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by すーさん

<   2017年 06月 ( 12 )   > この月の画像一覧

王愷

『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一

 王愷、字を用和、当塗県の人。経史に精通し、元朝の府吏となった。太祖(朱元璋)が太平路を突破すると、召し出されて掾属となった。京口攻略に従軍し、新たに帰順した民衆を慰撫した。中書省が開設されると、登用されて都事となった。杭州路の苗軍数万人が投降すると、厳州府の境界で待機するよう命じた。王愷が急行してこれを諭し、その将帥を伴って帰投した。太祖が衢州路に勝利すると、総制軍民事を拝命した。王愷は城壁を増築して濠を浚い、警戒部隊を設立し、壮丁を登録し、一万人余りを集めた。常遇春が金華府に兵を駐屯させていた時、その部将が民衆に狼藉を働いたので、王愷は拘束して諸市で鞭打った。常遇春が王愷を詰問すると、王愷は答えた。「民衆は国家の根本でありますから、一部将を鞭打って民衆を安心させるのは、将軍にとって喜ばしい事なのですよ。」常遇春は王愷に謝罪した。当時は飢饉や疫病が流行していたので、王愷は官倉から粟を供出し、恵済局を設け、数え切れない程の民衆が生き延びた。学校は廃れていたので、衢州府管内の孔子家廟と共に修繕を加えて一新した。開化県の馬宣・江山県の楊明が立て続けに叛くと、前後して討伐し、これを捕縛した。
 左司郎中に異動すると、胡大海を補佐して省内を統括した。苗軍が叛くと、胡大海が殺害された。苗軍の将帥の多くは王愷を慕っていたので、彼を連行して西進しようとした。王愷は厳しい顔色で言い放った。「吾は国土を守る者、義として死ぬならともかく、賊になど従うものか!」こうして子の王行と共に殺害された。四十六歳であった。
 王愷は謀術と決断に優れていた。以前、ある進言を行った時、聞き入れられないでいると、退出して戸外に立ち、夕方になっても立ち去ろうとしない事があった。太祖が外出すると王愷を見出し、訝しんで理由を尋ねたところ、当初の進言を繰り返したので、遂にその提案を受け入れたのであった。後に奉直大夫・飛騎尉を贈られ、当塗県男に追封された。


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by su_shan | 2017-06-19 16:37 | 『明史』列伝第一百七十七

花雲 朱文遜 許瑗等

『明史』巻二百八十九、列伝第一百七十七、忠義一

 花雲、懐遠県の人。立派な体躯で色黒く、驍勇冠絶の人であった。至正十三年癸巳の年、臨濠にて太祖(朱元璋)に謁見した。太祖はその才幹を奇とし、花雲を各地の平定に従え、至る所で勝利を収めた。懐遠県を破り、その守将を捕らえた。全椒県を攻撃し、これを突破した。繆家寨を襲撃すると、群盗は潰走した。太祖は滁州を攻略しようとした時、数騎を率いて先行し、花雲は扈従した。突然、数千人の賊徒に遭遇すると、花雲は長矛を手に太祖を援護し、剣を抜いて馬を躍らせ敵陣を突いて進んだ。賊は驚いて言った。「黒将軍の勇猛甚だしき事よ、鋭鋒に当たる事すら出来ぬではないか。」本隊が到着すると、遂に滁州に勝利した。甲午の年、和州攻略に従軍し、兵卒三百人を捕らえ、功績によって管勾を授けられた。乙未の年、太祖が長江を渡った時は、花雲が先んじて渡河を行った。次いで太平路に勝利すると、その忠勇によって左右に宿衛する事になった。集慶路攻略に従軍し、兵卒三千人を捕らえ、総管に抜擢された。鎮江路・丹陽県・丹徒県・金壇県を巡り、全てに勝利を収めた。馬駄沙に差し掛かった時、強賊数百人が街道を遮って戦闘を仕掛けた。花雲は三昼夜行軍と戦闘を続け、全員を捕らえて殺害し、前部先鋒を授かった。次いで常州路を突破し、牛塘営を鎮守した。太祖が太平府に行枢密院を設立すると、花雲を抜擢して院判とした。丁酉の年、常熟州に勝利し、兵卒一万人余りを捕らえた。命によって寧国路へ向かい、群盗は互いに結託して街道を封鎖した。花雲は矛を操り鼓譟して突入すると、斬首千百人を数え、その身には一本の矢も受けなかった。
 帰還すると太平府を鎮守した。庚子の年の閏五月、陳友諒が水軍を率いて来襲した。花雲と元帥朱文遜・知府許瑗・院判王鼎は陣形を整えて迎撃し、朱文遜が戦死した。賊軍は三日間の攻撃で侵入出来ず、巨艦を持ち出して増水に乗じ、艦尾から城壁に取り付いた。太平城が陥落すると、賊は花雲を拘束した。花雲は奮起して絶叫すると、縄を全て引き千切り、見張りの刀を奪い取って、五・六人を殺害し、罵声を浴びせた。「貴様らなど我が主君の敵ではないぞ、早々に降伏する事だ!」賊は怒って花雲の頭を打ち砕き、船檣に縛り付けて矢を射掛けたが、罵声は少しも衰えず、絶命する瞬間まで声音は勇壮であった。当時三十九歳である。許瑗・王鼎も抵抗して敵を罵りながら殺害された。太祖は呉王に即位すると、花雲を東丘郡侯に追封し、許瑗は高陽郡侯に、王鼎は太原郡侯とし、忠臣祠を建立し、共に彼らを祀ったのであった。
 太平城の危機に際して、花雲の妻の郜氏は家廟に祭告し、三歳になる子供を連れて、泣きながら家人に伝えた。「城が破られれば、必ずや夫は死ぬでしょう。義として一人生き永らえる事など出来ようか、とは言っても花氏の後裔を絶やす訳にもいかない、だから汝らはよくこの子の面倒を見てやっておくれ。」花雲が捕らわれると、郜氏は水に身を投げて死んだ。世話役の孫という者が遺体の埋葬を済ませると、子を抱えて脱出したものの、九江に差し掛かった所で追剝に遭った。孫は夜な夜な漁家を訪ね、簪や耳環の類を渡して子を養った。漢軍(陳友諒)が敗北すると、孫は隙を見て子を連れて長江を渡ろうとしたが、敗走する軍が舟を奪って二人を長江に突き落としたので、孫は木の切れ端に掴まって葦原に隠れ、蓮の実を採って子に与え、七日間生き延びた。夜になって、雷老という老人に助け出され、年が明けた頃に太祖の下へ到着した。孫氏は子を抱えて泣きながら拝謁すると、太祖もまた涙を流し、膝の上に子を乗せて言った。「正に花将軍の子息である。」褒美として雷老に衣服を与えようとすると、雷老は忽然と姿を消してしまった。子は煒という名を賜わり、昇進を重ねて水軍衛指揮僉事となった。その五世孫にあたる花遼は復州衛指揮使となり、世宗(朱翊鈞)に請願した結果、郜氏は貞烈夫人を贈られ、孫は安人となり、祠堂を建立して祭祀が執り行われたのであった。

 朱文遜は太祖の養子である。嘗て、元帥秦友諒と共に無為州に侵攻して勝利を収めた。許瑗は字を栗夫と言って、楽平県の人である。元朝末期、二度も郷試第一に挙げられた。太祖が婺州路に駐屯した時、許瑗は謁見して言った。「もし貴殿が天下を平定しようとお望みであれば、広く英雄を集めなければ、成功を得る事は難しいでしょう。」太祖は喜び、許瑗を帷幕に留め、軍務に参与させた。次いで、太平府の鎮守を命じた。王鼎は儀徴の人である。当初、趙忠の養子となった。趙忠は総管になると、太平路に勝利し、行枢密院判を授けられ、池州府を鎮守した。趙普勝が来襲すると、趙忠は戦没した。王鼎がその職位を継承すると、元の姓に戻し、太平府に駐屯した。こうして、三人全員が死亡したのである。
 当時、劉斉という人物は、江西行中書省参知政事として吉安府を鎮守していた。守将の李明道が開門して陳友諒の兵を迎え入れると、参知政事曾万中・陳海を殺害し、劉斉及び知府宋叔華を捕らえ、彼らを脅迫して帰順させようとしたものの、全員が拒絶した。また臨安路が突破されると、同知趙天麟が捕らわれたが、やはり屈服せず、共に陳友諒の下へ送致された。陳友諒は洪都府を攻撃している最中で、三人を殺害して城下に晒した。無為州が陥落し、知州董曾が捕らわれると、董曾は抵抗して罵声を浴びせて屈服しなかったので、長江に沈められた。


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by su_shan | 2017-06-19 01:15 | 『明史』列伝第一百七十七

楽韶鳳

『明史』巻一百三十六、列伝第二十四

 楽韶鳳、字を舜儀、全椒県の人。博学で文章に巧みであった。和陽にて太祖(朱元璋)に謁見し、長江渡河に従い、軍務に参与した。洪武三年に起居注を授かり、何度か異動した。(洪武)六年に兵部尚書を拝命し、中書省・御史台・都督府と共に兵卒を教練する為の規則を制定した。侍講学士に改められると、承旨の任にあった詹同と共に先人を釈奠する楽章を正し、『大明日暦』を編集した。(洪武)七年、洪武帝(朱元璋)は祭祀から戻ると、楽舞の先導を応用して、楽韶鳳に命じて歌詞を選定させた。そこで楽韶鳳は『神降祥』『神貺恵』『酣酒』『色荒』『禽荒』といった諸曲を進呈し、凡そ三十九章を『回鑾楽歌』と呼んで、皆が戒めとした。礼部が『楽舞図』を制定して提出すると、太常寺に命じてこれを習得させた。
 翌年、洪武帝は旧韻が江東地方から離れると、その多くが正しい発音を失っているとして、楽韶鳳と廷臣に命じて中原雅音を参考に修正させた。書物が完成すると、『洪武正韻』と名付けられた。また陵寝朔望の祭祀及び登壇脱舃といった諸儀礼の検討を命じられると、故実を詳細に考察したので、何れも採用された。次いで病気を理由に罷免され、しばらくして国子監祭酒に起用された。詔を奉じて皇太子と諸王に書簡を往来させる考拠は精詳であり、しばしば褒賞の栄誉を賜わった。(洪武)十三年に引退して帰郷し、天寿を全うした。弟の楽暉・楽礼・楽毅は何れも名の知れた人物である。


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by su_shan | 2017-06-16 15:30 | 『明史』列伝第二十四

列伝第二十二 目次

何文輝 徐司馬 葉旺 馬雲 繆大亨 武徳 蔡遷 陳文 王銘


甯正 袁義 金興旺 費子賢 花茂 丁玉 郭雲 王溥


 論賛、何文輝・徐司馬は左右を補佐した重臣であり、葉旺・馬雲は辺防に著しい功績を残し、繆大亨はその端直を思念され、郭雲は治績によって偏愛を賜わった。他に、蔡遷・王銘・甯正・金興旺といった人物は、ある者はよく戦い、ある者はよく守り、ある者はよく慰撫したので、全員が当代の良将なのである。蓋し、明朝の勃興期に於いて、人材は次々と現れたが、鉄券・丹符を与えられた者以外で、称賛すべき人物はこの様なものである。詩人による『兔罝』の詠唱を聞くが如く、どうして多くを譲る事があろうか。


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by su_shan | 2017-06-12 22:32 | 『明史』列伝第二十二

郭雲 王溥

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 郭雲は南陽府の人である。身長は八尺余りで、魁偉な容貌であった。元朝末期に義兵を集めて裕州泉白寨〔一〕を守り、昇進を重ねて湖広行中書省平章政事となった。元主が北帰すると、河南の郡県は全て降伏したものの、郭雲だけは堅守していた。大将軍徐達が指揮使曹諒を派遣してこれを包囲すると、郭雲は出戦し、捕縛された。大将軍徐達は郭雲を叱咤して跪かせた。郭雲は立ち上がり、好き勝手に喚き散らして刑死を求めた。白刃で脅迫されても動揺しなかった。大将軍徐達はこれを勇ましく思い、拘束して京師へ押送した。太祖(朱元璋)はその容貌を奇として、郭雲を釈放した。当時、洪武帝(朱元璋)は『漢書』に目を通しており、文字は知っているかと尋ねると、郭雲は答えた。「知っております。」そこで郭雲に書物を授けた。郭雲はその書物を読み上げてよく学習した。洪武帝は非常に喜び、手厚く恩賞を与え、登用して溧水知県を命ずると、その行政手腕は評判を得た。洪武帝は郭雲を益々賢材であると考え、特別に南陽衛指揮僉事に抜擢し、郷里に戻して嘗ての部隊を召集させ、当地の鎮守に充当した。郭雲はその数年後に没した。
 長男の郭洪は十三歳であった。洪武帝は制を下して言った。「郭雲は田間より立身し、義旗を唱えて郷曲を保ち、皇朝の軍が北伐すると、人神はみな嚮応したが、ただ郭雲だけはしばしば交戦して屈せず、勢いは窮して援護は絶たれても、遂に志を曲げる事は無かった。朕はその節を称え、試しにこれを役所に就けたところ、民衆はその施政を喜び、故郷を鎮守させれば、軍民は安心して生業に励んだ。汗馬の勲は無いとは言うものの、倒戈の功、治績は顕著であって、その忠義は凛然としておる。子、郭洪は開国の功臣に列するべし、宣武将軍・飛熊衛親軍指揮使司指揮僉事を授け、世襲を許す。」同時期に降将として世職を与えられた者に王溥がある。

 王溥は安仁県の人である。陳友諒に仕えて平章政事となり、建昌路を鎮守した。太祖が将帥に命じてこれを攻撃させても、勝利出来なかった。朱亮祖が饒州路の安仁港を攻撃したものの、またもや劣勢を強いられた。陳友諒の部将である李明道の信州府侵攻に際して、王溥の弟である王漢二が軍中にあり、共に胡大海に捕縛され、行中書省の李文忠に帰順したので、李文忠は二人に命じて王溥を招聘した。この年、太祖は江州路を突破すると、陳友諒は武昌路へ敗走したので、王溥は遣使して降伏し、従来のまま建昌府の鎮守を命じられた。翌年、太祖が竜興路に到達すると、王溥はその軍を率いて謁見し、何度も慰労された。扈従して建康(応天府)に帰還すると、聚宝門の外に邸宅を賜わり、その街は「宰相街」と呼ばれ、特別に偏愛を受けた。次いで撫州路及び江西地方の帰属していない郡県を攻略する為に派遣された。従軍して武昌路に勝利すると、中書右丞に昇進した。洪武元年には詹事府副詹事兼任を命じられた。大将軍(徐達)に従って北征し、何度も戦功を挙げた。文幣を賜わり、河南行中書省平章政事に抜擢されたものの、業務は担当せず、李伯昇・潘元明同様に歳禄のみ支給された。
 当初、王溥の仕官以前の事、母の葉氏を連れて貴渓県に避難した際、兵乱に遭遇して母と逸れ、その後十八年間というもの、夢の中で母に所在を問い続けていた。その後、従容として洪武帝に事情を伝え、帰省して墳墓を捜索したいと願い出た。洪武帝はこれを許可すると、礼部の官に命じて祭物を用意させた。王溥は兵卒を率いて貴渓県へ向かったものの、手掛かりは得られず、昼夜を問わず号泣した。居民の呉海という人物が、夫人は賊が迫ると井戸に身を投げて死んだと言った。王溥は井戸を探り当てると、鼠が井戸から飛び出して、王溥の懐に飛び込み、また井戸の中へ帰って行った。井戸を汲んで捜索すると、果たして母の死体が発見され、王溥は哀哭して止まなかった。そうして棺に納めると、その地に埋葬したのであった。王溥が没すると、子孫は世襲指揮同知となった。

【校勘記】
〔一〕泉白寨、元は「白泉寨」であった。『太祖実録』巻九十、洪武七年六月是月条は「泉白寨」としている。『明一統志』巻三十に拠れば、南陽府には泉白山があり、裕州の北四十里に位置する。この箇所の白泉二字の入れ違いは今訂正する。


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by su_shan | 2017-06-12 22:08 | 『明史』列伝第二十二

丁玉

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 丁玉、当初の名は丁国珍と言い、河中府の人である。韓林児に仕えて御史となり、衆人に卓越する名声があった。呂珍が安豊路を破ると、丁玉は帰順した。彭蠡(鄱陽湖)遠征に従い、九江知府となった。大軍が建康(応天府)に帰還すると、彭沢県の山民が蜂起したので、丁玉は郷兵を集めてこれを討伐した。太祖(朱元璋)はその武略を称え、指揮使兼任を命じ名を玉に改めさせた。傅友徳に従って衡州路に勝利し、指揮同知として当地を鎮守し、また永州路に調遣された。丁玉には文武の才能があり、新付者を慰撫するなど、その威光は非常に著しいものであった。
 洪武元年に都指揮使に昇進すると、次いで行中書省参知政事を兼任し、広西を鎮守した。(洪武)十年、召還されて右御史大夫となった。四川威茂土酋董貼里(董テリク)が叛くと、丁玉は平羌将軍としてこれを討伐した。威州に到達すると、董貼里は降伏した。命を受けて威州千戸所を設置した。(洪武)十二年には松州を平定し、丁玉は指揮使高顕らを派遣して当地に築城し、軍衛の設立を要請した。洪武帝(朱元璋)は松州一帯に山が多く田が少ない事から、耕種して軍に供給する事は出来ず、当地を鎮守するのは得策ではないと言った。丁玉は松州が西羌の要地であり、軍衛を廃止すべきでは無いと主張し、遂に丁玉の建議の通り、官を設けて防御施設を築いた。たまたま四川の妖人彭普貴が十四もの州県を掠奪すると、指揮使普亮らは鎮圧出来ず、丁玉に命じて軍を移してこれを討伐させた。洪武帝は自ら勅書を記して褒賞し、左御史大夫に転出させた。軍が帰還すると、大都督府左都督を拝命した。(洪武)十三年、胡惟庸の血縁を理由に誅殺された。


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by su_shan | 2017-06-12 20:50 | 『明史』列伝第二十二

花茂

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 花茂、巣県の人。当初は陳野先(陳エセン)に従い、次いで帰順した。江左平定に従軍し、陳友諒を滅ぼし、中原・山西・陝西を平定し、功績を重ねて武昌衛副千戸を授けられた。西蜀に遠征すると、瞿唐関に勝利し、重慶路に入城し、左・右両江及び田州を陥落させ、神策衛指揮僉事に昇進し、広州左衛に調遣された。陽春県・清遠県・英徳州・翁源県・博羅県の諸山寨の叛蛮及び東莞・竜川諸県の乱民を平定し、指揮同知に昇進した。電白県・帰善県の賊を平定し、また都指揮同知に異動し、世襲指揮使となった。しばしば連州・広西・湖広の瑤族を掃討した。花茂は提案した。「広東の南側は大海に面し、奸賊が出没し、東莞・筍岡諸県の逃亡した蜑戸は、海島に居付き、官軍に遭遇すれば偽って漁民と称し、蛮族と遭遇すれば共に掠奪を働き、唐突なること常ならず、摘発が困難でございます。戸籍に登録して兵員とするに越した事は無く、願わくば御裁可いただきますよう。」また沿海地方では山に拠って広海・碣石・神電等の二十四衛所を設置し、城を築き池を浚い、海島の逃亡者や無戸籍者などを収容して軍とし、山海の要害の地に堡塁を立てて軍を駐屯させ、不慮の事態に備えるよう提案したところ、全て許可された。都指揮使に昇進した。しばらくして没すると、安徳門に埋葬される名誉を賜わった。
 長男の花栄が職位を継承した。次男の花英は決断力に優れ意志が強く、父に似ていた。戦功によって広東都指揮使となり、永楽年間に名声を得たのであった。


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by su_shan | 2017-06-12 20:46 | 『明史』列伝第二十二

金興旺 費子賢

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 金興旺は来歴が定かでは無い。威武衛指揮僉事となり、指揮同知に昇進した。洪武元年、大将軍徐達が河南から陝西へ侵入すると、増援して潼関の守備を要請したので、金興旺と副将郭興にこれを守らせ、指揮使に昇進した。翌年に臨洮府を攻撃すると、金興旺は鳳翔府に移鎮し、軍糧を運搬した。しばらくして、賀宗哲が鳳翔府を攻撃すると、金興旺と知府周煥は籠城した。敵軍は茨を編んで大きな箕を作り、その形状は半ば船の様であった。箕毎に五人が入り、これを背負って城を攻撃したので、矢石が通用しなかった。藁を投げ入れて焼き払おうとしても、忽ちにして舞い上がってしまった。そこで藁の中に鉤を仕込み、箕の隙間を狙って投げ込むと、遂に火が立ち昇り、敵軍は箕を捨てて敗走した。また坑道を掘って城に迫ると、城内では矛を突き出して迎え撃ち、敵軍は大量の戦死者を出したものの、攻勢を中断しなかった。金興旺と周煥は策を練って言った。「連中は我々の援軍が到来せず、絶対に出撃する事は無いと言っている。その不意に乗じて攻撃すれば、打ち破れようぞ。」密かに西北門を出ると、奮戦の結果、敵軍はやや退いた。たまたま百戸王輅が臨洮府より李思斉の降兵を収容して帰還したので、その軍を入城させて共に防御した。敵軍が陣営を引き払って移動すると、皆は追撃しようとしたが、王輅は言った。「敗れてもいないのに退くのは、我々を誘っているからです。」騎兵を出して偵察させると、五里坡に差し掛かった所で、果たして伏兵が現れ、敵軍は戻って再び城を包囲した。皆は城を棄てて逃げようとしたので、金興旺は叱咤した。「陛下よりお預かりした城を、どうして投げ出す事など出来ようか!」王輅の配下は皆新参であり、変事を警戒して、城内の貨畜の全てを庭に積み上げ、命じて言った。「敵軍はやや緩んでおるから、今の内に新兵を労おうぞ。」新兵は歓喜して、防御に協力した。対峙すること十五日、敵軍は慶陽府が陥落した事を聞くと、撤退した。洪武帝(朱元璋)は遣使して金綺を以て金興旺らを労った。
 翌年、徐達が沔州に侵攻すると、金興旺と張竜を派遣して鳳翔府より連雲桟に侵攻させ、興元路を合撃した。守将が降伏すると、金興旺が当地を鎮守し、大都督府都督僉事に抜擢された。蜀(明昇)将呉友仁が三万の軍を率いて興元路に侵攻すると、金興旺は城内の兵三千を結集して敵軍を防いだ。顔面に流矢を受けるも、矢を抜いて再び戦い、数百人を斬首した。敵軍は多勢であり、兵を収容して入城した。呉友仁は濠を決壊させ、堀を埋め、必勝の策を準備した。徐達は報告を受けると、傅友徳に命じて木槽関を夜襲し、斗山寨を攻撃し、一人当たり十本の篝火を持たせて山上に連ねた。呉友仁は驚愕して遁走した。金興旺は出兵してこれを追撃し、岩塊を落として殺害した敵兵は数え切れず、呉友仁は意気を喪失した。当時、金興旺は威勢を以て隴蜀の地を鎮守した。国初の諸都督の内、守城の功労者としては、金興旺の他には費子賢が最たる例であろう。

 費子賢もまた来歴は定かでは無い。長江渡河に従い、広徳翼元帥となり、何度も功績を挙げた。武康県を奪取し、また安吉県を奪取し、城を築いて当地を鎮守した。張士誠の兵は侵攻する度に撃退された。最終的に、張左丞が八万の兵を率いて攻め寄せた時は、費子賢の部隊は僅か三千人であったが、堅固に防御した。城壁に車弩を設け、勇将二人を射殺すると、敵軍は退却した。戦功によって指揮同知に昇進した。福建を奪取し、大都・定西州に勝利して共に功績を挙げ、大都督府都督僉事を授けられ、世襲指揮使となった。


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by su_shan | 2017-06-11 07:04 | 『明史』列伝第二十二

甯正 袁義

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 甯正、字を正卿、寿州の人。幼くして韋徳成の養子となり、韋姓を名乗った。元朝末期に韋徳成に従って帰順し、長江渡河に従った。韋徳成が宣州(寧国路)で戦没すると、甯正がその軍を引き継ぎ、功績を重ねて鳳翔衛指揮副使を授けられた。中原平定に従軍し、大都へ入城すると、元朝の将兵八千人余りを投降させた。傅友徳が真定路から定州を攻略すると、甯正を真定路の守備とした。次いで、大軍に従って陝西を奪取した。馮勝が臨洮府に勝利すると、甯正を留めて当地を鎮守させた。大軍が慶陽府を包囲すると、甯正は邠州に駐屯し、敵軍の増援を阻止した。慶陽府が陥落すると、帰還して臨洮府を鎮守した。鄧愈に従って定西州を破ると、河州路に勝利した。
 洪武三年に河州衛指揮使を授けられた。甯正は提案した。「西方の民衆は軍への食糧供給に大きな負担を抱えております。一方で、茶や布であれば食糧に替え易いものでございます。そこで茶布を以て軍に供給させ、自ら貿易するよう命じれば、運搬の労苦は軽減されるでしょう。」詔によってこの提案は採用された。甯正が河州衛に赴任した当初、城邑は廃墟ばかりであり、慰労に努めた。数年を経ずして、河州府は楽土となった。璽書によって功労を評価され、初めて甯姓に戻す事になった。寧夏衛を兼任し、漢・唐代の旧渠を修築し、河水を引いて田に注ぎ、数万頃を開墾したので、軍の食糧は充足した。
 (洪武)十三年、沐英に従って北征し、元朝の平章政事脱火赤(トガチ)・知院愛足(アズ)を捕らえ、全寧路四部を奪取した。(洪武)十五年、四川都指揮使に異動し、松・茂諸州を討伐した。雲南が平定されると、甯正と馮誠に命じて共に当地を鎮守させた。思倫発が叛乱すると、甯正はこれを摩沙勒寨の戦いで破り、斬首一千五百を記録した。次いで、敵軍が大挙集結し、定辺県を包囲した。沐英は軍を三隊に分け、甯正は左軍を率い、奮戦の結果、大いにこれを撃破した事は、沐英伝に記されている。土酋阿資が叛くと、また沐英に従って討伐し、これを降伏させた。沐英が没すると、詔によって甯正は左都督を授かり、鎮守の任を代行した。次いで、また平羌将軍を拝命し、川陝地方の兵を総括して階州・文州の叛徒張者を討伐した。(洪武)二十八年、秦王(朱樉)に従って洮州の蛮族を討伐し、京師に帰還した。その翌年に没した。

 また袁義という人物は、盧江県の人で、元は張姓であり、張徳勝の一族である。当初、双刀趙の総管となり、安慶路を鎮守し、沙子港の戦いで趙同僉・丁普郎を破った。左君弼がこれを招聘したものの、従わなかった。張徳勝が戦死すると、初めて帰順し、帳前親軍元帥となって、姓名を賜った。何度も征伐に従軍し、功績を重ねて興武衛指揮僉事となった。大将軍(徐達)の北征に従軍し、通州の戦いで元朝の平章政事俺普達(アルブダ)らを破り、沢州・潞州の戦いで賀宗哲・詹同を敗走させ、最大の功績を挙げた。また陝西平定に従軍し、元朝の豫王の兵を破った。諸将と共に慶陽府を合撃した。俄かに張良臣の兵が袁義の陣営に迫ると、袁義は布陣を固めて動揺せず、その疲弊を待ち、力戦してこれを打ち破った。定西州の戦いで拡廓帖木児(ココテムル)の軍を敗走させ、南進して興元路を奪取し、本衛指揮同知に昇進し、羽林衛に調遣され、遼東に移鎮した。
 次いで、沐英に従って雲南に遠征し、普定路の諸城に勝利すると、残留して楚雄府を鎮守した。蛮人は何度も叛いたものの、袁義は軍糧を備蓄すると共に堡塁を高く築き、守っては戦い、戦功によって楚雄衛指揮使に異動した。入朝すると、洪武帝(朱元璋)は手厚く慰労した。老齢であった事から、太医院に命じて鬚鬢を染めさせると、任地へ戻ってからは威遠の人として評判になり、更に特別に銀印を賜わるなど袁義は格別に重用された。二十年を経て、田地を開墾して堰堤を築き、城郭や橋梁を整備したので、領内の計画は十分に達成された。軍民は袁義の徳行に感謝したものである。建文元年に召還されると、右軍都督府都督僉事となり、都督同知に昇進し、在任中に没した。


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by su_shan | 2017-06-10 23:17 | 『明史』列伝第二十二

王銘

『明史』巻一百三十四、列伝第二十二

 王銘、字を子敬、和州の人。初めは元帥兪通海の麾下に属し、次いで采石鎮に蛮子海牙(マンジハイヤ)を攻撃した。王銘は勇敢であった事から、奇兵に選抜された。戦闘が始まると、決死隊を率いて喚声を上げながら突撃し、その水寨を突破した。これ以降、数々の功績を挙げた。呉軍(張士誠)と太湖に戦い、流れ矢が右肘に当たると、佩刀を引いてその矢尻を抉り出し、再び戦った。兪通海はこれを労った。また通州の黄橋・鵝項諸寨を突破した。白金文綺を賜った。竜湾に戦い、追撃して北方の采石鎮に到達すると、王銘は単独で突撃した。敵兵は槊を突き出して王銘を狙い、頬を負傷した。王銘は三度突撃して三度突入し、多くの敵兵を殺傷した。文綺銀椀を賜り、宿衛に選抜された。次いで江州路を奪取し、康郎山及び涇江口に戦い、また英山諸寨に勝利し、管軍百戸に抜擢された。副将軍常遇春に従って湖州路の昇山〔一〕に戦い、また旧館に戦い、次いで烏鎮に戦った。前後数十戦、功績は大きく、松江府の鎮守を命じられた。太倉に移鎮し、倭寇千人余りを捕殺し、再び金幣を賜った。
 洪武四年に都試百戸の任にあって槍術を得意とする者の中には、王銘に敵う者は居なかった。昇進を重ねて長淮衛指揮僉事に到達し、温州府に移鎮した。王銘は上疏して言った。「臣の拝領致しました鎮につきましては、外部に島夷を控えている状況であるにも関わらず、依然として城壁や楼櫓は狭小であり、ただ国威を発揚するに足りないばかりか、俄かに風潮の変でもございましたら、防ぐどころでは無く、直ちに改修しなければなりません。」洪武帝(朱元璋)は認可の旨を回答した。こうして城壁を補修して濠を浚ったので、旧来に倍する様相となった。加えて外垣を築き、海神山より郭公山に至るまでの二千丈余りは、広敞壮麗にして、屹然たる浙東の巨鎮となったのであった。洪武帝はこれを喜び、世襲を認めた。嘗て王銘は休暇の為に和州へ戻った事があった。温州府の士女は道を遮る様にして送迎した。長吏はみな互いに感嘆して言ったものである。「我々は官員ではあるが、民衆が我々の去来を眺める様は漠然としておるのに、王指揮の見送りの多き事には恥じ入るばかりよ。」王銘は右軍都督府都督僉事を歴任したが、(洪武)二十六年、藍玉党に連座して処刑された。

【校勘記】
〔一〕昇山、元は「弁山」であり、本書巻百二十三、張士誠伝・巻百二十五、徐達伝・常遇春伝は全て「昇山」としている。湖州路に昇山があり、また弁山(別名を卞山と言う)もある事を考えると、弁山では進軍経路と一致しない為、「昇山」として改めた。


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by su_shan | 2017-06-10 00:24 | 『明史』列伝第二十二