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by すーさん

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唐鈬 沈溍

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 唐鈬、字を振之、虹県の人。太祖(朱元璋)の挙兵当初から側近に仕えた。濠州を守り、江州路平定に従軍し、西安県丞を授かり、召還されて中書省管勾となった。洪武元年、湯和が延平路に勝利すると、唐鈬を知府とし、新たに帰順した人々を慰撫したので、民衆は安堵した。三年が過ぎ、入朝して殿中侍御史となり、再び出向して紹興知府となった。(洪武)六年十二月に召還されて刑部尚書を拝命した。翌年に太常卿に異動した。母親の喪に際し、特別に半俸を支給された。
 (洪武)十四年、服喪を終えると、復帰して兵部尚書となった。翌年、初めて諫院が設置されると、諫議大夫となった。嘗て洪武帝(朱元璋)は侍臣と歴代王朝の興亡について語り合った事があった。「朕の子孫が成王や康王たらんとし、周公旦や召公奭の様な輔弼の臣が居れば、天に祈って命を永らえようが。」唐鈬は進み出て言った。「元より教育は良好でございますので、左右の者から輔導の臣をお選びなさいましたら、宗廟と社稷の祝福は万年に及びましょう。」また洪武帝は唐鈬に言った。「人には公私の別がある。故にその言葉には正邪が介在する。正言は規則や戒めを言い、邪言は誹謗や迎合を言うのだ。」唐鈬は言った。「誹謗の徒は忠誠を装って近付き、迎合の徒は親愛を装って近付きますが、目を眩まされる事さえ無ければ、讒侫の輩は勝手に遠のくものでございます。」間も無く、監察御史に左遷された。優秀で能力のある在京の官僚を選抜して各地の郡県を巡らせ、賢才を発掘し、官吏として登用し、経験豊富な年長者で声望のある人物を抜擢して、承宣布政使司や提刑按察使司の職務に命ずるよう提案した。洪武帝はこれを採用した。その後、再び右副都御史に抜擢され、刑・兵二部の尚書を歴任した。(洪武)二十二年、詹事院が設置されると、吏部に命じて言った。「太子を輔導する者には、必ずや端正かつ穏健な人物を選抜せねばならぬ。三代(夏・殷・周)の保傅の役目にあった者は、その礼節は非常に尊厳のあったものである。兵部尚書唐鈬よ、汝は謹厚有徳の人格者であり、故に詹事を命ずるが、従来通り尚書の俸給を受領せよ。」唐鈬が選ばれたのは、以前に教育の意義を進言した為であった。同年中に辞職した。
 (洪武)二十六年に太子の賓客として起用され、太子少保に昇進した。(洪武)二十八年、竜州土官の趙宗寿は鄭国公常茂の死に関して不実を上奏し、召喚を命じられたものの出頭しなかった為、洪武帝は激怒し、楊文に大軍を統率して討伐を命じる一方、唐鈬に説得を命じた。唐鈬が到着すると、実際は常茂が病死していた事が判明し、趙宗寿もまた罪を認めて来朝した。そこで楊文に詔して奉議諸州の諸蛮族討伐の為に軍を転進させ、唐鈬に軍事を参議させた。翌月、蛮族討伐が完了した。唐鈬は情勢を考慮し、奉議衛及び向武州・河池州・懐集県・武仙県・賀県等の地域に守御千戸所を設け、官軍を置いて鎮守させるよう提案した。全て認可された。
 唐鈬の人格が優れている点は、注意深い性格で、妄りに金品の授受をしなかった事である。洪武帝は古くからの付き合いで唐鈬と接し、次の様に言った。「唐鈬は友人から臣下となって今や三十数年が過ぎたが、他人との交際に関して、変節する事は無く、また一度の不正も聞いた事が無い。」また、次の様にも言った。「都御史詹徽は悪事を憎んで強硬に断を下し、胥吏の勝手を許さず、誹謗の声は朝廷に満ち溢れておる。唐鈬は落ち着いた人柄であるから、柔弱に物は言うが手は出さぬ。古来の気風が失われてしまったと言うのは、その通りであろうな。」後に詹徽は突然罪を得て誅殺されてしまったが、唐鈬の厚遇振りは変わる事が無かった。(洪武)三十年七月に京師で没した。六十九歳であった。贈賻は非常に手厚く、官署に命じてその亡骸を護衛して故郷へ帰し埋葬させたのであった。

 沈溍、字を尚賢、銭塘県の人。唐鈬と共に兵部に在籍し、明敏と称された。洪武帝は勲臣の子弟の多くが法律を蔑ろにしていた為に、『御製大誥』二十二編を選定し、各地に告諭して武臣は全て音読するよう命じ、気を引き締めさせた。次いで、諭戒八条を用いて将兵に頒布した。当時、沈溍は兵部侍郎として試用されながら部内を取り仕切っていたが、訓戒に関する一切の処置は、全て上意を得た後に実行した。次いで兵部尚書へ昇進した。広西都指揮使司が譙楼を建設し、青州衛が兵器を製造したが、何れも民間の資財を勝手に徴発して行われたものであった。沈溍は都指揮使司や衛所が行う営作は、必ず都督府が準えて上奏し、官庁が材料を支給し、勝手に民衆を使役させない事、違反者は取り調べて処分する事、更に武臣の民事関与を禁止する事を提案した。当時、軍事活動は沈静化していたが、武臣は横暴に振る舞い、しばしば法治に違えた。ここに至って統制されたのは、沈溍の力によるものであった。以前、洪武帝は国家の統治を安定させる為の秘訣は、賢才を進めて不才を退ける事だと説明した。そこで沈溍は言った。「君子は常に少なく、小人は常に多いものでございますから、吹き渡る風に晒して磨き上げるのみでございます。そうすれば賢者は頭角を現し、不仁の輩は遠ざかりましょう。」洪武帝はその発言に賛同した。(洪武)二十三年に沈溍と工部尚書秦逵が入れ替わりの異動となり、誥文を賜わって表彰を受けた。次いで旧職に戻されたが、後の事案によって罷免された。
 明朝初期、衛所世籍と兵卒勾補の規則は、全て沈溍が制定したものである。しかしながら、形式が細かく、帳簿は繁雑であり、胥吏は容易く悪事を働き、結果として明朝一代を通して特に民間にとって害悪と化した一方で、軍衛もまた日毎に摩耗していった事は、『明史』兵志に詳しい。潮州の生員陳質は、父親が戍籍に登録されていた。父親が死没すると、陳質は勾補されたので、帰郷して卒業する事を願い出た。洪武帝は陳質の戍籍を削除するよう命じた。沈溍は軍伍に欠員が生じるとして反対した。洪武帝は言った。「国家にとって、一兵卒は得易いが、一文士は得難いものである。」こうして陳質は戍籍から解放された。無論、これが特別な恩恵であった事は言うまでも無い。


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by su_shan | 2017-02-27 15:10 | 『明史』列伝第二十六

開済

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 開済、字を来学、洛陽県の人。元朝末期に察罕帖木児(チャガンテムル)の掌書記となった。洪武初年、明経として採用された。河南府訓導を授かり、入朝して国子監助教となった。病気により辞職して帰郷した。(洪武)十五年七月、御史大夫安然が開済の才幹を推薦した為に、召し出して刑部尚書として試用し、翌年に正式に任命した。
 開済は詳細に調査を行う事を自らに課し、各地の諸官庁に帳簿を備え付け、毎日の事務を書き記し、成否を評価し、また各部署は往復文書を照らし合わせ、規定を作り、功罪を定めるよう提案した。また軍民で些細な罪を犯した者については、即座に判決して処置すべきである、とも言った。数ヶ月で滞留した書類は一掃された。洪武帝(朱元璋)は大いにその才能を認めた。たまたま都御史趙仁が、以前「賢良方正」「孝弟力田」などの科目で採用された文士が郡県に列席しているが、その多くが役職を与えられず、去留を考査すべきであると発言した。開済が提出した意見は、「経明行修」を一科目とし、「工習文詞」を一科目とし、「通暁書義」を一科目とし、「人品俊秀」を一科目とし、「練達治理」を一科目とし、「言有条理」を一科目とし、六科目全てを備える人物を上とし、三科目以上であれば中とし、三科目未満であれば下とするものであった。この意見が採用された。
 開済は聡明で弁才があり、およそ国家の経制・田賦・獄訟・工役・河渠に関する事柄は、余人にはとても裁定出来るものでは無かったが、開済は一人で計画し、道理や筋道を備えていたので、代々遵守すべきものとなった。故に洪武帝からの信任は非常に厚く、何度も顧問として控え、他部の事に関与した。これによって人は毛嫌いし、悪評が立ち昇った。一方で開済も懸念し、法に則ってよく人を中傷した。嘗て、法律の不備改善を命じられた事があった。開済の指摘は精緻を極めた。洪武帝は言った。「細やかな網を張って民衆を縛れば良いと思っておるのか?」また「寅戌の書」と言う文書を用意して、属僚の入退を管理した。洪武帝は叱責した。「昔の人でも卯の刻から酉の刻とするのが常識であったのに、今になって朝は寅の刻から夜は戌の刻まで仕事をさせては、一体いつ父母を労わり、妻子と顔を合わせよと言うのか!」また属僚を戒める為の立て札を作り、文華殿に掲示するよう提案した。洪武帝は言った。「属僚を戒める言葉で以て、朝廷を牛耳りたいのであろう。それが人臣の礼であるものか。」開済は恥じて謝罪した。
 後に、開済の指示で郎中仇衍がある死刑囚を逃がしたが、獄官に摘発されてしまった。開済は侍郎王希哲・主事王叔徴と共に獄官を捕らえて殺害した。同年十二月、御史陶垕仲らがその事件を告発した。更に発言を続けた。「開済は上奏を行う時、奏文を懐中に留め、或いは隠して言わず、陛下の顔色を窺っており、職務に際してはどっちつかずの態度で、その狡猾さは想像を超えております。甥の娘を奴婢として扱っております。また妹は早くに寡婦となっておりますが、姑を追い出して家財を奪っております。」洪武帝は激怒して開済を獄に下し、王希哲・仇衍らと共に棄市に処したのであった。


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by su_shan | 2017-02-24 00:59 | 『明史』列伝第二十六

薛祥 秦逵 趙翥 趙俊

『明史』巻一百三十八、列伝第二十六

 薛祥、字を彦祥、無為県の人。兪通海に従って帰順し、長江を渡って水寨管軍鎮撫となり、何度も従軍して功績を挙げた。洪武元年には河南への輸送を行った。夜半になって蔡河に到達すると、突然賊に襲撃された。薛祥は動揺せず、上手く説得して賊を退散させた。洪武帝(朱元璋)はその報告を受けて喜んだ。今次の出征については補給が困難であった為に、京畿都漕運使〔一〕を授かると、淮安府に分署を置いた。河川を浚渫して堤防を築き、揚州から済州までの数百里は、徭役を均等に分担させたので、民衆は不満を口にしなかった。功労者があれば上奏して報告し、官位を授かるよう取り計らった。元朝の首都が陥落すると、官民が南方へ移住する事になり、その道中で淮安府を通ったが、薛祥は多大な救援を実施した。山陽県・海州の民衆が叛乱を起こすと、駙馬都尉の黄琛が鎮圧に当たったものの、非常に多くの誤認逮捕が発生した。薛祥が取り調べを担当し、罪の無い者は全て釈放して帰らせた。淮安を統治して八年、民衆は口々に善政だと言い合った。薛祥が任期を終えて京師へ戻る事になると、民衆は香を焚いて再度の赴任を願い、また肖像を建てて祀ったのであった。
 (洪武)八年に工部尚書を授かった。当時は鳳陽府の宮殿を造営している最中である。洪武帝が殿中に腰を下ろすと、宮殿の屋根の上に武器を手に戦っている人の様な物があった。太師李善長が工匠たちは厭鎮法(呪法)を建築に取り入れていると上奏した為に、洪武帝は全員を処刑しようとした。薛祥は分別して交替させて工人たちを不在にし、また鉄匠や石匠には全く関与させていなかったので、難を逃れた者は千人を数えた。謹身殿の造営に際して、役人が中匠を上匠として列挙した事があった。洪武帝はその欺瞞に激怒し、棄市に処すよう命じた。薛祥は横から口を挟んで言った。「確かに報告は事実ではございませんでした。ですがそれで人を殺すという事は、畏れ多くも法に背くものと考えます。」すると腐刑を実施するという命令が発せられた。薛祥は今度は落ち着いて言った。「腐刑では人として不能になってしまいます。杖刑程度で済ませるのが最善でございましょう。」洪武帝はその案を認めた。翌年に各地の行中書省を改組して承宣布政使司とした。中でも北平は要衝であり、特別に薛祥に委ねられ、三年で最良の統治と称えられた。ところが胡惟庸に恨まれ、土木事業で民衆を疲弊させたという罪で、嘉興知府に左遷された。胡惟庸が粛清されると、召還されて再び工部尚書となった。洪武帝は言った。「讒言を吐いた臣下の者が汝を不当に処遇したのに、何故そう言わなかったのだ。」薛祥は答えた。「そういった事情は臣の知る所ではございませんでした。」翌年にある事案に連座して杖殺されると、各地の民衆がこれを憐れんだものである。子は四人居たが、瓊州に追放されると、最終的に瓊山県に籍を置いたのであった。
 孫の薛遠は正統七年の進士で、景泰年間には戸部郎中に昇進した。天順元年に戸部右侍郎に抜擢され、工部に異動した。詔を奉じて開封府付近で決壊した黄河を塞いだ。帰還すると、再び戸部に異動した。成化初年、両広地方の軍糧を監督し、官位は南京兵部尚書までの上ったが、汪直に反抗して罷免された。


 薛祥の後任として工部尚書を拝命した者の中で有名な人物に秦逵らが居る。
 秦逵、字を文用、宣城県の人。洪武十八年の進士。都察院の官を歴任した。檄を奉じて罪人を処理した際には、寛容さと厳格さを使い分けた。洪武帝はその才能を評価し、工部侍郎に抜擢した。当時は土木事業が多く、部内で尚書が不在になると、大部分の事務は秦逵が代行したものである。初め、各地の工匠を登録し、その技術を調べた上で、三年を期限として班を作り、順番に京師へ向かわせ、三ヶ月で交代させる事が議論され、これを「輪班匠」と呼んだが、未だに実施されていなかった。そこで秦逵は距離の遠近を考慮して班を構成し、登録を行い、勘合符を割り当て、期日が来れば工部に向かわせ、その実家の徭役は免除すると指示するよう提案した。洪武帝は秦逵の忠勤に配慮して、役人に詔してその邸宅を修繕させた。(洪武)二十二年には尚書に昇進した。翌年に兵部へ異動した。すぐにまた工部へ異動した。洪武帝は学校を国家の人材育成の場と位置付けていたが、学生の衣服は胥吏と変わらない有様だったので、その刷新を考え、秦逵に制定を命じて提出させた。三度の修正を経て、始めて採用された。監生の身分にある者は藍色の上着を一着ずつ賜わり、各地に先駆けた。明代の学生の衣冠は、秦逵が作り上げたのである。
 趙翥は永寧県の人である。志操堅固で、学業と仏門の修行で評判があった。訓導から賢良に挙げられ、賛善大夫に抜擢され、工部尚書を拝命した。各地で一年間に製造する兵器の数を策定するよう上奏し、藩王府の宮城制度の議定にも携わった。
 趙俊は出身地が判明していない。工部侍郎より尚書に昇進した。洪武帝は国子監に収蔵されている書板が経年の使用で劣化していた為に、何人もの儒者に補修を命じ、工部は職人を監督して修繕した。趙俊は詔を奉じて管理を担当し、古籍は保全された。洪武十二年、趙翥が一時的に刑部へ異動し、次いで辞職して引退し、趙俊は(洪武)十七年に罷免された。秦逵は(洪武)二十五年九月にある事案に連座した為に自ら命を絶った。

【校勘記】
〔一〕漕運使、元は「転運使」であった。『明史稿』伝二十一、薛祥伝・『明書』巻百一、薛祥伝は何れも「漕運使」としている。『太祖実録』巻三十一、洪武元年十月己丑条には「京畿都漕運司を置き」、「龔普・薛祥を漕運使とした」とある。これらに基づき改めた。


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by su_shan | 2017-02-19 18:12 | 『明史』列伝第二十六

列伝第十六 目次

劉基 子璉 璟 宋濂 葉琛 章溢 子存道

 論賛、太祖(朱元璋)が集慶路を陥落させると、智勇に優れた人材を手許に集めさせ、名士賢人を招聘させたので、一時は才幹や仁徳をひた隠しにしていた者たちが、忽ちに馳せ参じたものである。中でも四先生と呼ばれる人物は、最も傑出していた。劉基と宋濂は学術に造詣が深く、その文章は古風かつ優雅であり、共に当代の模範とされた。更に劉基は帷幕にあっては策略を巡らせ、宋濂は従容として指針を示し、開国の初期に於いて、はっきりと王道の在り方を述べ、忠実かつ恭敬であったので、まさしく佐命の臣と言えよう。章溢の地方に於ける尽力や、葉琛の自身を顧みず使命に励む姿勢は、大義をよく弁え、大業を成就させたので、決して弓旌の徳に背かぬものである。なお、劉基は儒者として学術を用い、太平の世の創出を助けたのであるが、口さがない者の多くは讖緯の術を用いてしばしば自在に振る舞ったと伝えている。その風説は最近になってから生まれたものであって、劉基をよく知る者の言葉では無いので、ここでは収録していない。


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by su_shan | 2017-02-18 12:00 | 『明史』列伝第十六

宋濂

『明史』巻一百二十八、列伝第十六

 宋濂、字を景濂、その先祖は金華県潜渓の人であり、宋濂の代になって浦江県に移り住んだ。幼少時より才知と記憶に優れ、聞人夢吉に就学し、『五経』に精通し、また呉莱の下に出向いて師事した。後に柳貫・黄溍の門下に遊ぶと、彼らは宋濂を自分達では及びもつかないと特に謙遜したものである。元朝の至正年間に翰林編修を授かったが、親の高齢を理由に固辞して出仕せず、竜門山に住んで書物を著した。
 十数年後、太祖(朱元璋)が婺州路を攻略すると、宋濂を召し出して謁見した。婺州路は寧越府と改称され、知府の王顕宗に郡学の開校を命じ、宋濂と葉儀を五経師として赴任させた。翌年三月、李善長の推薦により、劉基・章溢・葉琛と共に応天府に呼び寄せられ、江南儒学提挙に除せられ、太子への経学の講義を命じられ、次いで起居注に改められた。宋濂は劉基の一歳年上で、何れも南東の地から立身し、名声を集めた。劉基は大胆不敵かつ変わり者であったが、宋濂は儒者を自任していた。劉基は軍中にあって謀議に与かり、宋濂もまた文学の才能によって知遇を得、常に左右に侍従して諮問に備えたのである。嘗て『春秋左氏伝』を講義した時、宋濂は進言した。「『春秋』とは孔子が善行を褒め称え、悪行を批判する書物でございますが、それを忠実に履行する事、即ち賞罰を厳格に適用なされば、天下を定められましょう。」太祖は端門に赴き、『黄石公三略』を講釈した。宋濂は言った。「『尚書』の二典三謨(尭典・舜典・大禹謨・皐陶謨・益稷)は、帝王に於かれては大経大法でございますので、よく留意してこれを解明なさいませ。」次いで、賞賜の議論に関して言った。「天下を得るには人心を根本に据えるものでございます。人心が定まらなければ、例え膨大な金帛で埋め尽くした所で何の役にも立ちませぬ。」太祖は全ての発言に賛同した。乙巳年三月に帰省を申し出た。太祖は太子(朱標)と共に労って恩賞を与えた。宋濂は書付を差し出して謝意を示し、更に太子に対しては親兄弟を謹んで敬い、徳に努めて学芸を修めるよう上書したのであった。太祖は書状を一読すると非常に喜び、太子を召し出して書状の真意を語ると、札を賜って返答し、更に太子に書状を書かせて返礼した。その後、宋濂の父が没した。服喪が終わると召還された。
 洪武二年に『元史』編纂の詔が発布されると、総裁官就任の命を受けた。同年八月に史書が完成し、翰林院学士に除せられた〔一〕。翌年二月、儒士の欧陽佑らが旧元朝の元統年間以降の事蹟を携えて帰朝すると、宋濂らに続修を命じ、六ヶ月後に再び完成させたので、金帛を賜った。この月、参朝に落ち度があったので、翰林院編修に降格された。(洪武)四年に国子監司業に移ったが、孔子を祀る儀式に関する提言が遅れた罪で、安遠知県に降格され、また召還されて礼部主事となった。翌年に賛善大夫に移った。当時、洪武帝(朱元璋)は文治による統治を目指し、各地から儒士の張唯らを筆頭に数十人を掻き集めていたが、若く優秀な人物を選抜し、その全てを翰林院編修に抜擢すると、禁中の文華堂に入れて学習させ、宋濂にその指導を命じた。宋濂は太子に仕えた十数年もの間、その言動は終始一貫して、遠回しに礼法を説いて正道に導いたが、政治に関する事や前王朝の興亡の事蹟については、必ず拱手して言った。「そうするべきです、そうするべきではありません。」皇太子は常に身を引き締め、喜んで師事し、必ず師父と呼んだものである。
 洪武帝が功臣を封爵した際には、宋濂を呼んで五等封爵について討議した。大本堂に泊まり込み、明け方まで議論を重ねた結果、漢朝や唐朝の故事を踏まえ、その特徴を抜き出して奏上した。何度か甘露が降ると、洪武帝はその吉凶を尋ねた。宋濂は答えた。「受命は天に於いてせず、その人に於いてす、休符は祥に於いてせず、その仁に於いてすというものです。『春秋』が怪異を記して吉祥を記さないのはその為でございます。」洪武帝の甥にあたる朱文正が罪を得ると、宋濂は言った。「元より朱文正殿は死罪が相当ではございますが、陛下に於かれましては親しい間柄でいらっしゃいますので、どこか遠方の地に安置するのが良いでしょう。」太祖の車駕が方丘壇を祀る儀式に出向いた時、心中に不安を感じると、宋濂は従容として言った。「心を健全に保つには寡欲に徹するのが一番でございます。意識してそうなさいましたら、心は清らかにして体は安らぐものでございます。」洪武帝はこの出来事を長い間褒め称えたのであった。以前、太祖は帝王の学は何の書物を基本とするのが良いかと質問した事があった。宋濂は『大学衍義』を挙げた。するとこれを大書して宮殿の両廡に掲示するよう命じた。すぐに西廡に臨御すると、諸大臣全員を従え、洪武帝は『大学衍義』で司馬遷が黄帝・老子の事例に言及している点を示し、宋濂に講釈を命じた。宋濂は講釈を終えると言った。「前漢の武帝は怪しげで出鱈目な学術に溺れる一方、文帝と景帝は恭倹の気質をお持ちではありましたが、既に民力は衰えてしまっていた為に、後に刑罰を厳格にして引き締めたのでございます。人君が礼節を以て心の修養に努めれば、邪説の入り込む隙間は無く、学校を以て民を治めれば、騒乱は起こらないものでございます。ですから、まず刑罰ありきでは無いのです。」三代(夏・殷・周)の沿革と国土の広狭について質問すると、即座に回答し、また言った。「三代の世は仁義を以て天下を治めたので、長年に渡って君臨したのでございます。」また質問した。「三代以前の事を知りたければ、何の書物を読めば良いか。」答えて言った。「上古の世について書き載せた図籍は未だ現れず、人の口によって伝わるのみでございます。人君とは共に政治と教育の責務を負うもの、率先して行動なさいましたら、民衆は自然と感化されましょう。」以前、鷹を題材にして七歩の内に詩を詠むよう指示を受け、即座に完成させた事があったが、「古より禽荒を戒めり」という一節が入っていた。洪武帝は笑って言った。「卿は上手い事を言うではないか。」宋濂の事ある毎に忠実な姿勢は、全てこの様なものであった。
 (洪武)六年七月に侍講学士・知制誥・同修国史の職に移り、賛善大夫を兼任した。詹同・楽韶鳳と共に日暦の整備を命じられ、また呉伯宗らと共に宝訓の編修を命じられた。九月に散官の位階を制定すると、宋濂に中順大夫の地位を与え、政務を担当させようとした。宋濂は辞退して言った。「臣は他に取り柄がございません。下手をして罪を犯すのを待つ様なものでございます。」洪武帝は更に宋濂を重宝した。(洪武)八年九月、太子と秦王・晋王・楚王・靖江王の四王を従えて中都にて武芸の講釈を行った。洪武帝は輿地図の『濠梁古蹟』一巻を入手すると、太子に遣使して送り届け、その他の問題については宋濂に相談させ、細部まで助言させた。太子は宋濂に質問すると、宋濂は明朗に回答して随時進言したので、非常に有益であった。
 宋濂の性格は誠実かつ慎み深く、長らく朝廷に仕えながら、他人の過失を暴露した事は無かった。自らの居室には「温樹(※1)」と書き付けていた。ある客人が禁中で交わされた話について尋ねると、それを指差したものである。嘗て客人と酒を飲んでいた時、洪武帝は密かに人を送り込んでその様子を観察させた。翌日、宋濂に対して酒を飲んでいたか、誰と相席していたか、何を食べていたかを尋ねた。宋濂は全て正直に答えた。洪武帝は笑って言った。「大当たりだ。卿は朕に嘘をついてはおらぬ。」時々、宋濂は召し出されて群臣の良し悪しを尋ねられた事があった。宋濂は美点だけを挙げて言った。「美点ある者は臣と交友がございますので、臣はその人物を熟知しておりますが、そうでない者については知る所ではございません。」それについて主事の茹太素が一万字を超える上書を行った。洪武帝は激怒して廷臣を詰問した。ある者がその書状について苦言を呈した。「なんと不敬な。この様な誹謗が許される道理はございませんぞ。」宋濂に尋ねると、答えて言った。「彼はただ陛下に忠実たらんとしただけでございます。陛下に於かれましては言路をお開きになり、厳罰を加える事をお避け下さいますよう。」洪武帝はその書状を一読すると、採用するに値すると考えた。そこで全ての廷臣を召し出して叱責し、宋濂の字を呼んで言った。「景濂が居なければ、提言した者を誤って処罰する所であったぞ。」更に洪武帝は宋濂を称賛して言った。「朕が聞くに、聖人が最も素晴らしく、その次を賢人、その次を君子と言う。宋景濂は朕に仕える事十九年にして、未だ嘗て一言も偽らず、一人として短所を責めず、終始一貫しておるのだから、君子どころではない。賢人と言っても良いくらいだ。」洪武帝は宋濂を宮廷外で呼び出す度に、必ず座を設けて茶を勧め、朝には必ず食事を共にし、往来して諮問し、夜になるまで解放しなかった。宋濂は酒が苦手であったが、洪武帝が強要して三度も飲ませ、歩けなくなった事があった。洪武帝はその様子を見て大笑いした。手ずから『楚辞』一章を書き上げると、文臣に命じて『酔学士詩』を詠ませたのであった。また以前、湯に甘露を混ぜ、手酌して宋濂に飲ませて言った。「これには病を癒やし寿命を延ばす効果があると言う。卿と共にそうありたいものだ。」また太子に詔して宋濂に名馬を与え、『白馬歌』一章を書き上げると、侍臣に命じて倣わせた。宋濂の厚遇振りはこの様なものであった。(洪武)九年に学士承旨知制誥に昇進し、従来通り賛善大夫を兼任した。その翌年に辞職し、『御製文集』と綺物を賜わり、宋濂に年齢を尋ねた所、答えて言った。「六十八歳でございます。」洪武帝は言った。「この綺をあと三十二年取って置いて、百歳の記念に服でも作ると良かろう。」宋濂は平伏して感謝した。翌年、来朝した。(洪武)十三年、一番目の孫の宋慎が胡惟庸の徒党に連座すると、洪武帝は宋濂の死罪を考えた。皇后と太子が助命に奔走した為に、茂州に追放処分となった。
 宋濂の容貌は非常に立派で、見事な髭を生やしており、視力が優れていて、一粒の黍の表面に何文字も書く事が出来た。幼少より老齢に至るまで、一日として書物を手放さず、精通していない学問は無かった。文章を作れば深みのある言葉がどこまでも続き、古来の名作を生み出した人物と並んで称賛された。朝廷にあっては、郊社・宗廟・山川・百神の規則、朝会・宴享・律暦・衣冠の制度、四裔・貢賦・賞労の儀式、旁及・元勲・巨卿・碑記・刻石の言辞は、全て宋濂に委ねられ、何度も開国の文臣の筆頭として推薦された。士大夫で門額を欲しがった者は、相次いで宋濂を訪ねたものである。外国の朝貢使節でさえもその名声を聞き及んでいて、しばしば宋先生はお元気でいらっしゃいますかと尋ねたものである。高麗・安南・日本の人間は倍の金を出してでも文集を買い漁ったという。各地の学者たちはみな「太史公」と呼んで、姓氏を使わなかった。老齢に至るまで侍従しながらも、その功績や爵位は劉基には劣るが、明朝一代の礼楽の制作に関しては、宋濂の手によって裁定された物が多かったのである。
 その翌年、夔州府で没した時、七十二歳であった。知事葉以従が蓮花山の麓に埋葬した。蜀献王(朱椿)は宋濂の名声を慕って、墓を華陽城の東側に移した。弘治九年、四川巡撫馬俊が上奏を行った。「宋濂殿は本物の儒者として開国に尽力なされ、その作品は手本とすべきで、その功績は天子を輔弼しては多く、教導しては顕著でありました。ところが長らく遠方の地に追いやられ、土に埋もれて沈んでしまわれましたので、救済されては如何でしょうか。」礼部に討議させた所、その官位を元に戻し、一年を通して墓所を祀る事になった。正徳年間に文憲と諡された。
 次男の宋璲は最も名を知られ、字を仲珩〔二〕と言って、詩文に巧みで、書法を最も得意としていた。洪武九年、宋濂の縁故によって、召し出されて中書舎人となった。甥の宋慎もまた儀礼序班となった。洪武帝はしばしば宋璲と宋慎を試し、併せて教戒した。笑いながら宋濂に言った事がある。「卿は朕の為に太子や諸王を教えてくれている。朕もまた卿の子孫を教えておるぞ。」宋濂の歩行が困難になると、洪武帝は宋璲と宋慎に命じて手助けをさせた。親子三代に及んで宮中に仕えたので、民衆はその栄誉を褒め称えた。宋慎が罪を得ると、宋璲もまた連座して、共に処刑され、その家属は全て茂州に追放された。建文帝(朱允炆)が即位すると、宋濂が興宗(朱標)の師であった事を配慮して、宋璲の子の宋懌を召し出して翰林院に在籍させた。永楽十年、宋濂の孫が鄭公智の縁故として姦党に連座したものの、詔によって特赦された。

【注釈】
(※1)温樹、『漢書』巻八十一、孔光伝には「ある者が温室殿の中には何が植えてあるのかと尋ねても、孔光は笑って答えなかった。」とあり、孔光は些細な事であっても宮中に関する話は外に漏らさなかったという故事に因んだものと思われる。尚、温室殿は漢代長安に於ける皇帝の居所、未央宮の一画にあった。


【校勘記】
〔一〕同年八月に史書が完成し、翰林院学士に除せられた、宋濂が翰林院学士となったのは『太祖実録』巻四十二では洪武二年六月戊子とされている一方、『元史』が完成したのは洪武二年八月癸酉とされており、本伝の記載は不正確である。
〔二〕仲珩、元は「伯珩」であった。宋璲は宋濂の次男(仲子)である事を考えると、字が伯珩では
おかしい。『明史稿』伝十八、宋濂伝に基づいて改めた。


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by su_shan | 2017-02-17 18:10 | 『明史』列伝第十六