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by すーさん

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列伝第二十一 目次

廖永安 兪通海 弟通源 淵 胡大海 養子徳済 欒鳳


耿再成 張徳勝 汪興祖 趙徳勝 南昌康郎山両廟忠臣付


桑世傑 劉成 茅成 楊国興 胡深 孫興祖


曹良臣 周顕 常栄 張耀 濮英 于光等


 論賛、明朝の太祖(朱元璋)の勃興は、長江渡河を決意した事により、南東数千里の内に抗争を始め、陳友諒を挫き、張士誠を滅ぼし、その後に北方は中原を平定し、南方は閩(福建)・粤(広東)地方を手中に収めるに当たり、廖永安・胡大海以下の諸将について、その功績の少なかろう筈が無い。臆せず戦場に身を捧げ、功業の成就を目にする事は無かったが、褒賞を得て廟堂に祀られ、その名は竹帛に燦爛と煌めいている。功業の完成を見て爵位に封ぜられた者も、姦党に名を連ねて一生を終えた者も、幸福と言うべきなのであろう。


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by su_shan | 2017-03-30 18:20 | 『明史』列伝第二十一

濮英 于光等

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 濮英、廬州路の人。当初、武勇に優れていた事から百夫長となり、功績を重ねて官位は西安衛指揮使に到達したが、軍政不備の罪によって召還され、叱責を受けた結果、その代行として葉昇が派遣された。葉昇は前任者である濮英の賢才を擁護したので、濮英は西安衛への復帰を命じられた。洪武十九年、太祖(朱元璋)は耿炳文に命じて陝西都指揮使司管内の衛所から兵卒を選抜して辺境防備に充てた所、濮英が練兵を担当した部隊は精強という評判を得た為に、都督僉事を加官された。翌年、部隊を率いて大将軍馮勝の北征に従軍した。金山に到達し、納哈出(ナガチュ)を降伏させると、軍を帰還させる事になり、濮英は遊兵三千を率いて殿軍となった。納哈出の残党で密かに潜伏する者は尚も数十万を数え、明軍の帰還を察知すると、その道中に伏兵を忍ばせ、大軍の通過を待って密かに襲撃しようと企み、攻勢を行わなかった。濮英の背後に遷移し、突如として襲い掛かると、両軍が激突して濮英は身動きが取れず、馬が倒れて遂に捕縛されてしまった。敵軍は濮英を手に入れると、人質として利用する事を考えた。濮英は絶食した上に一言も発さず、隙を見て佩刀を引き抜き、腹部を割って自決した。その報告を受けると、金山侯を贈られ、忠襄と諡された。翌年には楽浪公を進贈された。子の濮璵は西涼侯に封じられ、食禄二千五百石とされ、世券を与えられた。(洪武)二十三年、東昌府に於いて練兵を命じられ、また臨清県に駐屯し、兵卒の訓練を命じられた。(洪武)二十五年に召還され、宋国公馮勝らと共に山西地方の兵馬を監査した。濮璵は父の職務をよく修得し、洪武帝(朱元璋)はそれを非常に喜んだ。また山西地方の民兵の登録を命じられると、濮璵が登録を実施した州県は最も多く、措置が完了すると混乱は発生しなかった。翌年、藍玉党に連座し、五開衛の守備に回されて死没した。

 洪武年間で指揮使の地位に在って殉職を遂げた人物に、于光・厳徳・孫虎が居る。
于光は都昌県の人である。当初は徐寿輝に仕え、浮梁州を鎮守した。陳友諒が徐寿輝を弑逆すると、于光は浮梁州を挙げて帰順し、枢密院判官を授かり、功績を重ねて鷹揚衛指揮使となり、鞏昌府を鎮守した。拡廓帖木児(ココテムル)が蘭州(※1)を包囲すると、于光は救援に赴き、馬蘭灘に差し掛かった所で戦闘に敗北して捕らえられ、蘭州城下へ連行された。于光は大声で叫んだ。「公らはただ堅守なされよ、徐将軍(徐達)が大軍を率いてすぐにでも来て下さるぞ!」賊は激怒し、その頬を殴り、遂に殺害されたのであった。功臣廟に祀られた。
 厳徳は太平路〔一〕の人である。挙兵に従い、功績を重ねて海寧衛指揮使となった。朱亮祖に従って方国珍を討伐し、台州路に於いて戦没した。天水郡公に追封された。
 孫虎は何処の出身か判明していない〔二〕。池州府救援に従軍し、於潜県・昌化県を陥落させ、建徳路・諸全州を平定し、その何れにも功績を挙げ、千戸を授かった。新城県・桐廬県に勝利し、海寧衛指揮使に昇進した。嘉興府の盗賊を鎮圧した。副将軍李文忠に従って北征し、東路より応昌路へ侵入し、落馬河に差し掛かった所で元軍と交戦し死亡した。康安郡伯に追封された。
 また指揮僉事劉広は永平府を守り、敵軍の来襲を防いだ際に戦死した。涼州衛百戸劉林は涼州衛を守っていた際に也先帖木児(エセンテムル)の叛乱に遭い、戦死した。辺境の人々はこれを称え、その最期の地となった竇融台を劉林台と呼んだのであった。銭塘衛千戸袁興は全椒県の人で、雲南遠征に従軍し、自ら先鋒に名乗り出て、陣没した。彼らには差を設けて褒賞が贈られた。

【注釈】
(※1)本書巻四十二、地理志三に拠ると、蘭州は洪武二年九月に県に降格されているので、ここでは「蘭県」とするのが正しい。


【校勘記】
〔一〕太平路(原文は太平)、『明史稿』伝十六、濮英付伝は「濠州の人(濠人)」としている。※訳者補注、『太祖実録』巻二十五、呉元年九月丁酉条、厳徳卒伝には「厳徳、采石鎮の人(徳、采石人)」とあり、采石鎮は太平路管内であるから、『明史』本伝の記述と矛盾しない。
〔二〕何処の出身か判明していない、『明史稿』伝十六、濮英付伝は「寿州の人(寿州人)」としている。


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by su_shan | 2017-03-30 17:57 | 『明史』列伝第二十一

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 曹良臣、安豊県の人。潁州で盗賊が発生すると、同郷の者を集めて堡塁を築き、自らを守った。応天府に於いて太祖(朱元璋)に帰順し、江淮行中書省参知政事となった。淮東地方攻略に従軍し、浙西地方を掌中に収め、江淮行中書省左丞に昇進した。大軍に従って元朝の首都を奪取し、各地を攻略して沢州・潞州に到達した。山西行中書省平章政事に昇進し、帰還して通州を鎮守した。当時は山西地方に大軍が出征していた為、通州の守備は手薄で、部隊は千人にも満たなかった。元朝の丞相也速(イェス)は一万騎を率いて白河に布陣した。曹良臣は言った。「我が軍は少なく、交戦すべきでは無い。ただ、敵軍は多勢と言えども、亡国の残余に過ぎず、士気は振るわぬ。計略を用いて敗走させるとしよう。」そこで密かに指揮使仵勇らを送り、河岸の船上に大量の赤色の幟を立て、それを三十里以上も連ねて、鉦鼓を打ち鳴らした。也速は驚いて遁走した。曹良臣は精鋭の騎兵を繰り出して北方へ百里余り追撃した為に、これ以降元軍は北平府を狙う事は無かったのであった。また大将軍徐達に従い定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)を撃退した。
 洪武三年に宣寧侯に封じられ、食禄九百石とされ、世券を与えられた。翌年、蜀(明昇)討伐に従軍し、帰州の山寨に勝利し、容美諸土司を制圧した。この頃、周徳興は茅岡の覃垕の砦を突破し、白塩山から先は森林を伐採して行軍路を開通させ、紙坊渓から夔州路へ向かい、進撃して重慶路に勝利した。翌年、副将軍李文忠に従って北征し、臚朐河(ケルレン河)に到達すると、その部落を接収した。李文忠は曹良臣を率いて二十日分の糧秣を携行し、急行して土剌河(トゥール河)に到達した。哈剌章(カラジャン)は河を渡って抗戦し、やや後退した。追撃して阿魯渾河(アルグン河)に到達した時、敵の騎兵が大挙集結した。将兵はみな激戦を繰り広げ、敵を敗走させたものの、曹良臣と指揮使周顕・常栄・張耀が戦死した。戦果が報告されると、曹良臣は安国公を贈られ、忠壮と諡され、功臣廟に配列された。子の曹泰が侯爵位を継承したが、藍玉党に連座して処刑された為に、爵位は剥奪された。

 周顕は合肥県の人である。長江渡河に従い、功績を重ねて官位は指揮同知に到達した。洪武三年、応昌路の紅羅山寨を掌中に収め、指揮使に異動した。常栄は開平王常遇春の再従弟であり、指揮僉事を歴任した。常遇春が軍中で没すると、常栄は遺体を警護して帰還した。朱亮祖に従って蜀を平定し、官位は振武衛指揮同知に到達した。張耀は寿州の人で、当初は陳野先(陳エセン)に従った。建康が陥落し、初めて帰順した。功績を重ねて守禦福建指揮使となり、興化府を鎮守した。上記の人物は皆ここに戦没したが、洪武帝(朱元璋)は彼らの家を手厚く保護し、役人に命じて其々の墓を造営させたのであった。


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by su_shan | 2017-03-30 16:29 | 『明史』列伝第二十一

孫興祖

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 孫興祖、濠州の人。太祖(朱元璋)の長江渡河に従い、功績を重ねて都先鋒となった。竜江に戦い、統軍元帥へ異動した。瑞昌県の八陣営を破り、天策衛指揮使に抜擢された。孫興祖は冷静沈着で知謀に長け、大将軍徐達は彼を重用した。泰州に勝利すると、徐達の要請によって海陵県の鎮守を命じられた。海陵県は張士誠の兵が淮地方に進む為の要地であり、孫興祖は軍令を厳粛に徹底し、隊伍を錬成し、強固に防御を整えた。呉(張士誠)軍が海口部より侵攻すると、これを撃退し、彭元帥を捕らえた。平江路を陥落させると、孫興祖は通州奪取を命じられたが、既に張士誠の守将は徐達の軍門に降っていた。大都督府副使に昇進し、彭城の鎮守に移った。徐達は関陝西地方を平定すると、軍を北方へ転進させ、孫興祖に檄を発して東昌路で合流した。元朝の首都に勝利し、燕山六衛が設置されると、兵卒三万を残し、孫興祖は当地を鎮守し、分都督府の業務を掌握するよう命じられた。大軍の西征に際して、拡廓帖木児(ココテムル)は居庸関から北平府を狙ったが、徐達は諸将に対して「北平府には孫都督が居る。案ずるには及ばぬ。」と明言し、太原を直撃したのであるが、事の次第は徐達伝に詳しい。洪武三年、燕山六衛の兵卒を率いて徐達の塞外遠征に従軍し、三不剌川(サンブラ河)に差し掛かった所で敵軍と遭遇し、奮戦するも戦死した。三十五歳であった。太祖はその死を惜しみ、燕山侯に追封し、忠愍と諡し、通州の常遇春の祠に配列したのであった。
 しばらくして、中書省は都督同知汪興祖の兼職分の俸禄支給について上奏を行った。洪武帝(朱元璋)は上奏文の中に「興祖」の名を見出すと、嘆息し、故燕山侯孫興祖の家に月俸を支給するよう命じたのであった。長男の孫恪は武徳衛指揮使の地位を継いだ。しばらくして、都督僉事まで歴任した。(洪武)二十一年、右参将藍玉の北征に従軍し、捕魚児海(ブユル湖)に到達し、論功行賞によって全寧侯に封じられ、食禄二千石とされ、世券を与えられた。孫恪は謹み深く敏捷で、学者の風格を有する武人であった。楚・蜀地方の征討に従軍し、帰還して沔陽府に駐屯し、各衛所軍の辺防体制を監査した。(洪武)二十五年、太子太保を兼任した。しばらくして、山西地方で徴兵を行い、宋国公馮勝に従って練兵を実施した。召還されると、中都に邸宅を下賜された。後に、藍玉党に連座して処刑された。


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by su_shan | 2017-03-30 10:40 | 『明史』列伝第二十一

胡深

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 胡深、字を仲淵、処州路竜泉県の人。知略に優れ、経史や諸子百家の学問に精通した。元朝末期の兵乱に際して、悲嘆して言った。「浙東の情勢は真っ白であるが、直に災禍が降り掛かろう。」そこで同郷の子弟を集めて自らの身を守った。石抹宜孫が万戸として処州府を鎮守すると、参軍に招き、数千人を募兵し、各地の山賊を捕らえた。温州路の韓虎らが主将を殺害して叛くと、胡深が出向いてこれを説得した。軍民は感泣し、韓虎を殺害し、城を挙げて降伏した。次いで、章溢を伴って竜泉県の叛乱を討伐し、隣県の盗賊を捜索し、立て続けにこれを平定した。この時、石抹宜孫は江浙行中書省参知政事に昇進しており、承制によって胡深を元帥に命じた。戊戌十二月、太祖(朱元璋)が婺州路へ親征すると、胡深は戦車数百両を率いて来援し、松渓県に到達したものの救援出来ず、敗退した為に、婺州路は陥落した。翌年、耿再成が処州路へ侵攻すると、石抹宜孫は元帥葉琛・参謀林彬祖・鎮撫陳中真及び胡深を分遣し、兵を率いて抗戦させた。丁度、胡大海の兵が到着し、耿再成と合流すると、これを打ち破り、進撃して城下へ到達した。石抹宜孫は敗北し、葉琛・章溢と共に建寧路へ脱出し、処州路は陥落した。胡深は竜泉・慶元・松陽・遂昌四県を携えて降伏した。
 太祖は元より胡深の名声を耳にしていたので、召し出し、左司員外郎を授け、処州府へ戻らせ、部隊を招集させた。江西遠征に従軍し、平定後、親軍指揮使として吉安府の鎮守を命じられた。処州府の苗軍が叛き、守将耿再成を殺害すると、胡深は平章政事邵栄に従ってこれを討伐した。寧越中書分省が浙東行中書省に改組されると、胡深は行中書省左右司郎中となり、処州府の軍民に関する事務を総括した。当時は山賊が頻発し、人心は定まらなかった。胡深は一万人余りを募兵し、首魁を捕らえて誅殺した。沿海地域の軍は元より粗暴であり、中でも最も悪質な者数人を誅殺すると、弊害は終息した。癸卯九月、諸全州の叛将謝再興は張士誠の兵を率いて東陽県へ侵攻した。左丞李文忠は胡深に兵を率いて先鋒を命じ、謝再興を敗走させた。胡深は諸全州を浙東地方の藩屏とするよう建言し、調査の結果、諸全州城から五十里の地点にある五指山に新城を築き、兵を分遣して鎮守させた。太祖は謝再興叛乱の報告を受けた当初、李文忠に急使を派遣する一方で、別に守城の策を用意するよう命じたが、その工作はここに成就したのである。後に張士誠の部将李伯昇が大挙侵攻したが、新城で阻止され、突破する事が出来ずに敗退した。太祖はその功績を評価し、名馬を賜った。
 太祖が呉王を称すると、胡深を王府参軍としたが、従来通り処州府を鎮守させた。温州路の富豪周宗道が民衆を集めて平陽州を占拠すると、しばしば方国珍の従弟である方明善の圧迫を受け、城を挙げて帰順した。方明善は激怒してこれを攻撃した。胡深は兵を送って方明善を敗走させ、遂に瑞安州を陥落させ、温州路へ兵を進めた。方氏は恐れ、軍費として年間銀三万両を供出すると申し出た。そこで胡深に命じて軍を撤退させ、また任地へ戻らせた。陳友定の兵が侵攻すると、これを破り、追撃して浦城県に到達すると、またその守兵を破り、城を陥落させた。進撃して松渓県を突破し、その守将張子玉を捕らえた。これによって、広信・撫州・建昌三路の兵を発し、八閩の地を攻略するよう提案した。太祖は喜んで言った。「張子玉は勇将である。これを捕らえたのだから、陳友定は肝を潰しておろう。勝勢に乗じてこれを攻めれば、勝てぬ道理は無い。」そこで広信衛指揮使朱亮祖は鉛山県・建昌府から、左丞王溥は杉関から、胡深と同時に進撃するよう命じたのであった。
 朱亮祖らは崇安県に勝利すると、建寧路へ侵攻した。陳友定の部将阮徳柔は堅守した。胡深は立ち昇る妖気を不利に感じ、攻撃を緩めようとした。朱亮祖は言った。「既に軍はここまでやって来ているのに、何故手を緩めなければならんのだ?しかも、天道とは奥深く、山沢の雲気は常に変化するものではないか。何の兆候にもならん。」この時、阮徳柔の兵が錦江に布陣しており、胡深の陣営の背後へ迫っていたが、朱亮祖は督戦して攻勢を強めた。胡深は兵を引き上げ、二ヶ所の陣地を撃破した。阮徳柔の軍は奮戦し、陳友定も精鋭を率いて挟撃した。日没になり、胡深は包囲を突破して脱出したものの、馬が倒れて捕縛され、遂に殺害された。五十二歳であった。縉雲郡伯に追封された。
 以前、太祖は宋濂に質問した事が有った。「胡深とはどの様な人物であるか。」宋濂は答えた。「文武の才がございます。」太祖は言った。「さもあろう。浙東の守りは、それに頼っておるのだ。」胡深は郷郡に長く在任し、閩地方の平定を目指し、功績を挙げて恩に報い、最期は自身の命を殉じた。胡深の指導は寛容であり、十数年に及ぶ用兵の中で、一人として妄りに殺害した事は無かった。処州府を鎮守していた頃は、学問を振興して文士を養成した。縉雲県の田税は重く、新たに没収した田租を用いてそれを補った。塩税は十分の一であったが、半分を徴収するよう提案し、それによって商業を活性化させた。軍民は皆、その恩恵を懐かしんだと言われている。


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by su_shan | 2017-03-29 23:03 | 『明史』列伝第二十一

茅成 楊国興

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 茅成、定遠県の人。和州より従軍し、常遇春の麾下に加わり、太平路に勝利し、初めて万戸を授かった。常州路・寧国路平定に従軍し、総管に昇進した。衢州路に勝利し、副元帥を授かった。金華府を鎮守し、太平興国翼元帥へ異動した。従軍して安慶路に勝利し、安豊路を救援し、鄱陽湖に戦い、武昌路に勝利し、武徳衛千戸を授かった。次いで指揮副使に昇進した。贛州路・安陸府・襄陽路・泰州の奪取に際して功績を挙げた。徐達に従って平江路を攻撃すると、張士誠の軍船を焼き払い、長大な包囲陣を築いてこれを圧迫した。徐達が婁門を攻撃すると、張士誠も出撃し、茅成がこれを打ち破ったが、外郭へ突入した際に叉を受けて戦死した。東海郡公を贈られ、功臣廟に祀られた。

 同時に戦死した者に楊国興という人物が居り、同じく定遠県の人で、右翼元帥として宜興州を鎮守した。当初、常州路の陳保仁が民衆を集めて「黄包軍」を組織したが、降伏後に再び叛き、詹・李二将軍を誘い出して捕らえたので、楊国興がこれを捕らえて斬殺した。神武衛指揮使を授かった。平江路の戦いでは閶門を攻撃した際に戦死し、子の楊益が指揮使の地位を継承した。


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by su_shan | 2017-03-29 13:37 | 『明史』列伝第二十一

桑世傑 劉成

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 桑世傑は無為州の人であり、同様に巣湖より帰順した。趙普勝は二心を抱き、桑世傑はその陰謀を暴いたので、趙普勝は逃げ去った。長江渡河に従い、水軍を率いて元朝の水軍を破った。秦淮翼元帥を授かった。鎮江路を陥落させ、金壇県・丹陽県を巡り、寧国路の長槍諸軍を攻撃し、水陽に勝利し、常州路を平定した。江南行枢密院判官となった。江陰州・宜興州を攻略した。
 当初、石牌寨の民人で朱定という人物が塩の密売に従事していたが、富豪の趙氏と揉め事を起こし、その不法を告発して趙氏を陥れ、江陰州判官を授かった事が有った。後にまた群盗を働いたので、元朝は兵を送って捕縛した。朱定は張士誠が高郵府を占拠した事を聞くと、張士誠を誘導して通州から長江を渡らせた。平江路を陥落させると、朱定は参知政事となり、元帥欒瑞を派遣して石牌寨を守らせた。大軍が江陰州を奪取しても、欒瑞は依然として石牌寨を保持し、水軍を往来させていた。太祖(朱元璋)は廖永安及び桑世傑に命じてこれを攻撃させ、桑世傑は激戦の中で戦死したが、欒瑞は降伏し、張氏が長江へ進出する為の経路は遮断された。太祖はその功績に配慮し、安遠大将軍・軽車都尉・永義侯を贈り、太廟に配列したのであった。
 子の桑敬は父の死によって都督僉事まで昇進した。洪武二十三年には徽先伯に封じられ、食禄千七百石とされ、世券を与えられた。翌年、徐輝祖らと共に辺境を防衛し、次いで平陽府での屯田を命じられたが、藍玉党に連座して処刑された。

 また劉成は霊璧県の人である。統兵総管として耿炳文に従って長興州を平定し、永興翼左副元帥となり、しばしば耿炳文を補佐して張士誠の兵を破った。李伯昇が十万の軍を率いて来襲した時、城内の兵は僅か七千人であった。太祖は兵を送って救援したが、それが到着するまでの間、耿炳文は城の防衛に徹した。劉成は数十騎を率いて西門から出撃し、李伯昇の兵を打ち破り、その部将宋元帥を捕らえ、東門へ転進した。敵は全軍を繰り出してこれを包囲し、劉成は戦死を遂げた。懐遠将軍を贈られ、長興州に廟堂が建立された。


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by su_shan | 2017-03-29 13:36 | 『明史』列伝第二十一

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 趙徳勝、濠州の人。元朝の義兵長となり、馬槊に長じ、戦闘の度に先陣を切った。王忙哥の麾下に加わったものの、その敗北を見通していた。太祖(朱元璋)が滁陽を奪取すると、趙徳勝の母が軍中に居た為に、妻を残して帰順した。太祖は喜び、その名前を与え、帳前先鋒とした。従軍して鉄仏岡を奪取し、三汊河を攻撃し、張家寨を破り、全椒県・後河の諸砦に勝利した。六合県の救援中、流れ矢が命中し、生死の境を彷徨った。鶏籠山を討ち、烏江県を突き、和州・含山県を陥落させた。陳野先(陳エセン)の陣営を夜襲し、板門・鉄長官の二砦を突破し、遂に儀真を奪取した。総管府先鋒を授かった。長江渡河に従い、太平路を陥落させ、蕪湖県・句容県・溧水州・溧陽州に勝利し、その全てに功績を挙げた。常遇春に従って采石鎮の戦いで蛮子海牙(マンジハイヤ)を破り、方山の戦いで陳兆先の陣営を破り、集慶路を陥落させ、最大の功績を挙げた。徐達に従って鎮江路を奪取し、苗軍の水上陣地を破った。丹陽県・金壇県を陥落させ、寧国路を平定した。領軍先鋒に転出した。広徳路を奪取し、張士誠の水上陣地を破り、また常遇春に従って常州路を攻撃し、牛塘の包囲を解き、広徳路・寧国路を奪還した。江陰州を奪取し、常熟州を攻撃し、張士徳を捕らえた。湖州路攻撃に従軍した。宜興州が叛くと、兵を戻してこれを鎮圧した。中翼左副元帥に抜擢された。陳友諒が竜江に侵攻した。竜江の第一関門を虎口城と言い、太祖は趙徳勝に担当させた。陳友諒が現れると、奮戦した。伏兵が襲い掛かり、陳友諒は大敗を喫し、遂に太平府を奪還した。銅陵県の臨山寨を陥落させ、黄山橋及び馬駄沙を攻略し、高郵府の制圧に功績を挙げた。後翼統軍元帥に昇進した。
 太祖の西征に従軍し、安慶路の水上陣地を破り、風に乗って小孤山まで遡上した。九江から五里を隔てた地点になって、初めて陳友諒は気付き、慌てて遁走した。遂に九江に勝利し、黄梅県・広済県を巡り、瑞昌県・臨江路・吉安路に勝利し、帰還して安慶路を陥落させ、進撃して撫州路に勝利し、新淦州を奪取した。南昌の叛将を討ち、その城を奪還したが、砲撃によって肩を負傷した。江南行枢密院僉事を授かった。朱文正・鄧愈と共に南昌を鎮守した。池州府に於いて羅友賢を鎮圧し、西山の戦いで陳友諒の部将を破り、臨江路・吉安路・撫州路を奪還した。しばらくして、陳友諒は大挙して南昌を包囲すると、趙徳勝は麾下の数千を率いて城を背に迎え撃ち、その部将を射殺して敵軍を食い止めた。翌日も戦闘が行われ、城は幾重にも包囲された。陳友諒は自ら督戦し、夜を徹して攻勢を仕掛け、城壁の崩壊は目前に迫った。趙徳勝は諸将を率いて激戦を繰り広げ、戦闘と修繕を並行して進め、城壁の損壊を補填した。夕刻、城門の楼に腰掛けて兵卒を指揮していた時、弩が腰部に命中し、その矢尻は六寸も食い込んだ。これを抜き取りながら、諦めた様に言い放った。「吾は三十の頃から従軍し、矢石で何度も傷を負ったが、これ程の事は無かった。丈夫は死して恨まずと言うが、ただ中原を掃き清められなんだ事だけが恨めしい。」そう言い終えると、絶命した。三十九歳であった。梁国公に追封され、武桓と諡され、功臣廟に列祀され、太廟に配列された。
 趙徳勝は剛直にして勇猛果敢であり、部下の統制も厳粛であった。読書は好まなかったが、臨機応変に対応し、その行動は古法に適っていた。普段は修士の如く孝行に励んでいたものである。
 陳友諒の南昌包囲は八十五日間に及んだが、これに前後して、主だった戦死者は十四名を数えた。

 張子明は、領兵千戸である。洪都の包囲が長引き、内外は隔絶された為に、朱文正は張子明を応天府へ派遣して援軍を要請する事にした。東湖の小さな漁船に乗って水門から脱出すると、夜を徹して潜行し、半月を要して漸く到着した。太祖は陳友諒の軍勢について尋ねた。張子明は答えた。「確かに大軍ではございますが、戦闘による死者は少なくありません。現在、長江の水位は日に日に下がり、賊の巨艦は不利になりつつありますので、増派頂けるならば打ち破れましょうぞ。」太祖は張子明に言った。「戻って主帥に伝えよ。一ヶ月堅守せよと。吾自ら打開してくれる。」張子明は帰還途上の湖口に於いて陳友諒に捕らえられ、城内へ降伏を呼び掛けるよう強要されると、偽って承諾した。城下に赴くと、大声で叫んだ。「我は張大舎である。既に主上への謁見は叶い、諸公らは堅守せよと命ぜられた。援軍は到来するぞ。」賊は激怒し、槊で張子明を突き殺した。忠節侯に追封された。
 陳友諒が撫州路を攻撃した時、枢密院判官李継先は城壁上で戦死を遂げ、左翼元帥牛海竜は包囲の突破を図って戦没し、左副元帥趙国旺は兵を率いて軍船を焼き払ったものの、敵の追撃を受け、橋から身を投げて死に、百戸徐明は馬を走らせて賊を射殺したが、賊は徐明の武名を知っていたので、強引に攻め寄り、捕らわれて殺害され、兵卒の張徳山は夜半になって密かに城を抜け出し、賊の船を焼き払ったが、賊に発見されて殺害され、夏茂成は城楼を守っていた時に、砲弾が命中して死亡し、右翼元帥同知朱潜・統軍元帥許珪は何れも戦死した。蔣必勝が吉安路を陥落させると、参知政事劉斉・知府朱文華〔一〕は捕らえられたが、屈する事無く殺害された。祝宗・康泰が叛き、洪都府を陥落させると、知府葉琛と江西行中書省都事万思誠は抵抗したが、殺害された。後に、全員に対して差は有れど侯伯以下の爵位が贈られ、豫章に於いて忠臣廟が建立され、共に十四人が祀られたが、趙徳勝がその筆頭とされた。一方、康郎山の戦いでの主だった戦死者は三十五人を数え、丁普郎がその筆頭とされている。

 当初、丁普郎は陳友諒の部将であり、小孤山を鎮守していたが、傅友徳と共に帰順し、行枢密院同知を授けられ、何度も功績を挙げた。南昌救援に際して、鄱陽湖に戦い、辰の刻から午の刻までの間に、丁普郎は身に十ヶ所以上の傷を受け、頭部を切断されても直立を保ち、武器を手に戦う姿勢を崩さなかったので、敵は驚き、神の様だと言い合った。時に七月己丑の出来事である。済陽郡公を追贈された。張志雄もまた陳友諒の部将であり、元より勇敢で、長張と号していた。趙普勝に従って安慶路を鎮守した。陳友諒が趙普勝を殺害すると、張志雄はそれを恨んで帰順し、枢密院判官となった。この戦いで、張志雄の船は帆柱が折れて身動きが取れず、敵兵が突き殺そうとしたので、脱出は不可能と悟り、自らの手で首を刎ねた。元帥余昶・右元帥陳弼・徐公輔も同じ日に戦没した。この前日には、左副指揮韓成・元帥宋貴・陳兆先が戦没している。陳兆先は、陳野先の従弟であり、捕らえられた後、太祖がその兵を宿衛に充てると、その度量に感激し、死力を尽くして戦い、ここに至って戦死したのであった。韓成の子の韓観は都督に昇進しているが、別項に列伝が有る。四日後の辛卯、再び大規模な戦闘が発生し、副元帥昌文貴・左元帥李信・王勝・劉義が戦死した。八月壬戌には涇江口の戦いで敵軍を阻止し、同知元帥李志高・副使王咬住もまた戦死した。その他の副将で死亡した人物は、千戸姜潤・王鳳顕・石明・王徳・朱鼎・王清・常徳勝・袁華・陳沖・王喜仙・汪沢・丁宇・史徳勝・裴軫・王理・王仁、鎮撫常惟徳・鄭興・逯徳山・羅世栄・曹信である。凡そ公爵を贈られた者は一人、侯爵は十二人、伯爵は二人、子爵は十五人、男爵は六人であり、その肖像は康郎山の忠臣廟に置かれ、役人が毎年祭祀を執り行ったのである。
 また、程国勝という人物は徽州路の人である。義兵元帥として帰順し、楊完者(楊オルジェイ)を破り、功績を重ねて万戸に昇進し、南昌を鎮守した。牛海竜と共に陳友諒の陣営を夜襲した。牛海竜は流れ矢が命中して死亡したが、程国勝は泳いで脱出し、金陵に到達した。太祖に従って鄱陽湖に戦った。張定辺が太祖の旗艦を目掛けて直進した。程国勝は韓成・陳兆先と共に小船を走らせて左右から挟撃した。太祖の旗艦は離脱に成功したが、程国勝らは敵艦を取り囲んだ後、支援を断たれ奮戦するも戦死した。一方、南昌城内では程国勝は既に戦死したと思われていた為に、豫章・康郎山の両廟に祀られたのだと言われている。

【校勘記】
〔一〕朱文華、本書巻一、太祖紀・紅格本『太祖実録』巻十二、癸卯五月己巳条は共に「朱叔華」としている。


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by su_shan | 2017-03-28 13:36 | 『明史』列伝第二十一

張徳勝 汪興祖

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 張徳勝、字を仁輔、合肥県の人。才知に優れ、勇猛であった。兪通海らと共に水軍を率いて巣県より帰順した。長江渡河に従い、采石鎮・太平路に勝利した。陳野先(陳エセン)が来襲すると、湯和らと共に撃破してこれを捕らえ、太平興国翼元帥府総管を授かった。蛮子海牙(マンジハイヤ)の水上陣地を破り、陳兆先を捕らえた。集慶路を陥落させ、鎮江路に勝利し、秦淮翼元帥を授かった。常州路を奪取し、江南行枢密院判官に抜擢された。寧国路に勝利し、長槍兵を接収した。太湖を制圧し、馬蹟山を攻略した。宜興州を攻撃し、馬駄沙及び石牌寨を奪取した。江南行枢密院僉事に昇進した。趙普勝が池州路を陥落させると、張徳勝は救援に向かったが間に合わず、帰還して徐達に従い宜興州を突破した。再び趙普勝が青陽県・石埭県を掠奪した。張徳勝は柵江口に戦い、これを敗走させた。次いで、兪通海と共にその軍を打ち破り、遂に池州路を奪還した。兵を率いて無為州より浮山へ向かい、趙普勝の部将胡総管を敗走させ、これを追撃して青山の戦いで破り、更に追走して北方の潜山に到達した。陳友諒の部将郭泰が沙河で迎え撃ったが、打ち破ってこれを斬殺し、遂に潜山に勝利した。陳友諒が竜江に侵攻すると、張徳勝は水軍を率いて迎え撃ち、相当数を殺傷した。張徳勝は大声で威勢を上げ、麾下の諸将は奮戦した。陳友諒の軍は戦意を喪失すると、遂に大敗を喫した。諸将と共にこれを慈湖まで追撃し、その船団に火を放って焼き払った。采石鎮に到達すると、激戦を繰り広げ、戦没した。蔡国公に追封され、忠毅と諡され、功臣廟に肖像が置かれ、太廟に配列された。子の張宣は幼く、養子の汪興祖が職位を継承した。

 張興祖は巣県の人である。元の姓は汪氏であった。張徳勝の職位を継承し、安慶路攻略に従軍し、江州路に勝利し、蘄州路・黄州路を突破し、南昌を奪取した。安豊路救援に従軍し、張士誠の兵を打ち破った。鄱陽湖の戦いでは、廖永忠らと共に六艘の船で突入し、また涇江口で陳友諒を迎え撃ち、最大の功績を挙げ、湖広行中書省参知政事に抜擢された。武昌路の平定に従軍し、遂に廬州路に勝利し、各地を攻略して通州に到達した後に帰還した。大都督府都督僉事に昇進した。徐達に従って淮東地方を奪取し、浙西地方を陥落させた。大都督府都督同知に昇進した。大軍が北征すると、別働隊として衛軍を率いて徐州より沂州・青州・東平路に勝利し、勝勢に乗じて東阿県に到達し、元朝の参知政事陳璧及び所部五万人余りを降伏させた。孔子五十六世の衍聖公孔希学は曲阜知県孔希挙(※1)・鄒県主簿孟思諒らを引き連れ軍門へ赴いて接見すると、張興祖は彼らを礼遇した。兗東地方の州県はその噂を聞くとみな降伏し、遂に済寧路・済南路を奪取した。
 洪武元年、都督兼右率府使となり、楽安県攻撃に従軍し、汴梁路・河南府路・洛陽県に勝利し、帰還して済寧路を鎮守した。大将軍(徐達)と共に軍を徳州に集結させ、水軍を率いて大運河に沿って前進し、遂に元朝の首都に勝利した。周辺を巡って永平県を陥落させ、西進して大同路を奪取し、三衛の兵卒を率いて当地を鎮守した。再び元軍を破り、捕殺した敵兵は数え切れなかった。この頃、張徳勝の子の張宣が成人し、宣武衛指揮同知を命じられた。また張興祖も汪姓に戻した。(洪武)三年、進軍して武・朔二州に勝利し、元朝の枢密院同知馬広らを捕らえた。兵を率いて大同北口に到達し、元軍を打ち破り、拡廓帖木児(ココテムル)の弟金剛奴ら四百人余りを捕らえた。しばらくして、晋王(朱棡)府武傅を命じられ、山西行都督府都督僉事〔一〕を兼任した。(洪武)四年、前将軍傅友徳に従い兵を合流させて蜀(明昇)を討伐し、階州・文州に勝利し、勝勢に乗じて五里関に到達した所で、石弾が命中して戦没した。蜀が平定されると、都督汪興祖が朝命に殉じた事を布告し、その子を褒賞し、東勝侯に追封し、世券を与えたのであった。汪興祖の子は幼く、張宣と同居を命じられた。後に病没し、爵位は抹消された。

【注釈】
(※1)曲阜知県孔希挙、『太祖実録』巻二十八上、呉元年十二月丁未条には「曲阜県尹孔希章」とあり、『曲阜県志』巻二十七、通譜、癸卯二十三年条及び同書巻三十九、職官、知県、更に『孔子世家譜』初集巻二、五十六代に於いても同様に「孔希章」とされている。按ずるに「孔希挙」は誤りであろう。

【校勘記】
〔一〕僉事、『太祖実録』巻五十三、洪武三年六月庚辰条は「同知」としている。


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by su_shan | 2017-03-27 11:59 | 『明史』列伝第二十一

耿再成

『明史』巻一百三十三、列伝第二十一

 耿再成、字を徳甫、五河県の人。濠州に於いて太祖(朱元璋)に従い、泗州・滁州に勝利した。元軍が六合県を包囲した。太祖はこれを救援し、耿再成と共に瓦梁塁に集結して奮戦したが、敵わず退却した。元軍が到来すると、太祖は谷川の側に伏兵を置き、耿再成に敵を誘い出させ、大いにこれを打ち破った。鎮撫として長江渡河に従い、集慶路を陥落させた。元帥として鎮江府を鎮守し、江南行枢密院判官として長興州を鎮守し、改めて揚州府を鎮守した。金華県攻略に従軍すると、先鋒となり、縉雲県の黄竜山に布陣して敵の攻撃を遮った。胡大海と共に処州路の戦いで石抹宜孫を破り、その城に勝利し、当地を鎮守した。石抹宜孫が来襲すると、またこれを慶元県の戦いで破った。
 耿再成は厳格に軍を統制した。将兵が民間に出入りしても、野菜や果物を差し出させた事は無かった。金華府の苗軍の将帥蔣英らが叛き、胡大海を殺害した。処州府の苗軍の将帥李祐之らはこの急報を耳にすると、同様に叛乱を画策した。耿再成は客人と食事をしていた所で変事を聞いて馬に跨り、二十人にも満たない数の兵卒を手元に集め、賊を面罵した。「賊めが!国家に飼われておる分際で、叛きおったか。」賊は耿再成に向かって槊を突き出した。耿再成は剣を振るって立て続けに何本も槊を折ったが、負傷して落馬し、絶命するまで大声で罵倒し続けた。胡深らはその遺体を引き上げ、藁に包んで埋葬した。後に墓所は金陵の聚宝山に移され、高陽郡公に追封され、太廟に配列され、功臣廟に肖像が置かれた。洪武十年〔一〕に泗国公を加贈され、武荘と諡された。

 子の耿天璧は、父の訃報を聞くと部隊を纏めて賊を殺害した。その後、李文忠が賊を破るとこれを斬殺した。こうして耿天璧は処州府を鎮守し、方国珍・張士誠の牽制に功績を挙げ、指揮副使に抜擢された。浦城県に勝利し、建寧路を突き、陳友定を敗走させた。襄陽路を制圧し、進撃して西安に到達すると、河州路・臨洮府に降伏を勧告し、何れも投降させた。杭州衛指揮同知に異動した。(洪武)七年、海上での倭寇掃討中、外洋に出過ぎた為に溺死した。

【校勘記】
〔一〕十年、元は「三年」であり、本書巻百五、功臣世表・『太祖実録』巻百十一、洪武十年四月戊辰条に基づき改めた。


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by su_shan | 2017-03-26 23:14 | 『明史』列伝第二十一