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by すーさん

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列伝第十五 目次

李善長 汪広洋

 論賛、明朝初期には中書省を設け、左右の丞相を置き、政務の中枢を管領し、勳功の臣を充ててその任を領有させたのである。しかしながら、徐達や李文忠は何度も征討の命を受け、中書省の政務を専念して監督する事は無かった。そもそも従容として丞輔の任を務めた者は、李善長と汪広洋と胡惟庸の三人だけである。胡惟庸の粛清後、丞相の地位は廃止されて二度と設けられる事は無かった。故に明朝一代を通して、李善長と汪広洋だけが丞相と称するに値するのである。ただ惜しむらくは、李善長は平民の出身でありながら、よく草昧の世の当初に主君を択び、力を合わせて身を捧げ、一大事業を賛助し、遂に封爵の栄誉を得て、その地位は公爵の上位に列せられ、或いは富貴の極致を謳歌したものの、晩年には自ら滅び去ってしまった。汪広洋はよく謹んで保身に努めたものの、悪人を告発して災禍を回避する事まではできなかった。両名共に重い処分を下しながらも、丞相を任じた頃の初志を背負い、慚愧の念から諸々の左右の官職を置いたのではなかろうか。
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by su_shan | 2016-12-25 15:39 | 『明史』列伝第十五

汪広洋

『明史』巻一百二十七、列伝第十五

 
 汪広洋、字を朝宗、高郵府の人。太平路に移り住んだ。太祖(朱元璋)が長江を渡ると、招聘して元帥府令史とし、江南行中書省提控とした。正軍都諫司を設置すると、諫官に抜擢され、江南行中書省都事に遷り、中書省右司郎中に進んだ。次いで驍騎衛の事務を監督し、常遇春の軍務に参与した。贛州路を陥落させると、当地を鎮守し、江西行中書省参知政事を拝命した。
 洪武元年、山東地方を平定すると、汪広洋の清廉かつ明敏で慎重な様を評価して、山東行中書省の監督を命じ、新たに帰順した者を労わって受け入れたので、民衆は非常に安堵した。本年中に召還されて入朝し、中書省参知政事となった。翌年に陝西行中書省参知政事に出向した。(洪武)三年、李善長が病気になると、中書省の長官職が空席となった為、汪広洋を召還して左丞〔一〕とした。この当時、右丞〔一〕の楊憲が決裁を専断していた。汪広洋はこれに反抗した為に、楊憲に恨まれ、御史を唆して汪広洋が不徳にも母親を扶養していないと弾劾させた。洪武帝は叱責し、免官して郷里に帰らせた。楊憲は再び上奏し、海南に追放した。楊憲が粛清されると、召還された。その年の冬、忠勤伯に封じられ、食禄三百六十石とされた。その誥命は、繁雑な政務を的確に処理し、しばしば賢明な献策を行ったので、彼を張子房・諸葛孔明に準えて称賛したものである。李善長が病気によって引退すると、遂に汪広洋を右丞相とし、参知政事胡惟庸を左丞とした。汪広洋は何も建白しなかったので、しばらくして広東行中書省参知政事に左遷されたものの、洪武帝は内心で汪広洋に期待していたので、再び召還されて左御史大夫となった。(洪武)十年に再び右丞相を拝命した。汪広洋は酷く酒に耽り、胡惟庸と同調し、自らの地位を守る事にしか興味を示さなかった。洪武帝は何度か訓戒した。
 (洪武)十二年十二月、中丞涂節は劉基が胡惟庸によって毒殺された事、汪広洋がその事情を知っていた事を告発した。洪武帝が詰問すると、返答して言った。「その様な事はございません。」洪武帝は激怒し、汪広洋に僚友を庇い主君を欺いた罪を着せ、広南〔二〕に追放する事にした。船が太平府に差し掛かった頃、洪武帝は更に江西行中書省在任中に事実を偽って朱文正を庇っていた事、中書省在任中に楊憲の悪事を告発しなかった事についても追及し、勅を下して彼を誅殺した。
 汪広洋は若い頃、余闕に師事していたので、経書と史書に通じ、篆書体と隷書体に長け、歌詩に巧みであった。性格は柔和で慎み深いものであったが、悪人と同等の地位にあってはそれを排除する事が叶わず、その為に災禍が降りかかったのである。

【校勘記】
〔一〕左丞(汪広洋)・右丞(楊憲)、左丞の左は元は「右」、右丞の右は元は「左」であった。本書巻百九、宰輔年表によると、当時楊憲は右丞であり、汪広洋は左丞であった。『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬申条は、「汪広洋を召還して左丞とした。当時楊憲は山西行中書省参知政事の地位にあって、先に召還されて入朝し、右丞となっていた。汪広洋が着任すると、楊憲はその地位が自らを脅かす事を恐れ、事ある毎に多くの裁決を専断して譲らなかった。」とあるので、これに基づいて改めた。
〔二〕広南、本書巻百九、宰輔年表・『明史稿』伝十七、汪広洋伝・『太祖実録』巻百二十八、洪武十二年十二月壬辰条は何れも「海南」としている。


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by su_shan | 2016-12-24 16:20 | 『明史』列伝第十五

李善長

『明史』巻一百二十七、列伝第十五

 李善長、字を百室、定遠県の人。幼少時より経書を講読して智略に優れ、法家の言論を学び、策の多くを的中させた。太祖(朱元璋)が滁陽を攻略した際、李善長は歓迎して拝謁した。里中で評判であった事は知られていたので、李善長を礼遇し、帷幕に留めて掌書記とした。以前、太祖は従容として尋ねた事があった。「各地の戦乱は、一体何時になったら終息するであろうか。」答えて言った。「秦末の戦乱に際して、漢の高祖は布衣の身分より立ち上がりましたが、度量を広く持って些事には拘らず、よく人の才能を見抜いて任用し、殺人を好まず、五年にして帝業を成就致しました。今や元朝の綱紀は乱れ、天下は土や瓦の様にばらばらに砕け散っております。公は濠州の生まれですから、沛県からそう遠くはございません。山川に満ちた王気を、正に公は身に纏われたのでございます。その所為に倣えば、十分に天下を平定し得るでしょう。」太祖はその言を是とした。滁州攻略に従い、参謀となり、機務に与り、糧秣を管理したので、特に厚い信頼を受けた。太祖の名声は日増しに高まり、諸将で帰順した者は、李善長がその才能を見出し、太祖に進言した。また太祖の意図を行き渡らせ、皆を安堵させた。何らかの理由で対立する者が居れば、事細かく調停して上手く収めたものである。郭子興が流言を信じ、太祖に疑惑を抱くと、しばらくしてその兵権を剥奪した。また李善長を取り上げて自らの補佐役にしようとしたが、李善長は固辞して出向かなかった。太祖は深く頼る様になった。太祖が和陽に駐屯すると、自ら雞籠山寨を攻撃しようとし、僅かに兵を留めて李善長を補佐し留守を守らせた。元朝の将帥が諜報で察知して来襲すると、伏兵を置いてこれを打ち破ったので、太祖は有能と認めた。
 太祖が巣湖水師を迎え入れると、李善長は積極的に長江渡河を提案した。すぐさま采石を突破し、太平路へ向かうと、李善長は兵卒を収める為の禁令を記した立札を任された。城が陥落すると、この札を大通りに掲げたので、周囲は粛然として敢えて違反する者は居なかった。太祖が太平興国翼大元帥になると、帥府都事に任命された。集慶路攻略に従軍した。鎮江路を奪取しようとした時、太祖は諸将が進んで指示に従おうとしない事を危惧したので、殊更に苛立って諸々の法令を設けようとしたが、李善長が弁護して和解させた事があった。鎮江路は陥落したが、民衆は戦闘に気付かない程であった。太祖が江南行中書省平章政事になると、参議に任命された。当時、宋思顔・李夢庚・郭景祥らは何れも省庁の官僚となったが、軍機の処置や賞罰の規則に関しては、その多くが李善長の決裁に依った。枢密院を大都督府に改組すると、領府司馬の兼任を命じられ、江南行中書省参知政事に昇進した。
 太祖が呉王になると、右相国を拝命した。李善長は故事に明るく、裁決は水が流れる様に速やかであり、また文体は優雅であった。文士を招き入れる事があれば、文書の作成を命じられたものである。これに前後して自ら征討を行う際には、常に留守を命じられ、軍官はよく服従し、民衆は安堵し、軍糧の運搬が滞る事は無かった。以前、両淮地域から産出される塩の専売を提案し、茶法を制定した事があったが、何れも元朝の制度を斟酌しながらも、その欠点を除くものであった。また銭法を制定し、鍛冶場を開設し、魚税を定めたが、何れも国政に利するものであって、民衆が困窮する事は無かった。呉元年九月に呉(張士誠)平定の論功行賞が実施されると、李善長は宣国公に封じられた。官制が改められ、左方が尊重されると、左相国となった。太祖は長江渡河以降、法典を非常に重視したが、ある時、李善長に言った。「法には連座に関する三ヶ条があるが、廃止しないのは問題であろうか。」李善長は大逆の場合以外を廃止する様に提案したので、最終的に中丞劉基らと共に律令を裁定する事を命じ、内外に公示したのであった。
 太祖が帝位に即位すると、皇帝の先祖の追認並びに后妃や太子諸王の冊立に関しては、全て李善長を大礼使に充てた。東宮の属官を設けると、李善長に太子少師を兼任させ、銀青栄禄大夫・上柱国を授け、録軍国重事とした上で、その他の官職は旧来通りとした。続いて、礼部の官僚を伴って郊社宗廟の礼法を制定した。洪武帝が汴梁路に行幸すると、李善長は留守を命じられ、一切の事務に関する権限を委ねられた。次いで六部の官制の制定を上奏し、官民双方の服喪並びに東宮朝賀の儀礼に関する規定を討議した。勅命を奉じて『元史』を監修し、『祖訓録』・『大明集礼』等の書籍を編纂した。天下の山川や天地の神、爵号の制定、諸王の封建、功臣の封爵は、物事の大小に関わらず、全て李善長と諸々の儒臣らに討議させて実施したものである。
 洪武三年に大規模な功臣封爵を行った。洪武帝は言った。「李善長には馬に跨って汗を流した苦労は無いが、朕に長らく仕え、軍糧を供給する事、その功績は非常に大きく、必ずや大国に封じなければなるまい。」そこで開国輔運推誠守正文臣・特進光禄大夫・左柱国・太師・中書左丞相を授け、韓国公に封じ、食禄四千石とし、子孫への世襲を許した。世券を与えられ、二度の死罪免除を認められ、子は一度の死罪免除を認められた。当時、公爵に封じられた者は、徐達・常遇春の子の常茂・李文忠・馮勝・鄧愈及び李善長の六名であった。更に李善長の序列は第一位とされ、誥命では蕭何に準えて大いに称賛されたのであった。
 李善長の表向きは柔和であったが、内面は酷薄であった。参議の李飲水・楊希聖が、僅かに李善長の職権を侵害しただけで、その罪状を取り調べて上奏し失脚させた事があった。中丞の劉基と法について論争し、罵った事もあった。劉基は不安を感じ、引退を申し出た。太祖の任命した張昶・楊憲・汪広洋・胡惟庸がみな罪を得ると、旧来の様に李善長を頼った。富貴を極め、徐々に驕慢になると、洪武帝は初めて李善長を疎んじる様になった。(洪武)四年に病気を理由に引退すると、臨濠の土地数頃を下賜し、守塚百五十戸を置き、佃戸千五百家を給し、儀仗士二十家を与えた。翌年、病気が快復すると、臨濠の宮殿造営の監督を命じられた。江南の富豪十四万人を移住させて濠州を開拓し、李善長にこれを経理させたので、濠州に数年の間留まる事になった。(洪武)七年に李善長の弟である李存義を抜擢して太僕丞とし、李存義の子である李伸・李佑は何れも群牧所の官僚となった。(洪武)九年に臨安公主が子の李祺に降嫁すると、駙馬都尉を拝命した。当初制定された婚礼では、公主は非常に厳しく婦道を修めるものとされていた。恩典の盛大な様子は、当時の人々は豪勢と捉えたものである。李祺が公主を娶って一ヶ月が経った頃、御史大夫汪広洋・陳寧が上訴した。「李善長めは恩寵を盾に身勝手に振る舞い、陛下が御病気を召されて十日間も朝務から離れておられた際に、顔を見せにも参りませんでした。駙馬都尉李祺は六日も入朝しませんでしたので、殿前に召し出しました所、罪を認めようとしませんでした。大不敬の罪に相当致します。」処罰として食禄千八百石を削減された。次いで曹国公李文忠と共に中書省・大都督府・御史台を総括し、軍国大事の討議に参与し、圜丘の造営を監督した。
 丞相胡惟庸は当初は寧国知県であったが、李善長の推薦によって、太常少卿に抜擢され、後に丞相となったので、互いに親しい往来があった。更に李善長の弟李存義の子李佑は、胡惟庸の従妹の婿であった。(洪武)十三年、胡惟庸が謀叛の罪で誅殺されると、連座して処刑された者は非常に多かったが、李善長は元のままであった。御史台は中丞職が空席となったので、李善長に御史台を監督させた所、何度か建白があった。(洪武)十八年、実は李存義父子が胡惟庸の一党であったとの密告が行われたが、詔によって死罪は免れ、崇明州へ追放処分とされた。李善長は謝意を示さなかったので、洪武帝は内心に含んだ。五年後、李善長は七十七歳となり、耄碌して判断が覚束なくなった。以前、邸宅を造営しようと考え、信国公湯和に依頼して衛所軍三百人を借用したが、湯和は密かに報告していた。四月、京師の民で罪を得て辺境に移住させられる者があって、李善長は懇意にしていた丁斌らについて何度か免罪を請願した。洪武帝は激怒して丁斌を取り調べた所、丁斌は元々胡惟庸の家に仕えており、以前に李存義らの所に出入りして胡惟庸の状況を伝えていた事が判明した。李存義父子の逮捕を命じて問い質すと、李善長に関する部分があった。「胡惟庸の謀叛の際、密かに私、李存義に李善長を説得させたのでございます。李善長は驚いて叱り付けました。『お前は何という事を言うのか!お前が取り調べを受ければ、九族が皆殺しにされるのであるぞ。』すぐさま、李善長の友人であった楊文裕に説得させました。『事が成就した暁には、淮西の地を以て王に封じましょうぞ。』李善長は驚愕するも賛同しませんでしたが、内心で動かされるものがあったのです。胡惟庸は自ら李善長の説得に向かいましたが、やはり賛同しませんでした。しばらくして、胡惟庸は再び私、李存義を送って説得させました所、李善長は悲嘆して言いいました。『儂は年を取り過ぎた。儂が死ねば、お前たちがやればよかろう。』」また、ある者が李善長を告発した。「藍玉将軍が塞外に出征され、捕魚児海(ブユル湖)に到達した時、胡惟庸が沙漠の地に派遣していた封績という使者を捕らえましたが、李善長が匿って報告致しませんでした。」こうして御史が立て続けに李善長の弾劾を行った。更に李善長の家奴であった盧仲謙らもまた、李善長と胡惟庸が金品を授受し、密かに内通していた事を告発した。その罪状に言う、李善長は開国の元勲かつ外戚であるにも関わらず、叛逆を察知していながら検挙せず、逡巡しつつ二心を抱いて成り行きを窺い、大逆不道の罪を犯したのである、と。たまたま天文に変化が現れたので、それを占うと大臣の交替を意味していた。最終的に妻・娘・弟・姪ら家族七十数人と共に誅殺された。更に吉安侯陸仲亨・延安侯唐勝宗・平涼侯費聚・南雄侯趙庸・滎陽侯鄭遇春・宜春侯黄彬・河南侯陸聚らは、全員が同時に胡惟庸の一党に連座して処刑され、故人の営陽侯楊璟・済寧侯顧時ら数名もまた追認されて連座したのであった。洪武帝は自らの手でその罪状を詔に並べ、判決文に書き加え、『昭示姦党三録』を作成して、天下に布告した。李善長の子李祺は、公主と共に江浦県に追放され、しばらくして没した。李祺の子の李芳・李茂は、公主の子という恩典によって連座を免れた。李芳は留守中衛指揮使となり、李茂は旗手衛鎮撫となったが、世襲の特権は剥奪された。
 李善長の死の翌年、虞部郎中の王国用が言上した。「李善長と陛下は志を同じくされ、万死を顧みず天下を統一し、第一の勳臣となって、生きながらにして公爵に封じられ、死しては王爵に封じられ、男子は公主を娶り、親戚は官職を拝命し、位人臣を極めたと申し上げても過言ではございません。仮に自ら謀叛を企てようとしていたのであればいざ知らず、茲許、胡惟庸に加担しようとしていたと言うのは、全くの誤りでございます。人情として子に愛情を注ぐもの、それが兄弟の子であっても同じ事でございますが、万全の富貴を享受している者は、絶対に万が一の富貴を待ち望んだりは致しません。李善長と胡惟庸は、子息の親類というだけでございましたが、陛下に於かれましては子女の親類でございました。李善長が胡惟庸に加担して事を成そうとした所で、勳臣の第一人者であるに過ぎず、ただ太師・国公・封王であるに過ぎず、ただ公主を迎え妃を納めたに過ぎず、どうして今日に及ぼす事がございましょうか。しかも、李善長が幸運に頼って天下を手に入れる事ができないと知らない筈がございましょうか。元朝の末期、天下を取らんと望む者は大勢居りましたが、自身を粉骨しない者などは居らず、一族根絶やしの憂き目に遭い、首領としての地位を保つ事ができた者は果たして何人居りましょうか。申し上げるまでも無く李善長は自らそれを目にしておりますのに、どうして晩年にもなって同じ轍を踏もうとするでございましょうか。それでも行おうとする者には、必ずや深い怨恨や事情の急激な変化があるものでございますが、もはやどうする事もできず、父子の間でできる限り災禍から逃れる術を探ったのでございましょう。更に李善長の子の李祺は陛下を骨肉の親としておりましたから、僅かながらも叛意などあろう筈が無く、何の不満があって突然の暴挙に出たと仰るのでございましょうか。もし天象が変事を告げていたと言うのであれば、大臣には災禍が降り注ぐものでございますが、これを害する事で天象に応じるのは、最もしてはならぬ事でございます。恐れながらも臣が思いますに、これが天下に知れ渡りましたら、李善長の様な功労者でさえこの様な末路を遂げたのだと言われ、四方から瓦解が始まる事でございましょう。今や李善長は故人となり、何を申し上げた所で意味無き事ではございますが、請い願わくは陛下が将来の戒めとなさる事だけでございます。」太祖は書状に目を通すと、これ以上罪を及ぼそうとはしなかったのであった。
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by su_shan | 2016-12-21 23:37 | 『明史』列伝第十五

列伝第十一 目次

陳友諒 張士誠 方国珍 明玉珍

 論賛、陳友諒・張士誠は小吏や行商より身を起こし、戦乱によって分不相応な地位を盗み取り、その富強を恃みとしたが、何れも最後はその恃みとする所によって敗れ去った。その始めから終わりまでの成功と失敗の原因を辿り、太祖(朱元璋)はこれを深く洞察したものである。方国珍は最も早くから叛乱を起こし、反覆を繰り返して節操を持たなかったものの、最期には良い死に様を遂げる事ができたのであるし、明玉珍は情勢に乗じて一隅に割拠したが、二代にわたって帝号を僭称したのであるから、いずれも幸福では無かったという訳では無いのである。方国珍は又の名を方谷珍と言うが、これは投降した後に明朝の諱を避けたものである。
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by su_shan | 2016-12-18 20:23 | 『明史』列伝第十一

明玉珍

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 明玉珍、隋州の人。身長は八尺余りで、生まれつき重瞳の相であった。徐寿輝が挙兵すると、明玉珍は郷里の父老と共に千人余りを結集し、青山に駐屯した。徐寿輝が皇帝を僭称すると、人を送って明玉珍を招聘して言った。「来たらば共に富貴を得よう、来たらざれば兵を挙げて汝を屠ろうぞ。」明玉珍は部衆を引き連れて投降し、元帥となって沔陽府を鎮守した。元朝の将帥哈麻禿(ハマトゥ)と湖中に戦った際に、流れ矢が右目を射抜き、遂に隻眼となった。しばらくして、明玉珍は軍船五十艘を率いて川・峡の間を掠奪した後、引き揚げようとした。この時、元朝の右丞完者都(オルジェイドゥ)は重慶路で兵を募っており、義兵元帥楊漢が徴募に応じて駆け付け、明玉珍を殺害して軍を吸収しようとしたが、果たせなかった。楊漢は敗走して峡を脱出したが、明玉珍に遭遇すると洗い浚い白状して言った。「重慶路には大軍が居ない上に、完者都と左丞哈麻禿は折り合いが悪く、もし船を出して不意を突いて襲撃すれば、或いは占領できるかも知れませんぞ。」明玉珍が決めかねていると、部将の載寿が発言した。「好機を見逃す手はありませんぞ。船団を二つに分け、半分には糧秣を載せて沔陽府に戻し、残りの半分で漢兵が重慶路を攻める事として、上手くいかなければ財物を掠め取って帰れば良いのです。」明玉珍はその策を採用し、重慶路を襲撃し、完者都を敗走させ、哈麻禿を捕らえて徐寿輝の面前に献じた。徐寿輝は明玉珍に隴蜀行中書省右丞の地位を授けた。時に至正十七年の出来事である。
 程無くして、完者都が果州より侵攻して来ると、平章政事朗革歹(ランゲタイ)・参知政事趙資と合流し、重慶路を奪還しようと企図し、嘉定府路の大仏寺に駐屯したので、明玉珍は万勝を派遣してこれを防いだ。万勝は黄陂県の人で、智勇に優れ、明玉珍は特に重用し、自らの姓を名乗らせたので、周囲からは明二と呼ばれた事もあったが、後に元の姓に戻している。万勝は嘉定府路を攻撃したが、半年を費やしても占領できなかった。そこで明玉珍は軍を率いてこれを包囲し、万勝を派遣して軽装兵を用いて成都路を陥落させ、朗革歹及び趙資の妻子を捕らえた。朗革歹の妻は自ら長江に身を投じた。趙資の妻子は嘉定府路に送られ、趙資への降伏勧告に利用された。趙資は弓を引いて妻を射殺した。俄かに城が破られると、趙資及び完者都・朗革歹を捕らえて重慶路に帰還し、治平寺に軟禁し、登用しようとした。三人は聞き入れず、市中で斬殺されたが、礼節を以て埋葬され、蜀の人々は彼らを「三忠」と称えた。こうして、諸郡県は相次いで帰順していった。
 (至正)二十年、陳友諒が徐寿輝を弑逆して自立した。明玉珍は言った。「陳友諒とは共に徐氏に仕える臣下であったのに、このように正道に背くとは!」そこで兵を用いて瞿塘関を閉塞し、街道を封鎖した。徐寿輝の廟堂を城の南端に建立し、折々に祭祀を執り行った。自立して隴蜀王となり、劉楨を参謀とした。
 劉楨は、字を維周と言い、瀘州の人で、元朝の進士である。嘗て大名路経歴となったが、官を辞して自邸に戻っていた。明玉珍が重慶路を攻略するに際して、瀘州を通り掛かり、部将の劉沢民が彼を推薦したものである。明玉珍が往訪すると、共に語らって意気投合し、即日船中に招き入れ、礼節を尽くして歓待した。翌年、劉楨は人払いをして提案を行った。「西蜀は優れた地勢でございまして、大王はよくこの地を統治なさっておられます。戦乱の傷跡を休養し、賢人を登用して軍備を整える事で、不世出の偉業を成し遂げられましょうぞ。とは言うものの、この時に大号を用いて人心を繫ぎ留めず、一度でも将兵たちが故郷を思う様な事があれば、集団は分裂瓦解し、大王は建国する事すらままなりますまい。」明玉珍はこの提案を是とし、群臣と議論した結果、(至正)二十二年の春に重慶路に於いて皇帝位を僭称し、国号を夏とし、天統と改元した。妻彭氏を皇后として冊立し、子の明昇を太子とした。周制に倣い、六卿を設け、劉楨を宗伯とした。蜀の地を八道に分け、府州県の官名を改めて設置した。一方で、蜀の兵は諸国に比べて弱体で、精兵は一万に満たなかった。明玉珍には元々遠謀は無かったものの、性格は質素であり、有能な人材を重用した。即位すると、国子監を設け、公卿の子弟に教育を施し、提挙司教授〔一〕を設け、社稷宗廟を建立し、雅楽を振興し、進士科を開設し、賦税を定め、収穫の十分の一を徴収した。蜀の人々はみな安堵した。これらは何れも劉楨の発案によるものであった。
 翌年、万勝は界首より、鄒興は建昌路より、また指揮李某は八番より派遣して、経路を分けて雲南に侵攻した。その内の二路は到達しなかったが、ただ万勝の兵だけは深く侵入し、元朝の梁王を金馬山に敗走させた。翌年、梁王は大理の兵を伴って万勝に反撃し、万勝は孤立して支援が続かず退却した。再び鄒興を派遣して巴州を奪取した。しばらくして、六卿を改めて中書省枢密院とし、冢宰載寿・司馬万勝をそれぞれ左・右丞相に改め、司寇向大亨・司空張文炳は枢密院事を拝領し、司徒鄒興は成都路を鎮守し、呉友仁は保寧府を鎮守し、司寇莫仁寿は夔関を鎮守し、みな平章政事を与った。
 この年、万勝を派遣して興元路を奪取し、参知政事江儼を送って太祖(朱元璋)に好を通じた。太祖は都事孫養浩を派遣して返礼し、明玉珍に書状を送って言った。「貴殿は西蜀にあり、我は江左にある。まるで後漢末期の孫権と劉備の様ではないか。この頃、王保保(拡廓帖木児、ココテムル)は鉄騎精兵を率いて中原に割拠し、その意志は曹操に劣らず、荀攸や荀彧の様な謀臣、張遼や張郃の様な猛将を抱えているので、我ら両名は安心して休む事などできよう筈が無い。我と貴殿は正に親密な間柄の国であるのだから、願わくは孫権劉備の相克を教訓となされる様に。」これ以降、信使の往来が絶える事は無かった。
 (至正)二十六年春、明玉珍の病が重篤になると、載寿らを召し出して諭して言った。「西蜀の地は堅固であるから、もし皆が協力して一つになり、後継を補佐してくれれば、自然と守り切る事ができよう。そうでなければ、後の事は知った事では無いぞ。」こうして病没した。凡そ即位より五年、三十六歳であった。
 
 子の明昇が跡を継ぎ、開熙と改元し、明玉珍を長江の北岸に埋葬し、これを永昌陵と呼び、太祖と廟号した。母彭氏を称えて皇太后とし、政務に参画させた。明昇は僅か十歳であり、諸大臣はみな粗暴であった為、他者の下風に立つ事を潔しとしなかった。更に万勝と張文炳は仲違いし、万勝は密かに人を送って彼を殺害した。張文炳は明玉珍の養子であった明昭の覚えが厚かった為、また彭氏の令旨を偽造して万勝を縊り殺した。万勝は明氏にとって最も功績が多く、その死に際して、蜀の人々の多くが彼を憐れんだ。呉友仁は保寧府から檄文を飛ばし、君側の粛清を名目とした。明昇は載寿に命じてこれを討伐させた。呉友仁は載寿に書状を送って言った。「明昭を誅殺しなければ、必ずや国家は不安定になり、必ずや民衆は服従しなくなるであろう。朝方に明昭を誅殺すれば、我は夕方には帰参するものである。」そこで載寿は明昭の誅殺を上奏し、呉友仁は入朝して謝罪した。こうして諸大臣が物事を決裁するに際しては、呉友仁が最も専権を振るい、国勢は凋落し、益々衰えていった。万勝の死後、劉楨が右丞相となり、三年後に没した。この年、明昇は太祖に遣使して告哀し、次いで再び遣使して聘問した。太祖もまた侍御史蔡哲を派遣して返礼した。
 洪武元年、太祖が元朝の首都を占領すると、明昇は書状を奉じて祝賀した。翌年、太祖は遣使して大木を求めた。明昇は方物を献上した。洪武帝は璽書を用いて返答した。この年の冬、平章政事楊璟を派遣して明昇に帰順を要求した。明昇は拒絶した。楊璟は再び明昇に書状を送って言った。
  古来の国家というものは、同じ力を持つ者は徳を共にし、同じ徳を持つ者は義を共にするものでございます。故に自身も家系も全うする事ができ、果てしなく名誉が広まるのでございますが、これに背く者はただ敗れ去るのみでございます。貴殿は幼少であらせられますが、先人の偉業を受け継がれ、巴・蜀の地を支配なされた事により、諮らずとも計略はできあがる上に、群臣の提案を採用なされば、瞿塘関・剣閣の要害を頼みに、一人が戈を構えれば、万人を以てしても手が出せるものではございません。これらの全てが変化の到来を妨げ、貴殿のお言葉を誤らせているのでございます。嘗て蜀の地に拠って最も栄えた者の中で、漢の昭烈帝(劉備)に勝る者は居りません。更に諸葛武侯(諸葛亮)がこれを補佐し、官吏を選抜して守らせ、兵卒を訓練し、不足する資財は、全て南詔より調達したものでございます。ところが情勢が逼迫すると、僅かながら自らを守る事が精一杯でございました。今や貴殿の版図は、南は播州を越えず、北は漢中を越えず、これでは先例に対して遙かに隔絶しておられますのに、一隅の地に割拠し、僅かに生き永らえようとしても、賢明とは申せますまい。
  我が主上は仁聖威武にして、帰順する者に恩義を与えなかった事は無く、地勢の堅固に拠る者には後に征討を加えました。貴殿の先人とは好を通じていた事もあって、軍を動かすには忍びず、しばしば使節を遣わして意を示しました。また貴殿は年若くあれせられ、未だに事変を経験なされず、狂言に恐惑され、遠謀大計を見失っておられますので、再び私、楊璟を遣わして直接禍福を申し上げているのでございます。深仁厚徳にして、明氏は浅慮ではあらせられませんので、果たして貴殿のお考えが深からぬものでございましょうか。
  更に先の陳友諒や張士誠の輩は、密かに呉・楚の地に拠り、軍船を建造して江河を塞ぎ、糧秣を積載して山岳を抜け、勇将精兵を擁して、自らを無敵と称しました。ところが鄱陽湖で一戦すると、陳友諒は討ち死に、軍を返して東征すると、張氏は面縛致しました。これは人の力に頼ったものでは無く、正に天命にございました。貴殿はこれを如何にお考えでございますか。
  陳友諒の子は密かに江夏へ逃げ帰ったので、王の軍は討伐を敢行し、その勢いは逼塞して璧玉を咥える事になりました。主上はその罪過を許され、爵位を授けられましたが、その恩寵の盛んなる事は、天下の知る所でございます。貴殿はかの様な罪過もございませんので、心構えを翻され、自ら多くの幸福を求められるのであれば、必ずや封爵を授かり、先人の祭祀を守り、代々絶えず受け継ぐ事になりましょう。これが賢明では無い筈がございません。もし一隅に割拠し、僅かに生き永らえようと望まれたとしても、それは煮え滾る鼎に泳ぐ魚、帷幕の上に巣を作る燕の様なものでございまして、正に災禍が降りかかろうとしても、平然として気付かれる事もございますまい。私、楊璟は天朝の兵の到来を危惧致しますが、凡そ今日の貴殿の計略は、後日に自身の為の計略として、富貴を得ようとされておられるのでございましょう。正にこの時、老母や幼子は、何処に行き着くと仰るのでございますか。禍福にせよ利害にせよ、それを白日の下に晒す事ができるのは、貴殿の下す決断以外にございません。
明昇は遂に従わなかった。
 その翌年、興元路の守将が城を挙げて降伏した。呉友仁はしばしばこの地に侵攻したが、勝利を収める事はできなかった。この年、太祖は街道を借用して雲南へ遠征する為に遣使したが、明昇は詔を奉じなかった。
 (洪武)四年正月、命により征西将軍湯和は副将軍廖永忠らを率いて水軍を用いて瞿塘関より重慶路へ向かわせ、前将軍傅友徳は副将軍顧時らを率いて歩騎兵を用いて秦・隴より成都路へ向かわせ、蜀を討伐させた。当初、載寿は明昇に告げた。「王保保や李思斉の様な強者であっても明朝に対抗する事はできなかったのです。ましてや我々蜀ではどうする事もできないでしょう。一度でも危険があれば、いっそのこと出奔されては如何でございますか。」呉友仁は言った。「それは違う、我が蜀の地は山に囲まれ長江に面することは中原の比では無く、外交によって好を通じる一方、内々に備えを整えておくに勝るものはございません。」明昇はその案を採用し、莫仁寿を派遣して瞿塘峡の入り口に鉄索を張り巡らせた。そして載寿・呉友仁・鄒興らを派遣して兵を増強して支援させた。北は羊角山を拠点とし、南は南城砦を拠点とし、両岸の断崖を削り、鉄索を渡して飛橋を作り、木板を置いて砲を並べ敵を防いだ。湯和の軍は到着しても前進できなかった。傅友徳は階州・文州の備えが手薄である事を察知すると、前進してこれを破り、また綿州を破った。載寿は鄒興らを留めて瞿塘関を守らせ、自らは呉友仁と共に帰還し、向大亨の軍と合流して漢州を救援した。数度交戦して全て大敗を喫し、載寿・向大亨は成都路に敗走し、呉友仁は保寧府に敗走した。この時に廖永忠は瞿塘関を破っていた。飛橋鉄索は全て焼き落とされ、鄒興は矢に当たって戦死し、夏兵は全て潰走した。遂に夔州路を陥落させると、軍は銅鑼峡に差し掛かった。明昇は大いに恐れ、右丞劉仁は成都路へ脱出するよう勧めた。明昇の母彭氏は涙ながらに訴えた。「成都路に逃れた所で、僅かながら命を長らえるだけ。大軍の向かう所、その勢いは破竹の如く、早々に降伏して市井の民として生きる事に及ぶものはありませんよ。」こうして遣使して表を届け、降伏を申し出たのであった。面縛して口に璧玉を咥え、棺を担ぎ、母彭氏と属官を伴って軍門に降った。湯和は璧玉を受け取り、廖永忠は束縛を解き、申し出を受け入れて慰撫し、諸将に下令して掠奪を禁じた。一方で載寿・向大亨もまた成都路を挙げて傅友徳に降伏した。明昇ら全員を京師へ送致すると、礼部の臣が上奏した。「皇帝陛下は奉天殿に御座なされ、明昇らは平伏して午門の外で罪を請い、官吏が赦免文を読み上げるのです。孟昶が宋朝に降伏した時の故事に倣いましょう。」洪武帝は言った。「明昇は幼く、臣下であって、孟昶とは異なるものである。地に伏して表を差し出し罪を請うの部分は削除せよ。」この日、明昇に帰義侯の爵位を授け、京師に邸宅を下賜した。
 冬十月、湯和らは川・蜀諸郡県の悉くを平定し、保寧府に於いて呉友仁を捕らえ、遂に軍を帰還させた。載寿・向大亨・莫仁寿は船に穴を穿って自ら溺死した。
 丁世貞〔二〕という人物は、文州の守将であり、傅友徳は文州を攻撃した際、要害に拠って奮戦し、汪興祖を戦死させたものである。文州が破られると、遁走した。すぐさま再び兵を率いて文州を破り、朱顕忠を殺害したが、傅友徳が反撃してこれを敗走させた。夏が滅亡すると、残兵を集めて秦州を五十日間包囲した。軍が敗北し、夜になって梓潼廟に宿営していた所、その部下に殺害された。呉友仁は京師に到着すると、洪武帝は彼が漢中に侵攻し、初めに戦端を開き、明氏の亡国を導いたとして、市中で処刑された。他の将校には徐州を守らせた。翌年、明昇を高麗へ移した。

【校勘記】
〔一〕提挙司教授、『明史稿』伝九、明玉珍伝・『太祖実録』巻十六、丙午二月「是月」条はいずれも「提挙司教授所」としている。
〔二〕丁世貞、本書巻百二十九、傅友徳伝・『国朝献徴録』巻六、潁国公傅友徳伝は「丁世珍」としている。
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by su_shan | 2016-12-18 20:12 | 『明史』列伝第十一

方国珍

『明史』巻一百二十三、列伝第十一

 方国珍、黄巌州の人。長身で顔が黒く、身体は白く瓢箪の様で、体力は馬を走って追い掛ける程であった。代々塩を売り海運を生業としていた。元朝の至正八年、蔡乱頭という人物が居て、海上で掠奪を働いたので、官憲は兵を発してこれを捕らえた。ある仇敵が方国珍は賊に通じていると密告した。方国珍は仇敵を殺害し、遂に兄の方国璋・弟の方国英・方国珉と共に海上へ逃れ、数千人の群衆を集め、荷船を襲撃して、海路を脅かした。行中書省参知政事朶児只班(トルチパン)がこれを討伐したが、敗北して捕らえられた結果、朝廷への官位要求を強要され、定海県尉を授けた。次いで再び叛くと、温州路を荒らした。元朝は孛羅帖木児(ボロトテムル)を行中書省左丞として、兵を率いて討伐させたが、またしても敗れ、捕らえられた。そこで大司農達識帖睦邇(タッシテムル)を派遣して説得し、これを投降させた。汝州・潁州で叛乱が起きると、元朝は水軍を集めて長江を守らせた。方国珍は恐れを抱き、再び叛いた。台州路達魯花赤(ダルガチ)泰不華(泰ブカ)を誘い出して殺害し、海上へ逃れた。手下を京師に潜入させ、権力者に贈賄した結果、投降を許され、徽州路治中を授かった。方国珍は朝命を聞かず、台州路を陥落させ、蘇州の太倉を焼き払った。元朝は海道漕運万戸の地位を提示して再びこれを招聘したので、受け入れた。次いで行中書省参知政事に進み、一軍を率いて張士誠攻撃に従事した。張士誠は部将を派遣してこれを崑山に防いだ。方国珍は七度戦い七度勝利した。張士誠もまた降伏したので、撤兵した。
 これより以前、天下は長らく平穏であった事から、方国珍兄弟が海上を荒らし始めても、官憲は出兵を嫌い、只々招聘に固執した。唯一、都事劉基は方国珍が逆賊の筆頭であり、降伏する度に叛く事から、決して許してはならないとした。朝議の結果、採用されなかった。方国珍は官位を授かった後、慶元路・温州路・台州路の地を領有した事で、更に強大な勢力となって制御出来なくなった。方国珍の挙兵当初は、元朝は実体の無い詔勅を数十本も乱発して人を集め、賊を討伐しようとした。沿海地方の壮士の多くが募集に応じて功績を挙げた。官憲は莫大な賄賂を求め、応じないと、一家数人を無実の罪で処刑された挙句に官位を得られない者まで現れた。一方で方国珍の輩は、一度でも招聘に応じれば、その度に高位に昇った。その為に民衆の人気を集めて盗賊になる者が続出し、方国珍に従う者は大きく増加した。元朝が江・淮の地の実権を喪失すると、方国珍の船団に基づいて海運の開通を目論み、更なる官爵を用いてこれを繫ぎ留めようとし、それが無ければ困難な状況にあった。張子善という人物が居て、策略を好み、方国珍に対して軍を用いて長江を遡上して江東を窺い、北は青州・徐州・遼海の攻略を力説した。方国珍は言った。「我が志はそれには及ばぬ。」これに謝礼して退去させた。
 太祖(朱元璋)が婺州路を奪取すると、主簿蔡元剛を使者として慶元路へ派遣した。方国珍は一計を案じて部下に言った。「江左の奴の号令は厳正公明で、恐らく抗し得ぬであろう。ましてや我が敵手は、西に呉(張士誠)があって、南に閩(陳友定)がある。もし一時的にでも恭順の意を示さねば、それに託けて茶々を入れられ、不味い事になるであろうよ。」一同はその通りだと思った。こうして遣使して書状を奉じ、黄金五十觔、白金百觔、文綺百匹を進呈した。太祖もまた鎮撫孫養浩を派遣してこれに報いた。方国珍は温州路・台州路・慶元路の三郡を献じ、更に次男方関を人質として送り込んだ。太祖はその人質を受け取らず、手厚く物品を下賜してこれを送り返し、また博士夏煜を向かわせ、方国珍に福建行中書省平章政事、弟の方国英に参知政事、方国珉に枢密分院僉事を授けた。方国珍の三郡献上は上辺だけで、実際には密かに二心を抱いていた。夏煜が到着しても、偽って病気と称して、自身は高齢で職務に耐えないので、ただ平章政事の印章だけを受け取りたいと言った。太祖はその事情を察し、書状を送って諭した。「我は初め、汝が時機を弁えた豪傑だと思ったからこそ、汝に一地方を委ねたのだ。汝の内心は量り難く、我が方の虚実を見極めようとして実子を遣わし、我が官爵を退けようとして老病と称した。そもそも智者とは敗北を転じて成功し、賢者とは災禍から幸福を生むものである、汝はよくよくこれを考えよ。」この当時、方国珍は毎年の様に海船を運行し、元朝の為に張士誠の粟十万石余りを京師へ輸送し、元朝は方国珍を江浙行中書省左丞相・衢国公に昇進させ、慶元路に中書分省を開設した。方国珍はこれを従来通りに受け取ったので、特に甘言を用いて太祖に阿り、元朝に従属する意志は全く無いと釈明した。先の書状が届いても、遂に省みる事は無かった。太祖はまた書状を用いて諭した。「福徳は至誠の心に基づき、災禍は反覆の意志から生まれるもの、隗囂・公孫術の前例を鑑みるが良い。一度でも大軍が動き出せば、虚言を弄した所で押し止める事など叶わぬぞ。」方国珍は困窮した振りをして、また明らかに恐懼して謝罪し、財宝や飾り鞍や馬を献上した。太祖は再びこれを退けた。
 そのうち苗軍の将帥蒋英らが叛くと、胡大海を殺害し、その首を持って方国珍の下へ逃げ込んで来たが、方国珍は受け取らなかったので、台州路から福建へ向かおうとした。方国璋は台州路を鎮守しており、これを迎撃したが、敗北して殺害されたので、太祖は使者を派遣して弔祭した。翌年、温州路出身の周宗道が平陽州を以て帰順した。方国珍の甥の方明善は温州路を鎮守していたので、兵が衝突した。参軍胡深がこれを迎え撃って破り、遂に瑞安州を陥落させ、兵を温州路に進めた。方国珍は恐れ、毎年白金三万両を軍に供給する事を申し出たが、杭州路の陥落まで待たされ、漸く領土を差し出して帰順した。太祖は詔を下して胡深を撤退させた。
 呉元年に杭州路に勝利した。方国珍は思いの侭に地方に割拠し、間諜を送り込んで貢献度合いを標榜して勝敗の行方を窺い、またしばしば拡廓帖木児(ココテムル)及び陳友定と好を通じ、掎角の関係を企図した。太祖はこれを聞いて激怒し、書状を送り付けてその十二の罪状を咎め、また軍糧として二十万石を課した。方国珍は一同を集めて討議した所、郎中張本仁〔一〕・左丞劉庸らはみな従うべきでは無いと言った。丘楠という人物が居て、ただ独り反論した。「彼らの言う事はどれも貴公の為になりませんぞ。そもそも、智略があれば物事を決する事ができ、信義があれば国家を守る事ができ、名分があれば兵を用いる事ができるというものです。公は浙東を経略すること十数年になりますが、長らく逡巡されていたので、もはや策を定めるには遅く、これでは智略があるとは申せません。既に許しを得て投降しておきながら、再び反覆しているので、これでは信義があるとは申せません。彼らは征討の軍を発するに際して、大義を用いておりますが、我々のそれは確実に彼らに劣っているので、これでは名分があるとは申せません。幸いにも平伏して助命を乞えば、願わくは銭俶の故事に倣う事ができるでしょう。」方国珍は聞き入れず、連日連夜珍宝を運搬し、船舶を掻き集め、出航する計画を立てた。
 九月〔二〕、太祖は平江路を破ると、参知政事朱亮祖に命じて台州路を攻撃させ、方国英は迎え撃ったが敗走を余儀なくされた。進撃して温州路に勝利した。征南将軍湯和〔三〕は大軍を率いて長駆して慶元路へ到達した。方国珍は所部を率いて海上へ逃れた。追撃してこれを盤嶼の戦いで破ると、その部将は相次いで投降した。湯和はしばしば人を送って順逆の道理を説得したので、方国珍は子の方関を派遣して表を奉じて降伏を申し出た。「臣の聞く所では、天の覆わない所は無く、地に載らない所は無いと申します。王者は天を礼賛して地に法令を布き、人々に受け入れさせない所は無いとも申します。臣は長らく主上の福徳を享受しておりましたので、自ら天地を断つ覚悟に欠けておりますが、畏れ多くも愚衷を申し上げます。臣は元より凡才の身でございまして、数々の事情の為に、海島より身を起こしましたが、父兄らの力添えがあった訳でも無く、また自らを帝位に上す意図があった訳でもございません。正に主上が雷光さながらに婺州路に到達なさいました時、臣は愚かにも子を遣わして入朝させましたので、元より既に主上の今日の有様を承知しておりましたが、日月の末光に縋り、雨露の余潤を望もうとしておりました。ところが主上は公正無私であらせられ、郷郡を守らせた事は、呉越の故事の様でございます。臣は条約を遵奉し、妄りに節目を生じる様な事は致しませんでした。ただ一族は気が緩み、密かに紛争の火種を撒いた事で、ご苦労にも問責の軍を起こされましたので、私の心中は戦々恐々として、守兵に出迎えさせたのであります。ところが、どうにも海に浮かんでおりますのは、何とした事でございましょうか。親に孝行する子供であっても、易しい罰であれば受け入れますが、厳しい罰であれば逃げるものでございまして、臣の事情は大体がこの様なものでございます。面縛して朝廷に罪を請いたいとは存じますが、さすがに斧鉞による誅殺は恐ろしゅうございます。天下後世に対して臣の得たる罪の深さを知らしめなければ、主上が臣を容れる事ができなかったとされますでしょうが、それではなんとも天地の大徳に繋がらぬ話ではありますまいか。」恐らくこの文章は幕下の士であった詹鼎の作であろう。
 太祖は一読するとこれを憐れみ、書状を与えて言った。「汝は我が告諭に背き、手を拱いて帰順せず、更に海上へ逃れたが、享受した恩徳は実に多かろう。今や困窮鬱屈し、悲哀の情が言葉に滲み出ておったので、我は汝の誠意は誠意としながらも、先の過ちは過ちとしないので、この上は猜疑しない様にせよ。」こうして方国珍の入朝を促したが、対面すると咎めて言った。「汝の到来は、遅過ぎるという事は無かったのう。」方国珍は頓首して謝罪した。広西行中書省左丞〔四〕を授かったが、食禄のみ支給されて任地に赴く事は無かった。数年後、京師で没した。
 子の方礼は広洋衛指揮僉事に累官し、方関は虎賁衛千戸所鎮撫となり、方関の弟の方行は、字を明敏と言い、詩文に巧みで、嘗て承旨の宋濂がこれを称賛したものである。
 
 劉仁本、字を徳元、方国珍と同県の人である。元朝末期に進士乙科に及第し、浙江行中書省郎中に歴任し、張本仁と共に方国珍の幕下に加わった。しばしば名士の趙俶・謝里・朱右らを伴って詩を作り、時に称賛を受けた。方国珍は海運によって元朝に物資を輸送していたが、実際の事務は劉仁本〔五〕が指揮していたものである。朱亮祖が温州路を陥落させると、劉仁本は捕縛された。太祖はその罪を責め、鞭打ったところ背中が潰爛して死んだ。その他の属官で方国珍に従って降伏した者はみな滁州に移住させられたが、ただ丘楠だけは許され、韶州知府となった。
 詹鼎という人物は、寧海県の人で、学識に優れていた。方国珍の府都事となり、上虞県の判官を担当し、その統治には声望があった。京師に到着したものの、登用されなかったので、封事に万言を書き記し、洪武帝の車列を待ち受けてこれを献上した。洪武帝は馬を止めて目を通すと、丞相に命じて官位を与えようとした。楊憲はその才能を妬み、これを妨害した。楊憲が粛清されると、留守司経歴に除せられ、刑部郎中に遷ったが、ある事案に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕張本仁、元は「張仁本」としているが、後の「劉仁本」と混同して錯誤したのであろう。同巻下文及び『明史稿』伝九、方国珍伝・『太祖実録』巻八十八、洪武七年三月壬辰条に基づき改めた。
〔二〕九月、元は「九月」の上に「二十七年」の四文字があった。前文には既に「呉元年」とあり、至正二十七年とは呉元年である。従って削除した。
〔三〕征南将軍湯和、征南は元は「平南」としており、本書巻一、太祖紀・巻百二十六、湯和伝及び『太祖実録』巻二十一、呉元年十月癸丑条に基づき改めた。
〔四〕広西行中書省左丞、元は「西」の前に「州」の字があった。本書巻四十五、地理志・『太祖実録』巻八十八、洪武七年三月壬辰条はいずれも「州」の字が無く、従って削除した。
〔五〕劉仁本、本稿で二度現れる「仁本」は何れも元は誤って「本仁」としているが、前文の「張本仁」と混同して錯誤したのであろうから、今ここに改めた。
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by su_shan | 2016-12-13 18:44 | 『明史』列伝第十一