると、趙庸に留守を命じた。また兵を分けて黄河を渡り、河北の州県を巡って降伏させ、進撃して河間路に勝利し、当地を鎮守した。次いで保定府鎮守へ移り、併せて未だに帰順しない山寨を収めた。また大軍に従って太原に勝利し、関中・陝西を陥落させた。常遇春に従って北進し元朝の順帝を追撃した。軍が帰還すると、常遇春が没したので、趙庸を副将軍に命じ、李文忠と共に慶陽府を攻撃させた。進軍途上で太原府に差し掛かった時、元軍が大同府を急襲したので、李文忠と趙庸は一計を案じ、便宜を図って大同府を救援する事とし、再び元軍を馬邑の戦いで破り、その将帥脱列伯(トレバイ)を捕らえた。論功行賞により、褒賞は大将軍(徐達)に次ぐものとされた。(洪武)三年に再び李文忠に従って北伐し、野狐嶺に進出し、応昌路に勝利した。軍が帰還すると、論功行賞にて最上位とされたものの、応昌路にて私的に奴婢を手に入れた事が発覚し、公に封爵されず、南雄侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。続いて蜀(明昇)討伐に従軍したものの、途上で帰還した。
 (洪武)十四年、閩・粤の地に盗賊が跋扈したので、趙庸に命じてこれを討伐させた。翌年には諸々の盗賊や陽山県・帰善県の叛旗を翻した蛮族の悉くが平定され、その首魁を殺戮し、残党は散り散りになったので、民衆は生業に復帰する事が出来た。蜑戸一万人を水軍に改編する様に上奏した。また広東の盗賊で自称鏟平王なる者を鎮圧し、賊徒七千八百人余りを捕らえ、八千八百人余りを斬首し、その民一万三千戸余りを降伏させた。帰還すると、綵幣・上尊・良馬を下賜された。その年の冬に山西地方の軍務を管理する為に出向き、北辺を巡撫した。(洪武)二十年、左参将として傅友徳に従い納哈出(ナガチュ)を討伐した。(洪武)二十三年、左副将軍として燕王(朱棣)に従って古北口を出撃し、乃児不花(ナイルブカ)を降伏させた。帰還すると、胡惟庸の徒党に連座して誅殺された。爵位は剥奪された。
by su_shan | 2016-09-15 19:06 | 『明史』列伝第十七

廖永忠

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 廖永忠、巣県の人、楚国公廖永安の弟である。廖永安に従い巣湖に於いて太祖(朱元璋)を迎えた時、最も年少であった。太祖は言った。「汝もまた富貴を望むか?」廖永忠は答えた。「明主に仕える事が出来たのであれば、戦乱を鎮め、功名を竹帛に垂る(※1)、それだけが望みです。」太祖は喜んだ。廖永安を補佐して水軍を率いて長江を渡り、采石・太平路を突破し、陳野先(陳エセン)を捕らえ、蛮子海牙(マンジハイヤ)及び陳兆先を破り、集慶路を平定し、鎮江路・常州路・池州路に勝利し、江陰州の海賊を討伐し、それら全てに功績を挙げた。
 廖永安が呉(張士誠)に捕らえられると、廖永忠が兄の職務を引き継ぎ、江南行枢密院僉事となり、その軍を総括した。趙普勝の水上陣地を攻撃し、池州府を奪還した。陳友諒が竜湾に侵攻すると、威勢を上げて敵陣へ突入し、諸軍がそれに続いて、大いにこれを打ち破った。陳友諒征伐に従軍し、安慶路に到達すると、その水寨を破り、遂に安慶路に勝利した。続いて江州路を攻撃したが、州城は長江に接し、防御は非常に堅牢であった。廖永忠は城壁の高さを考慮して、船尾に橋を作り、これを天橋と名付けて、船を風に乗せて倒し、城壁に橋を渡して、遂にこれに勝利した。江南行中書省右丞に昇進した。
 続いて南昌を陥落させ、安豊路を救援し、鄱陽湖に戦い、包囲の中決死の覚悟で奮戦した。敵将張定辺が太祖の旗艦を直撃したが、常遇春が射抜いてこれを敗走させた。廖永忠は飛舸に乗って追撃し更に矢を射かけ、張定辺は百本以上の矢を受け、漢(陳友諒)兵の多くが死傷した。翌日、また兪通海らと共に七隻の船に枯草を積み、風上より火を放ち、敵の楼船数百隻を焼き払った。また六隻を用いて突入して肉薄し、再び一周して離脱して行ったので、敵は驚いて神だと騒ぎ立てた。またこれを涇江口に邀撃し、陳友諒は敗死した。続いて陳理を征伐した時は、兵を分けて四つの門に布陣し、長江に船を連ねて長大な陣営を築き、その出入りを遮断したので、陳理は降伏した。京師に帰還すると、太祖は漆の木牌に「功超郡将智邁雄師」の八字を記して下賜し、門に懸ける事を許した。徐達に従って淮東攻略に取り掛かると、張士誠は水軍を派遣して海安に迫ったので、太祖は廖永忠に下令して兵を水寨へ戻してこれを防がせ、遂に徐達は淮東諸郡に勝利した。続いて張士誠を討伐し、徳清県を奪取し、進撃して平江路に勝利し、中書省平章政事を拝命した。
 次いで征南副将軍に充てられ、水軍を率いて海路より湯和と合流し、方国珍を討伐して降伏させ、福州路へ進撃して勝利した。洪武元年に詹事院同知を兼任した。閩(福建)中諸郡を攻略し、延平路に到達すると、陳友定を破って捕らえた。次いで征南将軍を拝命し、朱亮祖を副将として、海路より広東へ侵攻した。廖永忠はまず書状によって元朝の左丞何真を説得し、分かり易く利害を説明した。何真は表を奉じて投降を申し出た。東莞に到達すると、何真は属官を率いて出迎えた。広州に到達すると、盧左丞を降伏させた。海賊邵宗愚を捕らえ、その数々の暴虐を咎めてこれを斬殺した。広東の人々は非常に喜んだ。九真・日南・朱厓・儋耳の三十余りの城を説得して回ると、みな印章を返納して官吏の派遣を求めた。広西へ進攻し、梧州に到達すると、元朝の達魯花赤(ダルガチ)拝住(バイジュ)を降伏させ、潯州路・柳州路は何れも降伏した。朱亮祖を派遣して楊璟と合流させ、未だに帰順しない州郡を収めた。廖永忠は兵を引き連れて南寧路に勝利し、象州を降伏させた。こうして両広の地の悉くが平定された。廖永忠は慰撫が巧みであり、民衆はその恩恵を慕い、その為に祠を建立した程である。翌年九月に京師に召還され、洪武帝(朱元璋)は太子(朱標)に命じて百官を率いて竜江に出迎えさせた。入朝して接見を終えると、太子に命じて邸宅へ送り届けさせた。再び出向くと、泉州府・漳州府を慰撫した。(洪武)三年に大将軍徐達に従って北征し、察罕脳児(チャガンノール)に勝利した。帰還すると、徳慶侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 翌年、征西副将軍として湯和に従い水軍を率いて蜀(明昇)を討伐した。湯和は大渓口に駐屯し、廖永忠が先発した。嘗ての夔府に差し掛かると、守将鄒興らの兵を破った。瞿塘関に侵攻すると、山岳は険しく水流は激しく、蜀人は鉄鎖橋を設けて、関口を封鎖し、船の前進を阻んでいた。廖永忠は数百人に干し飯と水筒を持たせて密かに送り込み、小舟を担いで山を越え関を渡り、その上流へ進出させた。蜀の山地には草木が多く茂っていたので、将兵に下令して全員に青い草葉で作った蓑を纏わせ、一人ずつ崖の縁を進ませた。到着する頃合いを見計らって、精鋭を率いて墨葉渡に進出し、夜中に鼓を五度打ち鳴らして、それぞれ両軍がその水陸寨に攻め寄せた。水軍は全ての船首を鉄板で裏打ちし、火器を設置して前進した。黎明になって、蜀人は初めて事態に気付き、全ての精鋭を繰り出して抗戦した。廖永忠はその陸寨〔一〕を破ると、たまたま将兵が船を担いで長江上に進出したので、一斉に動き出し、上下より攻め寄せて、大いにこれを打ち破り、鄒興は戦死した。こうして三つの橋を焼き払い、長江を横断していた鉄索を切断し、同僉蒋達ら八十数人を捕らえた。飛天張・鉄頭張らは遁走し、遂に夔府に入城した。翌日、漸く湯和が到着したので、湯和と経路を分けて進み、重慶府での合流を企図した。廖永忠は水軍を率いて重慶府を直撃し、銅鑼峡に差し掛かった。蜀の君主明昇は投降を申し出たものの、廖永忠は湯和が到着していない事を理由に拒絶した。しばらく待機していると湯和が現れたので、投降を受諾し、慰撫を引き受けた。掠奪を禁ずる布告を発した。ある兵卒が民の持っていた茄子七個を奪い取った事が発覚すると、これを斬首した。戴寿・向大亨らの家を慰安し、その子弟に書状を持たせて成都路を説得させた。戴寿らは既に傅友徳に敗退していたので、その書状を手にすると、遂に降伏した。こうして蜀の地の悉くが平定された。洪武帝は『平蜀文』を作ってその功績を称え、その文中に「傅一廖二」の言葉を入れる程、夥しい褒賞を下賜した。翌年に北征し、和林(カラコルム)に到達した。(洪武)六年に水軍を率いて海上に進出し、倭寇を捕らえ、次いで京師に帰還した。
 当初、韓林児が滁州に居た頃、太祖は廖永忠を派遣して応天府へ迎え入れようとしたが、瓜歩に差し掛かった所でその船が転覆して溺死したので、洪武帝は廖永忠を咎めた。大規模な功臣封爵を行った際に、諸将を諭して言った事がある。「廖永忠は鄱陽湖に戦った際、身の危険を顧みず敵を拒んだ、まさに奇男子と言うべきである。しかし子飼いの儒者を用いて朕の意を窺い、封爵を求めたので、侯に止めて公としなかったのだ。」楊憲が丞相となると、廖永忠と比較された。楊憲が誅殺されると、廖永忠はその功績によって免罪された。(洪武)八年三月に無断で竜鳳の紋様を用いるなど数々の不法が発覚して死を賜った時、五十三歳であった。
 子の廖権は(洪武)十三年に侯爵位を継ぎ、傅友徳に従って雲南に遠征し、畢節及び瀘州を鎮守し、召還された。(洪武)十七年に没した。子の廖鏞は跡を継ぐ事が出来なかったものの、嫡子であった事から散騎舎人となり、昇進を重ねて都督となった。建文年間に兵事に参画し、宮廷に宿営した。弟の廖銘と共に方孝儒に師事した。方孝儒が死ぬと、廖鏞・廖銘はその遺骸を収め、聚宝門外の山上に埋葬しようとした。ほぼ終えようとした時、事が露見し、死罪とされた。弟の廖鉞及び叔父の指揮僉事廖昇は何れも辺境に赴任した。
 当初、廖永忠らが太祖に帰順した際に、趙庸兄弟もまた共に帰順しており、後に過失によって公に封じられる事が出来なかった事も、廖永忠と同様である。

【注釈】
(※1)功名を竹帛に垂る、史書に名を留める事。『後漢書』巻十六、列伝第六、鄧禹伝に「願わくは明公の威徳が四海を覆い、私めが僅かながらでも貢献して、竹帛に功名を垂るだけです。」とある。

【校勘記】
〔一〕陸寨、元は「六寨」であった。上記の廖永忠が「それぞれ両軍がその水陸寨に攻め寄せた」、と陸寨を破るが対応する事と、陸の字は六の発音と近い事から誤りである。『国朝献徴録』巻八、徳慶侯廖永忠伝は正しく「陸寨」としており、これに基づいて改めた。
by su_shan | 2016-09-15 13:32 | 『明史』列伝第十七

傅友徳

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 傅友徳、その先祖は宿州の人であり、後に碭山へ移り住んだ。元朝末期に劉福通の一党である李喜喜に従って蜀の地に入った。李喜喜が破れると、明玉珍に従ったものの、明玉珍には重用されなかった。出奔して武昌路へ向かい、陳友諒に従ったが、評判は立たなかった。
 太祖(朱元璋)が江州路を攻撃し、小孤山に到達した時、傅友徳は所部を率いて投降した。洪武帝(朱元璋)が言葉を交わした所、これは非凡であると考え、登用して将帥にした。常遇春に従って安豊路を救援し、廬州路を攻略した。帰還すると、続いて鄱陽湖に戦い、軽船を駆って陳友諒の先鋒を挫いた。身体中を負傷したが、更に奮起して戦い、また諸将と共に涇江口に邀撃し、陳友諒を敗死させた。武昌路遠征に従軍した際には、城の南東にある高冠山から城内を一望出来たのであるが、漢(陳友諒)兵がここに布陣していた為に、諸将は互いに顔を見合わせて進もうとしなかった。傅友徳は数百人を率い、鼓を一度鳴らしてこれを奪取した。途中、流矢が頬に命中したが、臆する事は無かった。武昌路が平定されると、雄武衛指揮使を授かった。徐達に従って廬州路を突破し、別軍を率いて夷陵県・衡州路・襄陽路に勝利した。安陸府を攻撃した際には、九ヶ所も傷を受けたが、その守将任亮を撃破して捕らえた。大軍に従って淮東を陥落させ、馬騾港の戦いで張士誠の援軍を破り、軍船一千隻を鹵獲し、また元朝の将帥竹貞を安豊路の戦いで大いに打ち破った。陸聚と共に徐州を鎮守した際には、拡廓帖木児(ココテムル)が部将李二を派遣して攻め寄せ、陵子村に差し掛かった。傅友徳は自軍の兵が少なく抵抗出来ないと判断し、籠城して交戦を回避した。敵軍が方々へ掠奪に走るのを確認すると、二千の兵を率いて黄河を遡上して呂梁へ向かい、上陸してこれを攻撃し、単騎で槊を振るって敵将韓乙を刺殺した。敵軍は敗退した。すぐさま奪還に来ると考え、速やかに撤収し、城門を開いて平野に布陣し、戈を伏せて待機した上で、鼓の合図が聞こえれば攻撃するよう手筈を整えた。果たして李二が現れたので、鼓を打ち鳴らすと、兵卒が躍り出て肉薄して戦い、李二を撃破して捕らえた。召還されると、江淮行中書省参知政事に昇進し、御前の旗幟と車蓋を取り払い、鼓吹して邸宅まで送らせた。
 翌年に大将軍(徐達)の北征に従い、沂州を破り、青州を陥落させた。元朝の丞相也速(イェス)が来援したが、軽騎を用いて敵を伏撃地点まで誘引し、これを打ち破って敗走させた。遂に莱陽県・東昌路を奪取した。翌年に汴梁路・洛陽県平定に従い、諸山寨を接収した。黄河を渡って衛輝路・彰徳路を奪取し、臨清県に到達すると、捕縛した元朝の将帥に道を案内させ、徳州・滄州を奪取した。元朝の都に勝利すると、要害古北口を警備し、盧溝橋を守り、大同路を攻略し、帰還して保定路・真定路を陥落させ、定州を鎮守した。続いて山西を攻め、太原に勝利した。拡廓帖木児は保安州より来援し、騎兵一万が突如として現れた。傅友徳は五十騎を率いて突撃しこれを退け、夜陰に乗じて陣営を奇襲した。拡廓帖木児は慌てて遁走したので、追撃して土門関に至り、その捕縛した兵馬は一万を数えた。また石州の戦いで賀宗哲を破り、宣府の戦いで脱列伯(トレバイ)を破り、遂に西進して大将軍と合流し、慶陽府を包囲すると、一軍を率いて霊州に駐屯し、その援軍を遮り、遂に慶陽府に勝利した。帰還すると、白金文綺を賜った。
 洪武三年に大将軍(徐達)に従って定西州を突き、大いに拡廓帖木児を打ち破った。兵を移して蜀(明昇)を討伐し、先鋒を拝領して一百八渡を越え、略陽関を奪取し、遂に沔州に侵入した。兵を分けて連雲桟より漢中を合撃し、これに勝利した。補給が続かなかった事から、軍を西安府に帰還させた。蜀将呉友仁が漢中に侵攻した。傅友徳は三千騎を率いてこれを救援し、斗山寨を攻めた際には、軍中に下令して山上に十個の松明を燃やしたので、蜀兵は驚愕して遁走した。この年の冬、論功行賞により開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国・大都督府都督同知を授かり、潁川侯に封じられ、食禄千五百石とされ、世券を与えられた。
 翌年に征虜前将軍に充てられ、征西将軍湯和と共に経路を分けて蜀を討伐した。湯和は廖永忠らを率いて水軍を用いて瞿塘関を攻め、傅友徳は顧時らを率いて歩騎を用いて秦・隴の地を出撃した。太祖は傅友徳を諭して言った。「蜀人は我が西伐を耳にすれば、必ずや精鋭を集中して東は瞿塘関を守り、北は金牛峡を阻み、我が軍に抵抗するであろう。もし不意を突き、階州・文州を直撃すれば、門戸は破れ、中身は自ずと潰えよう。兵は神速を貴ぶと言う、忌むべきは怯懦のみだ。」傅友徳は陝西に急行し、諸軍を糾合して金牛峡へ向かうと広言する一方、密かに兵を引き連れて陳倉へ向かい、険谷をよじ登り、夜を徹して行軍した。階州に到達すると、蜀将丁世珍〔一〕を破り、その城に勝利した。蜀人は白竜江に架かる橋を切断した。傅友徳は橋を修築して渡河し、五里関を破り、遂に文州を突破した。白水江を渡り、綿州へ向かった。時に漢江が増水し、渡河する事が出来ず、木を伐採して軍船を建造した。自軍の威勢を瞿塘関まで波及させようと考え、木を削って数千個もの牌を作り、階州・文州・綿州に勝利した月日を記し、漢水へ投げ込んで流れに任せた。蜀の守兵がこれを目にすると、みな瓦解した。
 当初、蜀人が大軍の西征を耳にすると、丞相戴寿らは果たして全軍で瞿塘関を守らせた。傅友徳が階州・文州を破り、江油を突いた事が伝わると、初めて兵を分けて漢州に増援し、成都路を守ろうとした。その到着以前に、既に傅友徳は守将向大亨を城下に破り、将兵に対して言った。「援軍が到来したとしても、向大亨の敗北を知れば、士気を喪失し、何も出来ぬであろう。」こうして援軍を迎え撃ち、これを大いに打ち破った。遂に漢州を突破し、進撃して成都路を包囲した。戴寿らは象を戦闘に用いた。傅友徳はこれを強弩と火器で掃射するよう下令し、身体に流れ矢が当たっても後退せず、将兵は決死の覚悟で戦った。象は反対方向へ走り、踏み付けられて死ぬ者が大勢現れた。戴寿らは既に主君明昇が降伏した事を知ると、備蓄の目録を携え、手を縛って軍門を訪れた。こうして成都路は平定された。兵を分けて未だに降伏しない州邑を従え、保寧府に勝利し、呉友仁を捕らえて京師へ送致し、蜀の地の悉くが平定された。傅友徳の漢州攻撃に際して、猶も湯和は軍を大渓口に留めていた。水流によって木牌を得た事で、漸く軍を前進させた。戴寿らはその精兵を撤収して西に漢州を救援し、老弱兵を留めて瞿塘関を守らせたので、廖永忠らは勝勢に乗じて重慶路を突き、明昇を降伏させたのであった。そこで太祖は『平西蜀文』を作り、傅友徳の功績を第一と賞賛し、廖永忠をこれに次ぐものとした。軍が帰還すると、最上の褒賞を賜った。
 (洪武)五年に征西将軍馮勝を補佐して沙漠に遠征し、西涼州に於いて失剌罕(シラガン)を破り、永昌路に到達し、太尉朶児只巴(トルチパン)を破り、馬・牛・羊十数万頭を獲得した。甘粛を攻略し、平章政事不花(ブカ)を射殺し、太尉鎖納児(ソナル)らを降伏させた。瓜沙州に到達し、金銀印及び雑畜二万頭を獲得して帰還した。この時、遠征軍は三路に分かれて出撃したものの、傅友徳だけが全勝を収めた。主将馮勝が些細な法を犯した為、論功行賞は行われなかった。翌年に再び雁門関を出撃し、先鋒となり、平章政事鄧孛羅帖木児(鄧ボロトテムル)を捕らえた。帰還して北平府を鎮守し、五つの献策を行った。全て採用された。召還されると、太子(朱標)に従って荊山に於いて武芸を講義し、食禄千石を加増された。(洪武)九年に延安路に於いて伯顔帖木児(バヤンテムル)を撃破して捕らえ、その軍を降伏させた。洪武帝は雲南遠征を企図し、傅友徳に命じて川・蜀・雅・播の地の境界を巡らせ、城郭を修築し、関と橋を修繕し、軍の威勢によって金筑長官司・普定路の諸山寨を降伏させた。
 (洪武)十四年に大将軍(徐達)を補佐して塞外へ出撃し、乃児不花(ナイルブカ)を討伐し、北黄河を渡り、灰山を襲撃し、大勢を捕殺した。その年の秋に征南将軍に充てられ、左副将軍藍玉・右副将軍沐英を従え、歩騎三十万を率いて雲南へ遠征した。湖広に到達すると、都督胡海らの兵五万を分遣して永寧県より烏撒へ向かわせる一方、自らは大軍を率いて辰州・沅州より貴州へ向かった。普定路・普安路に勝利し、諸苗族を降伏させた。曲靖路へ進攻し、白石江の大戦によって、元朝の平章政事達里麻(タリマ)を捕らえた。遂に烏撒を攻撃し、格孤山を従えて南進し、永寧県の兵を通し、両将軍を派遣して雲南へ向かわせた。元朝の梁王は落ち延びた先で死んだ。傅友徳は烏撒に築城し、蛮族が来襲すると、奮戦してこれを撃退し、七星関を確保して畢節と連絡した。また可渡河に勝利し、東川・烏蒙・芒部の諸蛮族を降伏させた。再び烏撒の諸蛮族が叛くと、これを討伐し、斬首三万を数え、牛馬十数万頭を獲得し、水西の諸部族は全て降伏した。(洪武)十七年に功績を評価されて潁国公に進封され、食禄三千石とされ、世券を与えられた。
 (洪武)十九年に軍を率いて雲南の蛮族を討伐した。(洪武)二十年に大将軍馮勝を補佐して、金山の納哈出(ナガチュ)を征伐した。(洪武)二十一年、東川の蛮族が叛くと、再び征南将軍となり、軍を率いてこれを討伐した。兵を移して越州の叛旗を翻した酋長阿資を討伐し、翌年に普安州に於いてこれを破った。(洪武)二十三年に晋王(朱棡)・燕王(朱棣)の沙漠遠征に従い、乃児不花を捕らえ、帰還して開平衛に駐留し、また寧夏に遠征した。翌年に征虜将軍となり、北平府を警備した。また燕王に従って哈者舎利(ハジェシャリ)を征伐し、元朝の遼王を追撃した。軍が殆ど行軍に移っていた時、急遽撤収を指示した。敵の備えが無い事が判明したので、密かに軍を侵入させて黒嶺に到達し、大いに敵軍を打ち破って帰還した。再び出向いて、山西・陝西に練兵し、屯田業務を総括した。太子太師を加官され、次いで郷里に送り届けられた。
 傅友徳は言葉が不自由ではあったが勇猛果敢であり、何度も死の淵に立たされた。一軍の将より大将に至り、戦えば必ず兵卒の先頭に立った。負傷しても更に奮戦したことで、あらゆる戦場で功績を挙げたので、しばしば洪武帝は勅を賜って労を賞賛した。子の傅忠は、寿春公主を娶り、娘は晋王の世子朱済熺の妃となった。
 (洪武)二十五年、傅友徳は懐遠県の田地千畝を求めた。洪武帝は不機嫌そうに言った。「食禄は少なくなかろうに、民の利益を損なおうとするとは何事か?汝は公儀休の故事(※1)を知らんのか?」次いで宋国公馮勝を補佐して山西を巡り、大同・東勝に屯田を開き、十六ヶ所に衛を設置した。この年の冬に再び山西・河南に練兵した。翌年、両名とも召還された。またその翌年に死を賜った。公主を一族に迎えていた事から、その孫にあたる傅彦名を選定して金吾衛千戸とした。弘治年間の事、傅友徳の五世孫たる晋王朱瑛が六王の例を援用して封爵を求めた。礼部に下して討議した結果、認められなかった。嘉靖元年、雲南巡撫都御史何孟春が傅友徳を祀る廟堂の建立を求めた。詔によって認可され、「報功」の二文字が記された。

【注釈】
(※1)公儀休の故事、『史記』巻百十九、循吏列伝第五十九に「禄を食む者は下民と利益を争わせず、収入の大きい者は収入の小さい者を搾取させなかった。」とある。

【校勘記】
〔一〕丁世珍、本書巻二、太祖本紀・巻百二十三、明玉珍伝は何れも「丁世貞」としている。
by su_shan | 2016-09-14 12:30 | 『明史』列伝第十七

馮勝

『明史』巻一百二十九、列伝第十七

 馮勝、定遠県の人。最初の名を馮国勝と言い、またの名を馮宗異と言って、最後に馮勝を名乗った。生まれた時に黒い気が部屋に満ち、何日経っても散る事は無かった。成長するに及んで、勇武の才幹と智略に優れ、兄の馮国用と共に読書を嗜み、兵法に精通し、元朝の末期には砦を築いて自らを守った。太祖(朱元璋)が各地を攻略して妙山に差し掛かった時、馮国用は馮勝を伴って帰順し、非常に厚い信頼を得た。嘗て太祖は従容として天下の大計を諮った時、馮国用は次の様に答えた。「金陵は竜蟠虎踞の地にして、帝王の都でございますから、まずはこれを奪い取って根拠地と致しましょう。然る後に四方を征伐し、仁義を唱え、人心を収め、子女玉帛を貪る様な事が無ければ、天下を平定する事が出来ましょう。」太祖は非常に喜び、幕府に控えさせ、続いて滁州・和州に勝利し、三叉河・板門寨・雞籠山に戦い、その全てに功績を挙げた。長江渡河に従い、太平路を奪取すると、遂に馮国用は親兵の統率を命じられ、腹心の部下として信用された。太祖が陳野先(陳エセン)を捕らえると、これを赦し、その部曲を招集させようとした。馮国用は必ずやそれが謀叛に繋がると危惧し、派遣しないに越した事は無いと考えた。次いで果たして叛き、陳埜先はその部下に殺害されてしまい、従弟の陳兆先が再び軍を擁して方山に駐屯した。蛮子海牙(マンジハイヤ)が采石に攻め寄せると、馮国用は諸将と共に蛮子海牙の水寨を攻め破り、また陳兆先を撃破して捕らえ、その軍三万人余りの悉くを降伏させた。軍は恐慌状態にあった為、太祖は勇壮な者五百人を選抜して親軍とし、幕下に宿営させた。旧来の部下の悉くを隔て、ただ馮国用のみを寝台の側に控えさせた為、五百人は漸く安堵する事が出来た。そこで馮国用にこれを率いるよう命じ、集慶路を攻略した際には、死を恐れず我先にと城壁を登った。諸将と共に鎮江路・丹陽県・寧国路・泰興県・宜興州を陥落させ、続いて金華に遠征し、紹興路を攻撃し、親軍都指揮使に抜擢された。軍中で死没した時、三十六歳であった。太祖はこれを受けて慟哭した。洪武三年に郢国公に追封され、功臣廟に肖像が配列され、序列は第八とされた。
 馮国用の死没に際して、子の馮誠は幼く、馮勝は既に功績を重ねて元帥となっていた為、遂に兄の職務を継承するよう命じられ、親軍を統率する事になった。
 陳友諒が竜湾に迫った。太祖はこれを防ぎ、石灰山に戦った。馮勝はその中央を攻め、大いにこれを打ち破り、またこれを采石まで追撃して破り、遂に太平府を回復した。続いて陳友諒を征伐し、安慶路の水寨を破り、長駆して江州路に到達すると、陳友諒は遁走した。親軍都護に昇進した。続いて安豊路を解囲し、江南行枢密院同僉に遷った。続いて鄱陽湖に戦い、武昌路を陥落させ、廬州路に勝利し、兵を移して江西の諸路を奪取した。諸将と共に淮東を収め、海安壩に勝利し、泰州を奪取した。徐達が高郵府を包囲したが未だに陥落させる事が出来なかったので、軍を返して宜興州を救援した際には、馮勝に包囲軍を統率させた。高郵府の守将が偽って投降すると、馮勝は指揮使康泰に命じて数百人を連れて先に入城させたが、敵は門を閉じてこれを全滅させた。太祖は激怒し、馮勝を召還して杖刑十回に処し、徒歩で高郵府へ向かわせた。馮勝は憤激し、強襲に移行した。徐達もまた宜興州から戻り、兵を増強して攻撃してこれに勝利し、遂に淮安路を奪取した。安豊路を破り、呉(張士誠)の将帥呂珍を旧館の戦いで捕らえた。湖州路を陥落させ、平江路に勝利し、その功績は平章政事常遇春に次ぐものであったので、再び右都督に遷った。大将軍徐達に従って北征し、山東の諸州郡を陥落させた。
 洪武元年に太子右詹事を兼任した。些細な法令に違反して一等を降格され、都督同知となった。兵を引き連れて黄河を遡上し、汴梁路・洛陽県を奪取し、陝州を陥落させ、潼関に向かった。守将は夜陰に乗じて遁走した為、遂に潼関を奪い、華州を手に入れた。汴梁に帰還し、洪武帝(朱元璋)の行在所に謁見した。征虜右副将軍を授かり、汴梁を留守した。次いで大将軍(徐達)に従って山西に遠征し、武陟県より懐慶路を奪取し、太行山を越え、碗子城に勝利し、沢州・潞州を奪取し、猗氏県の戦いで元朝の右丞賈成を捕らえた。平陽・絳州に勝利し、元朝の左丞田保保らを捕らえ、将兵五百人余りを捕らえた。洪武帝は喜び、詔を下して征虜右副将軍馮勝を常遇春の下に置き、偏将軍湯和を馮勝の下に置き、偏将軍楊璟を湯和の下に置いた。
 (洪武)二年に黄河を渡って陝西へ向かい、鳳翔府に勝利した。遂に隴水を渡り、鞏昌府を奪取し、進軍して臨洮府に迫り、李思斉を降伏させた。帰還して大将軍(徐達)に従い慶陽府を包囲した。拡廓帖木児(ココテムル)は将帥を派遣して原州を攻撃させ、慶陽府の応援とした。馮勝は駅馬関を抑えてその将帥を破り、遂に慶陽府に勝利し、張良臣を捕らえた。こうして陝西の地は全て平定された。
 九月、洪武帝は大将軍(徐達)を召還する一方、馮勝に慶陽府鎮守を命じ、諸軍を統制させた。馮勝は駅馬関を掌中に収めたことで陝西の地は安泰であると考え、兵を撤収させた。洪武帝は激怒し、これを叱責した。その功績の大きさに配慮し、革職は思い止まった。一方で褒賞として金幣を下賜されたものの、分量は大将軍(徐達)の半分にも満たなかった。
 翌年正月に再び右副将軍として大将軍(徐達)と共に西安府に出征し、定西州を突き、拡廓帖木児を破り、兵馬数万を獲得した。兵を分けて徽州より南方の一百八渡へ進出し、略陽県を従え、元朝の平章政事蔡琳を従え、遂に沔州へ侵入した。別軍を派遣して連雲桟より興元路を奪取し、兵を吐蕃へ移し、西北の地の哨戒を厳重にした。凱旋すると、開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・同参軍国事を授かり、宋国公に封じられ、食禄三千石とされ、世券を与えられた。その誥詞に拠ると、馮勝兄弟は自身の骨肉であり、十数年間も肘腋の患を排除し、爪牙の功を立て、中原を平定し、創業を纏め上げたという。それ故に称揚の甚だしきに至ったのであった。(洪武)五年、馮勝の四方での活躍を称え、魏国公徐達・曹国公李文忠と共にそれぞれ彤弓を賜った。
 拡廓帖木児は和林(カラコルム)を拠点とし、しばしば辺境に侵攻した。洪武帝はこれを憂慮し、大軍を発して三路より塞外へ遠征させた。馮勝は征西将軍を拝命し、副将軍陳徳・傅友徳らを率いて西路を進み、甘粛を奪取しようとした。蘭州に到達すると、傅友徳は精騎を前進させ、再び元軍を破り、馮勝もまた掃林山の戦いでこれを破った。甘粛に到達すると、元朝の将帥上都驢が投降した。亦集乃路(エチナ路)に到達すると、守将卜顔帖木児(ボヤンテムル)もまた投降した。別篤山に差し掛かると、岐王朶児只班(トルチパン)は遁走したので、追撃して平章政事長加奴ら二十七人及び馬・駱駝・牛・羊十数万頭を獲得した。この戦役に於いて、大将軍徐達の軍は苦戦を強いられ、左副将軍李文忠の軍は相当な損害を被ったが、ただ馮勝だけが大量に捕殺した戦果を挙げて、全軍撤退した。たまたま駝馬を私的に隠匿したと密告する者が居た為に、論功行賞は実施されなかった。後にしばしば臨清県・北平府に出向いて練兵を行い、大同府に出征して元朝の残党を討伐し、陝西及び河南を鎮守した。その娘は周王(朱橚)妃に冊立された。
 しばらくして、大将軍徐達・左副将軍李文忠は何れも没したが、一方で元朝の大尉納哈出(ナガチュ)は数十万の軍を擁して金山に駐屯し、しばしば遼東辺境に侵攻を繰り返していた。(洪武)二十年に馮勝を征虜大将軍に命じ、潁国公傅友徳・永昌侯藍玉を左右副将軍とし、南雄侯趙庸らを率い、歩騎兵二十万の軍を以て遠征させた。鄭国公常茂・曹国公李景隆・申国公鄧鎮らが従った。また洪武帝は以前に捕らえた納哈出の部将で乃剌吾(ナイラウ)という者に璽書を持たせて向かわせ、降伏を勧告した。馮勝は松亭関に進出し、大寧・寛河・会州・富峪四城を築いた。大寧に駐屯して二ヶ月が過ぎた時、兵五万を留めてこれを守らせた上で、全軍を以て金山を圧迫した。納哈出は乃剌吾の姿を見て驚愕した。「其方、生きておったのか!」乃剌吾は洪武帝より賜った恩徳を述べた。納哈出は喜び、左丞・探馬赤(タマチ)等を派遣して馬を献上し、更に馮勝の軍営を訪問しようとした。この時既に馮勝は深く侵入し、金山を越え、女直苦屯に到達しており、納哈出の部将全国公〔一〕観童(ガントン)を降伏させていた。たちまち大軍が到来し、納哈出は抵抗する事が出来ず、そこに乃剌吾の降伏勧告となったのである。馮勝は藍玉の軽騎にこれを受け入れさせた。藍玉は納哈出と酒を飲み、酷く盛り上がって、自分の服を脱いで納哈出に着せようとした。納哈出は嫌がり、左右の者にぶつぶつと洩らし、逃れようと画策した。馮勝の婿である常茂も同席しており、俄かに立ち上がって納哈出の肘を斬り付けた。都督耿忠は納哈出を擁して馮勝の下へ連行した。納哈出の将兵の妻子十数万人が松花河に駐屯しており、納哈出が負傷した事を聞き付けると、驚愕して混乱に陥った。馮勝は観童を派遣してこれを説得した上で降伏させ、所部二十数万人を獲得し、牛・羊・馬・駱駝・輜重の列は百里余りにわたって続いた。帰還の途に就くと亦迷河に至り、またその残兵二万人余り・車馬五万両を接収した。一方で都督濮英が殿軍を務めていたが、敵に殺害されてしまった。軍が帰還すると、戦勝を報告すると共に、常茂の失態を上奏し、降兵二十万人全員を長城内へ移そうとした。洪武帝は非常に喜び、使者を派遣して馮勝らを労い、常茂を拘束した。たまたま馮勝が多くの良馬を隠匿したと密告する者が居り、また門番に酒を持たせて納哈出の妻に宝玉や珍宝を要求した事や、王子の死から二日にしてその娘を強引に娶った事、降伏の意志を失わせた事、また濮英麾下の三千騎を失った事が発覚し、常茂もまた馮勝の過失を告発した。洪武帝は激怒し、馮勝の大将軍の印章を没収し、鳳陽府の邸宅で謹慎を命じ、朝議への参列は認めたものの、参加将兵には褒賞が授与されなかった。馮勝はこれ以降二度と大軍を率いる事は無かったのである。
 (洪武)二十一年に詔を奉じて東昌府の番兵を徴発して曲靖府に遠征させた。番兵は道中で叛乱したものの、馮勝は永寧州に鎮守して事態を収拾した。(洪武)二十五年に太原府・平陽府の民戸を軍戸に改編し、衛を設置して屯田を実施した。皇太孫(朱允炆)が決定すると、太子太師を加官され、潁国公傅友徳を伴って山西・河南で練兵を行い、諸公・侯の全てを指揮下に置いた。
 時に詔を下して勲功の臣で特に信望厚き者八人を序列した際、馮勝は第三であった。太祖は年齢を重ね、猜疑心を募らせていた。馮勝の功績は最も多かったが、しばしば小さな失敗によって洪武帝の気分を害していた。藍玉が粛清された月に、京師に召還された。二年後に死を賜り、諸子は何れも後を継ぐ事は出来なかった。一方で馮国用の子の馮誠は雲南で戦功を重ね、右軍都督府左都督まで昇進した。

 納哈出とは、元朝の木華黎(ムカリ)の後裔であり、太平路万戸となった。太祖が太平路に勝利した際に捕らえられたものの、名臣の後裔であった事から、特に厚遇された。しかし元朝への恩義を忘れていない事が分かると、援助して北帰させた。元朝が滅亡すると、納哈出は金山に兵を集め、大規模に牧畜を実施した。洪武帝は使者を派遣して投降を呼び掛けたが、遂に回答しなかった。しばしば遼東に侵入し、葉旺に敗北した。馮勝らが大軍を率いてこれに臨むと、投降し、海西侯に封じられた。傅友徳に従って雲南へ遠征する途上で死没した。子の察罕(チャガン)は瀋陽侯に改封され、藍玉の徒党に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕全国公、元は「慶国公」となっており、本書巻三百二十七、韃靼伝・『太祖実録』巻百八十二、洪武二十年六月癸卯条・『国榷』巻八、六百七十一頁に基づいて改めた。
by su_shan | 2016-09-12 15:25 | 『明史』列伝第十七

列伝第十四 目次

李文忠 鄧愈 湯和 沐英

 論賛、明朝開闢の諸将では、六王が筆頭に挙げられる。ただ優れた功績を残しただけに留まらず、またその忠誠を契りを交わした主君に捧げた事が明白だからである。親密さでは岐陽王(李文忠)に及ぶ者は居らず、古くからの付き合いでは東瓯王(湯和)に及ぶ者は居らず、寧河王(鄧愈)・黔寧王(沐英)は何れも英気盛んな年頃に腹心の部下となった。戦場で活躍して功績を挙げ、偽り無く尽力して二心を抱かず、王侯の旗幟は燦々と輝きを放ち、一点の曇りも無いのである。岐陽王は詩文を詠い礼節を説いて儒者を重用し、東瓯王は引退を請うて私邸へ帰り、聡明にして自身を全うした事は、一際目立って余人の及ぶ所では無い。ただ黔寧王だけは、遐荒の地に威勢を轟かせ、代々封爵を賜ったので、名声は明朝の治世と共に在った。一方、寧河王は労苦を顧みず全力で奔走したものの、功績の規模にも関わらず早逝し、その後嗣は特記すべき事績に乏しい。諸王の恩沢には、特に著しい盛衰が有ると論者は言うが、しかしながら中山王(徐達)の家系に徐増寿あり、岐陽王の家系に李景隆あり、その偉大なる先人に遡れば、遺憾に思わないでも無い。待遇が等しくなくとも、またどうしてその幸や不幸を判断するなど出来ようか。
by su_shan | 2016-09-08 19:23 | 『明史』列伝第十四